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何者にもなれなかった俺、何者かになりたい君

 客先からの直帰は久しぶりだ。そこはかとない開放感に少しばかり伸びをする。何しろ定時は一時間後。一時間分働かずに給料を得ている。ちょっとした優越感が胸を満たす。おまけに今日は金曜日だ。明日は休日。


 ネクタイを緩めて、シャツの第一ボタンを開く。それだけで少しだけ清々しい気分になった。


 そんな日だから、たまにはコンビニで買った弁当じゃなくて、もう少し良いものを選ぼう。ついでに少しだけ酒でも飲もう。なんとなくそんなことを思った。


 お誂え向きにあった近くのベンチにどかっと座る。隣にいた若い女性が、迷惑そうにちらりとこちらを一瞥した。荷物を纏めて立ち上がり何処かへ歩いて行く。その背中をぼんやりと見送った。


 スマートフォンを取り出し、地図アプリを開く。「ディナー」と検索すると、ピンのようなアイコンが画面にいくつも表示された。


 この近辺で美味しそうなお店は……と。真っ赤なピンを一つずつタップし、吟味していく。この店は口コミが高すぎる。この店はちょうどよい点数だが、評価人数が少なすぎる。


 五度目のタップ。口コミも、評価者数もちょうどよい店が見つかった。画面をスワイプして店の概要を検める。口コミをざっくりと斜め読みして、店の内観の写真をチェック。少しだけ逡巡した。


 バーだ。いかにも小洒落た雰囲気の。写真で見る限り、店内は狭そうだ。


 入社当時から仲良くしてくれている先輩が、「バーは一人で行くのが乙なんだよ」なんて言っていたのを思い出す。だがそんな洒落た店に一人ぼっちで乱入するには少しばかり憚られた。おまけにバーなんて入ったことが無い。それに俺は洋酒よりも日本酒派だ。


 一旦キープとし、スマートフォンと再度にらめっこをする。驚くべきことに、めぼしい店は他には無かった。無難にチェーン店に入るという選択肢も脳裏をよぎったが、せっかく普段とは違う場所で食事をするのだから、ちょっとした贅沢はしたい。


 どうするべきか迷いながらも、結局、先のバーに行くこととした。どうせ入ったとして一度限りだ。常連の客連中にどんな目で見られても、特段なんのダメージも無いだろ。自分に必死に言い聞かせた。


 店はここから……歩いて十分くらいか。地図アプリを起動しっぱなしにして、赤いピンに向かって歩き出す。


 まだ空は明るい。ゴールデンウィーク明け。最高気温はとうに摂氏三十度を超えている。クールビズへの移行期間だということは知っていたが、先週までの勢いでジャケットを羽織ってきてしまったことを後悔する。そのジャケットは、今は俺の右腕だ。雑に折りたたんだそれが邪魔で少し辟易とする。


 大通りを歩き、横断歩道を三回程渡って、路地裏に抜けた雑居ビルの目の前に到着した。赤いピンはその場所を示している。


 地下へ続く階段の前に黒板が据え置かれている。可愛らしい文字で書かれた店の名前はアプリに表示されていたものと違わない。どうやら午後五時から七時まではビールが半額になるようだ。今は午後五時半。最初の一杯は安く済みそうだ。


 数秒ほど二の足を踏む。先程決意は済ませたのだが、お世辞にも綺麗とは言えないビルの地下へ続く階段を目の前にすると途端に勇気が萎んでいく。


「あの……」背中側から男の声が聞こえた。はっとして振り返る。自分が店の入口を大胆にも塞いでいたことにバツの悪い思いをする。


「す、すみません」そう言って、踏ん切りもつかないまま、階段を降りた。


 階段を降りきると、無機質さを覆い隠すように、手作りのポップアップやらがゴテゴテと張られた扉が目に映る。取手に手をかけて引く。思いの外扉は重かった。後ろの男性を振り返って会釈をしてから、彼が通れるよう、大げさに扉を開き中に入り込んだ。カランカラン、とドアベルの音が鳴り響く。


