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② 5/11 すべてが終わった

「ゴールデンウィーク明けの月曜日は忙しい。橋本はしもと君は業務に戻りなさい」


 菜花を座らせる前に、背の低い男に出て行けと。

 戻れと言われた橋本は、「えっ」と驚きの声を発してから騒ぎ出す。ここで席を外したら、総務部長の計画を実行に移せない。青白い顔をさらに青くして居座ろうとしたが、人事部長は耳を貸さなかった。


「大石さんはそこに座って。橋本君は戻りなさい。私は同じ事を何度も言うつもりはありませんよ」


 丁寧な口調だが、感情をいっさい込めない声はどこか怖い。橋本は怯えの色を濃くして応接室を出て行った。

 人事部長があまりにも無表情なので、喜怒哀楽のない人形のように感じる。そのような人とふたりになって、菜花はたじろいだ。すると落ちくぼんだ目がすばやく動く。


「お待たせしました。それでは本題に入りましょうか」


 ここで人事部長は軽くため息をついた。企業スパイだと聞いていたのに、菜花に派手さがない。金に困っているように見えても、罪を犯す度胸を感じない。そもそも菜花は派遣社員。雇い主は派遣会社でアカツキではない。追い出せと言われても、派遣社員の交代要求をするのが精一杯。もしくは、自主退職に仕向ける。

 もう何人もの人間を自主退職に追いやってきたが、その都度、人事部長の肩は重くなっていた。


「まずは、今回の件を大石さんの口から説明してください」

「……はい。会議室の電気がついたままだったので、ユウ……幸野さんのデスクから勝手にグランドマスターキーを」

「企画課からの指示で、カギを使用したと聞いてますが」

「それは、うそです」


 人事部長は落ちくぼんだ目でじっと菜花を見つめた。解雇の文字をちらつかせても、会議室の電気を消すためと言い張って譲らない。テーブルの下では白い指先が、心細そうにずっと震えているのに。

 自らを犠牲にしてまで企画課をかばう意図が、なかなかつかめない。これ以上のやり取りは無駄だと判断して、核心を突くことにした。


「企画課の連中は、新しいクラフトビールにケチがつくことを快く思っていません。だから不穏な動きもなく、円満に試飲会が終わったことにしたいはずです。そのための生贄になったのが君。いったい、企画課からはどのような報酬が用意されているのですか?」


 報酬という言葉に菜花は眉根を寄せていた。眼光を鋭くしてさらに腹の内を探ろうとしたが、「わたしはただ、会議室の電気を――」とくり返す。鋭い質問を浴びせても、間髪入れず問うても答えは同じ。菜花の表情には一点の曇りもない。


「なぜ……」


 人事部長は言葉を詰まらせた。

 新しいクラフトビールの発売が遅れないように、企画課をかばっている。そのことは明白なのに、菜花の真剣なまなざしと向かいあっていると、妙な気持ちにとらわれていく。


 ――この女は一日でも早く、新しいクラフトビールが店頭に並ぶことしか考えてないのか?


 企画課とはまったく関係ない派遣社員なのに、あり得ないと首をふった。だが、ひとつのシナリオを曲げることなく言い続ける菜花。その顔に迷いはなく、澄んだ目をしていた。そしてそこに、人事部長がはるか昔に捨てた情熱を感じる。同時に青臭すぎて腹立たしさを抱くが、うらやましさを覚える。


「人の覚悟は目にあらわれる……か」


 人事部長は立ち上がった。


「あと数人に事情を聞いて、大石さんの処分を決めます。この時期に解雇するには惜しい人材ですが、覚悟しておいてください」

「わかりました」

「こちらから連絡があるまで、いつも通りの業務をこなしてください」

「はい……」

「それから、これを君にあげます。好きに使ってくれて結構ですが、私の名前は出さないように」


 大きな茶封筒を受け取って、菜花は応接室を出た。

 解雇という言葉は想像以上にきつく、重かった。一瞬にして、またひとりになるという恐怖が足もとから忍び寄ってくる。それでも菜花は「これでいい」と光るものがあふれる目を閉じた。


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