第六十六話 魔眼解放
万物停滞。そのギフトがこの状況を打開しうる劇毒であると、本人はイドラ以上に理解していることだろう。
不安定な足場であろうが関係なく。触れる必要さえなく。ワダツミの刃が届かない距離から、面倒な触手どもを一方的に千切れたタコ足に変えられる。
だがそれは、その力が自分たちへ向けられるかもしれない危惧を孕んでもいた。
ソニアやベルチャーナが危険に晒されるのかもしれないのだ。逃げ場もない以上その気になればレツェリは、左眼球ひとつあれば、即座にこの船の人間を皆殺しにできる。
それでも。
「なっ……レツェリ元司教……それは、でも——」
「迷っている暇があるか! お前たちと心中など死んでもお断りだ……! 鍵は監獄で受け取っただろう、この眼を解放するのだ! 四人そろって海の底で消えたくなければなァ!」
「——っ、だけど……拘束を解くなんて。あなたが逃げ出せば、ミロウちゃんがなんて思うか」
「僕からも頼む。ベルチャーナ、レツェリの拘束を解いてくれ」
「イドラちゃん……っ!?」
イドラは腹の底がねじ切れそうになりながら、ベルチャーナに頼んだ。
レツェリが危険な、時としてイモータルより余程に恐ろしい怪物であるのだと充分に理解したうえで。
それでもこの男の眼に頼らねば、この窮地を脱することはできないと判断した。
「イドラ、さん」
「すまんベルチャーナ、ソニア。だが……僕たちが生き残るにはこれしかない」
「イドラはこう言っているぞ。さあ早くしろ、ベルチャーナ君。言うまでもないが、私の眼と手の錠を外せるのは監視役たる君だけなのだから」
「う……うぅ~っ。イヤだけど……ホントにイヤだけど、イドラちゃんの言う通りかぁ。ベルちゃんもまだまだ、ここで終わるわけにはいかないんだから……!」
ベルチャーナは、聖水を扱うため修道服の内側に多くあるポケットのうちのひとつから、二つの鍵が通されたリングを取り出す。それはイドラにとって目にしたのがずっと前のことのようにも思える、エンツェンド監獄でケッテから受け取った品だ。
ちゃり、と鍵同士が擦れる音が、波立つ海の音に混じって小さく響く。
(これでよかったのか? だがあんな魔物が出た以上は……。考えてみれば航路はレツェリの指示だ、こいつは本当に知らなかったのか? この恐ろしいクラーケンが棲む海域のことを……!)
鍵の音を聞きながら、イドラは自身の選択が正しかったのか、早くも不安に駆られてしまう。だが吐いた言葉を取り消すこともできず、どれだけの煩悶に苛まれようともほかの策がないことは変わらない。
ベルチャーナはまず、レツェリの手の錠を解いた。金属の重い枷が外され、船の床にゴトリと落ちる。
「グゥ——ゥゥ——ゥ——ッ!」
「やっ......! まずいですっ、もう押しとどめられない……!」
「くそ、クラーケンが……あと少し耐えてくれソニア! 僕も加勢する! その間に急げベルチャーナ、早く!」
「わー待って急かさないで! えっと、左目の拘束は……? バンド状になってて……」
レツェリたちの元へと触手が届いてしまわぬよう、イドラとソニアがなんとか抑える。だがそれが長く続かないのは火を見るよりも明らかで、イドラが斬りこぼした触手をソニアがワダツミで断ち、ソニアが触手につかまりそうになったところをイドラがナイフで助ける、といった綱渡りじみたかばい合いで辛うじて成り立っていた。
「錠なら後ろについているはずだ! 早くしろ、船の方ももう限界だぞ!」
「司教まで急かさないでください!! わたしってば焦ると手元不器用になっちゃうんですよぉーっ、ミロウちゃんほどじゃないけどぉ!」
「元をつけろ元を!」
「それ今要ります!?」
イドラたちが耐えている間、ベルチャーナはレツェリの後ろに回り、その左眼を封じる、枷と同じ金属のバンドを外そうとする。
「あーもう……あれ? これさっきどっちの鍵使ったんだっけ……忘れちゃった、えーっと……こっち? 違う、入らない。じゃあこっちが……あれ? こっちも入らない、なんでなんでっ? あーっ、向きが……」