「いらっしゃいませ」店の奥から、男性店員の声が聞こえた。カウンターの奥でグラスを拭きながらこちらをにこやかに見ている。「お二人様ですか?」


「いえ、別です」後ろの男性がすぐに応えた。


「カウンターへどうぞ」


 店の中を少しだけぐるりと見回す。まだ混む時間ではないようで、店内には一人、二人しかいない。「どうも」と短く返答してから、カウンターの端へ座った。目の前にあったメニューを手にとる。合皮なのか、本皮なのかはわからないが、高級そうな装丁のそれに少しばかり尻込みする。ええいままよ、とメニューを開いた。


 一杯目はビールだと決めている。あとはつまみだ。<アンティパスト>と書かれたページに目を走らせる。困った。目に映るもの全て見たことも聞いたことも無い単語ばかりだ。唯一イメージができるのは<ソーセージの盛り合わせ>だけ。「すみません」と、男性店員に声を掛ける。「生と、ソーセージの盛り合わせを一つずつ」男性店員は微笑みながら「かしこまりました」と応えた。


 料理と飲み物が来るまでは手持ち無沙汰だ。ポケットからスマートフォンを取り出して、ニュースアプリを開く。その瞬間ドアベルが勢いよく甲高い音を鳴らした。カランカランカラン、と。思わず入り口の方を見る。


「お疲れ様です! すみません、遅れました!」


 若い女性だ。なんとなく既視感を感じた。状況にではない。女性自身に。はて、自分の知っている人間だっただろうか、と数秒ほど記憶を漁るが、思い当たる人物はいない。


 暗めの茶髪。高いポニーテール。顔立ちはくっきりとしていて、十二分に美人と呼べる。化粧っ気は少なく見えるが、如何せん男である自分にはその多寡はわからない。


「チサトさん。お疲れ様です。大丈夫ですよ」男性店員が、気にするなと言わんばかりに応えた。「あぁ、マスコ君だけか。店長はまだ?」店の中を見回して彼女がマスコ君と呼ばれた店員に問いかけた。「まだですよ。あの人気まぐれなんで今日は来ないかもしれないですね。僕の方で遅刻は無かったことにしときます」とマスコ君が笑う。


「サンキュー。すぐに準備するね」そう言って、チサトと呼ばれた彼女はカウンターの奥に消えていった。


 先程感じた既視感を振り払って、今日のニュースに意識を戻そうとした。しかし、チサトという名前に俺は聞き覚えがあった。いや、でも、そんな偶然あるか? そもそも見た目も全然違うじゃないか。


 高校の頃、「地味ではあるが、磨けば光る」と噂されていた同級生を思い出す。彼女は眼鏡を掛けて、黒髪をお下げにしていた。教室の隅、無心で本を読む姿が脳裏をよぎる。二人に共通点は見いだせそうにない。


 何度か話したことはあっただろうか。遠い昔の記憶だからか、思い出せない。


「チサトさん。そちらのお客さんに、これ持っていってください」記憶の沼に沈んでいた俺の意識を、マスコ君の声が呼び戻す。いつの間にか彼女はバーの店員らしい服に着替え終わって、カウンターにやってきていた。


