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なんでもアリの異世界エトセトラ  作者: 大福満代
第一章
135/247

第三十一話 異変 2

「楽しかったわぁ。また、みんなで集まりましょうねっ」

 遅めの夕方から始まった宴は、夜中過ぎまで盛り上がった後にお開きになった。

 店の外で、賑やかになり過ぎないように気を付けながら、俺たちはそれぞれ別れの挨拶を始めた。

「うむ!また次回も誘ってくれ」

「また、必ず会おうね」

「明日、店にケバブを食べに行ってもいいか?」

「もちろんよ!」

「いつ見学に来る?」

「そのうちってことで……」

「またな」

 別れを惜しんで握手をし、手を振って別れを告げる。魔王はまた、いつの間にか消えていた。サナさん、迎えに来れたのかな。のされたみたいだったけど。

 旅という非日常はこれで終わった。また明日から、日常が始まる。帰って行くみんなを手を振りつつ見送り、その背中が見えなくなった頃だった。突然、ドン、と背中に衝撃がきた。

 え?!

 何が起きたか分からないまま、そのまま吹っ飛ばされて転がっていく。酒も入っていたせいか、受け身を取ることもできず、無様な格好で地面に転がる。

「カツミ!」

 アスカさんが叫び、誰かの気配がした。

「イチカ」

 聞いたことがある声が響いた。久しぶりに聞いたその声は、先ほど心配したばかりの相手のモノだった。

 イチカ?なんで急にイチカ?

 この場にいないはずの声が、イチカを呼ぶ違和感に眉を顰める。それと同時に、影が落ちた。ゆらゆらと、篝火の動きに連動して、ゆらぐ影。反射的に顔を上げる。

 さっきみんなと帰って行ったはずのイチカが、いつの間にか俺の目の前にナイフを持って立っていた。いつもは体の色と相まって目立たない目が、赤く光っている。

 イチカが持っているナイフがギラリと、路地の篝火に照らされて不気味に光る。その切っ先が俺の方へ躊躇なく向かってきたとき。

 眩い光が俺の腕から放たれた。

 一瞬だけれども強いその光は、目くらましになったらしい。少しだけ、イチカの動きが鈍った。その隙をついて、見慣れたタンクトップが視界をふさいだ。

「アスカさん!!!!!!」

 ミヤの血を吐くような悲鳴がした。ドサリ、とアスカさんの体が俺にのしかかってくる。

「きゃあああああああああああああ!」

 騒ぎを聞きつけた数人が戻ってきたらしい。甲高い悲鳴が上がり、こちらに走ってくる足音が聞こえる。

 視線を上げると、胸を押さえて転がりまわっているイチカが目に入った。イチカのすぐ側に、血が着いたナイフが転がっている。その向こうでは。

「ミヤ!!ダメだ!!」

 ミヤから黒い渦が押し出されるように出てくるところだった。叫んだ声と一緒に、俺から白いモヤが出る。

 ミヤをその白いモヤが覆い、その間にアスカさんを抱き起す。

「アスカさん」

 抱き起そうとした。その手がズルリ、と何かで滑った。手を見る。なにかで濡れている。

 血だ。大量の。

「うわああああああ!!アスカさん!アスカさん!」

 誰の声だ?!……俺、か?

