第六十一話 白と藍の境界に
「シェー——!」
「——シェィーッ!」
——白い砂の大地から響く鳴き声に、イドラは追憶から顔を上げる。
砂をかき分け、まるで海中の鮫のように背びれだけを地表に晒しながら、地中を泳ぐ群れがあった。それらは独特の鳴き声を上げ、イドラたちの周囲を取り囲むようにして接近する。
「またこいつらか、これで何度目だ?」
「えっと……昨日に続いて七回目です!」
「フン、まったくろくでもない場所だ。戦闘を頼むぞ、皆の衆」
「お前っ、戦い全部僕たち任せにしやがって……!」
「手を貸したいのはやまやまなのだがな? 見ての通り、その手に枷がはめられているのではどうしようもない。それともベルチャーナ君に頼んで外してもらうかね、この眼の拘束も」
「く……」
イドラは右の腰から、マイナスナイフではない通常のナイフを取り出す。
不死殺しの専門は不死、イモータルだ。襲ってきたこの砂を泳ぐ者たちは、一種の魔物で、レツェリによれば名をシェイと言うそうだった。鳴き声そのままだ。
魔物相手では、マイナスナイフは傷のひとつもつけられない。かつて故郷で友人に揶揄されたザコギフトそのものだ。
レツェリの万物停滞があれば、まるっきり使えないイドラのマイナスナイフよりはいくらか効果的に働くだろう。
だがそれには、レツェリの拘束を解かねばならない。それがどれだけ危険なことか、考えるまでもなかった。
手の枷などこの際どうでもいい。あの眼だけは、解放してはならない。
あの聖堂で勝ちを拾えたのは決して偶然ではなかったが、二度目があるとは思えなかった。マイナスナイフの真の能力を知悉された今、ソニアとベルチャーナで三人がかりで挑もうとも、状況次第では容易く返り討ちにされる気さえする。
「しょうがないな、くそ。僕たちだけで倒すしかないか……!」
それほどまでに、イドラはレツェリの眼を警戒していた。
あのミロウを無傷で倒した男だ。手さえ触れず、少しの距離を開けていても、レツェリのギフトは人体を容易く切断する。まさに怪物の技と言えた。
「ひそひそ……でもさあソニアちゃん……ぶっちゃけイドラちゃんてば魔物相手だと普通のナイフしか使えないし、そんなに頼りにならないよね…………元司教につっかかってるけど正直ベルちゃんたちの負担のがおっきいっていうか」
「ひそひそ……だめですよ、ベルチャーナさん。イドラさんは魔物相手だと役立たずになっちゃうの、結構気にしてるんですから……」
「聞こえてる聞こえてる。全然聞こえてるよそれ」
二人は口でひそひそ言ってるだけで、別に声量を抑えているわけではなかった。
そうこうしているうちに、砂の中からシェイたちは飛び出し、水面を跳ねるようにイドラたちを襲う。
シェイは獰猛な魔物だった。群れを作り、目についた獲物を襲い、肉を喰い散らかしてはまた次の獲物を探す。昼行性で、砂漠に日の昇る間はずっとそうしている。
しかしそんな小魚たちが束になったところで、もっと大きな魔物を相手取ることも多いエクソシストや、イモータルを殺す人間相手に敵うはずもなく。流れ作業のように、一行は危うげなく砂の魚たちを倒し終えた。
討伐数で言えばベルチャーナがもっとも多い。協会のマークが入った小さな短刀と、魔物を誘導する聖水なんかを使って的確にシェイを砂から引き上げて潰していった。
ソニアも多くのシェイを殺した。向かってくるシェイをかたっぱしから斬り捨てるだけの動体視力と運動能力が彼女には備わっている。
イドラはがんばったが二匹刺し殺すのがやっとだった。ちょっと落ち込んだ。
「いてっ? うわ……しかも怪我させられてる」
おまけに、突っ込んでくるシェイが掠りでもしたのか、気付かないうちに腕から血が垂れていた。
二匹しか倒せてないうえ、被弾までした。やや情けない気持ちで、傷を治すべくイドラはマイナスナイフを取り出す。
「わー待って待って。ベルちゃんが治したげるから」
「そうか? すまん」
傷口に青い負数を振り下ろそうとしたところで、ベルチャーナがそれを止めた。
