④ 毎日が憂鬱だった男の話
今日も、綺麗だなぁ。
青く澄んだ昼の空に、白いふわふわとした雲が緩やかに流れていく。
屋上から見るその光景に対し、ただ純粋にそんなことを思った。
現実がどんなに残酷でも、辛くても、青空は変わらず綺麗だ。
一人だけ別世界に行ってしまったのではないかと錯覚してしまいそうだ。
手を伸ばせば、あの雲をつかめるのではないか、なんて呑気な事を考えていると、
キーンコーン カーンコーン
授業の始まりを告げるチャイムが鳴る。
あぁ、やっぱり現実は無情だ。
僕に嫌がらせをしたり、パシったり、暴力を振るってくる男共、無視したり白い目で見てはコソコソ陰口を言ってくる女共、僕の相談にも乗ってくれず、ただ頭ごなしに怒鳴るだけの教師。
そんな奴らのいる場所に戻れと、無機質に響く大きな音が僕にしつこく言ってくる。
うるさいうるさい。
あいつらのところに戻って、大人しく授業を受けるなんてもうごめんだ。
授業のときだって、よってたかって教師も生徒も僕に嫌がらせしてくるんだ。
家族だって僕の話は聞かずに「自分でなんとかしろ」の一点張り。
僕に味方なんていないんだ。
チャイムの音を無視して、青空を眺め続ける。
あぁ、この綺麗な景色もこれで見納めか…。
僕にとっての唯一の癒しはこの空だった。
今日は晴れててよかったよ、ありがとう。
前を向いて、一直線にフェンスの方に歩くと、器用に登り始める。
そして反対側に回り、ゆっくり降りる。
ここは、フェンスの外側だ。
強い風が吹けば、それに押されて僕は真っ逆さまに落ちていくだろう。
そうしてくれた方が僕にとっては楽だけどなぁ。
そっと目を閉じ、
「さよなら」
と、小さくつぶやくと、僕は右足を前に出し、屋上から飛び降りた…
…はずだった。
ボンッと両肩を前から押されて、背中がフェンスにぶつかった。
「えっ…?」
不思議に思い、目を開けてみると、目の前には小さい女の子向けのアニメでよく見るような衣装を身に纏った、中学生くらいの黒髪の女の子が宙に浮いていた。
僕の肩を押したのは多分この子だ。
それ以外に考えられない。
それにしても…これは、現実か?
夢でも見てるのか?
開いた口が塞がらないまま固まっている僕に構わず、目の前の少女は聞いてきた。
「君、今死のうとした?」
当たり前だろ、見れば分かるじゃないか。
あと少しだったのに、なんで止めるんだよ。
少女に苛立ちを覚えるが、気弱な僕が自分の思った事を口に出せる訳もなく、ただ力無くうなづいた。
「なんで?そんなのダメだよ。死んじゃダメ。」
少女は怒ったような悲しいような表情で、僕の顔を覗き込んでくる。
そんな風に言われたって…仕方ないじゃないか。
「辛いんだよ…」
気づけば声に出していた。
「毎日毎日、学校や家で怒鳴られたり、嫌がらせされたり、悪口言われたり、殴られたり…もう限界なんだ」
涙なんてもう出なくて、掠れたような震えたような情け無い声で呟いた。
「ふふ〜ん、そういうことね」
それを聞いた少女は、何故か顎に手を添えて得意げな顔をしている。
「分かった!じゃあそんな君の願いを、このあたしが叶えてあげるよ!」
なんだなんだと思って成り行きを見守っていたら、彼女はニコニコしながらぶっ飛んだ事を言い出した。
…は?願いを叶える?妖精か?
「あたしは優しい優しい妖精だからね!君がこうしたいなぁ、ああしたいなぁ、って思ったこと、全部現実になっちゃうの!ね?いいでしょ!」
あ、やっぱり本当に妖精だったんだ。
どうりで宙に浮いてた訳だ。
妖精とはいえ、なんでも願いを叶えられるって、本当なのか?
僕が腑に落ちないような顔で彼女を見つめると、
「嘘だと思うなら、試してみてよ!さぁ、願いを言って?」
相変わらず無邪気に笑いながら僕に催促する。
正直僕は、妖精なんて信じちゃいないし、願いを言ったところで現実は変わらないだろう。
でも、目の前で幼い笑顔を浮かべる彼女を無視することができなくて…。
「じゃあ…」
彼女に何かお願いをして、何も変わらなかったら彼女に文句を言って、さっさと飛び降りてしまえばいい。
期待なんてしてないから。
ただ、それだけの話だ。
「もう、あいつらの顔を見なくていいようにしてほしい」
そう思うのに、僕はどこか縋るような声色で彼女に願いを言った。
―――――――――――――――――
翌日、僕は普通に登校した。
学校へ向かって歩いてる時、心はやっぱり憂鬱だった。
ここで引き返して、どこか遠くに行ってしまいたい。
そんな衝動に駆られるが、昨日出会ったあの少女の事を思うとなんか申し訳なくなる。
昨日会ったばかりの彼女に対して、どうしてそんな感情が湧くのか、僕には分からなかった。
「えっ…!?」
教室に入った僕は、驚きのあまり声が出た。
僕の目の前には相変わらずわちゃわちゃ騒いだり、悪ふざけしたり、ヒソヒソ話をしているクラスメイト達がいる。
いるのだが、全員顔に霧のような煙のようなぼやけたモヤがかかってていたのだ。
奴らの顔、表情はそのモヤのおかげで全く分からなかった。
いつもはこっちを白い目で見てくる女子生徒や、僕を見るなりバカにしたように笑う男子生徒の顔も、ぼやけていて全く見えない。
すごい…、これはもしかして、あの少女にお願いをしたから、なのか…?
