あの日過ぎ去りし風は今も彼方を過ぎる
ヴェンゼル少年の生誕10周年の祝いの席から数週間後。
ヴェンティは自室にて机に向き合い座っていた。
開いたままの教材に向く目は暗く、集中力を欠き、読むどころか見るでもなく、最早ただ眺めるという表現が一番当てはまる有様で、時折口からは小さく、されど重たい息が流れ出る。
その原因は勿論のことあの日の事件。あの日を境にヴェンティの周囲は一変した。
先ず1週間は自室に閉じ籠もって過ごしていた。〝閉じ籠る〟と言えば自主的にも聞こえるが、実態は軟禁状態。父からは外出を強く禁じられ、そんな時にコッソリと連れ出してくれていた祖父からでさえ暫くは部屋から出るなと言い聞かされていた。
ヴェンティには行きたい場所があった。会いたい人がいた。
あの日、意図せずとはいえども傷付けてしまった長兄。
それは何も外傷だけの話では無い。あの日、あの場所、あの場面で。ヴェンティは勝ってはいけなかった。
その時は尊敬する兄の剣技を間近で見れる事とその兄と剣を交える事に喜びしか無く、また、この頃はまだ祖父に伸ばされた自身の才に自覚も無かった。なにより兄だけではなく自分もこれまで努力し、力を付けているのだと……………父も観ている、兄にも教えたい…………僕も貴方達に追い付きたくて頑張っています…………そう示したいという欲もあった。
それは自己掲示欲などとは呼びたくもない、幼く、ただただ健気な感情。
いいや、全ては言い訳にしかならないのだろう。
いみじくもファルヴェが言った通り。
起こった事それそのものが事実。
ヴェンティは、ヴェンゼルの顔に泥を塗り、誇りを傷付けてしまったのだ。
あの時、別の事に夢中になって忘れてしまってはいたが、ヴェンティは負けなくてはならなかったのだ。軟禁の1週間で冷静に考えたヴェンティにもそれが解っていた。
それを差し置いたとしても、だ。こんな出来損ないの自分にも、父から隠れてだが優しく接してくれる敬愛する長兄に怪我を負わせてしまった事を謝りたかった。
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軟禁されてからきっちり1週間後。ファルヴェがヴェンの部屋に来た。何やら酷く疲れを滲ませる表情だったが、それもすぐさま名を呼び笑いかける仕草に隠れてしまった為、ヴェンはそれに気付く事は無かった。
「ヴェンや。どうしてた?」
「お祖父様!」
「ほっほ。元気は有りそうじゃな。じゃが寂しかったろうに。済まなかったの」
「いいえ。レヴィンが剣を教えてくれました」
「レヴィンが?」
レヴィン・シルヴァリア
ルドラシア家の分家の一つ。シルヴァリア家は血筋としてはルドラシア家からは幾分離れており、その分爵位は低く、代々ルドラシア本家の者一人に対して、付き人として一人をシルヴィア家から輩出している。
レヴィンも例に漏れず、当代であるファルヴェに仕えていた。
レヴィンはファルヴェと同じ年に産まれた。その為、幼少より共に育ち、主従を超えて互いに親友であると公言する程の関係を築いていた。と言っても『互いに親友同士である』と言葉にして発するのはファルヴェの方だけ。
レヴィンは、まるでファルヴェの足りない物を補うかの様に、いつでも真摯な…………いやいや、ハッキリと言っておこう。所謂〝お堅い〟男だった。
柔軟な考え方が出来ない不器用な男という訳ではないのだが、一度自分が『正しい』と思った事に対してはどこまでも妥協をしない人間。
シルヴァリア家はルドラシア家としては血が薄いが故か、雷の属性偏向を持つ者が少ない。そしてもう一つの分家であるアジスキア家が魔導に重きを置くのに対し、シルヴァリア家は剣術に重きを置く。 そうなると自然と雷を使わない〝風妖精ノ雷撃〟を代々扱って来た。
それを踏まえ、ファルヴェは嘗てレヴィンに頼み事をした事があった。『自分が所用で不在の際、ヴェンティに剣を教えてやって欲しい』と。
その時の返答は〝No〟。