とてとてと駆け寄ってきて、胸元を寄せてくる。彼女が首から下げるペンダント。その先にあるのは、銀色のリング——ベルチャーナのギフト、ヒーリングリングだ。
銀色の輪からほのかな光が放たれる。傷口にぽかぽかとした暖かさが広がり、しばしすると傷が塞がった。
「はいっ、終わり! このくらいの怪我なら、イドラちゃんのギフトじゃなくたって治せるんだから。この方が痛みもなくていいでしょ?」
「……ああ。ありがとう」
礼を言うと、浅葱色の大きな瞳は一度ぱちりと瞬く。それからイドラを見て、いつものように笑顔を返した。
*
ハンドク砂漠を歩いていてしょっちゅう襲ってくるシェイたちは、砂の上で手に入る数少ない食糧でもあった。
数少ないというのは、砂漠において巡り合う機会に乏しい、ということでもあるが、同時に一匹の可食部に乏しいということでもあった。
魔物はマズい。例外はない。シェイもマズい。筋だらけで食べづらく臭いし身はパッサパサしていてオマケに噛んでいるとジャリッと砂の食感がたまにする。
だがそうであっても、旅において貴重な、その場で調達できる肉だった。
それから夜の砂漠は冷える。食後は速やかに、毛布にくるまって寝るべきだ。
布一枚では防ぎきれないほどの冷気だったが、少し前まで吹雪に見舞われる過酷な寒地にいただけあり、砂漠の冷え程度はものともしない。イドラもすぐに眠りに落ち——
しばしして目が覚めた。
「……」
毛布越しに冷え切った砂を感じる。日光を遮るものがなく乾燥した砂漠では、日が落ちた途端に地面の温度は失われる。
砂の冷たさは、体温を根こそぎ奪っていくようだった。
「……さっむ」
ものともしないなんてことはなかった。吹雪の中よりマシであっても、寒いものは寒い。
仕方がないのでもぞもぞ布団から出て、ちらりと同行者の確認をする。皆、そう離れていないところで寝ているはずだった。
ソニアは……すやすやと寝ている。もう発作に襲われることもなく、この寒さの中でも気持ちよさそうな眠りだ。
レツェリもまた、イドラに背を向けて眠っていた。寝ている時は嫌味を口にしないのでよかった。ずっと寝てればいいのにと思った。
ベルチャーナは——いない。
「あれ?」
いくら周囲を見渡しても、ベルチャーナはいなかった。
どこへ行ったのだろう。イドラは毛布を抜け出て、小さな砂の丘陵に登って軽く辺りを見回してみた。
「おっと。ここにいたのか」
「わ。イドラちゃんか、びっくりしたぁ」
彼女はそのなだらかな斜面に座り込み、月に照らされる地平を眺めていた。ちょうど死角になっていたのでイドラは頂上に登るまで気が付かず、またベルチャーナも突然背後から現れたイドラにいささか驚いたようだった。
「どうしたんだ、眠れないのか?」
「ん、ちょっと寒くて目が覚めちゃって。……ほら、せっかくだから見てよ。向こうの方」
「——」
座ったまま、ベルチャーナが遠くを指差す。つられてそちらに視線をやる。
そこでイドラは初めて夜景に目を向け、思わず息を呑んだ。
時折起伏を作りながらも、無限と見紛うほどに大きく広がる砂の大地。それを藍の夜空で輝く丸い月が、白く白く照らしていた。
満月だったことさえ気づいていなかった。
星々が装飾する夜空の藍色と、月光に濡らされる砂の白色。世界を分かつような二色のコントラストにイドラは圧倒され、少しの間言葉を失う。
「……綺麗だな」
「うん。知らなかったな、わたし。こんな景色があったなんて」
そう言って彼方を見やるベルチャーナは、どこか無防備で、素を出しているように見えた。
きっと正しい。なぜなら、彼女が自分のことを『わたし』と呼ぶのはごく稀だ。
ふとイドラは、ひどく今さらな疑問が胸中に湧き出てくるのを感じた。
「なあ、なんでベルチャーナはエクソシストになったんだ?」
「藪から棒だねー」
「なんとなく気になっただけだ。そういえば、訊いたことがなかった」
あるいはその質問は、このタイミングでなければはぐらかされる類のものかもしれなかった。
同じ景色を共有したベルチャーナは、一度細く息を吐いて——
「復讐」
砂の海と夜空の境を見つめながらぽつりと言う。




