影の雑草観察記①
力元素とは何なのだろう。
知る為には何をすれば良い。
一人悩むヨツバを他所に動き出す〝影〟。
ひっそりと忍び寄る〝影〟は何を見て、何を思うのか。
「カゲヨシ。居るでしょう?」
「ここに」
フレイア様から、万が一に備えてイル様の護衛と心煌 四ツ葉の監視の任務を受けていた。
全力の隠蔽をしていたのにバレている。否、どうせ居るだろうと確信を持っていただけか。
何れにせよ俺はイル様の影。呼びかけに応じない訳にはいかない。
話の内容は任務の上書き。医務室に向かいメルア殿に連絡を。
その後は…………任務終了か。フレイア様からの命は上書きされた。おまけにその内容である護衛対象から必要ないとまで言われている。
だが、継続監視しよう。幸い今はさしたる任務も無い。本体が勝手に動く事も戸惑われるが分身を1人監視に当たらせる程度なら問題ないだろう。任務外で人を監視するなどいつ以来か。
何を考えているのか読めない
底が知れない
そう感じたのだ。
先程コイツが漏らした殺気が気になる。どうにも違和感を拭えない。 殺気と言うには幾分か鋭さに欠けていた。物理的に危害を加えようという気は感じられなかった。
それなのに、漏れ出たにしては濃密。粘着質に絡みつく様な負の感情は、知覚強化を使わずとも可視化出来るのではと疑う程だった。
あんな殺気は感じた事がない。そもそもコイツは力元素が一般的に認知されていない地球の出だろう。歪とはいえども殺気を放つなど、得体が知れない。
これが職業病と言う物なのか、これに付いては情報収集をしておかないと心が休まらない。
学園で〝影〟に就任してこの方、編入者に相対する事が非常に多い。
その中で地球からの編入者は特に人格が酷いという印象を受ける。
利己的で身勝手
短気で暴力的
夢と現実の区別が付いていない
自意識過剰の上に自信過剰
短絡的で危機意識が甘い
他者を見下す
理由を挙げればキリがない。どうせこの男もそうだろうと思っていた。
技能付与が終わればこの殊勝な態度も形を潜め、得た技能に物を言わせて横暴な態度に出る。
そう、思っていた。
要らない? 技能だぞ? 喉から手が出る程に欲する者も居る。加えていつもの地球出身の編入者ならその事しか考えていない程に依存する。
それを 必要無いと言ってのけた。
…………有用性を知らないのかもしれない。それ以外に考えられない。知った途端に騒ぎ出すのだろう。随分な御託を並べ立てていたがそうに違いない。
そう考えていると無意識の内に心煌 四ツ葉を注視してしまっていた様だ。
「どうしたの?」
っ……! 既に指示を受けている、動かなくては。
「いいえ、すぐに」
技能:隠密にて完全に気配を消しながら医務室へと足を向けた。
・
・
・
任務を終え、帰路に着く。
結局、あの後レイヴンからの報告を受け、別の任務に就いていた。
レイヴン。寡黙で任務に関連する報告や情報提示以外で口を開いている所を見た事がない。口が堅いという点は影としてはいい事だ。実力も申し分ない。地球出身の編入者だがアイツだけは信用できる。
そのレイヴンからの報告内容が3つ。
S.R.L.から禁書が盗み出された。
時ノ十二王内で非公式の密会が行われる。
九尾の山にて動きがあった。
どれも捨て置けはしない内容だった。
一つ目、禁書の件。状況を考えると隠密行動に長けた者でなければ不可能な犯行。引き続き調査は行われる予定だがこれ以上の情報は出ないだろう。
二つ目。蓋を開けてみれば何とも馬鹿馬鹿しい内容だった。無駄足も良いところだ。〝花ノ魔導士〟がどうやらデートに誘い出された。それに嫉妬したファンクラブの男が流したデマ。邪魔をしてやろうとでも考えたのか、全く馬鹿馬鹿しい。
三つ目、白霧ノ幻影の姫君が行方不明。調べに行ったが足取りは掴めなかった。ここ数年の鬼猿とのいざこざもある。この機に猿共が動き出さないとも限らない。誰か人間を九尾の山に配置して猿共を牽制する必要がある。
