プロローグ 第一話 始まり1
~プロローグ~
「っマジかよっ。」
目の前で無情にも閉まったシャッターに、思わずその場にへたり込む。
今日こそ、今日こそ、終電に間に合ったと思ったのに。
胸ポケットのスマホをへたり込んだまま引っ張り出す。時間を確認すると、ギリで間に合っていなかった。
ひどい頭痛のせいで、グラリと視界が歪む。
勤務先である会社は通常運転がブラックで、今時珍しいのか、意外とそうでもないのか、パワハラなんて当たり前、ハラスメントアリアリの巣窟だ。労働基準法なんてどこのお伽噺の世界やら、定時で帰ったことなど、ほぼない。
終電に間に合うか間に合わないかの日々が続くことも多い。間に合わなかった場合の、かさんでいくタクシー代や仮眠を取る為のネカフェ代は経費になるわけもなく。
会社に泊まるか、歩いて帰るか。
ガツンガツンと殴られているような頭痛の中では、まともな思考が働くわけがない。とりあえず立ち上がって、駅から少しずつ離れる。駅から坂を上り、三叉路の右側の通りを歩いて行くと、公園があったはずだ。
そこで寝よう。
幸い今日は暖かいし、初夏だし。ズルズルと重たい体を引きずって行くと、目的地の公園がなにやら騒がしい。マジかよ、なんだよ。
遠目に見える感じでは、若い兄ちゃんが四、五人で花火をやっているようだ。嘘だろ。深夜だぞ。
賑やかではあるが、付近は墓場で住宅は少し離れている。それほど迷惑はかからないのか。火の後始末だけは、しっかりしてくれよ。
ずいぶん盛り上がっているみたいだけど、俺がベンチで寝た所で特に問題もないだろ。公園は誰が利用してもいい場所だ。それに、他の場所を探すには、体力的にキツイ。
そう思って、そのまま向かう。すると、花火をしていた中の一人の兄ちゃんが、慌ててこちらに走ってくるのが見えた。何か叫んでいる。
ガツンガツンと大きくなるばかりの頭痛が酷すぎて、よく聞こえない。もしかして、邪魔だとか言ってるんかな。
と思った瞬間、体が大きく傾いたのが分かった。
うわ、これ転ぶわ、ダッセェ……。
体が地面に落下していくのを止められない。
重たい体がゆっくりとスローモーションのように地面に傾いていくのを実感した次の瞬間、車のエンジン音とヘッドライトの光が急に耳と視界に入ってきた。
マジか。
誰かの声が聞こえた気がして、そちらに顔を向けると、さっきの兄ちゃんが手を伸ばして、俺を助けようとしていた。
「誰だ、お前」
そこで、思考も視界も全部途切れた。
第一話 始まり1
なんか、ポカポカするな。フワフワもする。昨日、終電に間に合ったんだっけ。どうだっけ。つか、布団で寝たの、いつぶりだろう。アパートに帰り着いても床で寝落ちばっかでな。やっぱり布団は気持ちいいな。
会社の床も公園のベンチもネカフェの椅子も、みんな硬くてな。体が痛かった。ああ俺、もう絶対、今度こそ会社やめよう。
まどろみながら、ツラツラツラとくだらない事を考える。
つか、眩しいな。俺昨日、カーテン閉め忘れたのか。っーか、この音、何の音だ?水……水じゃねぇ?まさか風呂?!水出しっぱなし?!いや、そういえば、アパートのカーテンって閉めっぱなしじゃない?!明るいうちに帰ったことなんて、ほぼないし。休日出勤も多かったし、いたとしても爆睡してたし。てことは。水の音といい、どこだ、ここは?!
焦ってはいるものの、なかなか開かない瞼を叱咤激励し、なんとかこじ開ける。真っ先に目に飛び込んで来たのは。
「葉っぱ?」
デカイ葉っぱ。俺がすっぽり入れるくらいの。茎の部分?をビーチパラソルの軸みたいにして、立ててある。ゆっくりと視界をズラしてみる。背の低い草原と、その向こうに林、その手前に川が流れている。
夢か?目が覚めたばかりなのに?
