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不死殺しのイドラ  作者: 彗星無視
第三章エピローグ 別れと再会の物語

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第七十一話 バベル

「あれが、箱船?」


 それは円柱だった。真っ白く、太い柱が、満たされた水底から顔を出し、音もなく伸びていた。

 するりするりと、水面からその首を伸ばし続ける白い幹。


「ちょ……どこまで伸びるの」


 見上げるまでに高く昇るそれに、ベルチャーナがぽつりと呟く。イドラたちは呆気にとられながら、その空に向かって伸び続ける柱を眺め続ける。

 まるで、天に届く塔。

 海と空をつなぐように、その柱は延伸する。海面から姿を現した先端は既に彼方へ遠のき、伸びていることが海上の船からでは一目でわかりづらくなっているほどだ。

 それを見て、レツェリが低い声で言う。


「世界のどこからでも見ることができる……なるほど。あれは『道』だな」


——曰く、道は沈む世界のどこからでも見ることができる。

 あの垂直な柱こそが、神の国への道。

 だとすれば、箱船は——?

 イドラの疑問が解けたのは、体感で六時間ほど待たされたあとだった。

 結局、この場所に着いてから丸一日留まったことになる。


 空はオレンジ色に染まり、海を夕焼けが支配する。円柱はもはや、どれほどの高さになったのか測るのも馬鹿馬鹿しいほどになっていた。

 突如現れた塔に、今ごろ世界中では騒ぎになっていることだろう。ただそれも、陸地を遠く離れた海にいるイドラたちには決して届かない。

——唐突に柱は、その延伸を停止した。

 そして次に、柱に沿うようにしてまた新たなものが海面より現れた。


「……箱?」


 またしてもガラスでできているような、透明の箱。

 それがイドラの抱いた率直な感想だ。しかし立方体ではない。縦に長い、人間がぎゅうぎゅうに押し込めば十人くらいは入るか、という程度の直方体だ。


「道に沿う——となると、あれが? 近づいてみるぞ」


 係留浮標の鎖を外し、たたんでいた帆を広げる。

 ワダツミによって埋められた水上を通り、その透明な箱——あるいは籠とも呼ぶべきそれへと船を寄せた。

 ウィィ————。

 すると、ガラスの六面のうち、天に上る柱に固定された面とは反対側の、イドラたちの方を向く面が、なんとも聞き慣れないかすかな作動音を立ててひとりでに左右へスライドした。


「ひ、開いた……中に入れ、っていうことでしょうか?」

「……まさか、これが箱船だって言うのか? 確かに箱ではあるが……それにこの大きさじゃ大した人数は運べないぞ。こんなものが救いなのか」

「フン、神も狭量なのだろうよ。それより乗り込むぞ。この船はここで放棄する」

「ちょっと待った、レツェリ元司教の役割はあくまで案内ですよねぇ。このミョーな箱がイドラちゃんの目指した箱船だとして、それにベルちゃんとレツェリ元司教まで乗るわけにはいかないでしょ」


 開いた透明の箱を前に、一行は船の上で話し合う。

 ベルチャーナの主張はもっともだった。レツェリは囚人であり、ベルチャーナは協会に派遣されたその監視役としてこの場にいる。

 仮に目の前に突然現れたこの箱が、求めてきた『箱船』なのだとして。それに乗り込み、雲の上、神の国へ向かっていい立場ではあるまい。

 そんな正論を、レツェリは一笑に付し——

 バケツを蹴り飛ばした。


「あ」


 いきなりのことで、誰の反応も遅れた。

 ぽちゃん。穴の開いた船をここまで支えてきてくれた物言わぬ功労者は、呆気なく遠くへ飛ばされ、波に運ばれていく。


「これで浸水を防ぐ手立ては失ったなァ。船の沈没と運命をともにしたくなくば、全員あの箱に乗り込むほかない」

「——」

「そうだ、オマケにこれも抜いておくか」


 ベルチャーナが咄嗟に船の穴を塞ぐために入れた、丸めた修道服を引っ張り出す。レツェリはそれも海へ投げ捨て、ドッと浸水の勢いが増す。


「——っ」


 一同は唖然とした。

 船の沈没は確定したも同然だった。


「こ、この……クソ野郎が!」

「ハッ」


 我に返り、声を荒げてレツェリの胸ぐらを掴むイドラ。その足元にも既に浸水が広がり、自分たちで注ぎ込んだほんのり桃フレーバーのおいしい水が靴の中へ染み込もうとしてくる。