「了解」彼女が笑顔でマスコ君に返す。「お客様。ビールとソーセージ盛り合わせで……す」


 ありがとう、と返事すべく顔を上げる。彼女が俺の顔を見て固まっていた。数秒程の短い時間だろうか。


「スグル君!?」彼女の嬉しそうな顔が目に焼き付いた。「スグル君だよね! 覚えてない? 高校で同じクラスだった!」


 驚いた。先程感じた既視感は良くある脳の誤作動ではなかったらしい。


「黒……川?」


 黒川 チサト。さっき記憶から一瞬だけ引っ張り出したクラスメイト。


「久しぶり~!」にへら、と笑いながら、黒川がビールと料理を俺の前に置いた。


「ひ、久しぶり……、なんというか。変わったね」咄嗟に出てきた言葉がそれだった。もう少し気の利いた言葉でもあったろうに。


「よく言われる」黒川がポニーテルの先を右手で弄ぶ。


 こんな偶然、あるだろうか。ふと入った馴染みのない店に、高校の同級生がいるなんてことが。通っていた自称進学校は仙台。ここは銀座。どんな確率だ。


「スグル君も、変わったね」にこりと黒川が笑う。「なんっていうか、大人~って感じ」


 そりゃそうだ。高校を卒業したのは、もう十年も前。内面はどうあれ、見た目すら大人になっていない二十八歳はどうかと思う。


「スグル君は、今何してるの?」


「システムエンジニア、って言ってわかる?」


「SEね。常連さんにもいるからわかるよ。大変なお仕事らしいね」


「忙しい時と忙しくない時とで波があるのは事実だけど、ウチの会社はまだマシな方かな? 残業代が出るから、ホワイトだよ」


「ふーん」黒川がニヤニヤしながら俺を見る。「言うことも大人っぽくなっちゃって」


 彼女はこんな性格だっただろうか。もう一度教室の隅で、文庫本を読み耽る姿を思い出す。もっとこう、大人しく、気の弱い、そんな性格だった記憶だ。


「ところで、俺と話してても良いのか? 仕事中だろ?」


「バーテンダーはお客さんとお話するのもお仕事の一つなのです」黒川がえへんと胸を張った。「ま、バイトなんだけどね」


「バイト?」二十八にもなって、フリーター。特に気にかかることもなかったが、咄嗟に聞き返してしまった。


「うん。本業は役者……のつもり。鳴かず飛ばずだけどね」


「役者……」


「そ、舞台とかもちょこちょこ出るし。あ、こないだテレビにも出たよ。バラエティ番組の再現ドラマだけどね」


「へぇ、そりゃ凄い」


「全然凄くないよ」困ったように黒川が笑った。


「いや、凄いよ」


 心の底からの本音だ。「そう?」黒川が照れたように舌を出した。


 夢を追う。そのことの難しさを俺はよく理解している。



 §



 辛く苦しい受験期間が功を奏し、上手いこと東京の大学に滑り込んだ。学部は人文学部。偏差値としてはそこそこ。立派に高学歴と胸を張っても良いレベルだった。


 将来のことなんて何も考えていなかった。そもそもが、十八歳の時点で「将来の自分」を具体的にイメージしろという方が、無理があるのではないだろうか。そんな人間少数派だ。


 春。両親に誂えてもらったスーツを着込んで、入学式を終え、そのまま俺は流されるままに軽音楽サークルの新入生歓迎会へ参加した。成人してはいなかったが、初めての酒でベロベロに酔っ払ったことだけは覚えている。酔った勢いで、軽音楽サークルに入ることを約束してしまう程度には。


 楽器は未経験だったが、そこまでハイレベルなサークルではなかったため問題はなかった。すぐにバンドを組むことになり、担当はドラムに決まった。ギターやベースは経験者が大勢いたが、ドラムは経験者が皆無だったからだ。


 音楽を聞くのは好きだった。日本のインディーから、洋楽まで、ジャンルを問わず幅広く聞く方だった。だからサークル活動にのめり込むのも必然だったのかもしれない。


 ドラムを叩くのは楽しかった。単位を落とさないギリギリのラインを見極めながら、時間を作った。親の仕送りとバイト代のほとんどをバンド活動に回した。練習の甲斐あってか、いつの間にかドラムの腕はサークルの中で一番と言われるようになった。ここまで熱中できるものには初めてお目にかかった。


 ライブもたくさんやった。最初はコピーやカバー。やがて、自作の曲を演奏するようになり、ホームにしていたライブハウスでは評判のバンドになった。


 何もかもが順調だった。ファンだってそれなりにいた。自分のちっぽけな承認欲求が満たされていく快感が病みつきになった。それが更にバンド活動にのめり込む要因の一つになった。


 そう。「プロになりたい」などと、夢を見る程度には。


 事実、大学二年生の時に作った自主制作の音源は完売したし、最終的にはワンマンでライブハウスを満員にする程度には人気だった。


 このまま、音楽の道を進んでいくのだろう。言葉にはしないが、バンドメンバー皆同じ気持ちだと思っていた。


 大学三年生になり、周囲が就職活動に精を出し始めた時、それが単なる思い込みだったことに気づいた。


「このままバンドを続けよう」と提案する俺に、バンドメンバーの誰もが首を横に振った。彼ら曰く、「今どきバンド一本で食っていける程世間は甘くない」のだそうだ。俺以外のメンバーは高校の頃から音楽活動をしていて、小さいながらもインディーズレーベルに所属していた先輩から「バンドに夢を見るのはやめておけ」と強く言い含められていたらしい。


