① 手首に傷がある女の話
ピピピピッ ピピピピッ
とある水曜日の朝7時。
けたたましく目覚まし時計が鳴る。
「ん…」
急かすようなその音に目を覚ます。
もう、朝か…、だるいな。
寝起きでぼやーっとした頭でそんなことを思いながら、未だに鳴り続ける目覚ましを止める。
そして、目を閉じて大きなあくびを一つ。
生理的に浮かんだ涙を半ば乱暴に拭い、目を開ける。
「……ん?」
そこでふと、自分の左手首が目に入る。
そこには、3本の赤い切り傷があった。
まるでリストカットしたかのような…
いやでも、自分はリストカットなんてした覚えはない。
気づかない間に手首切っちゃってたのかな?
昨日まではこんな傷なかったような気がするが…。
まぁ、別に痛くないし、深く考えてもしょうがないか。
知らないうちに皮膚を切ったり、ぶつけて痣ができたりなんて、よくある事だ。
そんなことよりも仕事に行かなくちゃ。
私はベッドから起き上がると、仕事へ行く支度をすべく、寝室をあとにした。
――――――――――――――
次の日。
今日も目覚ましの音で起床する。
起き上がって昨日と同じ大きなあくびを一つ。
目を擦ったあと、左手首が目に入った。
「えっ……」
昨日は3本あった切り傷が、2本に減っていたのだ。
昨日1日で、もう傷が1本完治したというのか?
まるで最初から無かったかのように綺麗さっぱり消えていた。
自然治癒も早いものだなぁ…。
そんなことを考えながら、しばらくの間、ぼーっと2本の傷を眺めていた。
――――――――――――――
また次の日。
昨日と同じようにけたたましい目覚ましで目を覚まし、大きなあくびを一つ。
左手首はどうなってるだろうか?
昨日は切り傷が2本に減ってたから、また1本減って、今日は1本だけになってたりして。
まぁ、そんなことあるわけないか。
冗談半分にそう思いつつ、布団に力なく乗せていた左手を上げて手首を見やる。
「……っ」
…言葉が出なかった。
だって、こんなのって、あり得るのか…?
まさか本当に傷が1本だけになってるって、思わないじゃないか。
なんだか気味が悪くて、こめかみに冷や汗が流れる。
これは、よくない気がする…。
本能的に感じる恐怖と、漠然とした不安が襲いかかる。
でも、傷が治ってきている訳だし、ここは別に恐れる必要もないだろう。
ただでさえ仕事で疲れてるのに、手首の傷ごときに構ってなんかいられるか。
ネガティブな思考を無理矢理かき消すように手首から目をそらし、深呼吸をする。
さて、今日も仕事しなきゃいけないんだ。
頭の片隅に残るモヤモヤを無視して、私は仕事の支度に取り掛かった。
――――――――――――――
カタカタカタカタカタカタ…
静かな室内で、ただひたすらキーボードを打つ音だけが聴こえる。
その音を耳に入れながら、私は目の前のパソコンと向かい合っている。
画面を見つめながらマウスを操作する。
いつもはどこか緊張感に包まれながら行っている作業だが、集中すれば難なくこなせる。
まあ、当たり前のことだが。
でも、今日は違った。
出社した時から、いや、出社する前から気分が落ち着かなかったし、仕事に集中できない。
スーツの袖を捲って、その原因を見つめる。
朝起きた時と変わらずに存在する、1本の切り傷。
こいつが頭から離れてくれなかったのだ。
昨日までは呑気に考えていたが、やっぱり違和感しかない。
綺麗に1本ずつ無くなっていく傷…
こんな治り方は偶然じゃないと思うが…
いや、待てよ。
思い出してみよう。
この傷ができたのは確か水曜日。
その時は3本線の傷だ。
確か、真ん中の線が少し短かかった。
翌日の木曜日。
この日、傷は2本線。
3本あったはずの傷が1本減っていた。
そして今日、金曜日。
傷は1本線に。
真ん中の少し短かったはずの線の長さが伸びている。
1日経つごとに、線が1本ずつ減って、長さが変わっている…。
3から2、2から1、1から…
3、2、1…
――――――――あ。
…この傷の意味、わかった。
この傷は…それぞれ漢数字の、
「三」、「二」、「一」を表していて…
これはきっと、なにかのカウントダウンなんだ。
でも、一体何の……?
傷で示されるカウントダウンなんて、きっとロクなものじゃない。
なにか…なにか、不吉な事が、悪い事が私の身に起こるんだ…
それにっ、今日が「一」ってことは、それが起こるなら明日だ…!
怖いっ…私はどうしたらいいっていうの…?
