第六十八話 乙女心は複雑怪奇
「いい対応だ。だが流入を完全に防ぎ切ることはできまい。チッ、アイスロータスがあれば……」
アイスロータス。515年前、ヴェートラルに聖封印を施した英雄ハブリが持っていたとされるギフト。先端に蓮の花の意匠をあしらった黄金の杖。
葬送協会に保管されていたはずのそれは、あの聖堂の夜、イドラたちに猛威を振るった。
凍結——その言葉ひとつで、氷を撃ち出したり、物体を凍らせることができる能力を持っていた。
しかしあのギフトの真価は、本来ギフトはそれを受け取った当人にしか能力を扱えないという原則を無視し、誰にでも使えるという点にある。
祝福された天恵、レツェリはそう呼んだ。協会に受け継がれてきた英雄のギフトは、どういうわけか他者にも使用可能だったのだ。それをレツェリは使用し、彼本人の天恵である万物停滞とは別に二つ目のギフトとしていた。
同様の性質を、ソニアのワダツミも有している。かつてウラシマが佩いていた刀だ。
そんなアイスロータスも、まさか囚人に身をやつしたレツェリに持ち続けられるはずもなく。今現在では、改めて協会の聖堂にきちんと保管され、司教代理のミロウが管理を担っている。彼女であれば、秘密裏に持ち出して悪用するようなこともないだろう。
「……あのブレストギフトの真価を発揮できるのはこの私だけだと言うのに。フン、ないものねだりをしても無意味か。確かバケツをひとつ積んでいたはずだ、地道なやり方だが水を掻き出して捨てていくぞ」
「わ、わたしがやりますっ」
バケツを持ってあたふたと奔走するソニア。それに合わせ、船底に溜まる浸水がちゃぷちゃぷと音を立てる。イドラたちにとっては死への沈没を予感させる嫌な音色だ。
とはいえベルチャーナの適切な対応もあり今のところ、船内に流入する海水の量を、ソニアがせっせとバケツですくって船外へ捨てる海水の量が上回っていた。
このままであれば、船が沈むことはないだろう。
峠を越えた感がある。イドラたちの間に張り詰める緊張が、少し緩んだ。
「——では、我々は速やかに方針を決めねばならない。わかっているな、イドラ」
「ああ。陸に戻るかどうか、だろ」
次に考えるべきこと、指針を定めるべきはそこであると、イドラとて理解していた。
船体の損傷。あと一歩で海難事故のこの状況で——進むか、退くか。決めなくてはならない。
「ちょ……そんなの、今すぐ引き返すべきに決まってるでしょ! 船に穴が空いちゃってるんだよ!?」
「ベルチャーナの言いたい気持ちはわかる。けど、今から陸に引き返したって二日かかる。対して、箱船はすぐそこなんだろ? レツェリ」
「その通り、もう半日もないだろう。近いのは圧倒的に箱船だ」
「そんなの……っ、ウソかもしれないじゃん。仮にそうだったら、無駄に時間を食うことになる! それに箱船があったからって、結局は陸に帰らなきゃならないんだし……!」
「そう、だけど——」
だとしても。
往復で一日。無駄にしても、それで死ぬと決まったわけではない。
食糧はまだ余裕がある。切り詰めれば、十分に持つ。
「嘘なわけがないだろう。ことここに至っては、私にメリットがない。時間を無駄にし、沈没の可能性を上げるだけだ」
「あなたの言うことは信用できないよ。今は……ううん、今も」
「……ハッ。そういえばベルチャーナ君は、私が司教の座にあった時も独断専行が多かった。なるほど、当時から私は信用されていなかったわけか。私は君のことを信頼していたのだがね」
「——っ、なにを今さら、どの口で……!」
「ベルチャーナさん、落ち着いてくださいっ!」
協会を裏切った男の薄っぺらな物言いに、ベルチャーナが詰め寄る。それをソニアが慌てて止めると、彼女の手から落ちたバケツが薄く水の張る船の床に落ちて転がり、バタンと大きな音を立てた。
空気がにわかに静まる。そこに、イドラは決意を込めて言った。
「僕は、箱船を目指したい」
「イドラちゃんっ」
「すまん、ベルチャーナ。でも……ここまで来て、引き返したくないんだ。頼む」
海の青よりは薄い、鮮やかな浅葱色の双眸を見据える。
長い旅に、いよいよ結果を出すことができる。その機会をイドラは、どうあっても逃すわけにはいかなかった。一度陸に引き返し、なにかあってレツェリがいなくでもなれば、その時点で箱船を見つけ出すのは不可能に近くなる。
ベルチャーナはイドラに対抗するように、真っすぐに視線を受け止めて見つめ返していたが、やがて「うぅ」と力なくうめいて顔をそらした。
あの夜と同じ、ほのかに赤みを帯びた耳。
「はー……わかったよお、しょーがないなぁ」
「わかってくれるか。重ねて、すまん。これは全部僕の都合だ」
「いいよ、今回だけ。まあ……イドラちゃんには、借りを作っとくのも悪くないかなって」
「そう言われると返済が怖いな。あまり期待しないでおいてくれよ」
「ふふーん、どうかなぁ? ちなみにそれはそうと、ウソつかれてたらレツェリ元司教のことはボコボコに殴り倒します!」