 何度も口論し、何度も説得した。しかし、他のメンバーの気が変わることはなく、バンドは活動休止。渋々ながら、俺も他の学生よりも少し遅い就職活動を始めた。


 三ヶ月程の就職活動の結果。今勤めている会社から内々定が出た。大きくはないが小さくもないシステム請負会社だ。プログラミングなんてやったことは無いが、同じく内々定を出された他の学生も同じような状況だったので、不安はあったものの、そこまで大きなものではなかった。


 就職活動が終わると、今度は卒業論文と向き合わなければならなかった。ゼミの教授に何度も詰められながらも、八ヶ月程かかって出来の悪い論文ができた。卒業するのにはその程度で十分らしかった。あれよあれよという間に、大学での四年間が終わろうとしていた。


 サークルでは追い出しコンパが開かれ、後輩たちの称賛の言葉を受け流しながら、メンバーと相談した。これからバンドをどうするか、だ。


「社会人になってからも続けよう」そう提案した。他のメンバーも特段異はないらしく、あっさりと首を縦に振った。


 大学を卒業し、入社式を終え、研修期間が過ぎ、実際の業務が始まった。社会人というのは忙しい。毎日へとへとになってアパートに帰る日々が続いた。メンバーとは連絡を取り合ってはいたが、どいつもこいつも俺と違わない状況だった。当然音楽活動をやる余裕なんてなかった。


 目の前の仕事をどうにか捌くので精一杯だった。勿論、バンド活動を諦めたわけではない。数少ない予定が合う日を見つけて、スタジオに入り、練習をした。ライブの予定はないが兎に角しがみついていたかった。


 しかし、時間の流れというのは残酷だ。


 スタジオに集まる頻度は徐々に減っていく。メンバーとの会話も、音楽の話ではなく、仕事の愚痴が中心になっていく。


 極めつけは、ギター担当の異動。申し訳無さそうに「ごめん、俺転勤になった」と報告する彼の顔は今でも忘れられない。転勤先は大阪。気軽に行き来できるような場所ではなかった。


 新しいギターを探すことも検討したが、その頃には俺も含めてそこまでのモチベーションは無かった。当然の帰結としてバンドは解散。


 俺はただのサラリーマンになった。なんてことはない。良くある話だ。


 何者かになりたかった一人の男が、何者にもなれずに、社会に適合していく。ただそれだけの話。


 日々の仕事に、生活に、夢や憧れがすり減っていく確かな感触があった。


 すり減ってすり減って。そして、何もなくなった時。俺は本当の意味で大人になったのかもしれない。まだ自分が大人だという実感はこれっぽっちもないが。


「スグル君?」数分くらいだろうか。ぼんやりとしていた俺に、他の客の酒を作り終えた黒川が戻ってきて声を掛けた。「どうしたの?」


 いつの間にか、最初に頼んだビールは空になっていた。


「なんでもないよ。ところで、普段ウイスキーなんて飲まないんだけれども、おすすめとかってある?」ごまかすように笑う。


「うーん。私のおすすめはこれ」メニューを開いて、黒川がその中の一つを指さす。バランタインというウイスキーらしい。メニューには「十二年」と「十七年」と「三十年」の三つの選択肢があった。「十七年がおすすめかな? ブレンデッドのスコッチなんだけどね。飲みやすいよ」ブレンデッドも、スコッチも、よくわからなかったがバーテンダーのおすすめであれば間違いは無いだろう。


「じゃあ、それで」


「飲み方はどうする?」


「どう飲むのが良いの?」


「おすすめはストレートかな」


「じゃあ、それで」


「はーい」


 カウンター奥の棚からバランタインとやらの瓶を取り出す。銀色の計量カップのようなものを経由して、幅広のワイングラスのようなグラスにそれを注いだ。その後で、縦長のグラスにミネラルウォーターを注ぐ。