ガシッ
「…っ!!?」
誰かに肩を掴まれて身体がビクリと跳ね、汗が吹き出す。
肩を掴んだであろう人物のいる方に、恐る恐る目線だけ送る。
「顔色悪いよ?大丈夫?」
そう言って心配した表情でこちらを見たのは、私の仕事の同僚であり、友達でもある女性、那由だった。
彼女が私の肩を掴んだのか。
彼女の相変わらずきちんと手入れされた黒髪からは、微かに整髪料のいい香りがした。
「ああっ!那由さんかっ…!」
顔を彼女の方に向け、目を丸くする。
「ごめんごめん!昨日ちょっと寝るのが遅くなっちゃったから…」
慌ててそう取り繕うと、那由は腕を組みながらムスッとした顔で、
「そう?じゃあ今日は早く寝てよね」
と、言い放った。
「あはははっ、はーい!」
友達に心配をかけたくなくて、無理矢理笑顔を作ってそう答える。
ちょっとしたやりとりも終わり、パソコンに向き直る。
そしてまた、頭の中はじわじわと恐怖に侵食される。
私はデスクに両腕の肘をつき、そのまま顔を手で覆う。
とにかく、明日は仕事は休もう…。
明日は外に出てはいけないんだ…。
――――――――――――――
そしてまた次の日…。
プルルルルルルッ…プルルルルルルッ…ピッ
お昼頃、自宅のベッドで過ごしていたらスマホが鳴ったので応じた。
相手は那由だ。
「もしもし?どうしたの?」
押し寄せている不安な気持ちに蓋をし、明るい口調で問うと、
「どうしたのじゃないよ!さっき課長から聞いたけど、体調悪いんだって?大丈夫なの?どこか痛かったりするの?」
昨日と同じような声色で質問される。
朝、課長には体調不良で休むという連絡を入れたので、課長が職場の人達に周知したのだろう。
「うん、ちょっと腹痛がひどくて…。心配ばっかかけてごめんね…。」
「ううん、あたしの事はいいの!とにかく今日はゆっくり休んでね!」
「うん、ありがとう。それじゃ」
「うん、またね!」
通話終了ボタンをタップし、スマホをベッド付近のミニテーブルに置いた。
腹痛なんて勿論嘘だ。
仮病を使ったのもそうだが、なにより、那由に心配ばかりかけさせている事を本当に申し訳なく思った。
彼女との通話が終わると、昨日とは比べ物にならないくらいの恐怖が襲い掛かる。
手首を見ると案の定そこには…
カウントダウンの「0」を表す、円を描いた切り傷があった。
お願い…!
今日は…今日は!
何も起こらないでいてっ…!!
ぶるぶると小刻みに震えて汗ばむ右手で、得体の知れない何かから守るようにして左手首を握り込み、私は懇願した…
―――――――――――――
翌日。
ソファに腰掛けながら、入れたてのホットコーヒーに息を吹きかけて冷ますと、一口飲む。
昨日の事だが、あの後、私の身に何か変わった事も、悪い事も何も起こらなかった。
それどころかむしろ、昨日1日の間にあの切り傷は徐々に色が薄くなり、今日の朝には完全に消えていた。
結局、あの傷は、カウントダウンは一体なんだったのだろう…?
ただの私の考え過ぎだったのかな?
きっと知らないうちに、仕事で疲れやストレスが溜まってたんだろう。
とにかく、ただの杞憂でよかったなぁ。
今日は日曜日だし、家でゆっくりテレビを見るとしよう。
目の前のテーブルにコーヒーが入ったマグカップを置き、代わりにテレビのリモコンを取り、電源ボタンを押す。
パッとついた大きなテレビ画面には、髪をお団子にまとめた女性がこちらを見ている場面が映った。
どうやらニュース番組のようだ。
『続いて、次のニュースです』
女性がそう言うと、別の画面に切り替わる。
「えっ……」
私はその画面を見て固まった。
目の前に映るものが現実なんて思えなかった。
その画面には…
[首から大量出血 女性会社員(23)死亡]
というテロップとともに、
こちらを見てニコリと笑う女性…那由の写真が映っていた。
『昨夜、××県△△市の、○○公園で、市内に住む女性会社員が首から血を流して、死亡しているのが見つかりました。』
『死亡したのは、□□会社に勤める大元那由さん23歳で、大元さんは病院に搬送されましたが、その1時間後、死亡が確認されました。』
『死因は、首からの大量出血による失血死とみられ、警察は…』
那由が…死んだ?
嘘でしょ?なんで?
昨日まで普通に私と話してたじゃん。
いつも快活で私の事を気にかけてくれた友人が?
どうして…なんでッ!!
那由に恨みを持った人がいたのか?
でも、那由は誰とでも仲良くなれるタイプの人だし、その線はないだろう。
じゃあ通り魔にでも襲われたのか?
だとしたら、よりによってなんで那由なんだ。
なんで那由が死ななくちゃならないんだ。
…まさか。
私の頭にふと、ある可能性が浮かんだ…。
信じたくないが、もし本当だったら?
冷たい汗と涙が顔を濡らす。
全身がガタガタと震える。
だ、だって…!
あんなのはただの私の考え過ぎで…!
ただの杞憂で…!
ぎこちない目線を、左手首に向けた。
「………!!!!」
"ソレ"を見て、血の気が引いた。
もう声も出せなかった。
気が狂いそうだ…!!
こんなの、嫌だ!!
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!
私が見た"ソレ"というのは、
私の左手首に浮かぶ赤黒い3本線の切り傷だった。
「う、そ……っ」