「ああ、僕も全面的に協力するぞ。ギフトも使う」
「……。好きにしろ」
心底嫌そうな顔をしながらも、これ以上話題を停滞したくなかったのであろうレツェリは承諾した。
「ソニアも。いいか? このまま、沈没のリスクを高めながらも前進して」
「わたしはついていきます。どこまでも、イドラさんに」
訊かれるまでもない、と。ソニアは少しの逡巡も見せずにはにかむ。
それ以上言葉を重ねる必要はなかった。イドラも頷きを返し、白い髪を潮風になびかせる愛らしい少女から視線を外す。
マイナスナイフを以って、彼女の内にある不死を抑制するため——そんな、肉体的な楔は既に消え去った。今のソニアにとって、イドラのそばにいなければならない理由は失せた。
それでも心は離れない。離れる気はないのだと、橙色の目が雄弁に告げていた。
「目的地は変えないまま、か。私に具申する権利はないのだろうが、一応は満場一致だな。なに、夜になる前には着くだろう」
「それはなによりだがレツェリ、その前にやることがあるぞ」
「そだねー。うやむやにしようたって、そうはいかないよ」
「……ふむ、しらばっくれるだけしらばっくれてみるか。なんのことかな?」
「拘束のことに決まってるだろうが。その眼、野放しになんかできるかよ」
おそらくは予想通りだった答えに、レツェリは歪んだ笑いを小さく浮かべる。
クラーケンを倒すためレツェリの手を借りた。だが、それがあくまで例外的な措置だったことは言うまでもない。
この男の眼球は危険すぎる。ただ視界に映っているというだけで、ナイフを全身に突きつけられているに等しい。
魔物の姿も失せた今、再びレツェリの眼を封じる必要があった。
「フン。このまま誤魔化せないかと思っていたが、流石に無理か」
かすかに身構える一行とは裏腹に。
レツェリは、呆気なく目を閉じ、その両手を差し出した。
「え?」
「どうした。早くしろ」
「いや……妙に素直じゃないか。てっきり抵抗するんじゃないかと」
「油断しちゃだめだよ、イドラちゃん……! 隙を見せて油断したところで不意打ちしてくるかも!」
「本当に信用がないな私は。当然と言えば当然の面もあるのはわかっているが……」
「気を付けてイドラちゃん! ほら! 視線に注意して! ソニアちゃんもっ、いつ襲われるかわかんないよ!」
「う……そ、その可能性も、なくはないかもですけど……」
「ゼッタイ危ないって! ほらあの顔どう見ても悪いコト考えてるもんっ、わたしにはわかるんだから! そうやって澄ました表情でミロウちゃんのことも騙したんだ!」
「ええいっ、黙れ。静かにしていろベルチャーナ君」
話がまるで進まなかった。
イドラからも一度口を挟まないよう頼むと、ベルチャーナはむっと唇を尖らせながら下がっていった。どこかいじけた様子で、ソニアの落としたバケツを拾って船の中の水を捨て始める。
(……拗ねてる?)
こんなやつだったか、ベルチャーナは。
前々から無邪気というか、朗らかで明るい性格ではあったが、こうも子どもっぽかっただろうか。最近は少し様子が異なる気がする。
そこまでイドラは考えて、いつからそうなったのかに思い至った。
ハンドク砂漠のあの夜、星々の散りばめられた空と白く照らされた砂の地平。あれを並んで見た日からだ。
「イドラさん、これ」
「おっ、わざわざ探してきてくれたのか。ソニアは気が利くな、ありがとう」
「いえいえっ。えへへ」
労いの言葉をかけると、にぱっとひまわりのように笑う。
ソニアがイドラに手渡したのは、レツェリの眼帯と手枷だ。どちらも金属で出来ていて重い。クラーケンの時は咄嗟だったから外したまま捨てられていたものを、ソニアが床の端から拾って来たのだ。きちんと水気もくまなく拭き取られている。
「っと、錠をするには鍵が要るか。ベルチャーナ、渡してくれるか?」
「……ん。はい」
「サンキュ。じゃ、これでレツェリの拘束を——」
「ねえ、なんかソニアちゃんの時と違って反応薄くない? ねえってばぁ?」
「なんで怒ってるの…………?」
ちゃりん、と二本の鍵がぶら下がったリングを渡される。
ベルチャーナはなぜか機嫌が悪かった。その理由にまるでイドラは想像がつかず、立ち尽くして困惑する。疑問を呈するも浅葱色の髪の彼女はなにも答えず、取り付く島もない様子でそっぽを向いてしまった。またバケツで浸水した海水を捨て始める。
つーん。そんな擬音さえ聞こえてきそうだ。
女心と秋の空——
さっきは衝突しそうになったのを、自分から矛を収めてくれたのに。
目を合わせてくれないベルチャーナ。胸中を読めず、イドラは困惑したまま佇む。ソニアはなんだかよくわからないがわたわたしていた。
波とともに風が吹き、微妙な空気が流れる三者の間を冷たく吹き抜けていく。
「……なんでもいいから、とっととしてくれないか? 船にも穴が空いている以上、時間を無駄にするべきではないぞ」
終いには、置いてけぼりにされた囚徒が一番もっともなことを言い出す始末だった。