着いた。G-D-404、此処が俺の寮部屋。普通は4階に4号室というのは造られない。4の部屋、迷信やいわくが絶えないのがその理由。
当然この寮にも404号室というのは造られていない。
403号室と405号室の間の壁の前に立つ。左右を見て誰も居ない事を確認し、壁に触れる。俺の力元素に反応してカチリとロックが外れ、回転扉が動き出す。出来た隙間に体を滑り込ませ、音もなく扉を閉めると、またカチリと音が聞こえた。外から見れば継ぎ目も見当たらない程に壁と一体化している事だろう。
死の部屋…………ふっ、闇に住う俺にはお誂え向きだろう。
少々疲れた。立て続けに任務が重なり、ここ数日は数時間の仮眠しか取れていない。〝影〟の任務に就く際に纏う黒装束を空間内に収納して忍装束も脱ぎ去る。
この忍装束も随分擦り切れてきた。里のデザインセンスは悪く無いがどうにも機能美に欠ける。何かが……何かが足りない。新しいデザインを先日知り合った商人にでも相談してみるか。
脱いだ忍装束を雑に洗濯機に入れて洗濯機を回す。備え付けのシャワールームで軽く汚れを落としたら少し眠るか。時刻は昼だが別に用事もないし良いだろう。
そう考えながら、マジックミラーになり、外からは外壁にしか見えない窓を覗き見る。完全に日が昇りきった外の明るさは闇に住む者には眩し過ぎる。
ふと、下を見ると知っている顔が何かを担いで寮の前を歩いている。
「フィスタ殿? む!? まさか心煌 四ツ葉か!? 馬鹿な………もう目覚めたのか!?」
…………………いや、目覚めたのか?
あれは〝目覚めた〟に分類していいのか?
グッタリと意識を失っている様にしか見えない。
「……! この寮なのか」
見ているとフィスタ助教がG-D棟に入って来た。
……早いな。人による所だとは理解はしているものの、普通は1週間は掛かるという認識を持っている。……あれから………5日か?
クローゼットから服を取り出して急いで着る。隠し扉から音を立てない様にスルリと出て隠密を全開に。階段を全飛ばしで一足飛びに一階まで駆け下りた。
「「 ………! 」」
っ……………
………………流石と言うべきか。
音など立ててはいない。隠密もフル稼働だ。
それでも、何かを気取られた。着地の瞬間に2人揃って此方に顔を向けて来た。
フィスタ助教は現役と言っても差し支えはないだろう。だがエマ殿まで………確か狩猟民族の出だったか。寮母に腰を据えてもまだまだ衰えてはいないという事か。甘く見ていた。
「気のせいみたいだねぇ、やだねぇ歳取るってのは!鈍って仕方がないよ! 部屋は303だよ」
「ありがとうエマさん。この後職員会議だ。もし起きて来たら世話を頼むよ」
「あいよ!」
303……下隣か……どういう偶然だ。
そんな事を考えながら道を開けてフィスタ助教が階段を登っていくのを見送る。
「アンタも忙しい男だねぇ。ついさっき帰って来たばっかりだろうに」
「っ……!?」
びっ……………くりした……
……いや、驚いた。フィスタ助教に注意を持っていかれている間にいつの間にかエマ殿が背後に立っていた。
「何だい狐に摘まれた様な顔して。この棟の管理を任されてんだ。それくらい把握してるさね。寮母ナメんじゃないよ」
寮母だからとかじゃない気がする。
そうだ、エマ殿も直感を持っていたか。心煌 四ツ葉と同じ技能。
因みに心煌 四ツ葉についての情報は既に仕入れている。極秘文書だろうと此方から正式に申請すれば影には開示される。
やろうと思えば盗み出す事も容易い。その実力こそが影の影たる所以なのだから。
「あの子の監視が次の任務かい? あぁいや、答えられないか」
「……いいや、任務ではない。答えられる」
「任務じゃない? ……ふ〜〜ん」
………気まずいな。エマさんの視線が突き刺さる。