 自分で上げた喚き声を遅れて認識した頭の横を、暗器が飛んだ。進行方向には白いモヤから姿を現したミヤと。

「サナさん!!」

 さっきは声だけで姿は確認できなかったサナさんが、立っていた。

 ニヤリと、いつもの涼し気な顔とは全く違う、邪悪な顔で笑うサナさん。気を失いかけているミヤを掴んで肩に担ごうとしている。

「ミヤ!!」

 サナさんがミヤに触れるかどうかのタイミングで、ミヤの腕から放たれた光が体を覆った。

「邪魔ですね」

 眉間に皺を寄せ、うっとうしそうにサナさんが手を払うと、ピシリ、と音がして、千切れたミヤのブレスレットが地面に落ちた。

 躊躇なくミヤを担ぎ上げる。サラリ、とその髪の毛が揺れる。

「アナタも行きますよ」

 近づいてきたサナさんを阻むように、ロムと警備隊の二人の背中が俺の前に立ちはだかるが、一撃で吹っ飛ばされる。

「ロム!」

 吹っ飛んだロムをかばって、イノセが一緒に吹っ飛ばされる。素早く体勢を立て直したアルスナーが腰の剣を振るったが、あっけなく躱されて、次の一撃で吹っ飛ばされた。

「半端者が私にかなうわけがないでしょう」

 涼しい顔で言ったサナさんが俺に手を伸ばした時。

「サナ!!そこまでだ!!」

 声が響いて、さっき帰ったはずの魔王が現れた。

「魔王様」

「そこまでだ。ミヤ君を離して下がれ」

「仕方がないですね。今日はここまでです」

 そう言ってミヤを担いだまま、サナさんは宙に浮き、思い出したように振り向いた。

「忘れものです」

 そう言うと、俺たちのそばまで来ていたバリスを蹴り飛ばした。ふいの蹴りだったけれど、バリスはギリギリで受けた。けれど、勢いに負けて何歩か下がる。

「それでは」

 担がれて、すぐ側にあるミヤの腕に手を伸ばすが、サラリと身をかわしたサナさんの肩の辺りをかすっただけだった。そして、サナさんはミヤごと宙に消えた。

「ミヤああああああああああ!!」

「アスカさん!!しっかり!!」

 いつの間にか、マリーが自分の服を切り裂いて、アスカさんの止血をし始めていた。胸の辺りから大量の血が流れ、タンクトップに大きなシミを作っている。

「ナオ!!警邏で回っている警備隊とヒーラー呼んで!!すぐ!!」

「分かりました!!」

 言うなり、ナオはとんでもない大声を出しながら走って行った。

「アスカちゃん!!アスカちゃん!!」

 イッちゃんさんが、地面に横たえたアスカさんの隣にうずくまる。

 騒ぎを聞きつけて近くまで来ていたのか、それともナオの呼ぶ声に反応したのか。意外なまでに早く、警邏の警備隊とヒーラーが現場に着いた。

「こちらに!!早く!!ヒーラー!!」

 マリーが必死に止血をしながら叫ぶ。アスカさんに走り寄ったヒーラーが両手から光を出した。

「ぐああああああああっ!!!!」

 そのとき、胸を押さえて苦しんでいたイチカが仰向けになった。

「イチカ!!」

 駆け寄って抱き起すが、意識はほとんどない。苦しんでもがいているだけだ。目は、もう赤くなかった。

「ワシに渡せ!!」

「触るな!」

 アンタが黒幕じゃないのか!!

「早くしろ!!これ以上魔力が回り切ったら、彼の命がないぞ!!」

 そう言われ、反射的に魔王にイチカを任せる。もう、魔王を信じるしかなかった。人間の祭りが楽しいと、好きだと言って、四天王と喧嘩してでも祭りに来て、俺たちとバカな話をしながら笑っていた魔王を。

 魔王がイチカを抱き起こし、手をかざす。フワリ、と何かが魔王に移動して、叫んでいたイチカの呼吸が落ち着いた。

 背後から、ナオの歌声が聞こえて来た。アスカさんにナオの異能は効かないけれど、他の人には効く。怪我人はアスカさんだけではない。

 振り向くと、血だまりの中でアスカさんが身じろぎしたのが見えた。

「アスカさん!!」

「……………。カツミ。情けな、い顔し、てないで、しっ、かりな、さい」

 切れ切れにアスカさんが言葉を紡ぐ。いつもは張りのある声が、弱々しくて聞き取るのがやっとだ。

「ミヤ、た……んだわ、よ。……イッちゃん、だ、いすき、よ」

 絞り出すようにそう言って、アスカさんは目を閉じた。

「アスカさん!!」

「アスカちゃん!!アスカちゃん?!」

 アスカさんを揺すろうとしたイッちゃんさんが、マリーに止められる。

「動かしてはいけません!息はあります。急所からナイフが逸れていたのが幸いしました。ですが、大量の出血をしている。ヒーラーのおかげで傷口は塞がりましたが、危険な状況です。すぐに治療院に運びます。イノセ!」

「おう」

「動けるな?治療院からヒーラーを数人、呼んできてくれ。厳重に運ぶ」

「分かった」

 ロムをかばって壁に打ち付けられたイノセが、ヨロヨロとした足取りで立ち上がった。アルスナーも胸を押さえながら立ち上がる。サナさんの魔力の直撃を食らったロムも、荒い息のまま身を起こす。腕のブレスレットが、ほんの少し輝いているのが見えた。

「まて。イチカ君も一命は取り留めた。意識はいつ戻るか分からん。一緒に運んでくれ」

「分かりました」

「入れ込まれていた魔力は全て出した。後は、彼次第だ」

「はい」

「魔王様!!」

 今度は誰だよ?もう、十分だよ!!なんでこんなことが起きてるんだよ!!