「どうぞ」あっという間に俺の前に二つのグラスが置かれた。


 ウイスキーの飲み方はよくわからないが、とりあえず飲んでみる。強い酒精に舌が痺れた。心底渋い顔をしていただろう。


「口に含んで、転がしてから、少しの水で流し込むといいよ」黒川が苦笑いしながら言った。言われるがままに、水を飲む。「どう?」期待に満ちた表情で彼女が俺を見た。


「これは……うん。強いね」


「そりゃ四十度以上あるからね」黒川が少しだけ笑い声をこぼした。「ねぇ」控えめな声。高校の頃の彼女をなんとなく思い出した。


「何?」


「スグル君のお話、聞かせてよ」



 §



 色々と他愛もない話をした。高校卒業後何をしていたのか。仲良くしていた友人と今での連絡を取り合っているのかだとか。


 大学の時にのめり込んだバンドの話もした。黒川は聞き役に徹してくれて、酔いも相まって気持ちよく話すことができた。昔の武勇伝を誇らしげに話す、ちょいワルオヤジみたいな気分になって少しばかり恥ずかしく思ったけれども。


 十年の月日は話しこむのに十分な時間だった。話題は尽きなかった。


 余りにも長い時間が過ぎていたことに気づいたのは、終電の三十分前。「あ、そろそろ閉店だ」と黒川が呟いたことがきっかけだった。


 俺の借りているアパートは都内じゃない。東京都から出て少し離れたベッドタウン。必然的に、終電も少し早めになる。


「いけね。終電。お会計で」


 鞄から財布を取り出す。


「ちょっとまってね」


 黒川がレジの近くまで行き伝票を取ってきた。「お会計は四千三百円、結構飲んだね」そんなことを言ってにへらと笑う。


「カード、使える?」


「使えるよー」


「じゃ、これで」


 年会費無料のよくあるクレジットカードを差し出す。カードを受け取った黒川がレジに行き、数十秒。レシートとカードを纏めて「はい」と差し出した。


「久しぶりに会えて、楽しかったよ」そう言って、席を立つ。「役者、頑張ってね」という言葉も忘れずに。


 鞄とジャケットを持ち、店を出ようとした。その時だった。


「スグル君!」黒川が俺を呼び止めた。振り返る。


「あと十分で上がりなんだけどさ、もう少し話さない?」


 思わぬ提案が彼女から降ってきた。少しばかり考える。


 明日は特に用事があるわけではない。終電を逃しても問題はないだろう。


 十年ぶりに会ったクラスメイト。二度と会うかどうかもわからない。綺麗になった元クラスメイトとの邂逅。男として心躍るシチュエーションではあったが、それを差し引いても普段であれば断っていたと思う。


「いいよ、待ってる」裏腹に出てきた答えは肯定だった。


「ありがと。ちょっと待っててね」嬉しそうに黒川が笑う。「すぐに上がるから」


「わかった。店の外で待ってるよ」そう言ってから店を出る。ドアベルがカラカラと鳴った。


 階段を上がって、雑居ビルの前でスマートフォンを取り出す。終電までは後二十分弱。明日の土曜日が丸々一日潰れそうな予感を感じて、少しだけ後悔する。


 黒川が出てくるまでは十分程だった。


「おまたせ」バーテンダーの制服から私服に着替えた黒川は、やっぱり綺麗だった。「私の住んでるアパート、この近くなんだ。途中のコンビニでお酒買おう」


「え?」少しばかり狼狽える。「適当な店に入って飲むんじゃないのか?」


「このへんだと、終電以降にやってるお店、少ないよ」


「いや、でも」


 別に経験が無いわけではない。一人暮らしの女性の家にお邪魔するのも初めてじゃない。だが、高校の頃の彼女のイメージとはかけ離れた提案になんとなくドギマギした。


「いいからいいから」笑いながら黒川が歩き出す。「私の家、ここから歩いて二十分くらいだから」


 雑居ビルの合間を二人で縫うように歩く。駅とは逆方角に進んでいくので、すれ違う人間のほうが圧倒的に多い。人の流れに逆行するような歩みはどうしても遅々となるし、はぐれそうになる。少し早足で彼女の背中を追いかける。


 不思議と歩いている間、会話は無かった。人混みに紛れないように歩くだけで必死だった。時折黒川がこちらをちらりと振り向く。その横顔が、高校の頃の面影を強く感じさせて懐かしさに駆られる。