「……ま、いいさね。 アンタは考えなしに動く様な人間でもないだろうさ。でも出歯亀も程々にしときなよ。感心しないからねぇ」
そう言いながらエマさんは管理室へと戻って行く。
「………ああ」
貫禄のある、まるで『出歯亀はしない』の手本を示すかの様な背中に向けて返事を返す。
そうだな。これは出歯亀に他ならない。だが、此度の件についてはやはりどうしても気になる。心煌 四ツ葉について人間像が少しでも見えない限り、俺の心の中に不安要素が蔓延り続ける。
急いで階段を上がり3階に来たは良いがもう誰も廊下には居なかった。
まぁ、いい。連れて来られたという事は施術は終わっている筈だ。起き上がり活動を開始するまでそう長くは掛からないと見ていいだろう。
分身を置いておこう。配分は………5分の1……いや、もっと少なくて良い。
手で印を組み、力元素を仙力に変換。印を組み直して仙力を分割するイメージを………
ズルリ………と身体が分離される感覚を受ける。
「………解るな?」
目の前の俺が話しかけて来る。
ふむ、俺が分身体か。
「ああ。心煌 四ツ葉の行動監視」
「良し」
「期間は?」
「任せる」
「随分と節約したな」
「足りないか? 確かに1割程しか渡していないが十分だろう?」
「………そうだな」
「頼んだぞ、我が闇よ」
「任せろ、我が影よ」
スッ……と音もなく本体が消える。自室に戻り寝るのだろう。不公平と思わなくも無いが、所詮俺は分身体だ。俺自身の闇。闇は黙して語らず。不平は漏らさん。
暫し此処で待つとしよう。俺も少し仮眠を取るとするか。
壁に背を預け、瞑目する。
ガチャン
…………! 来たか。
出て来た心煌 四ツ葉は制服姿で手に身分証を持っていた。 編入生紀章もきっちり付けている。
編入生は総じて自己掲示欲が強い。自身が編入者であり〝選ばれし者〟だという自意識に囚われがちだ。コイツもそうだという事だろう。誇らしげに胸元に留められた紀章がそれを物語っている。
何か考え事でもしていたのか、ドアが閉まりロックが掛かる音に過敏に反応を示した。動きが止まる。
………? 何だ?
そー……っと手を伸ばし、ドアノブに触れてガチャガチャと開けようともがいている。その後カードをかざしたり手をかざしてみたりしたもののドアが開かない様子だ。
? 何故開かない?
生物は皆、生きているだけで力元素を放出し続けている。ドアノブに触れるだけでその力元素を読み取りドアのロックは外れる筈だ。 それが何故反応しない? いきなり駆け出した心煌 四ツ葉を尻目に、ドアに手を触れてみる。
やはりしっかり機能は作動している。故障ではない。何だ? のっぴきならない事が起きている様な違和感を感じる。想像だにしない事態が裏で発生しているような焦燥感に襲われる。
やはり放っては置けない
監視続行。 エマさんと何かを話した後、出かけて行くヨツバの後を追う事にした。
それにしてもこの男………改名後もそのまま名を名乗っているのか。
ポイズナー、レジスト、レイヴン、その他諸々。
編入者は大体の者が過去の名を捨て、自らの生き様や得たスキルになぞらえた名を自分で考えて改名する。
改名をする理由……は今は考える必要はないか。
奴らは過去を話したがらない。何があるのかは知らない。しかしそれ故に簡単に名を過去と共に捨てる。
改名後の名前は皆、中々趣があると個人的には評価している。だからこそコイツにも期待していたのだが………そのままか。面白味に欠ける。
そんな事を考えながら後を追っていると、目的地に到着したようだ。つい先日調査を行った建物。S.R.L.。
図書館?目覚めてさっそく行く場所が図書館………ふむ、確かに情報収集は大切だ。思いの外理知的なのか?
少し距離を置いてついて行く。すると少し疑念を抱く光景を目にした。
ヨツバの前に図書館に入った女。なぜ受付は素通りさせた? 今は厳戒態勢の筈だ。身分証明を徹底して行わせている筈ではないのか?