日の光が眩しい。すごく。昼くらいの日差しだろうか。その眩しさで、昨日最後に見たのが車のヘッドライトだったことを思い出す。
ということは。
ここはどう見ても病院じゃない。体もどうもなってない。ってことは俺。
一気に心がシンと冷たくなる。
だけど、こんなこととしてても状況は変わらない。とりあえず体が動くか試してみる。手足に力を入れて、更に腹にグッと力を入れる。
起き上がれた。
腕を伸ばしたり足を持ち上げたりしてみる。スーツのままの自分に気がつき、なんかちょっと笑えてくる。
立ち上がってみると、俺が転がっていたのは布を敷いた藁だった。
何でここにだけ不自然に藁。しかも布。
ツルリとして光沢のあるその布は、初めて見る材質のような気がする。布、詳しくないけど。
で、ここは一体どこなんだろう?あの世ってヤツか?誰かいないんだろうか。
布から目を離してキョロキョロする。
柔らかくて暖かな日差し、そよそよと草を揺するそよ風。
大きな葉っぱの下を出ると、スーツの俺にはちょっと汗ばむくらいの陽気だけど、でも、とても気持ちのいい天気だ。息を大きく吸い込むと、草のいい香りがする。
森の手前の小川がキラキラ光っている。俺が寝ていたところは、すごくゆるやかーな斜面になっており、家族連れがピクニックでもしそうな雰囲気だ。
これは、本格的に。
なんとなく心の中に確信を持つ。
耳をすますと、川のせせらぎに混ざって、話し声のようなものがかすかに聞こえてくる気がする。音のする方に目を凝らしてみるが、何も見えない。
どうしたらいいかも分らないし、とりあえず、歩いて行ってみるか。
草原の中は目印がなくて分からなくなりそうだ。川沿いを歩いて行ってみよう。
それにしても、喉が渇いた。どうせ、なにもかもよく分らないんだ。川の水、飲んじゃえ。
なんとなく浮かれた気分にもなってきて、川に向かったのだった。
ウッソだろ。
川の水はものすごく澄んでいた。おっかなびっくり手を入れてみると、冷たくて、汗ばんだ体に気持ちいい。
思わず服を脱いで飛び込みたくなったが、そこは我慢。
顔を洗って、手の平で水をすくって飲む。美味い。なんとなく甘みもある。子どもの頃、田舎のじいちゃんの家で飲んだ井戸水を思い出す。
いや、ウッソだろ、はそこじゃなくて。
水を飲んでから、斜面の上りの方に歩き出したのはいいものの、いつまで経っても、誰にも会わない。延々と、林と川と草原。ここ、遮蔽物がないせいで、音を遮る物がなくて、遠くからの声がメッチャ届くんだな。
やっと人影らしきものを確認できたのは、二十分くらい歩いてからだった。
その頃にはもう、汗だく。ネクタイは緩め、上着は脱ぎ、靴下も皮靴も手に持って、ゼエハアゼエハアと息を切らしていた。
くっそ、体力の衰えがひどい。
というか、あの世のはずなのに、何で息が切れるんだ?
一旦休憩することにして水を飲み、川に足をつける。
「あ゛―――――」
思わずオッサンくさい声が出る。
「気持ちいい。」
ヒンヤリした水の流れが、すこぶる気持ちがいい。汗をかいていたせいか、足をひたすとき、思ったよりもずっと冷たくて、ビックリした。
キラキラ光る水面を見るともなく見ながら、大きく息をつく。
あ。魚。
スイーッと水の中を魚が横切っていった。いるんだ、魚。意外。
ここまで歩いてきたが、五感はきちんと働いている。確かに感じる心地いい自然。
埃っぽい都会の空気と、ジメジメした会社のフロアやアパートとは、天と地ほども違う。それを、ハッキリと感じる。
いつぶりか分らないほどの自然を満喫しながら、五感があることに違和感を覚えつつ、ぼんやりする。
ほんとうに、ほんとうに、気持ちいい。生きてるって感じがする。……そんなわけないのに。
知らず知らずに視線が下がる。
会社、どうなってんだろう……。
やたらうるさい課長の声がキンキンと聞こえ始める。
“はぁ?俺、聞いてないし。知らないから、やる必要もないよね”
確かに報告しただろうが。ボケ始めたんか。
“使えねぇなぁ。ったくよ。”
使えないってなんだよ。なんなんだよ。
苦しい。息が。息ができない……。
「ちょっ……、大丈夫っすか?!」
耳元で大きな声で呼びかけられ、強く肩を揺すられる。すると、息がすぅっと通って、眩しい日の光が戻ってきた。
「大丈夫っすか?!」
何度か大きく肩で息をして、口の中に溜まっていたツバを飲み込む。いつの間にか握りしめていた手は深く手の平に爪痕を残していた。
息も出来るようになり、知っている言語が耳に入ってきたことに安心を覚えて、視線を声の主に移す。
ありがとうと言おうとして。
「誰だお前」
口から滑り落ちた。
「えー。ツレないっすねぇ~」
ニコニコと軽い口調で、その兄ちゃんは言った。
軽い口調でのその返事を聞いて、とんでもなく失礼なことをしてしまったと、急に恥ずかしくなる。
「ごめん」
足を川から上げ、向き直って頭を下げる。
「いやいや、いんすよー。気にしないでくださいっす」
腹を立てた様子もなく、ニコニコと言う。
口から出たセリフには訳がある。そう、目の前にいたのは、車のヘッドライトに照らされて、俺を助けようと手を伸ばしていた兄ちゃんだったのだ。
つまり、俺が昨日最後に見た顔だ。そして、そのときのセリフがさっきのだ。だからといって、誰だお前、はない。絶対に。
「ほんとに、ごめん」
もう一度謝り、顔を上げる。
「俺、遠くに見えた人影と声を目指してこっちに来たんだけど……あれは、君?」
「あ、多分、そっす。この上の方にいたんすけど、歩いてくるっぽい人が見えたんで、来てみたんす」
そうか。
「俺、三上克己です」
「田中美夜っす~」
よろしく、と頭を下げ合う。なんと言っても、よく分らない場所に来た者同士だ。同じ場所に、最後にいたのも分かってるし。
「カツミって呼んでくれ」
「じゃあ、俺はミヤでお願いします」
少々照れくさいが、自己紹介は手っ取り早くしてしまった方がいい。それに、俺にはもう、名刺なんて必要ない。ただのカツミでいいんだ。
元の世界に戻れるのかも分からないし。
「ところで、ここどこか分かる?」
「や、分かんねっす」
力強いな。
分らないのに、こんなに明るく笑っていられるんだな。つられて自分の頬も緩むのが分かる。
「分かんねっすけど、カツミさんなかなか起きなかったんで、通りがかった人に、藁とか布とか、貸してもらったっす!」
人?!
「他にも人いんの?!」
「あ、いるっすよ~。俺、その人とあっちで釣りしてたんす。とりあえず、そっちに行きます?」
「行く行く!!」
なんだよ、人がいるのか。嬉しくて、足取りも軽く、俺はミヤの後ろに着いて行った。




