⑥ 5/15 がんばれ、菜花
定時に仕事を終えた菜花は司に会いに行った。でも結果は会議中。今日はもう会えそうにない。
「なにやってるんだろう」
会ったとしても、千乃が結果をすでに報告している。話すことと言えば、京都のこと。クビになったら一緒に行こうと思い切って誘ったのに、七月からもここで働ける。京都の話をなかったことにするために会うのなら、淋しい。
「明日でいいか」
今日は大人しく帰って、明日、神社に行く。そうしようと決めてトボトボ歩いていると、肩をポンと軽く叩かれた。
「いま帰り?」
「千乃さん」
「そこで晩ご飯、食べない? おごるよ」
沈んだ顔が一気に明るくなった。行き先はアカツキビール本社一階のカフェレストラン。ここで様々なことが起こった。傷付くこともあったけど、試飲会は充実していた。でも千乃と向かいあって座っているから、良雄の告白を思い出す。菜花は思わずほほ笑んだ。
「ん、急に笑い出して、イヤなこと思い出したでしょう」
「イヤなことって……。中山さんは元気にしてますか?」
「ほら、やっぱり。元気だよ」
ぶっきらぼうに答えて、千乃は菜花から視線を外した。でも短い沈黙のあと、急にそわそわしはじめて「いまは一緒に住む家を探してる」と、独り言のようにつぶやいた。
「くぅー、いいですね。結婚間近ですね。うらやましい!」
「菜花のおかげだから、好きなもの注文して」
「遠慮、しませんよ」
ニッと笑って注文する。
瑞々しい野菜がたっぷりのサラダに、エビとトマトのうまみがぎっしり詰まった、ピリ辛のリゾット。そしてガーリックトーストが付いた、ジャガイモとひよこ豆のスープ。楽しい会話と共に、素材の味が生きた料理はどれも絶品。特にひよこ豆が栗のようにほくほくして美味しかった。グラスに入った涼しげなデザートも楽しめば、心もお腹も大満足。
「ごちそうさまでした」
「はい、それじゃこれお願い」
千乃は菜花に紙袋を手渡した。
「中身はサンドイッチ。ボスがまだ十二階の会議室で仕事してるから、差し入れ」
「へ?」
「会って、話がしたいんでしょう」
「どうしてそれを……」
「そりゃ、総務の菜花が七階でウロウロしてたらわかるよ。ボスに会いに来たのかなって」
恥ずかしさに包まれた。だから全力で否定しようとしたけど、千乃の手が菜花の背中をバシッと叩く。身が引きしまるような痛さが走った。
「がんばれ、菜花」
「あ、ありがとうございます」
背中からひりひりとした痛みが伝わるけど、心は温かい。菜花はおじぎして、司のもとへ駆け出した。
十二階の会議室。
会議中なら廊下で時間を潰そうと考えていた。でも十二階に到着して言葉を失う。もう九時をまわっていので、廊下の電気は消えていた。非常灯のぼんやりとした明かりだけ。それが不気味に光って怖い。
「暗くて、やだなぁ」
壁に貼りつきながら歩いていると、一室だけ、煌々と明かりがついているのを発見した。菜花は光に吸い寄せられる虫のように、ふらふらと引き寄せられる。半分開いた扉からそっと中を覗き込むと、司がいた。
仕事中の司は見たことがないほど真剣なまなざしで、黒の瞳がよりいっそう輝いて見える。黙々とパソコンの画面に向かってキーボードを打ち続ける姿に、つい見惚れた。
ひとりで仕事に打ち込む司。邪魔をしてはいけない気がして帰ろうとしたが、黒の瞳と視線がぶつかる。
「菜花?」
「わわわっ、すみません。お仕事の邪魔ですよね。これ、千乃さんからの差し入れです。ここに置いておきますね。邪魔するつもりはなかったんですよ。でも、あっ、明日、神社に行こうと……。ははは、どうでもいいですね、そんなこと。本当に、邪魔してすみません。それでは、また」
恥ずかしさと緊張で早口になった。しかも舌がもつれて最悪。急いで退散しようとしたのに、司からは「逃げるな、そこに座れ」と。