 十分程歩いただろうか。ようやく駅へ急ぐ人の群れも少なくなった。


「そこにコンビニあるから、寄ろっか」黒川が立ち止まって振り向いた。既にシャッターが降りている居酒屋や食事処が立ち並ぶ狭い路地の一角に、煌々と光るコンビニエンスストアが鎮座していた。


 自動ドアが開き外国人訛りの「いらっしゃいませ」が店内に響き渡る。黒川がカゴを持って、一直線に酒類コーナーへ向かっていく。その歩みの速さに少しだけ苦笑いした。


「スグル君は何飲む?」


「結構飲みすぎたから……。缶チューハイとかかな。ストロングじゃないやつで」


「じゃ、このへんだね」にこりと笑いながら指さした先には、弱めの缶チューハイ。「私は……。ビールかな?」そう言いながら次々と缶をカゴに入れていく。ひとしきり満足したのか、こちらを見て笑い、レジの方へ向かった。


「黒川。つまみは買わないのか?」


「大丈夫。ウチにたくさんあるから~。強いお酒しか残ってないんだよね」そう言いながらレジの奥に立つ外国人へ「これお願いします」とカゴを渡した。


 バーコードを読み取る電子音が、コンビニのBGMと一緒に規則正しく響き、奇妙なポリリズムとなった。


 会計は三千円とちょっとくらい。黒川が鞄から財布を取り出そうとしたのを、慌てて止める。


「払うよ」


「え? 悪いよ」


「いいからいいから」


 スマートフォンを取り出して、「電子マネーで」と伝える。読み取り部にスマートフォンをかざすと、おなじみの効果音が鳴り、決済が完了した。


「なんか、ごめんね。私から誘ったのに。ありがとう」申し訳無さそうに黒川が笑った。


「気にしないでよ」ぶっきらぼうにそう言って、スマートフォンをポケットにしまい込んだ。


 袋詰されたアルコール類を持ち上げて、二人揃ってコンビニを出る。いつの間にか人はすっかりいなくなっていた。


「私の家、あともう少しだから」そう言って、また黒川がずんずんと歩き出す。


 言う通りで、黒川の家まで二分とかからなかった。雑談をする程の時間も無く到着する。


 少しばかり古めの、アパート。それでも女性の一人暮らしには丁度良い程度のセキュリティは担保されているようだった。


 階段を登り、三つ目の部屋。黒川が鞄から鍵を取り出してドアを開ける。


「どうぞ」


「お邪魔します」


 靴を脱いで、部屋に入る。六畳ワンルーム。申し訳程度のキッチン付き。彼女の収入を予測しそうになって、すぐに辞める。


 部屋は物が少なく殺風景だった。ベッドが一つ。テレビは無い。中央にローテーブルが据え置かれていて、その周りに二つクッションが置いてある。申し訳程度に小さめの本棚が置かれていて、そこにはぎっしりと本が詰まっていた。


「適当に座って。グラス、用意するね」


「お構いなく」


 ローテーブルのクッションに座り込む。程なくして黒川がグラスを二つ手に持ってやってきた。


「はい」手に持ったグラスの一つを差し出される。受け取ると、黒川が俺の缶チューハイを開けて、グラスに注いでくれた。その後で自分のグラスにビールを注いでいく。


「じゃ」


「うん」


「乾杯」


 ぶつかりあったグラスが、チン、と小さく音を鳴らした。


 喉を鳴らしながら、彼女はビールを飲んでいく。


「あー、沁みるう」一杯目を飲み干して、二杯目をグラスに注ぎながら彼女が呟く。


「……酒乱?」


「まさか」黒川が笑う。「ちょっと前まではよく飲んでたんだけどね。どうしても一人だと、飲む気にならなくて。久々に飲むかなぁ」


 あっけらかんと話しているが、突っ込んで聞いてよいものか迷った。そんな俺の顔を見て、黒川が笑った。


「元彼。三ヶ月前に別れたの」


「そうなんだ」気まずさを隠すようにグラスに口をつける。彼女は既に二杯目を飲み干していた。ひと缶開けてしまったようで、ふた缶目を開ける。炭酸の抜ける音が、六畳の部屋に響いた。


