③ 奇妙な夢を見る男の話
少し重く感じる瞼を開くと、目の前に見えるのはただの暗闇だった。
気を抜いてしまえば瞼が閉じてしまいそうなので、意識しつつ暗闇を視認する。
視界のぼやけがゆっくり消えて、徐々にはっきり見えるようになってきた。
でも結局暗闇の中なのでほとんど意味を成さない気もするが。
カサッ…カサッ…
俺の真後ろで、規則的に何かを踏むような音が聴こえる。
振り向こうとしたが、あれ?動かないぞ。
どうやら俺の首は固定されているようだ。
目線だけで様子を伺おうにも、流石に真後ろまでは無理だ。
それにしても何を踏んでるんだ?紙か?
でも、時々パキッて音も聴こえるんだよな…。
紙踏んだ時ってパキッなんて音鳴らないし。
音の正体も分からずに、なんとなく目玉をぐるぐる動かしていると、視界の上隅に三日月が映った。
それは黄色というより白に近い色で、暗闇の中でぼんやり光っていた。
車の窓ガラスや家のベランダのドア越しに見かける事は何度もあるが、間を隔てるものがない状態でみる月は本当に幻想的だ。
しばらくの間ぼけーっとなんも考えないで三日月を眺めていたら、ある事に気づいた。
月と自分の間を隔てるものはない。
それはつまり、ここは建物の中とか室内ではなく、外という事になる。
まぁたまに黒くてうじゃうじゃしたような大きな影が三日月を隠す事もちょいちょいあるが、それも数秒だけの事だ。
月が出ているということは、今は夜なのか。
だから暗闇に包まれていると。
ぼーっとする頭で俺は推理する。
いや、首も動かせなくて、目線だけで三日月を眺めて、その真後ろでカサカサ音が鳴ってるって、どんな状況だよ。
俺がわざわざこんな暗い空の下で、一人で三日月を眺めるなんてことするはずない。
そして、俺のモヤがこびりついて離れない脳みそがある結論を導き出した。
俺は今、夢の中にいるのだと。
しかし奇妙な夢だ。
こんな夢は初めてだ。
いつも俺が見る夢といったら、好きなアイドルの握手会に参加する夢とか、空を飛び回る夢とか、高校生に戻って友達とバカやってる夢とか、あの子の夢とか…。
いい夢見過ぎだな、俺。
三日月を眺めてるのも飽きて、目線を正面に戻して目を細めてみる。
すると、さっきまではただの暗闇しかなかった視界に、違うものが見えた。
それは暗闇に擬態してるんじゃないのかってくらい黒かったので見にくいが、地面から空高くまで太くそびえたち、見上げるとそれはうじゃうじゃと無数の腕を生やしている。
さっき三日月を眺めていたときに見えたのと、ほとんど似たようなものだった。
俺はこの黒い影に見覚えがある。
というか、俺のみならず誰しもがあるだろう。
この黒い影は、………木だ。
木は、今俺がいる場所にはわんさかと生えている。
つまり此処は街とかではなく、森という事か。
少しずつだが、俺の置かれている状況が分かってきた気がするぞ。
なんだか楽しくなってきたな。
でもこれは夢だからいつ醒めてしまうか分からない。
急に現実に引き戻されて、結局よく分かんないまま終わった〜というのはなんか嫌だった。
ここまできたら、俺は最後までやるぞ!
そう意気込んで、再び正面に目線を戻す。
じーっと見ていると、またひとつ気づいた。
木々は俺の視界の両サイドから現れ、ゆっくりと視界の中央に向かっていき、最終的には見えなくなるのだ。
それはまるで、吸い込まれて行くような…
ドロリ
考えるのに集中してたら、左目と鼻筋の間をベタついた何かが流れ落ちた。
汗か?
咄嗟に手で拭おうとしたが、俺の手は全く動かなかった。
いや、正確には動かせなかった。
なんだか、鉛のように重いのだ。
まあ、夢の中だから、身体が思うように動かないって事はよくあるか。
さっきのベタついた汗が流れた時の感触が、やけにリアルに近いと思ったりもしたが、きっと気のせいだ。
それからも俺は動いてないのに、ひたすら額からベタベタした汗が流れてきた。
手は動かないから拭う事もできないし、焦らすように流れるむず痒いそれをひたすら我慢する他なくて、イラッとしたが、さっきからずっと後ろでなるカサカサ音をBGMに、俺の今の状況を考えることに専念し続けた。
―――――――――――――――
それからどれくらい時間が経っただろうか。
さっきまでは色々推理していた頭も働かなくなってきた。
手がダメなら足はどうだと動かそうと試みたが、視界の下隅に映る足はピクリとも動かなかったし、声を出すのもなんだか圧迫されるような苦しさを感じたのでやめた。
今の俺は、目線以外は動かす事ができないようだ。
ふと、遠くからかすかに音が聴こえてきた。
なんだろうと、静かに耳を澄ますと、その音は俺の背後に近づいてきていた。
だんだん近づいて行くにつれて、その音は不快なものに感じた。
あぁ、うるせぇ。
耳障りな音がこびりつく。
この雑音のせいもあってか、とうとう俺は思考を放棄してしまった。
もう、ダメだ…。
モヤモヤが頭ん中を占めてるんだ…。
また瞼が重くなってきた…、もう諦めるか…
そう思った時、
ふいに、俺の身体が宙を舞った。
が、それも束の間、ドンッと鈍い音を立てて、仰向けの状態で俺の身体は落ちた。
目線だけ動かして見てみると、どうやら俺を受け止めたのは、柔らかくて黒いもののようだった。