曰く、『風しか扱えぬからと言って雷を一切使わない〝風妖精ノ雷撃〟を教える事は、学園でも提唱している〝将来性の縮小〟に繋がる』と。
〝頼み事〟と表現したが、厳密に言えばファルヴェとレヴィンの関係性からして〝指示〟であり〝命令〟である。
それを押してまで、レヴィンはヴェンティに剣を教える事を拒んだのだ。 先の事はどうなるかは誰にも判らない。ならばせめてヴェンティ様の未来を狭める事なく、今というこの幼少の時くらいは幅広く学ぶべきである、と。
そのレヴィンが、ヴェンティに剣を教えていたのだと言う。
「差し出がましい真似を」
「何を言うか。相も変わらず堅苦しい男じゃて。その程度の些細な事で儂がヘソを曲げるとでも思うておるんか。ありがとうの」
シワの寄った目尻を少し下げ、瞑目し僅かに首を下げるレヴィン。
「ふむ、そうかそうか。暇を持て余しておるのではないかと心配しておったがそれは良かった。どうじゃった? レヴィンの剣技は。純粋な剣のみの腕前ならば儂も歯が立たんぞ。儂と違って余計な話もせんから教えるのも上手いしのう」
「はいっ! とても有意義な時間でした!」
「う……うむ………最後のは否定して欲しかったのじゃが………まぁそんな事は良い。ある程度の落ち着きはした。今日で外出禁止も終わりじゃヴェン。どこか行きたいところは無いのか?」
「良いのですか?」
「うむ。流石に一人では行かせたく無いが、儂はまだやらねばならん事があっての。一緒には行けなんだが、レヴィンに付いて行って貰いなさい」
「……………兄上にお会いしたいです」
「…………ヴェンゼルか。…………そうじゃな。ヴェンゼルはこの時間ならば執務教育ではなかったか?」
ファルヴェがレヴィンに目を向ける。
「ヴェンゼル様ならばこの時間は演練場に居られるかと」
「…………そうなのか?」
「ええ。あの日からこの方」
「…………成る程の。良し、ヴェンティや。レヴィンに連れて行って貰いなさい」
「はい!!」
ようやく兄と会える。喜びも露わに扉へと駆けるヴェンと、恭しく一礼してヴェンを追うレヴィン。
それを見送るファルヴェの目には、また少し疲れが滲んでいた。
ルドラシア邸の広い廊下を短い足で精一杯早く歩くヴェン。その少し後ろを悠々と歩くレヴィン。
「兄上は元気かな? 怪我は良くなっただろうか?」
「当日には目を覚まされておいででした。翌日には普段と変わらぬ立ち振る舞いを」
「きっと痛かったよね」
「それは本人でなければ判らぬ事ですな」
「兄上は許してくれるかな?」
「それも謝ってみなければ判らぬ事です」
ヴェンティは、祖父と同い歳であるというこの翁の事はあまり好きでは無かった。ルドラシア家の人間とは必要最低限の受け応えしかせず、その必要最低限の応対ですら祖父に対する時以外は当たり障りの無い事しか発言しない。表情も動かない。家臣としては優秀な事なのかも知れないが、日がな笑顔で冗談ばかりの祖父と話すヴェンにとってはつまらないとしか映らなかった。
そんな相手にこうして楽しげに話し掛ける姿からも、どれだけヴェンティが長兄に会いたがっていたのかが伺えるという物で。
浮き足立つままにルドラシア家の敷地内にある演練場へと入場する。
「あっ! 兄上!」
風通しが良い様に天井が取り払われ、芝生が敷き詰められている。さながら観客席の無い円形のサッカーグラウンドの様なその場所の中心部。そこに鬼気迫る表情で滝の様な汗を流しながら剣を振るうヴェンゼルが居た。
駆け寄るヴェンティ。
呼ばれ、誰かが近付く気配を感じてピタリと剣を止めて声に振り返るヴェンゼル。
満面の笑みで近寄るそれが誰なのか気が付いた瞬間、ヴェンゼルはギョッと身を強張らせた。そして 叫ぶ。広い演練場で尚 響き渡る、悲鳴にも似た、絶叫。
「───っ近寄るなァ!!!」
「 !!? 」
ヴェンティの気持ちを表す浮き足立った駆け足はピタリと止まり、顔には困惑の表情が浮かび上がる。
何故?
やはり怒らせてしまったのだろうか?
兄にまで嫌われてしまったのだろうか?