「プロポーズ、されたんだ」


「プッ!?」驚いて、口の中に含んだ酒を吹き出すところだった。彼女が声を上げて笑う。


「驚きすぎ」


「ごめん」


 一つため息を吐いて、それから笑った彼女は、髪留めを外した。髪の色以外は、高校の頃のそのままに見えて、思わず目を擦る。


「『役者なんてやめて、結婚しよう』ってさ。馬鹿だよね」そう言って彼女はまたビールに口を付けた。


 その「馬鹿」という言葉が、誰に向けられたものなのかは俺にはわからなかった。だが聞くべきことでもないように思えて口を噤んだ。


「さっきさ。バンドやってたって言ってたよね」ぼそりと黒川が呟いた。いつの間にかその顔からは笑顔が消えていた。


「うん」


「結構本気だった?」


「それなりには」


「なんでやめちゃったの?」


 答えあぐねる。言葉にすると陳腐だ。俺は夢よりも現実を選択した。それだけだ。


「疲れた……のかもしれない」


「ふーん」ぐびりと彼女がビールを煽る。「私、大学には行かないで今の劇団に入ったんだ」


 さっき話し込んだ時にそんな話は聞いていない。「そうなんだ」と当たり障りのない返事をする。


「夢だったの。役者になるのが。高校の頃私、ずっと本読んでたでしょ? 覚えてる?」


「うん。覚えてる」


「物語の主人公になりたかったの。皆が沸き立ったり、元気になったり、泣いてくれたり。そんな物語の主役に」


 その気持ちは。なんとなく理解できる気がした。


「十年経った。スグル君もだけどさ。皆大人になってく。なんだか私だけ取り残されちゃったみたい」黒川が困ったように笑った。「今日スグル君と会って、思い知らされちゃった」


 気づけば、彼女は三缶目のビールに手を付けていた。ビールを次々と流し込みながら、続けられる独白に俺は何も答えられない。


「もともと引っ込み思案だったのも、『こんなんじゃ駄目だ』って頑張って直した。演技してるときにそれは邪魔だから。必死で勉強もしたし、練習もした。寝ても起きても、演技のことばかり考えてる。でも最近辛く感じる時間のほうが長くなってきてさ」