 振り向くと立っていたのは、オーナさんと。

「ルオンドさん?」

「魔王様。申し訳ありません。我が娘のルルナがサナ殿にくだりました」

「そうか。サナを確認してきてくれ」

「かしこまりました」

 オーナさんが掻き消える。魔王がその場にいた全員を見渡した。

「怪我人を運んだら、話し合いが必要だな」

 その場にいる誰もが、想像もしていなかった展開に呆然としていた。だって、そうだろう?信じられるわけがない。ほんの数分前まで、みんなで笑っていたのに。

 宙に消えたミヤはいつまで待っても、戻って来なかった。エルフにもらったブレスレットが、無残にちぎれて地面に落ちているのを見つめる。すぐ側には、イチカへのお土産の砂時計が転がっていた。

 あまりにも一瞬のうちに起きた出来事に、誰もが言葉を失って、その場に立ち尽くしたのだった。


 重々しい空気が天晴れに漂う。後片付けが終わったガランとした店内に、各々座る。さっきまでとは打って変わった状況に、沈黙が重たい。

 アスカさんとイチカは、呼ばれてきた警備隊と治療院の人たちに運ばれていった。その場で現場検証が行われたが、一緒にいたアルスナー達がほとんど引き受けてくれ、俺たちは簡単なやりとりで済んだ。

 血だまりは警備隊が片付けた。二人は白い光の膜のようなもので覆われて運ばれていったけれど、かける言葉も見つからず、ただただ、見送ることしかできなかった。

 マリーには、しばらくは面会謝絶になる、とだけ言われた。

 ………二人とも、目を覚ましてくれれば。

 吹っ飛ばされた警備隊の二人とロム、蹴りを食らったバリスはナオのヒーリングである程度回復し、治療院にまでは行かなかった。

 ものの五分もないような時間だったのに、凝縮された、濃すぎるほど濃い、目まぐるしい五分弱だった。

 オーナさんはまだ戻っていない。ルオンドさんは、四天王の様子を見てくると言っていなくなった。ルオンドさんは人間じゃなかったのだろうか。俺たちは騙されていたのか?いつから?誰に?

 店ではしゃいでいたミヤの姿と、アスカさんの血まみれの姿が重なる。ミヤは、ひどい目にあっていないだろうか。アスカさんは。イチカは。目を、さま………!!!!

 俺の、せいで。

 急激に押し寄せてきた激情を受け止めきれず、拳を振り下ろす。俺のせいだ。俺のせいでアスカさんはあんなことになったんだ。俺を庇ったから。

「カツミ君、止めなさい。血が出ている」

 感情のままに拳を振り下ろす俺を止めに入ったのは、魔王だった。右手を見る。無意識に何度もテーブルを殴っていた拳が変色して、血がにじんでいた。

 魔王の手を振り払う。そこへ聞きなれた扉の音がした。

 カランコロン。

 視線をやるとオーナさんだった。

「魔王様。サナ様は自分の城に強固な結界を築いておられます。あの結界は、私一人では破れません」

「そうか。そもそもサナは攻撃よりも守りが強いからな。全てを賭けて張った結界なら、破ることは難しいだろう」

「はい。さらに、ルルナ様の魔力を加えて、複雑な結界になっております」

「そうか」

「それと、ルオンド様から伝言でございます。他のお三方の四天王については、身動きが取れないようにしておくとのことです」

「分かった」

「ですので、この場には戻れないということでございました」

「うむ」

「アンタたちが企んだのか?いつから企んでたんだ?」

「……ワシの部下がすまないと言うのは簡単だが、そんなことは言わないぞ。ワシではない。今の段階では、サナが単独で行ったことだ」

「どうして都合よく戻ってきたんだよ?」

「しばらく前から、サナの動きに違和感があってな。一度帰った後に、念の為に戻ってきたのだ」

「いつからだよ?!」

「一年ちょっと前からだ」

 一年ちょっと前?!

