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邪竜の鍾愛~聖女の姉は最愛の騎士に娶られる~

作者: 高遠すばる

 聖女である双子の妹の「はきだめ」として生きてきたミリエルは、幼馴染の騎士であるユアンと恋人となった。

 叶わないと思っていた恋の成就に幸せを感じるミリエルは、しかしその翌日、聖女の暗殺未遂をしたとして罪に問われ、火山に眠る邪竜への生贄となることが決まった。


 いよいよ火口に落ちる寸前、ミリエルを救ってくれた邪竜の声は、ミリエルにとって慕わしいもので……?

「助けに来たよ、僕のミリー」


 邪竜と聖女の悪姉が紡ぐ溺愛ファンタジー!


 月の光る夜、星が空から降ってくる。

 今日は流星群の日だった。


 静かな聖堂の裏にある小さな花壇。空を見上げて、手入れされていないためにパサついた銀の髪を風に揺らし、空色の目を伏せたまま、ミリエルは囁くように言った。


「あなたを愛してるわ、ユアン」


 初めて口にした愛の言葉は、涙に濡れた、自分に自信のないものになった。

 幼馴染のユアンがその炎のように赤い目を丸くし、驚いたような表情でミリエルを──聖女の姉、ではなくて「わたし」を見ている。


 ユアンの、肩口で結わえた黒く長い、つややかな髪がさらりと背に流れた。

 騎士らしく鍛えられた彼は、視線までも鋭い。ユアンは食い入るように「わたし」を見つめ、ミリー、と彼だけが口にするミリエルの愛称を呼んだ。


 一歩近づかれ、急に詰められた距離にどぎまぎする。

 10年前、双子の妹がこの国の、宗教上の最高権威であり、教会の象徴でもある聖女として選ばれた日から、ミリエルは妹のセレナにすべてを奪われてきた。


 両親の愛も、期待も、ミリエル・クリスト・フララットとしての生活も。

 ミリエルのすべては聖女である妹のために存在し、そこに反感をもつことなど許されなかった。

 ミリエルは、聖女と言うには不品行な妹の不始末をすべて放り投げられ、罪も泥もかぶって生きていた。


 聖女の悪姉というのが、ミリエルの通り名だ。

 けれど、ユアンは──幼馴染で騎士のユアンだけは、ミリエルの無実をいつも信じて、調べて、本当のことを知ってくれた。そして、憐れんで、労わってくれた。


 そこに同情以外の感情があるだなんて思わない。

 けれど、この想いを、膨らみ切って、ふとしたときにあふれてしまいそうなこの初恋を、ただだまって胸の内にしまうことなど、もはやできなかった。


 魔物の大量発生──スタンピードを抑え込み、この国を平和へと導いた救国の英雄である騎士、ユアン・ミーシャ。その彼は、教会の象徴である聖女セレナとの婚姻を望まれていると聞いている。

 ユアンまでが妹のものになる。その事実に、ミリエルの心は張り裂けそうに痛んだ。これだけは、耐えられそうになかった。


 だから、せめてこの恋だけはここに置いていこう、と思ったのだ。そうすれば、きっとミリエルはこれからも聖女の「はきだめ」として生きて行けると思ったから。


 そうして口にした言葉──「愛している」は本当に単純な、どこまでも透明な一言だった。

 ユアンは驚いている。そうだろう、と思った。誰も彼も、聖女のはきだめでしかないミリエルに愛を打ち明けられたって、困ってしまうはずだ。


 だから、すぐに「ごめんなさい」と言って、撤回する予定だった。


『ごめんなさい、冗談よ。困らせる気はなかったの』


 そう言って、この恋を墓に埋めてしまうつもりだった。けれど、それを阻止したのはほかでもない、ユアンその人だった。


「僕から言おうと思っていたのに、先を越されてしまった」

「え……?」


 ユアンの目がゆるりと細まる。普段はこの世のすべてに怒っているとでもいうようにきつく吊り上げられているそれは、今はミリエルただ一人を一心に見つめて柔らかく瞬いている。

 そう、まるで、ミリエルが愛しくてならない、とでもいうように。


「じょうだ」

「冗談、なんて言わせない。僕は君の告白を本当のものだと知っている」


 戸惑うミリエルの髪を救い取り、ユアンがその先に口付ける。

 二人の吐息が混ざるような距離の中、ユアンが美しいテノールで囁くように言った。


「僕も、君を愛している」

「……え?」


 ミリエルの唇は震えた。きっと声もそうだっただろう。

 何もかも自分のものではなかった。そんなミリエルが一番大切だと思った存在を急に「贈り物だよ」とぽんと渡されたって、信じることができない。


 これは夢かもしれない、と本気で思った。あるいは、これはミリエルの幸福な願望なのだと。

 ユアンは、そんなミリエルを見て、まぶしそうに目を細めた。


「ずっと、君がそう思ってくれるのを望んでいた。僕は君よりずっと前から君を愛していて、告白だって僕からするつもりだったけれど、でも、ミリーはただ僕が愛を告げても信じないだろう」


 ユアンだけが呼ぶ、ミリエルの愛称が耳朶を打つ。ユアンの騎士たるたくましい腕がミリエルを抱きしめ、あたたかく包み込んだ。

 そうされると、ミリエルの小柄な体はユアンの黒いマントの中にすっかり隠れてしまう。

 ユアンの、森の中にいるような匂いに全身を包まれて、ミリエルは浅くしか息ができなかった。


「そんな、ことは」

「ミリー、僕の目を見て」


 ユアンの、やわらかな声が降ってくる。

 炎色の瞳と目が合って、ミリエルはいつの間にか涙に濡れていた目に力を込めた。

 ユアンの、炎の目。赤い、あたたかな色。なんてきれいなんだろう。


「僕はミリーが好きだ。愛している」

「ユアン……」

「だから君が、この告白を限りに、僕から離れていこうとしていた、ということも、わかっているんだよ」


 ひゅ、と音を立てて、ミリエルの呼吸が止まった。

 空に輝く三日月が雲に隠れて、あたりが暗くなる。

 何にも見えない中で、ユアンの視線だけをはっきりと感じた。


「それ、は」

「そんなのは嫌だ。君をやっとこの手に抱けたのに、君が砂漠の砂のようにすり抜けてどこかへ行ってしまうなんて耐えられない」

「……だって、あなたは、セレナと、婚約を……」


 言い訳のように呟いた言葉は、ユアンの抱きしめる腕の力が強くなったことで返事とされた。ミリエルを離すまいとかき抱くユアンの手に、他に向ける想いなど感じられなかった。


「そんなのとっくに断った。僕が愛しているのは君だけだから。ミリー」


 ほろほろと、目のふちから盛り上がった涙がいくつぶも零れていく。

 ミリエルが泣き続けているのを知らないはずはないだろうに、ユアンはミリエルを腕の中から解放することはしなかった。


「愛しているんだ、ミリー、君だけを……」

「……でも、あなたもいつか、わたしから離れていくわ。わたしは『聖女のはきだめ』だもの」


 はきだめとは、いつも聖女セレナが豪遊をしたとか、男遊びをしたとかの不始末の罪を擦り付けられ、身代わりになるミリエルをさしてセレナが言った言葉だ。

 その言葉は今もミリエルの胸に突き刺さって消えない。仲良くなった人々は、みなその罪を信じて離れて行った。


 だから愛されることが怖いのではない。手に入れた後、失うのが怖いのだ。

 手に入らないと思っていた。それが急に手の中にはい、どうぞと入ってきた。けれど、こうしていながら背を向けられれば、それは何よりもさみしい、悲しいことだ。


「ミリーにそう思わせたのは、あの女だね」


 ユアンが、ぞっとするほど冷たい氷のような声を落とす。

 ミリエルは否定も肯定もできないまま、ユアンから離れようとユアンの腕をほどき一歩後ずさった。

 けれど、その一歩を詰めて、ユアンはより一層強くミリエルを抱きなおす。


 離すまいとでもいうように、しかと。


「ユアン、離して。こんなところ誰かに見られたら」

「離さない。君がそう言うのは、これ以上奪われたくないからだ。なら僕は、君からこれ以上、何も奪わせない。なにからも守る。僕のミリエル──僕だけのミリー。そして僕は、ミリーだけのものだ」


