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3話:ジュリアス・エメリー②


 ジュリアス・エメリーは言う。


「ほら、背中でも流してあげようかしら?」

「背中!? いや、いい! 自分で洗える! オメーもだろ! 自分の背中くらい自分で洗えって!」


 死生の声はますます焦りを帯び、浴室の壁に反響する。だが、ジュリアスはそんな彼の反応を楽しみながら、ゆっくりと湯をかき混ぜた。


「ふふ、死生って本当に分かりやすいわね。ねえ、こうやって一緒にいると、なんだか落ち着くと思わない?」

「落ち着く!? 俺の心臓、今バクバクなんですけど!?」


 死生はそう叫びつつも、ジュリアスの穏やかな笑顔にどこかホッとしたような表情を見せる。優しい性格が顔を覗かせ、彼は小さくため息をついた。


「ったく……まぁ、風呂くらい一緒に浸かっても……いや、でもさ、やっぱ恥ずかしいって!」


 ジュリアスはそんな死生の慌てふためく様子を眺めながら、静かに微笑んだ。

 湯気の向こうで、二人の距離はほんの少しだけ近づく。


「ほ、ほんとに洗うのかよ……?  自分でできるって!」


 死生の声はまだ震え気味だったが、ジュリアスの「動かないで」の一言に逆らえず、渋々バスタブの縁に座った。背中を向けた彼の肩は、緊張でガチガチだ。

ジュリアスは石鹸を手に取り、ふわっと泡立てると、ゆっくりと死生の背中に手を這わせた。ひんやりした指先と温かい泡が触れた瞬間、死生の体がビクッと跳ねる。


「うぉっ! 冷てえ! ってか、ちょっと優しくやってくれませんかね!?」

「ふふ、こんなに反応してくれると、つい楽しくなっちゃうわ」


 ジュリアスの声は落ち着いていて、どこか楽しげだ。彼女の手は丁寧に、しかし少し意地悪く泡を滑らせ、死生の背中の筋肉をなぞるように動く。死生は顔を真っ赤にしながら、タオルを握り潰しそうなくらい力を込めた。


「楽しそうで何より! 俺の心臓、いつ爆発してもおかしくねえんだけど! ったく、なんでこんなことに……」

「ほら、肩の力抜いて。ガチガチだと洗いにくいわ」


 ジュリアスはそう言いながら、死生の肩を軽く叩いた。その自然な仕草に、死生は一瞬言葉を失う。彼女の手つきはクールな態度とは裏腹に優しく、泡が背中を滑る感触はなんだか心地よかった。


「エメリー、ほんとに平気なのか? こうやって、さ。なんか……近くね?」


 死生の声が少し小さくなる。大雑把な彼だが、こういう瞬間には純粋さが滲み出る。ジュリアスは手を止めず、静かに答えた。


「平気よ。貴方が相手だから、ね」


 その言葉に、死生の耳まで赤くなった。


「俺が相手だから、か。告白か?」

「ふふ、さぁ、どちらでしょう」

「覚えておけよテメェ」

「楽しみにしてるわ」


 ジュリアスは泡を流しながら小さく笑った。湯気の向こうで、死生の照れ隠しの笑顔と、ジュリアスの穏やかな視線が交錯する。浴室は、さっきより少しだけ温かく感じられた。


 湯気が立ち込める浴室は、まるで世界から隔絶された聖域のようだった。タイルの壁に水滴が静かに落ちる音だけが響き、時折、湯船の水面が小さく揺れる。死生はバスタブの縁に座り、ジュリアスの手が背中に滑る感触にまだ慣れない様子で肩を硬くしていた。泡立てた石鹸の甘い香りが漂い、湯気の向こうでジュリアスのシルエットがほのかに揺らめく。


 彼女の手は丁寧で、まるで壊れ物を扱うように死生の背中をなぞる。泡が肌を滑り落ち、温かい湯と冷たい指先が交錯するたび、死生の心臓は落ち着く暇がない。だが、ジュリアスの手つきにはどこか切なさが宿っていて、死生はそれを感じ取ったのか、いつもの慌てた口調が少し抑えられる。