「あ…………兄上?」
父が自分を罵倒し、その横で下の兄がニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて合いの手でも入れる様に悪様に罵っている時でさえ、長兄だけは何も言わずに目を閉じて横を向いていた。後でこっそりとお菓子を持って部屋に来て励ましてくれた。
そんな優しい兄にまで 嫌われてしまったのだろうか。
ヴェンティは、視界が滲みぼやけるのを感じた。ヴェンゼルがどんな表情を浮かべているのかすら見えない。
「……………済まないレヴィン、連れて行ってくれ」
「はっ」
ヴェンゼルに従い、ボロボロと涙を溢すヴェンティの背をそっと押して。
ヴェンティは親愛なる長兄と一言も話す事も出来ずに、演練場を後にした。
最後に聞こえたヴェンゼルの声は
どこか震えている様な気がした
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「……………はぁ」
思い出しては溜息を放つヴェンティ。
集中しよう。
別の事を考えれば気が紛れる筈だ。
普段嫌々ながらに読む教本だって今ならいい気分転換になるだろう。
もう何度目かも判らない頭を振る動作。目を落とす文字の羅列は、自分でも思ってる通り嫌々読み進める物で。所詮はそんな物が鬱屈たる気分を忘れさせる効果を持っている訳が無かったのだ。
教科書に目を落とし、モヤモヤと頭に浮かび上がるのは別の日の光景。
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ヴェンゼルに拒絶されてから数日。
基礎学校にも行かずに自室に塞ぎ込んでいた所を祖父に諭されて漸く重い腰を上げたその初日。
通学路を歩いていると、ヒソヒソと遠巻きにヴェンティを見ながら話す同学年の子供達が散見された。
同じ学年の子達だけでは無い。中には上級生達まであからさまな侮蔑の視線を寄越してくる。果てはいつも挨拶を交わす程度の仲だった者達まで近寄る事も無い。
理由はヴェンティには解らない。まさかあの出来事が知れ渡っているなどとは思いもしない。だがその事に負い目を感じているヴェンティとしてはどうにも居心地がよろしくない。
落ち着かない気持ちのまま教室へと入る。入った途端に教室中の視線がヴェンティに集まり、それまでガヤガヤと幼い声音で巻き起こっていた授業開始前の喧騒がピタリと止んだ。一瞬の静寂。そして霧散する視戦と再開する喧騒。
なんだかいたたまれない気持ちが増す。
幸いな事に、周囲に誰も寄り付かない席に着席してすぐに教師が入って来てその日の授業が始まった。
「はい皆さんお静かに。授業を始めるよ。おや? ヴェン君! 来てくれたんだね! 良かった心配していたんだよ」
教室を見渡しヴェンティを見つけると朗らかに笑いかけて心底嬉しそうに話し掛ける教師。何やらタブレットを操作する。
「えーと、1週間とちょっとか…………うん、これくらいならすぐに取り戻せるね。ヴェン君と仲がいいといえば……………ソレイル君、済まないが空き時間にヴェン君に居なかった分の勉強を教えてあげてくれないかい?」
「…………はーい」
「良し。ヴェン君、ソレイル君に教えて貰ってまだ解らない事があったら私のところまで来るように。いいね?」
「はい」
「うん!では、今日の授業を始めるよ」
快活な笑顔を見せて背後を向き黒板に向き合う担当教師。性善説を信じて止まない彼には、ソレイル少年の抑揚の無い返事に含まれた後ろ暗さに気が付く事は出来なかった。
昼休み。食事を終えて早速ソレイルに話し掛けようとしたヴェンティだったが、ソレイル達の様子がいつもと違う事に気が付く。 授業が始まり、すっかり頭から抜けてしまっていた、朝から感じてた違和感。
誰も目を合わせてくれない。
「あ…………ソレイル君……?」
「よしっ、じゃあ行こうぜ」
ヴェンティが近付いて話しかけた途端に、立ち上がり取り巻き達を連れてそそくさと立ち去るソレイル。
取り巻き達の中にはあからさまにヴェンティに侮蔑を込めた一瞥を投げ掛ける者まで居た。
ヴェンティにも判った。
それは、無視だった。
近付くなとでも言いたげな、拒絶を前面に押し出した無視。
ショックだった。
そんな態度は父や次兄からはいつでも何度でも受けて来た。それでも、この頼りになるクラスメイト達からされた事は一度も無かった。
『おれ達は上級貴族の子息として同じ歳に産まれた。これから先もきっとずっと〝貴族〟として隣にいる事になる。つまり、〝仲間〟だ!』