 ユアンの力強い言葉に、ミリエルが目を見開く。仰いだ拍子にユアンの炎色の目と真っ向から視線が混ざり合う。

 その瞳は炯々と輝いていて、ミリエルにユアンの本気を否応なしに理解させた。


「ユアン」

「ミリー、信じて」


 そんな風に見つめられて、愛されてしまえば、もうだめだった。溢れそうだった恋心が決壊して、迷いも何もかもを押し流していく。

 ミリエルは恐る恐るユアンの胸に手を添えた。その手をしっかりと握られて、ぴたりとユアンの胸に当てられる。


「聞こえる? ミリー、僕の心臓、こんなにドキドキしてる」

「聞こえる……。本当に、わたしを好きなの? ユアン」


 ミリエルのおびえた言葉に、ユアンが微笑む。


「ああ」

「わたしは、あなたを好きでいていいの」

「もちろん」

「わたし……」


 ミリエルは目を閉じた。頭の中にぐるぐると回るのは、双子の妹、セレナのことや、周りの言葉。でも、今大切なのはきっと、それじゃない。

 ミリエルは、荒れ狂う感情が収まるのを待って目を開けた。もう一度ユアンを振り仰いで、そうして、泣きながら、笑った。


「あなたを、愛してるわ、ユアン」


 それは、先ほど口にした諦観混じりの声音で塗りつぶされたものではなかった。

 未来を見た、希望を抱いた、心からの言葉だと、ユアンにもわかったのだろう。


「ああ、ミリー!」


 嬉しくてならない、とユアンがミリエルを抱き上げる。

 その拍子に顔が近づいて、ミリエルはあ、と思った。

 胸いっぱいにユアンの匂いが広がって、吐息が混ざっているのを理解した。


 キスされているのだ。ゼロになった距離で、目に映るユアンの長いまつ毛が幻想的にすら思えた。

 だけど、これは幻でも妄想でもない。もちろん、夢でも。

 どれだけそうしていただろう。酸欠になったミリエルを解放して、ユアンはその炎色の目をとろりと蜂蜜のように蕩けさせた。


「これで、君はの僕の恋人だ。……僕だけの、宝だ」

「宝……」


 ミリエルは、ぼんやりとした酸欠の頭で、ユアンの言葉を繰り返した。

 繰り返して、はにかむように笑った。大切なものを胸にしまいこむように、ユアンの言葉を噛み締める。


「ミリー、明日、スタンピードの件で功労者としての受勲式が終わったら、王に君との結婚を願い出るよ。そうしたら、もう君は『聖女のはきだめ』なんてする必要はない」

「うん……うん……ユアン」

「待っていて。ミリー。君には、もう、幸せな未来視か用意しない」


 ユアンの優しい言葉が、しんしんと、星の光のように降ってくる。

 ふと空を見上げると、本当に星が降っていた。流星群だ。

 そうやって降る雪はユアンの言葉のようで、風に押し上げられた雲から現れた月は、ユアンのように優しい光を纏っていた。


 ──ユアンは、わたしのお月さま。


 どこにいてもミリエルを見つめてくれる、ミリエルだけの月……。

 今日まで、妹ばかり見る両親と、毎日かぶせられる濡れ衣に、心が壊れかけていた。


 でも、もう、ユアンがいれば、この先には幸せがあると信じられる。

 幸せだ、本当に、本当に、本当に……。

 ──…………。

 ミリエルが、聖女セレナの暗殺未遂で囚われ、それに抗議したユアンが拘束されたのは、翌日のこと──すべては、ユアンの不在をついた一瞬の隙に行われ、そして、終わった。



 ■■■



 アトルリエ聖竜国では竜の神話が信じられている。雪深いアトルリエ聖竜国は、街灯が生み出される前は、長い冬に降る雪のせいで冬は常に暗かった。


 その暗さ──闇に紛れて犯罪が起きるのが、昔は魔物が生み出されるためだと思われていた。

 そう、闇は魔物を生む。その闇を打ち払うために天から遣わされたのが、竜だ。


 闇と戦い、世界を光の下に連れ出した竜はしかし、しかしその身を闇に浸食され、正気を失った。

 闇の化身となり、世界を滅ぼさんとする存在へと堕ちた邪竜を滅ぼしたのは、ひとりの人間の少女だった。


 聖なる光の力を持ち聖女と呼ばれた少女は、その命と引き換えにして邪竜をアトルリエのいっとう高い場所まで届くステラ火山のうちに封印した。

 その竜は今もステラ火山のもとに眠っている……そういう神話だ。


 そのため、竜と聖女はともにこの国での信仰対象なのである。

 今代の聖女であるセレナ・リリス・フララットも当然、信仰される存在だ。


 ゆえに、アトルリエ聖竜国の象徴ともいえるセレナを害そうとした、殺そうとしたということは、この国では反逆罪となる。

 その拘束は、突然だった。


 聖女であるセレナ・リリス・フララットの暗殺を企てたとして、ミリエルは投獄された。

 聞けば、セレナが眠っているとき、セレナの部屋に侵入した何者かが、セレナの胸をナイフで突いたのだ。幸い、何重にも防護魔法を施している聖女セレナには傷一つなかったが、聖女が暗殺されかかったことが問題となった。


 現場には、髪が落ちていた。銀色の長い髪はミリエルの色だ。

 また、現場に残されていたナイフはミリエルの私物だった。安っぽい、木製のペーパーナイフが凶器だとされた。決定打となったのはセレナの証言。正直、これが一番の理由だろう。


「お姉様があたしを殺そうとしたのよ!」


 そのひとことで、ろくな弁明の機会も与えられず、「聖女のはきだめ」は犯罪者となった。


 聖女を殺そうとしたのだ。火刑が妥当だろうとのことだったが、身内ゆえにそれは聖女の名に傷をつけることになりかねない。この件は公にせず、かわりにミリエルは竜の眠るとされる火山への贄として火口に投げられることとなった。


 表向きには、聖女の悪姉が改心し、自分から生贄役を買って出た、と発表されるらしい。

 ぼろぼろの貫頭衣を着せられ、後ろ手に縛られたミリエルは、ステラ火山の火口に設置された、火口に飛び込むための──強制的に落とすための、簡単に壊れる台に載せられていた。


「ユアン……ユアン……」


 かさついた唇で呟くのは愛しい恋人の名前だ。

 ミリエルが暗殺などするはずがない、と抗議したユアンは、そのまま犯罪者の肩を持った共犯者として投獄された。

 牢に入れられ、はげしい拷問を受けている、とだけ、ミリエルは看守に聞いた。


「ユアン……」


 ミリエルのせいだ。ミリエルと恋人になったのが、いけなかったのだろうか。

 ……いいや、きっと、ユアンはミリエルが彼の恋人でなくともかばってくれただろう。けれど一介の騎士では聖女という権力に勝てない。


 英雄から一転して逆賊とされたユアンの輝かしい未来を奪ったのは、間違いなくミリエルという存在だった。


「気分はどう? お姉様」

「セレナ……」


 うなだれるミリエルの耳に、硬い石ころを蹴る音と、甘い砂糖菓子のような声が届いた。

 銀色の神秘的な髪に青い目をした、ミリエルと同じ色彩の、けれどミリエルより甘やかな容姿の彼女こそ、ミリエルの双子の妹、セレナだ。似ていない双子のミリエルたちだったが、セレナはおそらくミリエルのことが嫌いなのだろう。


