元カノと別れて1年記念日
10月16日。
俺・上村竜樹はカレンダーで今日の日付を確認しながら、大きく溜め息を吐いた。
今日は俺の誕生日じゃない。学校でテストや体育祭といった行事があるわけでもない。
世間的には、何ら変哲のないただの平日だ。
でも、俺にとっては「ただの平日」じゃない。去年からの俺にとって、10月16日は一年で最も苦い思い出の残る日付だった。
前述したが世間的には普通の平日なので、今日も今日とて学校がある。高校生である俺も、然り。
俺は制服に着替え、教科書や参考書を鞄の中に詰め込むと、母親に「いってきます」と一声かけてから家を出た。
家を出ると、丁度クラスメイトの伏見凛子が我が家の前を通り過ぎるところだった。
「……おはよう」
「……あぁ、おはよう」
知らない仲でもないし、出会してしまった以上互いに無視するわけにはいかない。
俺たちはその場の成り行きで、一緒に登校することになった。
高校生の男女が二人並んで学校へ向かう。そんな光景を見たら、「え? あの子たち、付き合ってるの?」と考える人間も多いかもしれない。
だから誤解のないよう、先んじて言っておく。俺と凛子は付き合っていない。
その証拠にどんなに距離が近づいても、手を繋ごうとする素振りすら見せなかった。
今の俺たちはクラスメイトだ。それ以上でも、それ以下でもない。
あともう少しで最寄駅に着くというところで、ふと凛子が話しかけてきた。
「あなたって、いつもはもっと遅い時間に家を出ていなかったかしら? どうして今日はこんなに早いの?」
確かに今朝の俺は、いつもより30分早く家を出た。
勿論寝ぼけて時間を間違えたわけでも、気まぐれというわけでもない。ちゃんと理由がある。
しかし……
「別に。深い意味はないよ」
今朝はお前とエンカウントしたくなかったから家を早く出たなんて、そんな理由口が裂けても言えるわけなかった。
明らかに俺が誤魔化したとわかっていながらも、凛子は「ふーん、そう」とそれ以上の追及を控える。
差し詰め、「お前こそ早く登校しているんだよ?」と聞き返されるのを恐れてのことだろう。
そして凛子が早く登校している理由も、恐らく俺と同じだった。
いつもならいざ知らず、今日に限ってはお互いに遭遇したくなかったのだ。
なぜなら――
「ねぇ」
「何だ?」
「今日が何の日か、覚えてる?」
「あぁ、覚えているさ。……俺とお前が別れた日だろ?」
――そう。かつての俺と凛子は、単なるクラスメイトではなかった。誰もが羨むくらいラブラブな恋人同士だった。
だけど……一年前の今日、俺と彼女は別れたのだ。
◇
俺と凛子が出会ったのは、2年生に進級した日だった。
1年の頃はクラスが違ったので赤の他人同然だったけど、同じクラスの隣同士の席になったことで、多少なりとも話すようになったのだ。
「えーと……よろしく」
「こちらこそ、よろしくお願いするわ」
最初はそんなぎこちない二人だったけど、会話を繰り返すうちに次第に打ち解けていき、気付けば良き友人になっていた。
互いの趣味や好きな食べ物など、自分のことを積極的に凛子に話し、また彼女についても知っていく。
驚くことに、俺と彼女の趣味嗜好は非常に似通っていた。
自分とこれ程までに酷似している女性と会ったことなんて、今まで一度もない。だからこそ、俺は彼女に特別な感情を抱き始めていて。
落とした消しゴムを拾おうとして、凛子と手が触れ合った時、ドキッと自身の鼓動が高鳴るのを実感した。
同時に自覚する。「あっ。俺、この人のことが好きなんだ」と。
1ヶ月後、俺は勇気を出して凛子に告白した。
結果はまさかのOK。俺たちは晴れてカップルとなった。
それから約半年間交際を重ねて、二人で沢山の思い出を作り、そして――運命の10月16日、破局した。
別れた原因は、実につまらない口喧嘩だった。
その日の朝、凛子は自身の唇に人差し指を当てながら、俺に尋ねてくる。
「上村くん。今日の私はいつもの私と違うんだけど、どこか違うかわかるかしら?」
質問形式だが、その言葉の中には「彼氏なんだから当然わかるわよね?」といった圧力が含まれていた。
