第五十三話 再会は一通の手紙から
ミロウがその手紙を持って永一の宿を訪ねてきたのは、レツェリの悪行が明るみとなったあの夜から実にひと月が経過したころだった。
「しばらくぶりです。ソニアも……顔色、ずいぶんとよくなりましたわね。よかった」
ここのところずっとイドラは、ソニアの部屋にいた。
看病のためだ。レツェリの身柄が移送される前に、ソニアのイモータル化を完治させる方法を聞き出していた。
現在、監獄の鉄格子の向こうにいるはずのあの男は、素直にそれをイドラへ伝えた。
イドラが殺したイモータルが遺す砂。白砂を球体に加工したコアが、胎の中に埋め込まれている。それを取り除いた。無論、傷を治せるイドラのマイナスナイフがなければ危険極まりない開腹手術だったのは言うまでもない。
「ミロウさん! お久しぶりですっ」
ソニアはベッドを下り、とてとてとドアのそばに立つミロウへ近づく。
コアを取り除いた翌日から、ソニアは熱を出して寝込んだ。不死の源泉が失われ、肉体が調子を崩したのだ。熱や疲ればかりはマイナスナイフでもどうにもならない。そこでイドラが甲斐甲斐しく看病を続けているのだが……施術から既にひと月、体調はほぼ完治と言ってよかった。
「ミロウの方こそ、元気そうだな」
「ええ。あの日、イドラがマイナスナイフで傷を塞いでくれたおかげです」
「……だけど、そのせいで腕は」
ミロウが身を包む一片の汚れもない白いローブには、左袖がなかった。そして、通すべき腕さえも同様に。
彼女の左腕は、レツェリのギフトによって断ち切られた。それはもう戻らない。
欠損した肩から先を見ると、イドラはつい胸に痛みを覚えた。
「そんな顔をしないでください。この腕は……わたくしの、罪の証です。間違いを証明するものです。欠けた腕が痛むたび、わたくしは過ちを忘れずに済む」
これでよかったのです、と。ミロウは落ち着いた、悔いのない表情で微笑んだ。
しかしすぐ、表情をキッと引きしめる。普段の彼女らしい、冷静なエクソシストとしての顔。今はレツェリがいなくなり、司教代行と役職を改めていたが。
「久闊を叙するのはこのくらいでよいでしょう。わたくしがあなたたちを訪ねたのは、協会へ届いたこちらをお見せするためです」
「これは……手紙、ですか?」
「なに?」
ミロウが封筒から取り出したのは、一枚のなんの変哲もない便箋だった。
ちらりと見えた、封筒に押されていた大仰な赤い押印が、やけにイドラに不吉な予感めいたものをよぎらせた。
「中は検閲が済んでいますし、わたくしも確認しました。そのうえで……判断はあなたにお任せします」
「検閲って言ったか? それは、つまり」
「ええ。差出人は前司教にして罪人、レツェリ。この手紙は、獄中からあなたに向けて書かれたものです。ただ送り先がわからないので協会を経由させたのでしょう」
「あの人から、手紙が……?」
ソニアが声をわずかに震わせる。
ひと月経てども、あの男の脅威と恐怖は忘れられるものではない。
万物停滞。赤い左眼は、空間を区切り、時間を滞らせることであらゆる動体を断裂させるあまりに強力な天恵だった。
しかし真に恐ろしいのは、ギフトではなくレツェリ自身だ。
自身の代謝を滞らせ、百年以上を生き、その思想は鋼より硬い強靭さを備えている。
不死。それによって、救われようとしていた。
そんなもので人は救われないと、イドラは思う。しかしあの男は、無限の時間があらゆる問題を解決するのだと信じきっていた。
「どういうつもりだ、あいつ。いや、ろくなことを考えていないに決まってる」
あの月光の差す礼拝室で、勝敗は確かに決した。イドラのマイナスナイフに宿る真の能力、空間斬裂による跳躍や、ソニアとワダツミのおかげでなんとかレツェリを倒すことができた。
だが、心まで折れたわけではない。
イドラは確信していた。百年も同じ願いを持ち続けた怪物が、少し檻に閉じ込められた程度で考えを直すはずがない。
「で、でも、読まずに捨てるというわけにも……」
「読むだけ読んでみる、か。……気は進まないが」
ミロウは頷き、びっしりと几帳面そうな字で埋められたその紙を手渡した。ソニアにも見えるよう少し屈んでやりながら、イドラは文面に目を通す。
そこには定型的かつ空虚な時候の挨拶を前置きとした、悪魔の誘惑が綴られていた。
『私はビオス教に伝わるところの、箱船の在りかを知っている』
イドラの目的。雲の上、神の国へ届く道。
『果ての海に沈むそれを、かつて私は人知れず確認した。海上に密かに印を打った』
「実在して……場所を知っているっていうのか、レツェリは!?」
曰く、神の国は彼方にある。
曰く、箱船は神の国への道を示す。
曰く、道は沈む世界のどこからでも見ることができる。
神の怒りによって起こる大洪水——マッドフラッド。聖堂の書庫で読んだことを思い出す。
箱船こそが、海に沈む世界に訪れる救いであり、神の国への道を作る。しかし洪水が起こるのを何百何千年と待つわけにもいかず、結局イドラは行き詰まっていた。
この手紙はそんなイドラへ垂らされた蜘蛛の糸だ。ただし手繰る先にいるのは、蜘蛛ではなく悪魔。
『ロトコル教にはない教えだ。理由をつけて本部、トワ大陸の大聖堂の資料まで漁ったが箱船の記述は皆無だった。それだけに、この目で見るまで信徒に乏しいバカのマイナー宗教が生んだ嘘八百だとばかり思っていたが——』
「コイツ言いたい放題だな……」
『——実在を確認してしまえば、もはや疑いの余地もない。イドラ。望みを叶えたくば、この私を同行させることだ。ソニアの不死は祓ったのだから、遺恨もないはずだ』
「遺恨はない、だと」
思わず手紙を握る手に力が入り、脆い紙面にぐちゃりと細いしわが刻まれる。
確かにソニアからは不死の源泉が取り除かれた。
——しかしそれで、すべてが元通りになどなるはずがない!