 セレナはことあるごとに何か悪いことをミリエルのせいにした。

 両親もそれに倣ってミリエルを虐げた。

 聖女としてセレナが選ばれたのは、セレナとミリエルが候補となったとき、両親が金を積んでセレナをごり押ししたからだ。


 たしかに聖なる魔力を有しているセレナだが、その力がどれだけのものかは家族ですら知らない。修行をしているところすら、ミリエルは見たことがない。

 それでも、この国の権力はセレナのものだ。王子や宰相、騎士団長と懇意にしているセレナに集中した権力は、人ひとりを殺めることも、救うことだってたやすい。


 ミリエルはゆるゆると顔を上げた。かさついた唇を震わせる。縛られたまま、その場に膝をついてミリエルに懇願した。


 尊厳なんてなくていい。プライドなんて捨てられる。ユアンのためなら。


 ──ユアンが、生きていてくれるなら。


「私のことが嫌いなんでしょう? 私はどうなってもいいから、ちゃんと死ぬから、だから……ユアンだけは助けて……」

「──ああ、あの騎士? 死んだわよ、今朝」

「え……?」


 ミリエルの言葉に、何でもないようにセレナが返す。当惑した声が、自分でも自覚できないまま、ミリエルの唇から漏れだした。


「あんたを救おうとでもしたのかしら、ミリーを助けないと国を滅ぼす、なんて言ったのが運の尽きね。揚げ足をとられて反逆罪確定、斬首刑よ」


 すい、とセレナの手が彼女の首に当てられる。そのまま横に引かれた手は、ユアンの首を切るような動作に見えた。今聞いたことが信じられなくて呆然とするミリエルに、セレナが口角を上げる。


「フフ、あはは! その顔、面白―い!」


 腹を押さえ、けらけらと笑うセレナは、その白い法衣から感じられる神秘的な雰囲気とは真逆の気配を放っていた。

 膝をついたまま目を見開くミリエルの顎をくい、とセレナが指先でもち上げる。ミリエルの目から流れ落ちる涙を見て、愉快そうに顔を歪める。


 反射的に、ミリエルは縛られた手のまま、セレナにと飛びかかっていた。頭突きの形になって、けれどセレナは少したたらを踏む程度で、特に痛がる様子はなかった。


 逆に、すぐに護衛に取り押さえられたミリエルが、河口近くの硬い岩に押し付けられて顎をしたたかに打った。痛みがミリエルの顎下から胸までを襲う。じわりと広がる熱い感覚は、鉄の匂いがした。どうやらどこかを切ったらしい。


 でも、頭に血が上りすぎて、痛みをうまく拾えなかった。


「う、ぁ……ッ」

「あーあ、なにするのよ。転んだら法衣が汚れちゃうじゃない。これ、絹でできてるんだからね」


 地面に散らばる長い銀髪が少しずつ赤く染まる。それを見降ろしたまま、セレナは言い聞かせるように言った。


「いい? お姉様。あんたはもう、差し出すものも持ってないの。何もできないのよ」


 視線だけが仰向く。セレナの顔は隠しきれない喜色に満ちていた。ミリエルは奥歯を噛む。噛みすぎてぎしぎしと音が鳴った。


「あんたのこと、嫌いか聞いたわね? 嫌いじゃないわ。どうでもいいんだもの」

「……どうでもいいなら、どうして放っておいてくれなかったの……」


 絶望が染み渡った胸から、肺から、絞り出すように声を吐く。セレナは自分の整えられた銀髪をくるくると指に巻き付けながら言った。


「あんたには役割があるからよ。この世界の人間にはみんな『役割がある』」

「やく、わり……?」

「そう、お姉様。あんたは聖女の悪姉。妹に嫉妬して、聖女の座を奪おうとするの」


 意味の分からない言葉だ。神にでもなったみたいに、運命を語るセレナに、背筋が冷たくなるのを感じる。


「嫉妬なんてしないわ」

「そう、あんたはそう思って、役割を全うしなかった。だからあの騎士も死んだのよ」

「──え……? いた……ッ」


 当たり前のように言われて、ミリエルの時が止まったようになる。ようやっと我に返ったとき、セレナの手がミリエルの前髪を掴んだ。ぶちぶちと何本か髪が抜ける。抜けた髪を見て、「汚い」と呟いたセレナは手に絡んだミリエルの髪を捨てた。


「だって、ここはそういう世界なんだもの。ああ、楽しみ、邪竜様は最後の攻略対象なのよね。足元まである長い黒髪に、血みたいな真っ赤な目! 実際に見るとどんなイケメンなのかしら!」

「こうりゃく……たいしょう……?」


 楽し気にはしゃぐセレナが理解できない。そういう世界?どういうこと?ごちゃごちゃとした頭で、口にできた言葉はわずかだった。


「邪竜……? 神話の……?」

「そ。あんたが死ねば、人間の醜さに反応して邪竜様が現れる」


 そんな話、聞いたこともない。ミリエルが芋虫のように這いつくばっているのを満足そうに見て、セレナが言葉を続けた。


「この世界に転生したなら、ハーレムルートからの女王エンドを目指したいじゃない? 聖女セレナが世界中の人々に愛されるエンディングよ、さいっこう!」

「……?」


 セレナの言葉は相変わらず頭にうまく入ってこない。上滑りしていく情報たちに、同返して言いかわからなくなる。混乱してもはや言葉も出てこないミリエルに、セレナは飽いたようだった。


「……あーあ、盛り上がらないわね。かわいそうだから教えてあげる。この世界はね、日本、という異世界の国で作られた物語、乙女ゲーム『竜恋』の世界なの」


 とん、とセレナの靴がミリエルの頭の横に漬けられる。軽く蹴られても、ミリエルにはもう抱ける情などなかった。


「聖女として生まれたヒロインが王子、宰相、騎士団長、とか、そういう高貴な相手の心を癒して結ばれる恋物語。でもスパイスは必要よね? 聖女には姉がいるの。聖女に嫉妬して聖女を殺そうとする悪姉がね」


 セレナは両手を広げた。それはまるで、演説のようだった。彼女のいう「世界」の話。


「でも、そんな醜い悪姉の行為に怒った邪竜が、クライマックスで復活するの。怒り狂った邪竜に悪姉は食われる。聖女は仲間たちと邪竜を倒して、世界はハッピーエンド。でも、その邪竜の心を癒し、浄化することで名無しの邪竜ルートに行けるのよ。実質ハーレムルートって呼ばれてるそのルートでだけ、私は女王になるの」


 言い終えて、はあ、と満足げに息を吐き……いいや、息を荒げたセレナは、ミリエルの反応を待つようにミリエルを見下ろした。


「ね、いいでしょう?」


 むふ、とリスのような仕草で顔に手をやるセレナ。ミリエルは、ぐ、と縛られた手を握りしめた。なにを言っているのか、最初から最後までわからなかった。


 でも、けれど……一つだけ言えることは、セレナのそんな満足のためだけに、ミリエルの恋人は殺されたのだ、ということだった。ミリエルの胸の内に、ふつふつとした怒りが蘇る。


「ばかげてるわ」

「勝手に言いなさいな。これがこの世界の真実よ」


 つん、と顎を上げるセレナを、ミリエルは睨んだ。もはや失うものがないなら、やけっぱちになって何でもできると思った。


「もし、本当に邪竜が復活するとして……それはあなたの醜さに呆れたからだわ」


 その言葉に、セレナの表情がすっと消える。瞬間的に振り上げられた手のひらは、避けることなどできないミリエルの頬に吸い込まれた。


 鉄の味が口の中に広がる。痛みはなかった。怒りすぎているからだろうか。


「──黙りなさい」

「黙らないわ、セレナ、あなたはそれが本当に愛される聖女の行いだと思うの?」

「私の世界よ、私のゲームを否定しないで!」


 かっとセレナの目が見開かれる。

 瞬間、ミリエルの体からかくん、と力が抜けた。否定の言葉を紡ごうとした唇は閉じ、どうやっても開けることができない。……というより、セレナの望むとおりにしなければ、という意識が働いてしまうのだ。


(これは……魅了魔法……?)