「いつもと違うところ? そうだなぁ……」
しかしながら恥ずかしい話、彼氏という立場にありながら俺は即答出来なかった。
だけどここで「わからない」と白旗を上げるわけにはいかない。そんなの、彼氏としてのプライドが許さない。
俺はじっくり凛子を観察して、昨日までの彼女との差異を見つけようとした。
「……シャンプー変えた?」
「残念、ハズレよ」
「髪の毛切った?」
「切ってないわ」
「わかった! 勝負下着を穿いてきたんだ!」
「何で下着の色と形がわかるのよ? バカじゃないの」
連続の不正解(とセクハラ発言)のせいで、凛子はどんどん不機嫌になっていく。
それからも当てずっぽうを口にしてみるも、終ぞ俺は正解に辿り着くことが出来なかった。
「……で、結局どこか違ったんだよ?」
「唇よ、唇。何か気が付かない?」
どうやら凛子は、口紅をいつもよりほんの少しだけ明るめの色にしたらしい。いや、そんなのわかるかーい。
「恋人とはいえ、細かい変化までわかるわけない」という俺の主張と、「恋人なんだから細かいところまで気が付くのが当然だ」という凛子の主張が衝突する。
たったそれだけの価値観の違いが互いへの不満となり、遂には別れ話にまで発展した。
あれからもう、一年が経つのか。
正直、そんなに時間が経過した感じがしない。
多分それは、別れた後もこうして二人でいる機会がしばしばあるからで。
凛子がクラスメイトという現実に、俺は未だに慣れずにいるのだった。
◇
通勤通学ラッシュということで、電車の中はそれなりに混雑している。俺の凛子は並んで吊革に掴まっていた。
俺は右手で吊革を掴み、凛子は左手で掴まっている。その為電車が揺れる度に、互いの手が触れ合いそうになっていた。
凛子の手が接近すると、俺は恋心を自覚した時のことを思い出す。
そういえばあの時も、消しゴムを拾おうとして手が触れ合ったんだっけ。
想起するなり、俺の鼓動はまたも速く高鳴り始めるのだった。
……惑わされるな。
これは当時の感情が思い起こされているたけてあって、決して恋心を再燃させているわけじゃない。俺は自分に言い聞かせる。
凛子の左手に注目しているから悪いんだ。
そう考えた俺は、彼女の右手に意識を向けた。
すると凛子が、頻りに右手人差し指を唇に当てていることに気が付く。
その動作もまた、見覚えがあった。
この動きは……丁度1年前に、彼女のやっていたものだ。
そしてその時、凛子は確か……
「あれ、凛子? お前、いつもと口紅が違くないか?」
凛子が唇を触っているからそう思うのかもしれないけれど、心なしかいつもより口紅の色が明るい気がする。
「……気付いてくれたのね」
「流石に気付くだろ? 今日、その色の口紅を塗ってきたら」
その口紅は1年前に彼女が塗ってきて、そして俺が変化に見抜けなかったものだ。
「でも、どうしてわざわざその口紅を? いつものやつが切れたわけじゃないだろ?」
「そんなわけないでしょうに。これは……あの日のやり直しをしたいと思って、塗ってみたのよ」
1年前の今日、俺たちはつまらないことで喧嘩をして、別れた。
意地を張らずに素直に謝っていたら、こんなことにはならなかっただろうに。この一年で、果たして何度そんな後悔をしただろうか?
失った時間は、取り戻せない。だけどもし、まだ愛は失っていないとしたら?
取り戻すことは出来ない。でも、やり直すことなら出来る。
そのきっかけは、凛子の方から提示してくれた。
全く。女の子の方から言わせるなんて、情けないな。
だからここから先は、きちんと俺から伝えなければならない。今更だけど、格好付けさせてくれ。
俺は吊革を左手で持ち直す。
空いた右手は、さり気なく凛子に差し出した。
「……」
言葉なんかなくても、俺の言いたいことは凛子に伝わっている。
彼女もまた何も言わずに吊革を逆の手で持ち替えて、俺の手を握った。
伏見凛子。彼女はもう、ただのクラスメイトじゃない。
世界で一番大切な、俺の恋人だ。
10月16日。この日は大好きな恋人と別れた、最悪の日だ。
だけどそれと同時に、大好きな元カノと愛を再確認し合った、最高の日にもなった。