かつてソレイルが、同級生の上級貴族の子達を集め、グループを作った際にそう宣言した。
友達と仲間の区別がつかなかったヴェンティにも、そのニュアンスは何となくだが伝わった。
それは〝友達〟よりも上の、大切な絆なのだと。
敬愛する兄に対するそれともまた違う、しかし同じくらいに大切な物なのだろう と。
父に疎まれ、下の兄に蔑まれ、取り巻き達からも冷たい視線を浴びせられ。
そんな環境に居たヴェンティにとって、ファルヴェとヴェンゼル以外に自分という存在を認めてくれる者が居た事は救いだった。そんな者達からのその言葉は、ヴェンティにとっては宝物だったのだ。
「どうして無視するの……? みんな……どうして?」
初めて無視をされてから数日。思い当たる節はあった。原因は解っている。それでも何日かしたらまた話をしてくれる。そう思っていたヴェンティは、いつまでも続く苦しみに耐え切れずにそう問うた。
「………寄るなよクズ」
「───っ!」
「そうだ!お前が居るとおれ達までおんなじ目で見られるんだ!」
「おれ達はお前と違って落ちこぼれなんかじゃないんだ」
「将来ちゃんとした貴族になるんだ。邪魔するなよ」
「……………!」
解らない…………
解らない。
いつだって平等に接してくれていた者達。
それが今はカラスに散らかされた生ゴミでも見る様な目を向けて来る。
失敗してもテストで悪い点を取っても転んでも、苦笑いはすれども『しょうがないやつだな』と手を差し伸べてくれた者達がなぜ………
「おれの兄上から聞いたぞヴェン。お前、自分の兄のパーティでヴェンゼル様の顔に泥を塗ったんだってな」
「………! で、でもっ」
「でも? 言い訳なら聞く気はないぞ。貴族のたしなみもこなせないやつはおれ達のグループにはいらない」
「───そ、そんな!」
「だいたいお前、落ちこぼれなんだってな。父上からも聞いたぞ。ルドラシア家といってもその数に数えられる事の無い出来そこないなんだって? だましやがって」
ソレイルのその言葉で、グループの取り巻き達の表情が変わった。蔑む目は変わらないが、ニヤニヤと下卑た表情が目立ち始める。
「で、でも! みんな言ったじゃないか!ソレイル君も言ったよね!? 〝仲間〟だって!! 誰も見捨てないって! そう言った!!」
ヴェンティは必死に叫ぶ。
それは、悲鳴だった。
張り裂けそうになる心を護る為の 悲鳴。
「だまれよ。お前をグループに誘ったのはお前が〝ルドラシア家〟だからだ。三男とはいえお前がルドラシア家の子息だから入れてやったんだ。それなのにお前は出来損ないだって事をだまってた。おれ達をだましてたんだ。うらぎり者が。貴族と認められてないお前になんかなんの価値もない。お前なんか仲間じゃない」
「……!?……………!!?」
ヴェンティの顔が、段階を経て歪む。
嘘だ……そんなの……聞き間違いだ。そうでしょう?
そんな事を思い、しかし目の前の彼等の表情で悟り。
違う!そんな訳がない。認めない!
そう心で否定しても、誰も何も言わず。
僕は信じない!きっと冗談だ!信じない!
信じたくない………されどソレイルから向けられる視線は雄弁で。
〝仲間だ〟って………そう言ってくれたじゃないか……
終には、大粒の涙がボロボロと溢れ出てきた。
「うっ……うぅっ………」
「おちこぼれの上に泣き虫か。出てけよヴェン。二度とおれ達に話し掛けるな」
ヴェンティは走り出した。
心にしまった大切な宝物は偽物だった。
元よりヒビが入り今にも割れそうだった宝物は今日、粉々に砕け散った。
嗚咽混じりに必死にひた走り、屋敷の自室まで逃げ込んで、ベッドに突っ伏して大声で泣いた。泣いて泣いて泣き疲れて気絶するかの様に眠りにつくまで泣いた。
レヴィンが何か話しかけて来た気もしたが、気のせいだったかも知れない。
いつもならすぐに駆け付けて優しく抱きしめてくれるファルヴェは その日は来なかった。
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「はぁ…………」
あの日から、ヴェンは基礎学校に行けなくなった。
行かなく じゃなく、行けなくなった。
行かなきゃダメだとは理解している。
だが、いざ登校しようとすると、腹の辺りが苦しくなり、朝食を吐き戻してしまう様になった。
ファルヴェは、また何やら忙しそうで。ヴェンティに会いにすら来てくれない。
今、すぐにでもファルヴェに聞きたい事があった。教えて欲しい事があった。
「………………〝仲間〟って………何なんだろう………」
暗い部屋の中に、ヴェンティの声が小さく響いた。