 洗脳ではない、催眠でもない。体の感覚はあるし、意識ははっきりしている。

 完全に動けないわけではない。ただ、セレナの願いを叶えたいと思うだけ。

 けれど、そんな魅了魔法があるのだろうか。


 そもそも、セレナが使うのはミリエルと同じ、聖なる魔力ではなかったか。

 ミリエルの聖なる魔力でできることは、汚れたものを浄化したり、人を癒したりすることだけだ。

 セレナの聖なる魔力の力がミリエルのそれより大きいとして、できることがミリエルとそう変わるものだろうか。


 見れば兵士の様子もおかしい。どうして気付かなかったのだろう。

 どこかうつろな目は魅了魔法にかかった人間のそれによく似ている。それに、考えてみればこんなにはっきりと声を出しているのに、護衛も、距離があるとはいえ周囲の、「生贄儀式」を遂行するためにここにいる教会の人間が、セレナの妄言を止めないのも不思議だ。


 ──それは、両親にも通じる特徴だった。


 どれだけセレナが理不尽なことを言っても、セレナを無条件に信頼する両親の目は、いつもどこか暗く陰っていた。


 まさか、他の人も、両親も──この魅了魔法のようなものにかかっていたというのだろうか。


「そろそろ時間ね、飛び降りなさい、お姉様」


 セレナの言葉を、身体が勝手に叶えようとする。ミリエルの脚がゆっくりと立ちあがり、板の張られただけの台を進んでいく。

 一歩一歩、ただてくてくと歩くように。火口からあふれる熱気が強い。


 じりじりと肌を焼く熱風がミリエルの髪を噴き上げる。

 終わりは簡単に訪れて、たん、と跳ねて飛び出した一歩は、そのまま死への一歩だった。


 ごう、という熱い空気が肌を焦がすのと同時に、視界が下へと落ちてゆく。

 遠くに見えるのはにたりとした笑顔を浮かべたセレナで、けれどそれもすぐに見えなくなる。悔しく思う、ことはなかった。


 それよりもずっと強い想いがミリエルの中に、突き抜けるように噴きあがったからだ。


 ──会いたい、ユアン。


 空には照り付ける太陽があり、下にはミリエルを焼く炎がある。月が見えない。ユアン、私のお月さま、あなたが見えない……。


 ……あなたのところに行きたい、ユアン。


 諦めと絶望がミリエルの全身を支配する。

 そうだ、もうユアンには会えない。でも、死ねば、彼方の世界でユアンに会えるかもしれない。死への甘い誘いに、今、ミリエルが応えんとした、その瞬間だった。


 ──遅くなってごめん、助けに来たよ、僕のミリー。


 慕わしい声が、脳に直接届く。一瞬、幻聴だと思った。都合のいい、ミリエルの妄想だと。

 けれど、瞬間沸き起こったのは、火口に似つかわしくない冷たい風だった。それはミリエルの怪我を、焦げ付いた肌を癒すように柔らかくミリエルを包み込み、なにか大きなものの「腕の中」へと誘った。

 はっと自分を包むものに目を向ける。


 そこにあったのは炎のような大きい、赤い目だった。つややかな鱗は漆黒で、背には大きな翼が映えている。おとぎ話や神話の挿絵と同じ姿がそこにある。つまりは、黒い鱗の巨大な竜が、ミリエルを抱きかかえているのだった。


「邪竜様!」


 遠くで砂糖菓子のような声が響く。


 ああ──ああ──誰に言われなくてもわかる、『彼』は──。


「ユアン……!」


 ミリエルの目から、ぽろりと涙が零れ落ちる。どうしてそんな姿をしているの、とか、死んだんじゃなかったの、とか、聞きたいことはたくさんあった。けれど、今はそんなことより、ユアンとまた会えたことが何よりうれしく、大切なことだった。


 抱き着いた鱗はひんやり冷たく、その大きな口から漏れ出る吐息からはユアンの匂いがした。


「ミリー、怪我したの」


 ふいに、ユアンがミリエルの額をなぞる。血に固まったそこは赤くぼそぼそとしていた。


「もう痛くないわ」


 じんじんと痺れるだけだ。頭の傷は血が出やすい。


「ミリー……」


 ユアンがぎっとセレナをにらむ。その先にいるセレナはどうしてか、笑っていた。


「うわああ! 邪竜だ! 邪竜が現れたぞ!」

「逃げろ! 焼き尽くされる!」

「本当に邪竜が存在するなんて……!」


 優しく抱き上げてくれる竜の姿をしたユアンの腕の中で地上を見下ろせば、阿鼻叫喚の渦中でセレナだけが爛々と目を輝かせて喜んでいる。


「邪竜様……セレナはここよ!」


 ──前々から思っていたが、ミリー、君の妹は頭がおかしいのか?


「そういう、わけではないと思うのだけれど……」


 そう思いはするが、おとぎ話のような異世界の話を現実だと言うセレナの狂気的な姿には、ユアンの言葉を否定できないものがあった。


 と、そこで神話に出てくる邪竜の話を思い出す。たしか邪竜は聖女に浄化されたのではなかったか。眠っていた邪竜が起きた姿がユアンだというのはわかる。状況的にそれ以外ありえないからだ。

 だが、そうするとユアンが神話で闇から助けてくれた聖女という役職に好意的ではない理由がわからない。……それとも、今もなお、彼は悪しき竜のままなのだろうか。


 ……ミリエルにとっては、ユアンが悪しき竜なのかそうでないのかはどうでもいい。

 俗な思いだとはわかっているけれど、重要なのは、ユアンが聖女のことを愛しているか否かだ。


「ユアン、どうしてセレナのことをそんな風に? 彼女は今代の聖女よ?」


 ──あれは聖女じゃない。少なくとも、僕は認めない。


 きっぱりとした言葉が脳裏に響く。それにほっとした自分がいるのを自覚して、ミリエルは恥じるように顔を伏せた。


(そっか、ユアンはセレナのことを好きじゃないのね)


 胸を押さえて、ミリエルはほっと息を吐く。


 ──僕があの女に恋するなんて、ありえないから。


 そんなミリエルの思考を呼んだかのように、ユアンが鼻を鳴らした。竜の大きな吐息がミリエルの髪を吹き上げる。


「心が読めるの?」

 ──心が読めなかったとしても、ミリーの考えていることくらい分かるよ。僕はミリーを、君が思うよりずっと真剣に見ているんだから。


 それは、言外に心が読めると言っているようなものである。

 けれど、そう、そうか。


 ユアンが変わらずにミリエルのことを想ってくれているとわかって、ミリエルは嬉しくなった。

 そうしていると、気持ちに余裕が出てきて、周囲のざわめきに気が付く。


 ユアンに抱えられたミリエルを見て、儀式を行おうとしていた人々は驚いた顔をしていた。


「どうして邪竜はあの悪姉を食わないんだ?」

「聖女様の言葉の通りなら、邪竜はまずあの女を殺すはずだろう……?」

「それに、邪竜と会話をしているように見える。邪竜と話せるのは、聖女様だけのはずなのに……」


 そんな言葉が聞こえてきて、ミリエルはユアンを振り仰いだ。


「ユアン、あなたの声は、もしかして他の人には聞こえないの?」

 ──こうして直接話ができるのは、聖女だけだ。ほかの人間には、僕の声はただの唸り声に聞こえるはずだよ。

「聖女だけ? それじゃあ、やっぱり」

 ──あの女は聖女じゃない。

「……?」


 聖女じゃない?それでも、セレナはたしかに教会に見とめられた聖なる魔力を持つ今代の聖女だ。どういうことなの、とミリエルがユアンに尋ねようとした時だった。

 きいん、という耳鳴りのような音がして、と同時に白い光の糸が束となってミリエルに襲い掛かってきたのだ。


 ──ミリー、ちょっとこっちにいてね。

「ユアン!」

 ユアンが体の角度を変え、腹の下にミリエルをかばうように体を丸めた。ユアンがミリエルをかばってくれたおかげでミリエルは無傷だけれど、気が気ではなかった。


 だって、どう見たって、あの魔法の威力は人ひとりくらい簡単に殺傷できるものだった。光を集めて熱で焼き焦がす、聖なる魔法に唯一ある攻撃魔法。


 それがユアンに直撃したのだ。


「どうしてその女をかばうの! 邪竜様!」

「セレナ、何を……っ」

「そう、そうなのね、バグが起きてるのね? じゃあ私の魔法で浄化しなきゃ。聖なる魔力で浄化して、正気に戻してあげる!」

「やめて……ッ!」


 セレナの手のうちに、また光が集まり始める。ミリエルにはそれが浄化魔法には見えなかった。憎しみなど、邪心ある心で行使した浄化は、他者を傷付ける光の刃となる。それが聖なる魔法のたったひとつの攻撃方法なのだ。