 三缶目も無くなったようで、彼女はそれを手で振って、少し残念そうな顔をした。


「結局物語の主役にはなれそうもない。私には飛び抜けた才能が無い。分かってるんだ。でも今更引き返せない」


 なんとなく声色が泣いているように感じた。彼女の顔をまじまじと見る。涙を流している様子はない。


「なぁに? 私の顔、ジロジロ見て」


「いや、なんでも無いよ」


 無表情だった彼女が少しだけ笑った。


「夢ってさ。辛いよね。どこまでも自分を雁字搦めにする足かせみたい」


 何も返答はできない。俺は答えを持ち合わせてはいない。


 どさり、と音を立てて、黒川は床に寝転んだ。


「もう……辞めようかな」目を右手で覆い隠しながら、彼女がそう言う。


 何故、黒川のこんな言葉を聞いているのか、今この状況がどうにも理解できない。


 でも、一つだけ理解できることがあった。


 役者をしていると言った黒川を俺は、酷く眩しいモノだと感じた。それは俺が夢を諦めた人間だからだ。


 何者かになりたくて、何者にもなれずに、生きていく。「人生はそんなものだ」と、そう割り切ったふりをして。


 彼女は「何者かになる」ことを諦めていなかった。ついさっきまでは、それが素晴らしいことだと思っていた。


 夢や憧れをすり減らした。その残骸が俺だ。どこにでもいる、ただの一人の人間。代えなんていくらでもいる。


 だからこそ、代えの効かないなにかになろうとする黒川を凄いと感じた。


 でも、そうじゃない。彼女も同じく夢や憧れをすり減らしながら生きている。


 いつ無くなってしまうかわからないそれを、大事に抱えて。苦しんで、もがいて。緩やかに終わりへと向かおうとしている。


「あの……さ」


「……なに?」


「俺は辞めたほうが良いとも、続けたほうが良いとも言えない」


「うん」


「夢を追いかけ続けることが、素晴らしいことだなんて、口が裂けても言えない」


「そうだよね」


「でも、さっき役者のことを話していた黒川は、すごい魅力的だと思ったよ」


 これはきっと俺のエゴだ。


 夢を諦めた俺が、彼女には夢を諦めないで欲しいと、自分勝手に願っている。それが成就する保証なんてできないのに。


「……ありがと」


 そう呟く黒川の声は、少しだけ鼻声だった。


「ねぇ」彼女が寝そべったまま、声を上げる。「会社員って、大変?」


「それなりに」普段の業務を思い出す。「何かって言えば頭を下げてばかりだし、次々にタスクが降ってくるし、責任はどんどんと大きくなるし」


「そっかぁ」黒川は寝そべったまま動かない。「バンドは? 辞めちゃったこと、後悔してる?」


「どうだろうね」自嘲気味に笑う。「わかんない、ってのが正しいかな」


「なにそれ」


「後悔する暇も無かったからさ。いつの間にか何も残ってなかったんだ。でも、『もしも続けていたら』って空想に浸ることはあるかも。一人でもあきらめないで続けていたら、って」


「空想の中ではどうなってるの?」


「ロックスターになってるかな?」


 その答えに、黒川が堪えきれず吹き出した。


「なにそれ」


「だってそれぐらいしか思いつかないんだ」なんだか照れくさくなって髪の毛を掻きむしった。「ロックスターになりそこねた人間だからね」


 今度こそ黒川が控えめながら笑い声を上げた。


「ロックスターって、普通ギタリストとかじゃないの?」


「ドラマーのロックスターだってたくさんいるよ」


「そうなんだ」


「そうだよ」



 §



 その後は、二人で他愛もない話をして、気づいたら寝ていた。高校の頃のクラスメイト。女性の部屋に二人きり。


 なにか起こらないかと期待していた自分もいたが、特段なにも起こることは無かった。


 カーテンの隙間から漏れた日の光を浴びて、伸びをしてから、ベッドで未だぐっすりと寝ている彼女に声をかける。


「黒川。俺、帰るよ」


 俺の声に、黒川は「ううん」と唸って、目を擦りながら起き上がった。


「おはよ」


「おはよう」


「もう少しゆっくりしていっても良いよ? 今日は午後から舞台稽古があるくらいだし」


「いや……」彼女の提案に手を振る。「演技のことを考えるのに俺は邪魔だろ?」


 ふふ、と黒川が笑った。


「そうかも」


「それじゃ」


 鞄を持って、脱ぎ捨てたジャケットを拾って。部屋を出ていこうとした。


「あ、スグル君。待って」


「何?」


「あの……その……」


 昨夜の快活な彼女からは考えられない様子だ。どちらかというと高校の頃の彼女のイメージに近い。なんだかもじもじしている。


「……れ、連絡先、教えて?」


 何を言われるのかと思ったら。そんなことか。ポケットからスマートフォンを取り出す。メッセージアプリを立ち上げて、QRコードを表示させ、彼女に差し出した。


「はい」


「あっ、ちょ、ちょっと待ってね」


 黒川が慌てて枕元のスマートフォンを操作して、QRコードを読み取る。「あ、ありがと」そう言って彼女はスマートフォンを返す。


 友達一覧に「ちさと」というアカウントが追加されているのを確認して、スマートフォンをポケットにしまう。


「じゃあ」


「うん。またね」


「また」


 靴を履いて、ドアノブに手をかける。


 そのまま振り返らずに、黒川にギリギリ聞こえる程度の音量で、「未来の大女優の連絡先だからね。大事にするよ」と言った。


 背中から、「うん」と、黒川のか細い声が聞こえた。


 ドアを開ける。日差しが眩しい。暑くなりそうだ。


 帰ったらどうしようか。


 久しぶりに、スタジオに入ってみようかな。


 なんとなくそう思った。

何故か、「僕の心のヤバイやつ」を読んでいたら、この短編が出来上がっていた。

何を言ってるのかわからねーと思うが、おれも何を言ってるのかわからねー


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― 新着の感想 ―
[良い点] すきです。 どくごかん、さわやか。 力作だと感じます。 いいはやしだなぁー。ありがとう。
[一言] 面白かったです。「今更夢を見れるかどうかは別として、また夢を語りあう日々の夢を見た」がオチって感じですかね?
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