「エメリー。いつもより積極的じゃないか。大丈夫か?」


 ジュリアスは一瞬手を止め、湯船の水面を見つめた。長い睫毛に水滴が光り、彼女のクールな表情に微かな影が差す。ゆっくりと息を吐き、彼女は低い声で話し始めた。


「死生……私、貴方に伝えたいことがあるの」


 死生の背中がピクリと反応する。ジュリアスの声は、いつもより柔らかく、しかし重い響きを帯びていた。彼女は再び石鹸を手に取り、泡を死生の肩に滑らせながら言葉を紡ぐ。


「モンスターに敗北して、死にそうだった時……貴方は私の命を救ってくれた。家を追放されて、身寄りもなく彷徨っていた時…仕事をくれて、居場所をくれた。腕を失って絶望していた時…貴方は治療して、私を立ち直らせてくれた。そして、詐欺に遭って多額の借金を背負った時…貴方は一緒に返済してくれて、どんな時もそばにいてくれた」


 彼女の手が一瞬震え、泡が湯船に落ちて小さな波紋を描く。死生は背を向けたまま、じっと耳を傾けていた。ジュリアスの声は、まるで湯気のように彼の心に染み入る。


「その全てに……心から感謝してる。貴方がいなかったら、私は今ここにいないわ。死生……私は、貴方が大好きよ」


 浴室に静寂が落ちた。水滴の音だけが響き、湯気の幕が二人の間を柔らかく隔てる。死生はゆっくりと振り返り、ジュリアスの顔を見ようとしたが、彼女の視線は水面に固定されたままだった。クールな彼女の頬に、ほのかに赤みが差している。


「エメリーは色々と大変な目に遭ってからな。放っておけなかっただけだ。気にするな」


 ジュリアスは小さく首を振る。彼女は死生の背中にそっと額を寄せ、湯の温もりと彼の体温を感じながら囁いた。


「そういうわけにはいかないでしょ。貴方はいつもそうやって、自分のしたことを軽く言うけど……私には、全部が宝物なの」


 死生の肩がわずかに緩む。彼はタオルを握りしめ、湯気で曇った視界の中で言葉を探した。


「いいって。見返りが欲しかったわけじゃねえよ。お前が笑ってりゃ、それで十分だ」


 ジュリアスの手が止まり、彼女はゆっくりと死生の前に回り込んだ。湯船の縁に腰掛け、濡れた髪が肩に張り付く姿は、まるで夜の湖のような神秘的な美しさを湛えていた。彼女の瞳は真っ直ぐに死生を捉え、蠱惑的な光を宿す。


「ねえ、死生。貴方は私のこと……好き?」


 その言葉は、湯気よりも熱く、浴室の空気を一瞬で変えた。死生の顔がみるみる赤くなり、彼は慌てて目を逸らす。だが、ジュリアスの視線は逃がさない。彼女の指がそっと死生の頬に触れ、温かい湯の滴が彼の肌を滑り落ちる。


「お、おぉい! 急に何!? 近い! 近すぎるって!」


 死生の声は裏返り、頼りなく揺れる。ジュリアスは小さく微笑み、しかしその瞳は真剣だった。


「答えなさい、死生。私、知りたいの」


 湯気が二人の間を包み、浴室はまるで時間が止まったかのようだった。死生はゴクリと唾を飲み込み、ジュリアスの手の中で小さく息を吐く。彼の優しさが、彼女の言葉に押されて、ゆっくりと形になろうとしていた。


 湯気が浴室を白く染め、湯船の水面が小さく揺れるたびに光が乱反射する。ジュリアスは死生の前に座り、濡れた金色の髪が肩に張り付き、まるで月の光を編んだような輝きを放っていた。