 セレナの魔力量はおそらく膨大だ。そうでなければあんなに大きな光の球が生まれるはずがない。今や両手で抱えるほどにもなった光が、セレナの手から放たれる。


 あんなものがユアンにあたって無事であるはずがない。

 ミリエルは手を大きく伸ばした。ミリエルにだって聖なる魔力がある。ありったけの魔力を使えば、クッションくらいにはなれるはずだ。


 ミリエルは修行なんてほとんどしていない。セレナのはきだめであるミリエルには、そんな時間与えられなかった。だから、これでいいのかわからない。けれど、守る、というたったひとつの意志だけで放出した魔力は、ユアンとミリエル自身の前で大きな盾の形をとった。


 光の球と盾が正面からぶつかり、きいいん、と澄んだ音があたりに鳴り渡る。

 弾かれたのは、セレナの魔法の方だった。


 盾に触れた瞬間あっけなくはじけ、そのまま砂のようになって消えてしまったセレナの魔法の球は、そのままさらさらと空気に溶けて消えていく。


 ──あの程度が、ミリーに勝てるわけないだろう。

「え……?」


 ユアンの声を耳にしながら、ミリエルは呆然とそう口にした。そうしているのはセレナもだった。

 セレナは自分の魔法が負けるとは思っていなかったのだろう。

 ミリエルだって、自分がセレナの魔法を防げるとは思わなかった。


「どういうことだ」という声が地上から聞こえてくる。


「聖なる魔法で聖女様が敗れるだと……!?」

「そもそも、あれは邪心なくしては発動もしない攻撃魔法じゃないか?」

「悪姉のほうが使った魔法、盾の魔法だろう? あんなに大きな盾、見たこともないぞ……?」


 口々にそう続ける地上の人々は、次第にセレナへ疑いの目を向ける。そこには、セレナの魅了魔法にかかっていただろう護衛たちの姿もあった。


 ──大丈夫? ミリー。

「ユアン」

 ──動転している人間には魅了魔法も通じない。安心して、みんな、もうあの女の支配からは抜け出してる。全員、正しいものを見られるはずだよ。

「ただしい、もの?」


 ミリエルのつぶやきに、ユアンが竜の顔で頷く。

 その言葉を不思議に思って、ミリエルが聞き返そうとした、その時。


「セレナ! 君は今、いったい何をした……!」


 怒声を張り上げ、金髪を肩口で切りそろえた、鷲色の目の青年がこちらへ駆け寄ってきた。

 あっとミリエルが声を上げる。彼を守るように騎士団長と宰相が走ってくるのが見える。国の要人に囲まれたその青年は、ミリエルの見間違いでなければ、この国の第一王子にして王太子であるルキウス・ポウル・アトルリエだった。


 護衛兵と宰相、騎士団長に囲まれた王太子ルキウスは、ユアンに抱かれたミリエルに気付き、一瞬恐れるように目を見開いた後、ぐっと唇を噛んでセレナに向き直った。


「どういうことだ! どうして神竜様に攻撃をしたんだ、聖女セレナ!」

「ルキウス様! ああよかった! あたし、今邪竜を浄化しようとしていたところですの。それをあの『悪姉』が邪魔して……」

「浄化!? 恐れ多くも神竜様に魔法をかけようとしたのか!?」

「……何で怒っているんですか? ルキウス様」


 セレナは不思議そうな顔をしてルキウスたちを見上げる。しかし、見つめられた彼らはセレナに魅了されるどころかセレナの言葉に呆れたように──いいや、憤っているようにも見える──あるいは絶望したように、彼女を見下ろした。


 ──ほら、強い感情が、魅了魔法の効果を打ち消した。もう、あの女の味方はいないよ。


 ユアンの言葉に、ミリエルははっと王太子たちの様子を確認した。たしかに、彼らからいつも感じるぼやけたあざけりのようなものは今はない。


 王太子をはじめとする国の要人にまで魅了をかけていたのか、とミリエルは口元を押さえた。そんなことをして、国が崩壊したらどうするのだ。


 いや、そもそも、先ほどセレナは女王になると言っていた。まさか、そんなことを考えて誰しもを魅了していたというのだろうか。恐れを知らない所業にもほどがある。

 火山の頂上、儀式のために集った人々が作った狭い安全地帯はざわついている。けれど、その中で悲鳴じみた王太子の声はよく響いた。


「神竜様は浄化された! 邪竜だったのは過去の話だ! 今は火山の中で眠りにつき、聖女の生まれる地の守り神となっている……! 君は聖女のくせにそんなことも知らないのか!?」

「え……?」

「邪竜ではない。聖女の生まれるこの国から災いを払う神竜様は、破邪竜なのだと、君は教わったはずだ!」

「し、しらな、知らない……!」

「知らないでは済まされない! 破邪竜様に攻撃をする、ということは、この国を滅ぼしかねない大逆罪だ!」

「知らない、知らない、知らないわよ! ゲームにはそんな設定なかったもの!」

「君は何を言っているんだ!?」


 絶叫するルキウスがセレナを詰る。しかし、セレナは耳をふさいで首を横に振るばかりだ。

 そんな混乱のなか、王太子の隣に立つ青年──宰相だ──が、ふいに、宙に浮かんだままのユアンとミリエルを振り仰いだ。


「神竜様! どうかお許しを……この無礼、王族が意図したことではございません。生贄となるのはこの聖女もどきだけに……」

「もどき、ですって!?」

「セレナ! 君は黙っていろ! アトルリエ国の一大事なんだ!」


 許しを乞う宰相に、反射のようにまなじりを吊り上げるセレナ。そしてそれを叱責する王太子ルキウス。

 聖職者たちは右往左往していて、騎士団長はそれを落ち着かるのに手いっぱいなのだろう。

 一向に収まる様子のない状況に、ユアンが赤い目を細める。


「ユアン……大丈夫?」


 ミリエルはユアンの鱗をそっと撫でた。ユアンの静かな怒りが伝わってきたからだ。

 ──収まりがつかないな。

 ユアンはそう、ひとつ鳴くと、ミリエルを抱いたまま目を閉じた。ふわりとあたたかな光がミリエルとユアン自身を包み込む。


 漆黒の鱗を糸にして、しゅるり、とそれをほどくように姿を現したのは、長い黒髪を後ろで束ね、深紅の瞳を煌々と輝かせる青年、ミリエルのよく知るユアンだった。


「あ、あ、ああっ!」


 現れたユアンの姿を目にしたセレナが叫ぶ。


「あ、あんた……あの騎士!? 今朝処刑した……。黒髪、赤目、あ、たしかに、たしかに、スチル通りの……!」

「セレナ! ……ッ! 騎士団長、いや、誰でもいい! この女を黙らせろ!」


 顔を真っ赤にしながらルキウスがセレナを怒鳴りつける。

 それを見ながら、ミリエルは不思議と心が凪いでいくのを感じていた。


(どうして、私、この人たちが怖かったのかしら)