「ジンが襲われた辺りからか?!」

「そうだ。あの時ワシ、ここにいただろう。現場に行ったら、魔力の残滓があった。魔族が関わっていると判断して、サナに調査をさせたが、不明だったと報告があってな」

 ………ミヤがなんか変だと言っていた、サナさんが店に来たときだろうか。アレは、サナさんが調査に来た後だったのか。魔王と人間とは交流させたくないようなことを話していたんだ。

 あの時ミヤ、ものすごく違和感があるって不思議がっていたんだった。

「ジンが襲われたのは、アンタと交流が深まっていたせいですか」

「恐らく、それもある。が、布石だろう。君たち二人をさらうチャンスを狙っていたのだろう」

「こちらに来た異世界人をさらってまでですか?」

 ジンを襲ったあの人、サナさんにあんな姿にされたってことだよな?

「違う、と、思う」

 俺の剣幕に誰もが口をつぐんでいたが、そこで話に割って入ってきたのはコウジだった。声が硬い。

「俺、あのサナさんに異世界人を頼んだことがある。偶然、村の近くで、来たばかりの人と会ったんだ。ナナリと三人で町へ向かっていたんだけど、途中でサナさんに会って。連れて行ってくれるって言うから、任せたんだ。四天王だっていうし。……………あの人はちゃんと登録されているもんだとばっかり思っていた。その人だったとしたら、サナさんが攫ったんじゃ、ない」

 途中から、硬い手で顔を覆ってコウジが言う。コウジがサナさんにお願いしたその人が、役所に登録されずに、そのまま利用されたってことか?結果的には、サナさんが攫ったことには違いない。けれども。

 顔を覆ったままのコウジに、呆然とする。そんな。だって。良かれと思ってそうしたんだろうに。

「イチカ君も、サナに利用されたんだ。暗示がかけられていた。暗示の発動で、彼に注がれていたサナの魔力が作動するようになっていたんだろうな。サナは、その魔力の気配を悟られないように、出がけにワシと騒動を起こしたのだろう。ワシの魔力の調子がイマイチなことを利用して」

 一年前、イチカが予定よりも遅れて、祭りが終わってから町に着いたことを思い出す。

「けど、イチカは、アルスナーさんが魔力の残滓の確認してた」

「悪いが彼はサナよりも魔力が弱いだろう。察知できなかったのだろうな。それに、サナは魔力の気配を消したりするのは得意だ。同等か、それ以上の魔力がないと察知はできん」

 そんな。

「祭りの日にジンを襲った人が城門で見つけられたからって、俺たちをさらうのに都合がよくなりますか?」

「なるだろう。実際、君たちは旅に出た。一座が足止めされている間に話が決まっただろう?」

「偶然です」

「それも一つの流れだ」

 そんな。だって。

「なら、どうして俺たちを旅の道中でさらわなかったんですか」

「ワシが、チョコチョコ顔出しとったからな。急にさらわれたら、すぐバレる」

 え。魔王が俺たちに定期的にまとわりついてたのって、そういう意味もあったのか? 

 ……頭が混乱して、全く話の整理がつかない。

「ルオンドさん。ルオンドさんは、人間じゃなかったんですか?」

 ルルナだって、ルオンドさんは人間だって言っていたじゃないか。

「ワシの隠密みたいなもんだ。なければいいと思ってはいたが、今回のように四天王の裏切りなんかの為に備えて、人間のフリをして長い間、生活していたんだ」

「どうして四天王にバレなかったんですか」

「ルオンドが実質、ワシの次に魔力が強いからだな。それに、ワシもそうだが、人間のフリをしている間は魔力には蓋をしている」

 嘘だ……!こんなこと……!!

 現実を受け止めきれずに逸らした視界の隅に、警備隊が細工をしてくれた石が目に入った。

「なんでこれ、反応しなかったんだろう」

 天晴れで異常があったら、反応するようにできてたんじゃなかったのか。

 ボンヤリと呟くと、ツタが遠慮がちに口を開いた。

「店の中じゃなくて外で起きたことだったから、反応しなかったんだな」

 そうか。身に着けてたわけじゃないし、事が起きたのは店の外だった。なら、反応なんて、しない、か。

 思考回路がゴチャ混ぜになって全然、状況が整理できない。俺が黙り込むと、再びその場に沈黙が訪れた。

 そのままの時間がどれくらい過ぎたのか。口を開いたのはジンだった。

「ウオマさんは、魔王だったんですか?」

 ジンが真っ直ぐな目で魔王を見て言った。

「うむ。人間のフリをしていて、すまなかった」

「そうですか」

 また、シン、と沈黙がおりた。

「俺、ウオマさんを信じます」

 突然、ジンがキッパリとそう言った。その静かな声も表情も、いつものジンだった。

「なので、今日はこの後のことを決めて、解散しましょう。誰もが混乱している。無意味な争いが起きる可能性があります。それは必要のないことです。ウオマさん。また明日、ここに来ていただけますか?」