不死憑きと呼ばれ、蔑まれていたことも。両親と離ればなれになったことも。深い深い心の傷も、失った時間も、真っ白くなってしまった髪も……なかったことにはなりはしない。
『どうか懸命な判断を期待する』
文面の最後は、そんな一言でくくられていた。
なにが懸命な判断だ。どの面を下げて抜かしている。同行を要求するということは、檻の外へあの男を出すということだ。
隙を見て逃げ出すつもりに決まっている。あの男にあるのは狂気の欲望だけだ。
イドラは手紙をこの場でびりびりに破り捨て、なにも見なかったことにしたい衝動に駆られたが、便箋を握る手にそっと小さな手が重ねられ、そうすることはできなかった。
「イドラさん。……わたしのために怒ってくれるのは嬉しいですけど、でもあの人の言うことが本当なら、これはイドラさんにとってチャンスのはずです」
「それは、でも」
「ウラシマさんの遺言の真意に近づくまたとない機会。それを、わたしのせいで無為にはしたくないです。せっかくわたしにかかずらうこともなくなったんですから」
「かかずらうだなんて、そんなことを思ったことはない。僕は……」
「だけどわたしに付き合ったりなんてしたせいで、一か月以上もこのデーグラムから動けてないのは事実じゃないですか」
「う——」
出会ったころに比べれば、ソニアもずいぶんと言うようになった。
イドラは旅人だった。イモータルを殺し、塵へと変える逃避と贖罪の旅。
しかし、例の看病のこともあり、スクレイピーを殺したあの日から拠点はずっとデーグラムだ。宿こそ移ったものの。
言い負かされたイドラに、ソニアはくすりと笑う。
「わたしだってあの人とかかわるのは嫌です。あんな危険なひと、怖いし、イドラさんの前にいてほしくないって思います。それでも」
「ああ。ソニアの言う通りだ。それでも……僕は、雲の上を見なくてはならない」
たとえ罠でも。嘘でも。詭弁でも。
本当の可能性がわずかにでもあるのなら、その蜘蛛の糸を掴まねばならない。雲の上に行くために。
星のない曇天の庭で、大切な恩人が遺した言葉だから。イドラにはそうする必要がある。
「……私見ですが。まったくの空言でも、ないとわたくしは思います。この手紙は監獄で検閲され、協会を通すことでわたくしの目にも通されます」
「そうか。そんな多くの目に触れるところに、レツェリはビオス教の秘密を」
「はい。人によっては大きく重要な情報を握っているのだと、周囲に知られるリスクを冒してでも、彼はイドラへ接触しようとしています」
「ビオス教の箱船……そこへ道案内を買って出てるんですよね、あの人は。やっぱり逃げるつもりなんでしょうか」
「おそらくは。ですが牢の外に出すといっても、決して自由にするわけではありません。拘束具は必ず着けさせます。また、前司教が絡む以上協会も無関係ではいられません。監視役をひとり、同行させましょう」
「監視役?」
「ええ。言っておきますがわたくしではありませんから。……行けるものなら、行きたいのですが。またあの時のように」
言葉尻は小さく、ぼやくように言う。どうやら司教代行の仕事はとても多忙で、とても聖堂を離れられる状況ではないらしい。
「ですが、信頼できる人物を約束します」
「そりゃ助かる。手紙によれば箱船があるのは海の底……船を出す必要がある、か。具体的な場所を書いてないのがむかつくな」
「そればかりは他人の目に入れさせたくなかったのでしょうね。直接会って訊くほかないでしょう」
「……またあいつと顔を合わせるのか」
「でも悪いことばかりじゃないですよ」
気が重いと苦笑するイドラに、ソニアが明るく声をかける。彼女の方こそレツェリと会うのは嫌だろうに、ソニアは、陽だまりのような笑顔で言った。
「久しぶりの旅になります。わたし、イドラさんと遠くに行くの楽しみですっ」
もうソニアに発作はない。不死の鼓動は、彼女の内から消え失せている。
負数の刃で発作を鎮めてやらねば、命さえ危うかったあの危機は去った。今のソニアに依存の理由はなく、イドラのそばにいる必要性もなくなった。
それでも当たり前のように、ソニアは同行してくれる気でいる。そのことがイドラの胸に、形容しがたい温かな気持ちを湧かせるのだった。