目線を合わせ、笑顔で会釈した後の素通り。知り合いだとしても今の状況下では不用心も良いところだ。受付の男の顔は覚えがある。あれも確か編入者だった筈だ。メモリとか言ったか?
…………後で報告だ。改善を要求しなくては厳戒態勢の意味がない。ヨツバが止められたところを見るに人を選んでいる。図書館側ももう少し人選を考えた方がいいだろう。
館長のルドルフが出てきた。何か揉めているのか?
少し距離を詰めて聞き耳を立てて解ったのは、どうやらヨツバの身分証が表示されていない様子だ。
それもそうだろう。知覚強化でこの男の力元素を見て気が付いた事がある。
力元素を体表に纏っていない。
生物なら意図して収めない限り、循環の過程で体表に薄らと纏うのが普通だ。 それがこの男の場合一切漏れ出ていないのだ。道理で寮部屋のドアロックも反応を示さない筈だ。 この男の場合意図して放出しない限り力元素が体表に出て来る事は無いのではないだろうか。
原因はおそらくは保有技能:圧縮。 本人の意思とは別に常時発動している。その為体内の力元素を外に放出する事なく圧縮して貯めている。それ以外には考えられない。
この世界に来たばかりで力元素を扱う技術をまだ持たないが故に放出するなど出来ない。そもそもそうしようという考えにすらまだ及ばないのだろう。
一方この世界に元々居る人間には身分証の表示が出来ないなど戯言にしか聞こえない筈だ。訝しむのも仕方ない事だろう。
どうしたものか………少し哀れに感じる。事情や経緯を知らないとはいえ、この扱いは少々酷ではないだろうか。
この男はどうやら鈍い人間ではない。胸元の紀章を見たすれ違う人からのあからさまな侮蔑の視線にもまるで何も気が付かないかのように憮然と歩いて行く姿に、初めのうちは鈍感な男なのだと思っていた。あんな視線に晒されて気が付きもしないのか、と。
しかし人通りの少ない道に入ってから、紀章を外そうか考えるような素振りや、天を仰いで溜息を吐くような仕草が目立つようになった。
気が付いている。ただ、気丈に振る舞っているだけだ。
そう思った。誰に対してでもないのだろう。そう振る舞わなければ、自分を騙さなければ、あの冷たい視線に耐えられないのだろう。
『コイツもどうせ』と、編入者という枠組みで、偏見で人を見ていた。
そう、偏見だ。
街行く人々のあの目。今日初めて第三者目線で編入者への視線を見た。
汚物でも見るかのように冷え切っていた。
人柄も知らない、何もしてもいない人間に対して、ただ編入者紀章を付けているというだけで、不躾に心を抉るような視線を浴びせていた。
なんて事はない。俺も、その一人だ。その事に漸く気が付く。
編入者というだけで、ヨツバという一人の人間に対して。今の図書館のこの二人の様に、まるで犯罪者でも見るかのような視線を向けていた。
捨てよう
この偏見を
〝編入者〟という既存の概念を
ヨツバという人間を 〝編入者〟としてではなく、一人の人間として観察しよう。
気になる事は依然としてある。だが、それとは別に純粋に興味も出てきた。
この男が禁書の盗難に関わっている筈が無い。盗難があった時間帯や現場状況を鑑みてもこの男の筈が無い。その事を知らないルドルフ殿達が今こうして疑いの目を向けるのは理解はできる。
が、ヨツバからしてみたらどうだ。謂れのない罪で疑われ、危うく拘束されかけた。
怒り、喚き散らし、暴れても何ら不思議ではない程の事をされている。
間違いなく憤ってはいる。歩き方が見るからに乱暴な足運びになっている。それでも物に当たり散らすでもない、怒りを声に出し叫んで発散するでもない。少し歩いた先、歩調を落とし深呼吸をした。
周囲の空気が歪む様な感覚を受けた。
知覚強化を使っていなかったからか、その何かを把握出来なかったが、何かが四ツ葉を中心に寄り集まるような………