 ミリエルを虐げた周りの人が怖かったし、権力者も全員セレナの味方だから恐ろしかった。それなのに、今、その記憶がどうでもいいもののように思えてくる。

 だって、こうしてユアンの登場に怯えて、あるいはユアンへしたことに対する叱責を受けている人たちの、どこに怯える必要があるのだろう。


 もちろん、悲しかった何もかもが本当のことで、ミリエルを傷付けたことに変わりはないのだけれど、それでも、彼らに怯えていたことがばかばかしく思えてきているのだ。


「ミリー?」


 ユアンの手が、ミリエルの頬をそっと撫でる。案じるようなまなざしに、ミリエルは微笑んで返した。


「大丈夫よ、ユアン。なぜかしら、セレナたちのことを、もう、恐ろしいと感じていないの」

「……そっか」


 ほっとしたようにユアンが目を細める。

 けれど、ミリエルの言葉に、弾かれたようにセレナが顔を上げた。


「なん、ですって……!? ば、ば、ばかにして……!」


 セレナの体が発光する。突然の魔力の放出に跳ね飛ばされた護衛兵たちが目を押さえ、悲鳴をあげて転がる。

 ゆらり、と立ちあがったセレナがぎ、とミリエルをにらみつける。

 掲げられた手の中には、白い光の塊が燃えるようにゆらゆら揺れていた。


「このバグ女! あんたがいるからゲームがうまく進まなかったのよ! あんたさえいなければ邪竜だってあたしのものになったのに……!」


 セレナの絶叫に振り返ったミリエルに、白い珠が向かってくる。思い切り投げられたそれの動きは速く、ミリエルの動きでは避けられそうになかった。

 びゅう、と風の音がする。直撃する──ミリエルが目を閉じるのと同時に、身体をふわりとあたたかなものが包み込んだ。


「大丈夫だよ、ミリー」


 優しい声がミリエルに降ってくる。そして。


「いつ、だれが、お前のものになった?」

 ──冷たい、血の一滴まで凍り付くような声が、遠くのセレナに投げかけられた。


 キイン、と音がした。ガラスとガラスがすりあわさるような音。

 目を開けたミリエルが見たものは、ユアンに残る竜の証、背の大きな翼にぶつかった光の球が、そのまま弾かれて逆行し、セレナの頭に向けて吸い込まれるところだった。


 パン!という炸裂音、それとともにセレナの体がふらりと傾ぐ。

 咄嗟に駆け寄ろうとしたミリエルを強い力で抱き留めたのはユアンだった。


「ユアン……!」

「ミリーが情けをかける必要はないよ。もう、終わった」

「終わった、って」


 ミリエルがユアンを振り仰ぐ。そこには、ユアンの静かな表情があるだけだった。


「ゆ、あん」


 背後でセレナが再び護衛兵に取り押さえられている。

 しかし、セレナは異様に静かだった。まさか死んでしまったのでは、とセレナへともう一度視線を返す。はたして、セレナは生きていた。


 ただし、きょとん、と驚いたような顔をして。

 今自分が何をしたのか、気付いていないのだろうか。いいや、そんなことはあり得ない。それならなぜ。


 ……答えはすぐに知れた。


「うー? あう……?」


 セレナはその白い指を口に含み、ちゅぱちゅぱと吸っている。そして自分の周りに屈強な男たちがいることに気付いてか、わんわんと声を上げて泣き始めた。しょわわ、とセレナの法衣に黄色い染みが広がって、独特のにおいが鼻をつく。


 まるで赤子のようだ、と思ったミリエルに、ユアンが静かな声で口を開いた。


「聖なる魔力は相手に危害を加えることができない。しかし、聖なる魔力は悪しきものを浄化することができる。浄化と消滅は同じものだ。聖なる魔法が跳ね返ったことで、彼女の中の記憶がすべて消滅したんだ。……浄化された、と言うべきか」

「あー! あああー!」


 泣き続けるセレナは、護衛兵に肩を押さえられたままだ。心配して駆け寄る者はいない。

 それはとてもさみしい光景だった。と同時に、彼女への報いの重さを思い知るようなものだった。


「もう大丈夫だよ、ミリー」


 ユアンがミリエルの銀髪をそっと撫でる。血の塊をほぐすようにして、何度も何度も手櫛でくしけずられる。そこに、ミリエルへのいたわりはあれど、セレナへの憐憫のようなものは感じられなかった。


 そう、これが人ではない、ということなんだわ。とミリエルは一瞬、ユアンに畏怖のようなものを抱いた。けれど、たったその一点を超越するほど、ユアンを愛していた。もう、ずっと昔から、そう思っていた。


 ■■■


 ユアンが羽ばたき、王太子達の頭上へ至る。

 ミリエルを抱き上げたまま、威圧的に王太子達を見下ろすユアンに、王太子達は顔を真っ青にしてうろたえるばかりだ。


「神竜様、どうか、どうかこの国に罰は……」

「別に害する気はない。勝手にすればいい。だが、この国にもう聖女は生まれない。したがって守護する気もない」


 害する気はない、と言って一瞬顔に喜色を浮かべた王太子ルキウスだったが、次に続いた言葉に目を丸くした。

 宰相が「どういう、ことですか」と震える声を出す。

 その言葉に、ユアンが悠然と笑みを浮かべて、そしてなぜか、ミリエルの頬にほおずりをして口を開いた。


「聖女は……聖女の生まれ変わりは僕が攫っていくから」


 その言葉に、その場の視線がミリエルに集中する。

 その意味がわからないほど、ミリエルは鈍感ではない。


「行こう、ミリー。僕の、最愛の聖女」

「わたし、なの、ユアン」


 愛している、と言われた。その愛を疑わなかった。けれど、ミリエルが聖女の生まれ変わり、だなんて知らなかった。でも、それなら、ユアンがミリエルを愛してくれたのは、ミリエルが聖女の生まれ変わりだから、だというのだろうか。


 狼狽するミリエルに気付いたのだろう。ユアンは「ごめん、誤解させたね」と眉を下げた。


「僕がミリーを愛しているのは、ミリーだからだ。君が聖女の生まれ変わりでなくたって、ミリー、君に恋をしたよ」


 ユアンがちゅ、と泣きそうな目元に口づける。くすぐったい。

 ミリエルは震える声で返した。


「わたし、でいいの」

「君じゃないとだめだ」


 その、まっすぐなまなざしが、どうしようもなく嬉しい。胸がとくん、と高鳴る。

 一瞬、残していくものが頭を過る。

 セレナ、両親、国の人々……。


 ……過って、目を伏せた。


 そこに、ミリエルのことを愛した者はいなかった。魅了されていたのだとしても、その行為は同じだ。

 ユアンへ向けるものほどやさしい感情を抱けるものはいない。


 きっと、本当に聖人なら、残りたいと思うのだろう。憐れむのだろう。けれど、ミリエルはどこまで行ってもユアンの恋人でいたかったから、そうしたくないと思った。


 セレナが聖女ではなかったように、ミリエルも、生まれ変わりというだけで、きっと本当に聖女にはなりえない。


「攫っていい? ミリー。君がついてきてくれないと、僕はこの国を滅ぼすかも」


 その想いの深さも苛烈さも、もう愛しいとしか思えない。ミリエルの選択肢を潰してくれる優しさが、やわらかくミリエルの胸を突く。だから、ミリエルは想いを込めてユアンの胸に抱き着いた。