「イドラさんっ、喧嘩してる場合じゃないですっ。こうなったらもう、あれに乗るしか……」

「とんでもないことをしてくれたね。あー、もうっ……ごめんイドラちゃんソニアちゃんっ、ベルちゃんがこうならないように見てないといけなかったのに~っ」

「くそ、こいつ……!」


 初めからこれが狙いだったのだと、酷薄な笑みを見て確信する。

 必要とあらば、レツェリはさらに船に穴をあけ、あの透明な直方体に乗る以外の選択肢を徹底的に奪うだろう。


「わかってるのか、レツェリ。ともあれ箱船らしきものまでたどり着いた以上、お前がいなくても問題はなくなった。用済みのお前をあそこのバケツと同じように海に置き去りにしたっていいんだぞ!」

「物騒な脅しだな、私を殺すつもりか? しかし、ならばあの聖堂で私を生かしたことは無駄になるな」

「——く」


 その言葉に、イドラはちらりとソニアの方を見た。

 橙色の両目が、懇願するように見上げてきている。

 ソニアはあの夜、レツェリを殺さないことを選択した。そしてイドラにも、誰の命も奪ってほしくないのだと告げた。

 ここで不必要にレツェリを殺せば、その願いを裏切ることになる。

 逆上した頭が少し冷静さを取り戻す。ここでレツェリを殺しても、船の穴が塞がるわけではない。ソニアはきっといたく悲しむだろう。


「……次はないぞ。クソ野郎」


 殺意を抑え、胸ぐらを放す。苛立ちを隠しきれないまま、イドラは船を飛び降りた。

 ガラスの直方体、その中に着地する。内部は外からみたままで、なにかが置かれているわけでもなければ、広くもない。ガラスにしか見えない壁を叩いてみると、コンと硬い音が返ってきた。

 強度がいかほどか、イドラにはわからない。ただ、一抹の不安はあった。

 なにせおそらく、頭上に伸びる柱こそが神の国への道であるのなら、この箱はこれから——。


 ソニアとベルチャーナ、そしてレツェリも船から箱の中へと飛び移る。

 これで船はじき沈んでしまうだろう。箱船が動かなければ、三人の命はこの果ての海で終わりだ。

 だが、きっとそうはならないだろう。

 こんな神が細工したような大仕掛けを前にすれば、イドラもなにかあると思うしかなかった。そしてその予想を裏付けるように、四者が乗り込んだ直後、入り口がまたしてもひとりでに閉まる。


 そして、箱は柱を昇り始めた。

 ゆっくりと、しかし一目でそうとわかる速度で、海上が遠のいていく。

 透明な箱の中、イドラたちが言葉を失ったのは、さっきの険悪な空気を引きずっているわけではなかった。

 一点の曇りさえないガラスの壁は夕暮れの光を透過し、ベルチャーナの浅葱色の髪や、ソニアの色白の頬を濡らす。イドラとレツェリも漏れなく、オレンジ色の光のシャワーを浴びて目を細める。


 偽物ゆめのような景色だった。

 空中を昇り、柱をつたって空へと向かう。ガラス越しに見える空と海の景色は黄金にも似た橙色に染められ、どこまでも広がる。

 そう、どこまでも。

 イドラたちは——レツェリでさえも、その壮大で幻想的な世界の姿に目を奪われ、溜まりに溜まった疲労さえ忘れ、手狭な箱の内で立ち尽くす。

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