その現象が起こった途端に暴力的な歩き方は見る影も無くなり、更にポケットに手を突っ込んでからはより表情が穏やかに変わった。
きっかけが何なのかは解らない。それでも自発的に憤りを収めた気配がある。
興味深い
最早俺の中では単なる要注意人物や監視対象では無く、観察して知りたいだけの人物になって来た。
あれ程の扱いを受けたのなら、編入者でなくとも憤りや鬱憤を何処かで爆発させるだろうに。そんな事もせずにただひたすらに、自分の中で収めて見せた。誰が見ているでもないのに。
何を考えているのだろう。どんな人柄なのだろう。不思議とそう考えさせる様な空気をこの男は纏っている気がする。
考え事をしながら後を追っていると陽気なテーマパークの音楽に混ざって、男女の言い争う声が聞こえて来た。 あれは………あぁ………件の密会か。ならばレイヴンが付いている筈だが、気配を感じない所を見ればやはりただの逢瀬という事だ。情報通り問題ない事を確認して、下らないと見切りを付け任務を切り上げたのだろう。
男女の付き合いと言うのも影に生きる俺にとってはどうにも理解に苦しむ。許婚は居るがそれは里の決めた事。相手に対しても妹分の様にしか感じていない。
ヨツバは………何だ? 地図で顔を隠している様に見えるが。 そうか痴話喧嘩に巻き込まれたくないと見える。 いい判断だ。〝花ノ魔導士〟の持ち味はその雄大とまで言えるほどの範囲攻撃にある。最早個人の戦力ではない、戦術魔導とまで言える程の大魔導を気軽にポンポン放つ。
それは私生活にまで影響している様だ。唯の痴話喧嘩で周りの男にまでダメージを与えている。流石だ。
上手くやり過ごし辿り着いたのは校舎の図書室。規模的には〝室〟では済まないむしろここも図書館レベルだが図書室という名称だ。
受付のミスリと一悶着あったがミスリが気圧される形で何とか利用可能になった様だ。
本を漁り、読み込む。所作に淀みが無い。こういった施設を使い慣れているな。調べ物をし慣れている。
内容は力元素についてとこの世界Journeyについて大まかにと言ったところか。本のチョイスは決して悪くは無いが他にお勧めがある。まぁ、基礎を学ぶにはこれでも良いのか。
暫し観察を続けると入り口に人影が見えた。やはり来たか。 先刃のリュウジ。先のS.R.L.での出来事で何かしら動きがあると読んでいたが、予想通りの展開だ。
リュウジ殿であれば公平な判断が出来るだろう。出張る必要はない。
思った通り、しっかりと話を聞き出し、事情聴取が終わる。調べ物も終わったのか、二人揃って図書室を出て行った。
隠蔽を解き、ミスリに近付く。
「ミスリ殿」
「ヒイッッ!!」
あぁ……驚かせてしまった。
「済まない」
「い、いいえ! 済みませんっ!! えっ……と、カ、カゲヨシさん……でしたよね?」
覚えててくれたのか。
「そうだ。頼みがある」
「は、はいっ!! えと……先日は有り難うございました」
先日………あの事件の事だろう。何も力にはなれなかった。個人の人間関係の事。介入し過ぎても影としての品格に関わるとして、大々的な調査も情報収集も打ち切られた。依然として、ミスリ殿は苦しんでいるというのに。
「特に何もしていない。……何も……出来ていない」
「……そんな事はありません。そのお気持ちだけでも、私は救われます」
儚げな笑みを見せる健気な態度に、後ろ髪を引かれる。やはり何とかしたい。
俺は影。 学園の 神の〝影〟。
その事に誇りを持ち、矜持を持って任務に当たっている。
ただ、時折こうして不自由さを感じる事がある。公的な物に縛られ制約が掛かり、細かい個人の事に対して融通が効かない。今回の件にしてもそうだ。自由に動き回れるのであればもっとやりようがある筈だ。
「あの…カゲヨシさん? 頼みというのは……」
「む、ああ。 済まない。コレを」
「貸出ですか? 『力元素の応用理論』………?」