 翠色の瞳は、深い湖の底を覗くように澄み切り、死生の心を静かに絡め取る。彼女の指はまだ死生の頬に触れたまま、温かい湯の滴が彼の肌を滑り落ち、まるで時間の流れを遅らせているようだった。


「ねえ、死生。貴方は私のこと……好き?」


 ジュリアスの声は低く、蠱惑的な響きを帯びていた。湯気の幕が彼女の姿をほのかにぼかし、まるで夢の中の幻のように見える。死生の喉がゴクリと鳴り、彼は彼女の瞳から逃れるように視線を湯船に落とした。だが、ジュリアスの指が軽く動き、彼の顎をそっと持ち上げる。翠色の瞳が再び彼を捕らえ、逃がさない。


「急にきたな。好きか嫌いかで言えば……好きだ。エメリーのこと嫌いなわけないだろ。……でも、恋人って話だと、微妙だ」


 ジュリアス・エメリーの眉がわずかに動く。彼女の指が死生の頬を離れ、湯船の縁に置かれた。金色の髪が水面に映り、まるで浴室全体が彼女の美しさで満たされているようだった。彼女は首を傾げ、静かに、しかし鋭く問いかける。


「何故?」


 死生は一瞬言葉に詰まり、湯気の向こうを見つめた。ジュリアスの姿は、確かに美しい。金色の髪は濡れてなお輝き、翠色の瞳はまるで魂を覗き込むような深さを持っている。彼女を評価するなら、美しい少女——いや、浴室の湯気の中でさえ神聖なまでに魅惑的な存在だろう。だが、死生の胸には別の重みがのしかかっていた。


 「貴方は18歳よ」ジュリアスの声が続く「他の男性なら、こんな美しい少女と結婚してると思うけど」


 彼女の唇が小さく微笑むが、その目は真剣だった。湯船の水が彼女の指先で揺れ、まるで彼女の言葉が水面に波紋を描くようだ。死生は大きく息を吐き、背中をタイルに預けた。


「それだ。18歳。……俺にはノルマがある。金属を集めて地球へ送るノルマ……呪いと言ってもいい。それを達成できなきゃ、俺は死ぬ。だから、余裕ができるまで恋愛する気はねえんだ」


 浴室に重い静寂が落ちた。水滴がタイルに落ちる音だけが響き、湯気の向こうでジュリアスの表情がわずかに変わる。彼女の翠色の瞳が一瞬細まり、しかしすぐに柔らかな光を取り戻す。彼女はゆっくりと死生に近づき、湯船の縁に手を置き、彼の顔を間近で見つめた。金色の髪が水滴を滴らせ、彼女の肩から滑り落ちる姿は、まるで夜の森に現れる精霊のようだった。


「手伝うわ」


 ジュリアスの声は静かだが、確固とした意志を帯びていた。彼女の指が再び死生の手に触れ、湯の温もりと彼女の冷たい肌が交錯する。死生の目が大きく見開かれ、彼は慌てて声を上げる。


「手伝うって……俺の呪いのこと知ってんのか。そんな簡単な話じゃねぇ」


 ジュリアスは微笑みを深め、死生の手をそっと握った。彼女の翠色の瞳は、まるで彼の心の奥まで見透かすように輝いている。湯気が彼女の周りを包み、金色の髪が水面に映る姿は、蠱惑的で、どこか儚い。


「簡単じゃなくても、貴方ならできるわ。そして、私がそばにいる。……嫌いじゃないんでしょ? 私を」


 彼女の声は囁くように低く、浴室の空気を震わせた。死生の顔がまた赤くなり、彼はジュリアスの手を握り返しながら、照れ隠しに笑う。


「はぁ。エメリーには敵わないな。……まぁ、嫌いじゃないって言っただろ。そこは、変わらないから。それで勘弁してくれ」


 ジュリアスは満足げに目を細め、湯船に身を沈めた。金色の髪が水面に広がり、翠色の瞳が湯気の向こうで穏やかに死生を見つめる。浴室は、まるで二人の世界だけが存在するかのように静かだった。



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