「攫って──ユアン」


 ──私の、大好きなひと。


「ああ……」


 ユアンが、胸の内の空気をすべて吐き出すように、深い息を吐きだした。

 安心したように、ミリエルが応えたことが嬉しい、というように。


「ありがとう……、ミリー」


 ユアンが竜に姿を変え、空高く舞い上がる。ミリエルをあたたかな胸に抱きしめたまま。

 ぐんぐん小さくなるアトルリエ聖竜国の人々、王太子たちが、絶望的な顔をしている。

 けれど、それにもう何も思うことはなかった。赤子のように、不思議そうな顔でミリエルを見上げる、セレナにも。


 さよなら、わたしの生まれた場所。

 ……さよなら、ここにいた、悲しかったわたし。

 突き抜けるような青空が広がっている。ユアンと一緒に飛ぶ空は、どこまでも、どこまでも美しかった。


 ■■■


 元々、過去の聖女に抱いていた気持ちは憐憫と感謝、そして少しの友情だった。

 命と引き換えに邪竜へと堕ちた自分を浄化するために遣わされた、身寄りのない、憐れな少女。


 生きている彼女と話した時間はそう多くはなかったけれど、ともに火山の溶岩の中で眠りについたことで、自分は聖女と運命共同体なのだという意識が芽生えていた。


 ずっと聖女とともにいられるなら、このまま眠っていてもいいかと思い始めていた。当の聖女がどう思っていたのかはわからないけれど。


 ……いいや、生まれ変わりたかったのだろう。聖女は次の生へと歩を進めようとしていたから。

 人間はうまれ変わるものだ。この世界にも、それこそ異世界にでも転生しようとする。

 死んだ魂のまま漂っていようという人間はいない。


 自分は聖女といたくて、彼女を必死に引き留めた。

 だが、彼女の魂は次の生を願った。

 さんざん悩んだ後、自分は折れて、それを許した。


 自分のために命をなげうった聖女の、唯一の願いを叶えてやりたかったからだ。


「しかたないなあ」


 彼女の魂はそう笑っている気がした。

 だから、代わりに約束をした。言い出したのがどちらだったのかは忘れた。

 覚えているのは、聖女の魂はそれを了承した、ということだ。


「わたしは、この世界でだけに生まれ変われるように、そういう輪廻の輪に入るよ」


 そう言って、聖女の魂はまた笑った。

 けれど、それは聖女とはいえ難しいことだったのだろう。


 元々あった運命を捻じ曲げて、長い時間をかけて、ようやっと元と同じ国に生まれ落ちた聖女は、異世界からやって来た高慢な魂のせいで苦しめられていた。


 自分が、聖女が生まれるために国に与えた加護すら利用して、聖女の生まれ変わりは虐げられていた。


 ──かわいそうに。


 それが、その光景を見て、自分の抱いた感情だった。

 人間の姿をとって彼女のもとに降り立ったのは、彼女がもうこれ以上今世で苦しむことがないよう、再び輪廻の輪に戻してやろうという憐みのためだった。


 教会の隅、粗末な花壇のそばは、虐げられていた少女が愛する場所だ。

 今世では花が好きなのか、そこまで考えて、自分は「聖女」がかつて何を好んでいたか知らなかったことに気付いた。あんなにずっと一緒にいたのに。


 それを考えると、喉元に何かがつかえているような気がした。

 そんな時、当代の聖女という名ばかりの称号を持つ娘に突き飛ばされ、自分は雨上がりの濡れた泥の中に転び落ちた。


 ぬかるんでどろどろになった地面で汚らしくなった自分を見て、当代の聖女「セレナ」は意地の悪い顔で笑っていた。


 お前のようなものが聖女を名乗るな。そう言ってやろうとしたが、それを止めたのはこの娘に虐げられているはずの聖女の生まれ変わりの少女だった。


「あなた、大丈夫? セレナ、謝りなさい!」

「あら、お姉様。あたしの歩く道をふさいでいたんだもの。突き飛ばされても文句は言えないわ」

「この人はただ立っていただけよ。わざわざ近寄って突飛ばしたのはあなたじゃない」


 きっ、と強いまなざしを向けた少女に、名ばかりの聖女もどきはあざけるように笑って見せた。


「そうだとしても──『はきだめ』の話なんか、誰も信じないわよ。それとも、ここで大声を出されたい? そいつを暴漢として突き出しましょうか」

「……」


 お姉様、と呼ばれていたからには、彼女は「聖女もどき」の姉なのだろう。

 たしかに、銀の髪と青い目という色彩は、姉妹らしくよく似ていた。


 ……もっとも、表情に滲み出る性格は、まったく違うようだが。

 口ごもった聖女の生まれ変わりを尻目に、高笑いしながら去って行く「聖女もどき」はとても聖女の器ではない。


 聖女というのが役職名であり、称号でしかない、とはいえ、よくもここまで汚されたものだと思った。

 自分の知る聖女は、あの聖女もどきとは比べ物にならないほど美しく、清廉だったのだと思う。そう、今目の前にいる、凛としたこの少女のように。


 そんなことを考えていると、ふいにやわらかなものが自分の頬をぬぐった。それは、聖女の生まれ変わりが差し出した白いハンカチーフだった。


「妹がごめんなさい。こんなことしかできないけれど……。わたしが代わりに謝ります。怪我はしていない?」

「怪我はない。それより、君はいいのか? ハンカチーフが汚れてしまう」

「ハンカチーフ、なんてずいぶん古風な言葉を使うのね。いいの。どうせ『はきだめ』には分不相応なものだったんだもの。白いハンカチなんて、こんないい品はとり上げられて終わりだわ」

「はきだめ?」


 聖女の生まれ変わりが口にした言葉が気になって問い返す。彼女は目を伏せた。銀のまつ毛が陽の光できらきらと輝いている。あまりに美しくて、妖精か何かのようだと思った。


「ええ。あなたも見た通り、今代の聖女様……わたしの妹なんだけど、彼女は素行がよくないでしょ。でも、それは全部わたしのしたことになるの。聖女の名を汚さないために」

「そんなの、あの女が行動を改めればいいだけの話じゃないか」

「こら、あの女、なんて言ってはダメよ。誰かが聞いていたら、聖女様への不敬だって、あなたが罰せられてしまう。……たしかに、わたしも、そう思うわ。でもね、だめなの。父も母も、偉い人もみんな、あの子の嘘を信じるから。……うん、綺麗になったわ」


 すっかり泥が拭われたようだ。大事にしていただろうに、少女のハンカチーフはぐちゃぐちゃに汚れてしまっていた。

 すまない、と、そう口にしようとしたところで、聖女の生まれ変わりが驚いたように目を瞬いて言った。


「まあ、あなた」

「……?」

「あなた、とてもきれいな目をしているのね。あたたかい、暖炉の中の炎みたい」

「──……」


 邪竜だった自分の目は、血の色だと言われていた。

 炎に例えて、しかもあたたかいと言ったのは、自分を浄化した聖女と、目の前の少女くらいだった。

 驚いて固まった自分に、聖女の生まれ変わりは微笑んだ。


「急にごめんなさい。わたしはミリエル。ミリエル・クリスト・フララット。この教会の下働きをしているの。あなたは?」

「自分……僕、は」


 少し考えて、かつての聖女が自分を呼ぶためにつけた名前を思い出した。竜、じゃつまらないでしょ、と言った表情を覚えている。それは、えくぼの浮いたこの少女──ミリエルのものとよく似ていた。


「僕は、ユアン。ユアン・ミーシャ」

「あら。セカンドネーム。あなたは貴族なの?」

「どちらも名前だ。候補を絞れないと言われた」

「名前が二つ? 洗礼名みたいなものかしら。教えてくれてありがとう」


 聖女の生まれ変わり──ミリエルは、ユアンと名乗った自分の手をそっと両手で包んで、祈って言った。


「ユアン、あたたかな炎の瞳のあなたに、神竜様と初代聖女様のご加護がありますように」


 そう言って、ミリエルは顔を上げてにっこりと笑った。

 晴れ渡る空のような青色の目がユアンを映して、その桜色の唇がユアンを呼んだ。

 心臓が跳ねる。なんだこれは、と思った。


 苦しく、甘い。不思議な感覚。頽れそうになるのに、目の前の華奢な体を抱きしめたいという欲求が胸の内をぐるぐると渦巻いている。

 吐きだすように息をして、ユアンはそうか、と思った。


 かつてユアンが聖女に抱いていたものは、友情だったし、憐みだった。助けられたという感謝もあった。

 けれど、今胸にある感情は、そのどれとも違う。


(これが、愛情、か)