「うむ」

「約束ですよ」

「分かった。必ず。ワシはこの後、他の四天王のところへ行ってくる。オーナ」

「はい」

「行くぞ」

「かしこまりました」

 そう言うと二人はフッと掻き消えた。

 視線が床に落ちる。握りしめた拳が行き場のない怒りを持て余して何度も宙に浮く。そのたびに、血が滲んだ拳が痛んだ。

 そんなことをしているうちに、気が付くと、みんないなくなっていた。人気がなくなった店内で、ジンとロムが俺の側に静かに座っている。

「二人は戻らないのか?」

「一緒にいるよ」

「俺も」

「いいよ。ミヤがいないときに異能が発動したら、ヒーリングが効かないんだぞ」

「そしたら、口にケバブを突っ込んでくれたらいいよ」

「俺は諦めるからいい」

 なんだよ。なんでなんだよ。

 一気に涙が盛り上がってくる。

「どうしてこんなことになったんだ。なんでイチカが利用されなきゃいけなかったんだ。どうしてアスカさんが刺されなきゃいけなかったんだ。狙われたのは、俺だったのに」

 悲鳴を上げるように、アスカさんの名前を呼びながらすがりつこうとしたイッちゃんさんが脳裏に焼き付いている。

 下を向いていたせいで、ポタポタポタと涙が床にシミを作り始めた。

「ジンも、ケガなんてする必要なかったんだ」

「俺はそうでもないよ。だって、ウオマさんと親交を深めていたのが気に食わなかったんだろう?サナさん」

「でも、魔王は隠していたから、ジンは正体は知らなかっただろう?それに、俺たちと関わらなければ、狙われたりすることもなかったかもしれない」

「だからどうしたの?他の誰かが犠牲になってたのかもしれないよ」

 ジンの言葉にハッとする。

「幸い俺は、こうして元気にしてるよ。俺のことはもういいんだ」

 そんなわけない。結構な大怪我だった。それに、人生をかけるほど情熱を傾けているケバブの仕事が、二日もできなかったんだ。

 けれど、何て言ったらいいのか分からなくて、垂れてきた鼻水をすする。涙と鼻水でグシャグシャだけれど、どちらも止まる気配はなかった。

「俺にケガをさせた本当の犯人も分かったことだし、これからだよ」

 全然これからだなんて思えない。アスカさんとイチカは意識不明だし、ミヤはさらわれてしまった。

「カツミ。お前にそんな風になって欲しくて、アスカさんはお前を庇ったわけじゃないと思うぞ」

 それまで黙っていたロムが口を開いた。

「ミヤを頼むって言っていただろう。情けない顔すんな、しっかりしろ、って」

 グゥ、と喉の奥で音が鳴った。堪えた嗚咽が行き場を失う。

「そんなに自分を責めるな。お前が悪いんじゃない。お前たちを狙ったヤツが悪いんだ」 

 静かに話すロムを見て思い出す。あまりにも動転していて失念していた。あのとき、ロムはすぐに駆け付けてきて、立ちはだかってくれたんだ。護衛の仕事はもう終わってたのに。

「ロム、あの時、庇ってくれて、ありがとう」

 嗚咽の合間になんとかひねり出す。

「おう」

「ジンも……、ありがとう」

「うん。さあ、今日はもう寝よう。カツミ君は自分の部屋で寝て。俺たちは店の椅子で寝るから」

「でも」

「大丈夫だよ。野宿のことを考えたら、屋根も壁もあるから」

「カツミ。二階に上がる前に、顔拭けよ。グチャグチャだぞ」

 ロムの言葉に頷く。二人と話している間に、涙と鼻水は止まっていた。

「もうすぐ朝だ」

 夜明け前の暗闇を窓越しに眺めながら、ロムが言った。

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