「おいベルチャーナァ! モタモタするなァ! 貴様ァ!!」
「大声出さないでくださいよー! もぉー!! またわかんなくなっちゃうじゃないですかぁー!!」
「なんでゴタついてるんだよ協会組ぃ——!?」
「お、お願いだから早くしてくださいっ……!」
なんかガチャガチャやって妙に手間取っていた。
だが長引くことはなく、無事に眼の拘束も外される。コトン、とまたしても金属の音が床で鳴る。
「ようやくか。さあ——自由の時間だ」
そして、聖堂からいくつもの夜を経て。
ただ鍵を入れるだけなのにやたら疲弊したベルチャーナの前で、レツェリは長らく閉じられていた、その左目を開いた。
まぶたには縦に、細い一筋の傷がまだ残っている。聖堂でイドラの振るったワダツミにつけられたものだ。だが痕があるだけで、目を開くのにもうおおむね問題はないし、眼球自体はギフトであるため不壊の性質を持っており、破損することは絶対にありえない。
「レツェリ……ッ」
背後の気配から、レツェリの拘束が解かれたことに気づき、軽くイドラは振り返る。
瞬間、呼吸を忘れた。
金鉄に封じられていた、眼窩を埋める眼。その赤色を視界に捉えた刹那、聖堂での一夜がフラッシュバックのように脳裏に去来する。
見られている。あの赤い目の届く範囲に入っている。
それはすなわち、いつでも殺せるということ。否応なしに筋肉がこわばり、恐怖心を刺激する。
「ぁ——」
そのごくわずかな硬直が、ギリギリのところで成立していた均衡を崩してしまう。
ソニアがワダツミを振り抜いた直後、別の角度から、隙を突いて吸盤のある赤い手が迫ってくる。すぐに前方を振り向き直したイドラだが、その時には既に遅く、ソニアの細い喉元へと魔の触手が触れる——
直前。触手は、ぶつりと断裂して船の床に転げ落ちた。
「今のは……」
思わずイドラは、突如として千切れ、床に落ちたそれに目をやる。
なにかに斬られたわけでもないのに、その断面は、まるで鋭利な刃物にそうされたかのようだった。
こんなことができるのはひとりしかいない。
レツェリ。そのギフト、万物停滞だ。空間を遅延させ、その範囲の境界にある動体を断ち切る眼。かつては聖堂でソニアを殺しかけたその力が、今はソニアを助けたのだ。
一瞬呆けたような反応をした後、それに気付いたのか、ソニアは緊張を含んだ表情でおずおずと後方の赤眼に振り向いた。
「あ、ありがとうございます……助かりました」
「礼など不要だ。……これで聖堂の借りをなくせるとも思わん」
「え?」
「なんでもない。集中しろ、まだ事態は終わっていないだろう」
不死の鼓動を埋め込み、平穏な日常のすべてを奪った男。ソニアにとってのレツェリはまさしく大敵だ。
恨むべき怨敵であり怒るべき大悪。しかしソニアは争いを好む性格でなく、そういった感情を見せないからこそ、代わりにイドラが悪態をついている。
だが気まずいのは事実だった。ソニアは今も、レツェリに対する接し方を判断しかねている。まだ自分の中でも気持ちの整理がついていないのかもしれない。
そんなソニアの複雑な感情を置き去りにしていくように、レツェリはソニアにはまったく視線を向けることなく、船へ迫りくる大量の触手を見る。
その視界に、今まさに、彼の眼にだけ映る立方体が展開されつつあった。
「手近な触手どもは私が刈ろう。イドラ、そうすればお前は近づけるな?」
「……! 本体を叩くってことか。お前の言うことに従うのは癪だが……この際だ。乗ってやる、露払いは任せるからな!」
「いいだろう、任された。——起動しろ、万物停滞ッ!」
仮想の箱に含まれる空間の時が、大きく流れを減退させる。さっきよりも辺を長くした、巨大な立方体の内側の時間が。
船ごとイドラたちを呑み込まんと、迫る無数の触手。その壁のような連なりが一瞬にして断たれた。
まるで繁茂する草原の草むらを、巨大な鎌が一振りに薙ぎ払ってしまったかのようだ。
実際は、さっきソニアを助けるためにしたことのスケールを大きくしただけだ。船に迫って来ていた触手の大部分を巻き込むようにして『箱』を展開したのだ。