なんだか心地良いなと思った。
だが次の瞬間、目の前に大量の黒が降ってきて視界を遮られた。
黒い物体の匂いが鼻に入る…
…あぁ、そういうことか。
俺は全てを思い出した。
―――――――――――――――
それは遡る事、約数時間前。
静寂に包まれた人気のない夜の住宅街を、彼女と2人並んで歩いていた。
「今日のデート楽しかったよ!ありがとうね」
ニコニコしながらこっちを見てそう言ってくれる彼女は、半年前から付き合っている俺の恋人だ。
「おう!俺が誘ったんだし、那由に楽しんでもらいたかったから、よかったわ。こちらこそありがとな!」
俺の返事を聞いて、少し頬を赤らめる彼女。
そよ風になびくその黒髪から漂う整髪料の香りが、ほのかに鼻腔を掠めた。
「ねぇ!もしよかったら来週の日曜日もデートしたいな」
「そうだな、俺もそう思ってた。那由はどこにデートしに行きたい?」
「えっ、またあたしの希望でいいの?」
「おう、那由に合わせたいんだ」
「そうねぇ、じゃあ最近リニューアルした△△水族館に行きたいな!」
「よし、分かった」
今日のデートが終わったばかりなのに、もう次のデートの予定が立った事に鼓動が高まる。
隣を見れば、ルンルンという擬態音が似合いそうな軽やかな足取りで彼女は歩いている。
彼女も俺と同じ気持ちなのだろうか、だとしたら嬉しい。
その後、あっという間に彼女の自宅の前に到着した。
「お見送りありがとう!気をつけて帰ってね」
「あぁ、ありがとう。それじゃあな。」
彼女に軽く手を振りながらそう言って踵を返そうとしたその時、俺は見てしまった。
1人暮らしのはずの彼女の自宅のドアを開けて出てきたサングラスにマスク、全身黒服の不審者を。
その手には少し長めの鉄パイプが握られており、奴は彼女の頭めがけてそれを振り下ろそうとしていた。
「っ、危ないっ!!!」
俺はとっさに彼女の両肩を掴み、そのまま軽く左側に投げ飛ばした。
その反動で俺の身体は前の方に傾き…
ゴンッ!!!!
俺の頭に、鉄パイプが直撃した。
視界が白黒点滅したのちに鈍い痛みが走った。
あの一瞬で意識を失いかけたが、なんとか持ち堪えたようだ。
左の方からぼんやりと彼女の甲高い悲鳴が聴こえる。
それを無視して、俺の頭を殴ってきやがった目の前の此奴を乱暴にひっつかんでやる。
奴は俺の行動が予想外だったのか、驚いた素振りを見せ、俺を引き剥がそうとする。
多分、奴の狙いは那由だったんだろう。
だが、そうはさせないぜ。
「逃げろ!!那由!!」
俺は彼女に向かって大声で叫んだ。
突然の出来事にパニックになったのか、彼女は大粒の涙を零しながらこちらを見て震えていた。
「でっ、でも…っ!それじゃ…」
「俺の事はいいから!早く逃げろ!!」
すると、彼女は悲痛な表情を浮かべ、俺に背を向けて駆け出した。
その光景を見ていたのか、奴は彼女を追おうと一歩前に踏み出すが、俺が押さえつけているので、これ以上進む事はできない。
それにイラついたのか、奴は鉄パイプで俺の頭を何度も殴り始める。
痛くて痛くて仕方ないが、ここで俺が奴を放すわけにはいかない。
彼女の為に時間を稼ぐんだ。
少しでも彼女が奴から遠い場所へ行けるように。
その一心で、夢中で奴に掴みかかっているが、その間にも頭を殴られ続け、視界も徐々に血で染まっていくわけで。
たった数秒だったのか、それとも長い時間の出来事だったのかは分からなかったが、とうとう限界を迎えた俺の身体が地面に仰向けで倒れ込んだ。
その時最後に見たものは、
泣きながら走って行く彼女でも、サングラス越しに俺を見下す此奴でもなく、
赤い海の中で白く輝く美しい三日月だった。
―――――――――――――――
これは、夢なんかじゃない、現実だ。
それに気づいたとき、今の俺の状況なんてすぐに分かってしまった。
さっき俺は不審者に殴られて気絶したのだ。
その間に奴は俺を引きずって森の中を歩き、事前に掘ってあったのであろう大きな穴に、俺を投げ入れたって訳か。
身体が全く動かなくて苦しかったのは、俺が瀕死状態だから。
先程まで俺の真後ろで鳴ってたあの音は、奴が落ちた枯葉や枝を踏む音だ。
むず痒く感じていたベタベタしたそれは、汗じゃなくて俺の血で。
投げられた俺を受け止めた黒くて柔らかいもの、そして俺の視界を遮る大量の黒、これはおそらく土だろう。
そしてさっきから煩わしいこの雑音は…、下品な嗤い声。
それも大勢の人間の。
奴のグルなのか。
この聴こえ方からして多分、俺が投げ入れられた穴を覗き込みながら、俺を見下しているのだろう。
俺はきっと、もうすぐ死ぬんだろうな。
はははっ、こんな結末を迎えるだなんて、本当についてねぇよ、俺。
口の中に広がる鉄の味。
未だに響く嗤い声。
俺の身体めがけて落ちてくる大量の土。
最後の悪あがきなのか、俺の脳は薄れ行く意識の中でも冷静に分析している。
ただ、ひとつ気掛かりなのは、那由の事だ。
あの後、彼女は逃げきれただろうか?
此奴もしくは変な奴に襲われてないだろうか?
誰かに助けてもらえただろうか?
交番にでも駆け込んだだろうか?
知る事はできないが、彼女はきっと大丈夫だと信じたい。
那由さえ生きていてくれれば、それでいいんだ。
半開きの口から浅く息を吐くと、俺は彼女の無事を祈るようにそっと目を閉じた。