 知らなかった感情に思い至って名付ける。しっくりときたその名前を疑うことはなかったが、実のところ、それは少し違った。


 後になって自覚したことだが、ユアンはこの時、恋に落ちていたのだ。邪竜へと堕ちた時とは違う、あたたかな、狂おしい感覚。落ちるというより、溺れる、という方が近いな、とユアンは思った。


「それじゃあ、さよなら」


 立ちあがってユアンに背を向けたミリエルを、ユアンはずっと目で追いかけた。見えなくなっても、その方向を見続けた。

 もう彼女を殺して輪廻の輪に戻そうとは思わない。彼女を、ミリエルを幸せにするために、「人間」になろう。と思った。


 人間のふりをして、彼女のために生きよう、と。

 人間としての地位を得るため、魔物の大侵攻、スタンピードを収束させた。

 竜である自分には苦もないことだった。


 ミリエルとは何度も会って会話して、互いに好意を向けあう仲になった。

 ミリエルから愛を告白されたときは、思わず咆哮して喜びを表したいと思うほど嬉しかった。

 地位と権力を得た。これでミリエルを幸せにできる。


 あの、「騎士ユアンを今代聖女の夫に」などというくだらない噂を払しょくして、ミリエルと幸せに生きられる、と思ったのに。

 ユアンは今、自分の前足の中にいる、広い空からの眺めに目を輝かせている愛しいミリエルを見下ろした。

 ユアンには、ミリエル以外がどうでもよかった。

 きっと、こんな自分をミリエルは怖がるだろう。そう思っていたのに、ミリエルはユアンを受け入れて、それだけではなくついてきてくれた。


 ユアンは、ミリエルを幸せにする、と彼女を抱く前足に力を込めた。

 これは、誓いだった。


「ユアン、どうしたの?」


 力が強まったことに気付いてか、ミリエルが振り返ってユアンを振り仰ぐ。

 きょとんと目を丸くするミリエルが、とんでもなく愛くるしい。


(ああ、愛しい)


 ──君を、愛していると思ったんだ。


 そう伝えたユアンに、ミリエルは一瞬驚いた顔をした後、嬉しそうに笑った。花がほころぶようだった。


「わたしもよ、ユアン。……どんな所にいても、あなたがいればほっとするの。あなたは、わたしのお月さまだわ」


 そう言ったミリエルに鼻先に口付けられ、ユアンは目を見開き、そして、ゆるゆると満ち足りた気持ちで目を細めた。

 空の上で、遠くに星が瞬いている。

 きらきらと、きらきらと。


 それはきっと、しがらみから解き放たれた二人への、天からの祝福だった。


 ■■■


 三年後。

 あの後、国を三つほど超えた場所にある山間の辺境の村にたどり着き、家を建てて暮らし始めたミリエルとユアンは、平穏な日々を送っていた。


 村の住民は優しく、駆け落ちしてきたのだね、と言ってミリエルたちを受け入れてくれた。

 聞けば、ここはそういう家族に結婚を認められなかった恋人たちが逃げ伸びて集い、うまれた村なのだという。


 聖女や竜の信仰からほど遠いこの村での暮らしは穏やかで、波や風と言えば、時折、旅の商人から「アトルリエ聖竜国」の話を聞くことがあるくらいだった。

 アトルリエ聖竜国は聖女の失脚と同時に、彼女それまでの不正や素行の悪さが明るみになり、国の根幹をなしていた教会への信仰をほとんど失ってしまったらしい。


 求心力を失った国の内部はぼろぼろで、頼みの聖女は赤ん坊状態。

 その混乱を狙って、アトルリエ聖竜国は他国から領土を狙われているらしい。


 次の聖女は生まれない、というユアンの言葉は教会の人間だけとはいえ大勢が聞いており、かん口令を敷いても完全に抑えることはできなかったらしい。


 信仰対象の消失。それも教会の権威の失墜につながったのだろう。

 遠くの、もはや他人事のように遠くの出来事を、ミリエルは少しだけ憐れに思った。


 その時、ふいに後ろからぎゅっと抱きしめられて、ミリエルは目を瞬いた。


「ミリー」

「ユアン! おかえりなさい。いつ帰っていたの?」

「今だよ。声をかけたのに、ミリーが何も言わないから」

「ええっ! ごめんなさい、全然気がつかなかったわ」


 謝るミリエルに、ユアンが「いいよ」とほほ笑む。


「僕がもっと早く帰ってくればいいだけだからね。今日の獲物はうさぎだよ。おすそわけでニンジンとジャガイモをもらったから、ミルクで煮込んでシチューにしよう。僕が作るからミリーは座っていて」


 一流の狩人として村の男たちのまとめ役となったユアンは、ここのところ帰りが早い。

 ミリエルが仕事できない状況である、というのもあるのだろうけれど、それにしたって心配し過ぎである。


「私も料理くらいできるわ」

「だめだよ。今が大切な時だって、お医者さんも言ったじゃないか」

「それは、そうだけど……」

「ね、だからおとなしく、僕に甘やかされていて」


 ちゅ、とこめかみに口付けられて、ミリエルはむう、と唇を尖らせるフリをした。


「かわいい唇だね」


 ちゅ、と唇にもキスを落とされて、ミリエルの頬が赤くなる。ねだったみたいで恥ずかしい。

 耳の後ろを熱くするミリエルに対して、ユアンは相変わらず嬉しそうだ。炎のようなあたたかい瞳が、ミリエルを映してゆるりと細まる。


「もう、ひとりの体じゃないんだから」

「ええ……」


 まだ膨らんでいない腹を撫でて、ユアンが愛しげな声を落とす。これはきっと子煩悩になるわね、なんて想像して、ミリエルはふふ、と笑った。


 まだ薄っぺらなおなかには、ユアンとの子が宿っている。宝物のような、小さな命。


「ミリエル、笑ってるの? かわいいね」

「今日も明日も明後日も、あなたが好きだわと思ったから、笑ってるのよ」


 ミリエルがそう言うと、ユアンは一瞬、目を見開いた。人とは違う縦に長い瞳孔が丸くなるのがかわいらしい。そういうところも好きだ。


 ミリエルの緩く結わえた銀の髪が風に流れる。

 その髪をそうっと撫でて、ユアンがミリエルの唇にもう一度口付ける。


 あたたかい、ミリエルを愛している、と伝わってくるキスに、ミリエルは目を細めた。


「ミリー、それは、ずるい」

「じゃあ、もっとずるいことを言うわね」


 ミリエルはくすくすと声を立てて笑う。顔を赤くしてミリエルを抱きしめるユアンが、愛しくてならない。


「……あなたを愛してるわ、ユアン」


 三年前、初めて口にした愛の言葉を繰り返しても、もう、そこにあの日の絶望はない。


「ミリー……!」


 一度腕をほどかれ、そうして、ミリエルの座るソファの前で、もう一度、今度は優しく、正面から抱きしめられた。とくん、とくん、と胸が高鳴る。

 いつだって、あなたに恋をしている。こんな日々を愛している。


 あなたといられて幸せだ。昼間の月のように、いつまでも一緒にいてくれるあなたを、心から、心から、愛しいと思う。


 だから、次に訪れる言葉も、もうわかっていた。


「僕も、君を愛している」


 空は高く、遠く、まばゆい光に満ちている。

 そして、いつも見守ってくれる昼間の月は、ここにあった。


 空に見えなくとも──今、そう、ここに。

「わたし」の、となりに。


おしまい

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