「俺は必要ない。次にあの男が来た時に、また何か調べ物をする様ならこれを勧めてやってくれ」
「………あの人の監視……にしては随分と親切ですね?」
「いいや、任務ではない。個人的に少し興味が湧いた」
ミスリ殿は少し俯き、躊躇いながら言葉を探す様に聞いて来た。
「あの人は………その………カゲヨシさんから見てどう思いますか」
曖昧で、側から聞くと何を聞きたいのか解らない質問。ミスリの置かれた状況、ヨツバと接した際のその態度。それらを含めて思うところがあるのだろう。
「……質問を返すが、ミスリ殿から見て、どう思う」
少し伏し目がちにオドオドと言い淀むミスリに頷きかけて答えを促す。
「……さっき、リュウジさんと話している時、少し話し声が大きくなって。あぁ、注意しないとって思ったんです。でも、その………怖くて、何も言えなくて。どうしようってオロオロしてた時に、ふとあの人がこっちに気が付いてくれて……。 私、何も言ってないんです。怖くて何も言ってないのに……あの人、申し訳なさそうに笑って、リュウジさんに静かにしようってジェスチャーで伝えてくれて。 何も言ってないのに気が付いてくれて。 だから、私………」
「……他の編入者とは少し違うんじゃないか、と」
言葉を引き継ぐ。まぁ、置かれた状況や体裁を考えれば、言い淀む気持ちも解る。
「………はい。おかしい………ですよね」
「いいや」
「え!?」
「おかしいとは思わない。見ていた。俺も同意見だ」
偏見というのは大多数の意見となり易い。大概の人は新たな偏見の目を恐れ、その大多数に流されて同じ意を唱える。多数から除外され、孤立する事を恐れる。大きな流れに身を任せ、個を蔑み、自らを安心させる。流れに逆らえばどうなるのかを知っている。
だからこそ、こうして異を唱える事に抵抗を覚えるのだ。
それでも。
一度流れに乗りそびれ、誰よりもその激流の厳しさを知っている筈のこの娘が、怖れながらも多数を否定して見せた。それを成し遂げさせたのは、他でもないあの男がほんの少し垣間見せた〝優しさ〟だろう。
「つい先程だ。俺も周囲と同じく偏見を持っていた。先程までの俺ならば、今の発言をおかしいと感じていたかも知れん」
ミスリがまた少し、自信無さ気に俯く。
「だが、今はおかしいとは微塵も思わん。俺もミスリ殿と同じ思いだ。それは『そうであって欲しい』という唯の勝手な希望なのかも知れん。しかし、そう思わせる様な何かをあの男が持っているというのもまた事実。それを確かめる為に、今こうして個人的に観察している」
ギュッと唇を噛み締める。握られた掌は白みを帯びるほどの強さ。眼鏡の奥に揺れる瞳に灯る光は勇気と決意が漲る。
そうだ、今この娘に必要なのは〝強さ〟だ。 一口に言っても色々あるが、今必要としているのは
「………初めてなんです。この学園に来て、初めてなんです。………『ありがとう』って………言ってくれたんです。優しそうな笑顔で、感謝の言葉を私にくれたんです。この学園に入学してから初めて、誰かの為になれたんだって実感したんです。 私は! あの人の笑顔を信じたい………!」
そう、ほんの少しの自信から来る〝心の強さ〟だ。
「私! あの人が次に来た時に少しでも力になれる様に、お勧めの書籍を選んでおきます!」
「ああ。それがいい、そうしてくれ。俺が選ぶよりもミスリ殿が選ぶ方が確実だ。 それと、観察結果は得られ次第此方に一度寄ってミスリ殿にも報告しよう」
良い方に向かえている。そう信じたい。
そうだ、信じたいんだ。
あの男が他の編入者とは違うと、そう信じたい自分が居る。編入者という自分が持っていた偏見を綺麗に払拭する希望の光を欲しているのだ。
自分勝手で身勝手な期待。それは理解している。それでも、あの男はそう期待させるのだ。
リュウジ殿と話すヨツバの苦い表情の奥に、覚悟を携えた火が灯るのを 見逃しはしなかった。