まさかあの少女の、妖精の力は本物…?
それからも、驚きの連続だった。
血相を変えて怒鳴りつけてくる教師の顔もモヤがかかって全く見えなかったし、すぐ暴力を振るってくる奴の鬼のような形相も、僕の視界では認識できなかった。
顔や表情が見えなくなるだけで、こんなに違うのか。
まぁ、普通に声は聞こえるし、殴られると痛いから不快だと思ったりもしたが。
それでも、今日はいつもよりも少しだけ居心地が良かったような気がした。
「どう?あたしの言ったこと、本当だったでしょ?」
「うわっ」
いつの間に近くにいたのか。
驚いて声のした方を振り向くと、腕を組んでドヤ顔しているあの少女の姿があった。
「あれって、やっぱり、君に願い事を言ったからなの…?」
「うん!そうだよ!これがあたしの力だよん!」
まじまじと彼女を見つめると、彼女は嬉しそうに笑った。
「そうか…ありがとう。君のおかげで今日はいつもより楽に感じたよ。」
「それならよかった!ねね、次の願い事は?」
「えっ、もう一個言っていいの?」
「うん!別にあたし、ひとつだけなんて言ってないじゃん」
彼女のその言葉に、胸が高鳴る。
ひとつ聞いてもらえただけでも充分なのに、まだ願いを言ってもいいなんて。
僕は嬉しくて、勢いよく彼女の手首を握って言った。
「次は、あいつらの声が僕に聞こえないようにしてほしい」
翌日、やっぱり、あの子の力は本物だと思った。
そう、あいつらの聞くだけで虫唾が走るような嘲笑も、小声で飛び交う僕への悪口も、教師の大声も、何もかも全部僕には聞こえなかった。
耳に入らなかったのだ。
そのおかげで、奴らの言葉によって僕の心が蝕まれる事はなかった。
それどころか、いつもなら奴らがうるさくて聞こえないであろう、風が木々を揺さぶる心地いい音を聴いて、僕はのんびり過ごすことができた。
嫌な奴らの顔も見えなくて、声も聴こえない。
こんな事で幸せだと感じる僕はなんだか可哀想な奴だなと、他人事のように思った。
―――――――――――――――――
それから、次の日、また次の日も僕はあの子に願い事を言い続けた。
「暴力を振るわれないようにしてほしい」
「嫌がらせをどうにかしてほしい」
「僕の理解者がほしい」
彼女は相変わらず無邪気に笑って、僕の願いを全部叶えてくれた。
あいつらはもう僕にとっては空気みたいなものだし、殴られたり蹴られたりしたところで痛くも痒くもなくて、暴力という暴力ではなかった。
それに、僕にも友達だってできた。
この前までは、あんなに毎日が暗くてどんより沈んだものだったのに、今ではとても楽しい。
なんだか、あんな些細なことのために命を絶とうとした昔の自分が馬鹿らしくて、乾いた声で嘲笑う。
あの日、屋上から飛び降りなくてよかった。
あの時の僕の命の恩人であり、救世主でもある彼女と会う頻度はあれから徐々に減り、今ではたまに「調子はどう?」と様子を見に来るぐらいだ。
全てはあの子のおかげなのだ、あの子には感謝しても仕切れない。
あぁ、僕は今、とっても幸せなんだ!
流れていく日々が、生きる事が、こんなにも楽しくて幸せなんだ…!!
―――――――――――――――――
とある平日の夕方。
フラフラとした足取りで下校している男子校生が1人。
彼の着ている学ランは靴跡や汚れ、あちこちの糸のほつれに、虫食いのように破れた箇所などが目立っている。
学ランだけでなく、彼の少し長めの髪もグシャグシャで、乱暴に鷲掴みにされたのが容易に想像できる乱れ具合だ。
そして、年齢よりも少しばかり幼いその顔も、傷と汚れと血液でぐちゃぐちゃだった。
「今日も楽しかったなぁ…。友達とゲームの話したし、あいつらの暴力は今日も僕に通用しない…」
全身ボロボロの少年は薄ら笑いを浮かべながら、小声でぶつぶつ呟いた。
「あはは…君のおかげだよ…ありがとう、那由」
彼は誰もいない空間を見てそう言った。
この前まで憂鬱な表情を浮かべてトボトボ歩いてた少年は、ある日を境に薄気味悪い笑みを浮かべるようになった。
その理由は、本人以外誰にも分からない。
けど、彼のその変化に気づく者は誰一人いない。
「あははははっ…生きるのって、たのしいなあ…」
少年は今日も、ぐちゃぐちゃの顔の中に笑みを浮かべながら下校する。
その瞳には光がなくて、どこまでも暗くどんよりと沈んでいる事を知らずに……。
―――――――――――――――――
「もう、大丈夫よ。嫌だと思うものは、全て感じなくなってしまえばいいの」
「どう足掻いたって、どうせ嫌な事は付き纏ってくるし、逃げられやしないんだから。もう抗うのはやめよう。全て受け入れようね」
「ねぇ、今はどう?楽しいでしょう?」
黒髪の少女が僕の背中にピタリとくっつき、僕の肩をさすりながら問いかけてくる。
うん、楽しい、たのしい、タノシイ。
あぁ…そうなんだ!
僕の生きてるこの世界は、楽しくて、静かで、とても穏やかなんだ!