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① 5/9 離れたくない

 試飲会当日、鉛色の雲が瞬く間に空を覆っていた。今日ぐらいはスカッと晴れてほしかったのに、電車の中は蒸し暑くて気分が悪くなる。

 ようやく車外に放り出されても、空気が悪い。歩きながら晴れ間が出るのを期待して空を仰ぐが、菜花の頬に雨粒が落ちる。空間を意識したエントランスに駆け込んだ頃、雨は本降りになった。


「あれ? ユウユさん。来てくれたんですか?」


 カフェレストランの近くにユウユが佇んでいる。今日は休みで、菜花がユウユの代わり。試飲会の様子が心配になって来てくれたのだと、声を弾ませたのに。


「私の仕事が終わったの。疲れたから帰るわ」


 片手を上げて「さようなら」と手を振る。


「お疲れ様でした」


 残念そうに声を沈ませると、ユウユは鋭いまなざしを菜花にぶつけた。


「今日の試飲会。菜花にかかってるんだからね。絶対に、成功させてよ」

「えっ?」

「この三年、みっちり仕事は教えた。臨機応変に動けるように。任せたわよ」


 あまりの剣幕に菜花はたじろいだ。でも、「がんばります!」と気合いを込める。それを無言で見つめていたユウユは口を開いたのに、なにも言わず本降りの雨の中へと消えた。

 菜花は首を傾げたが、立ち止まっている暇はない。用意したインカムをはじめ、通信機器の最終点検。雨が降っているので、空調や照明にも気を遣う。役員に配る資料と一般参加者への資料も目を通しておかないと。肩にかけたカバンを持ち直して、足取りを強くする。


「妨害なんて、全部、ぶっ潰してやるんだから」

 

 やさしい香りとフルーティーな味わいのクラフトビール。一度飲んだだけなのに、その美味しさはいまでものどが覚えてる。ビールについて楽しそうに語る司の姿も。


「…………」


 力強く歩いても、エレベーターに乗って気が付いた。胸の苦しさに。

 新しいクラフトビールが商品として発売されたとき、菜花はもういない。いま、一生懸命がんばっても別の会社。どこか遠くで、今日の日のことを懐かしく眺めているのだろうか。そんなことを考えていると、無色の色が頬を流れ落ちた。


 ――ここを離れたくない。


 アカツキビールは新商品開発から販売までの仕組みがある程度、確立されている。それでも発売前の事前プロモーションや、メディアへの対応で数ヶ月かかる。司が喜ぶ顔を一番に見たくても、菜花はいない。


「バッカだなぁ、わたしは」


 エレベーターの扉が開くから、ハンドタオルを顔に押し当てた。

 どうしても手に入れたいもの。あきらめたくないこと。それがハッキリしているのに言葉にできない。臆病になって誤魔化して生きる。一度ぐらい、「ほしいものは、ほしい」とわがままを言ってもよさそうな気がした。でも今日は、全力で司をサポートする。

 大石菜花。そんな奴がいたな、と少しでも心に残る事を願って。


「よし、それで行こう」


 瞳はまだうるんでいたけど、唇の両端を上げて笑顔をつくる。

 司を縁結びの神様と間違えた日、青白い月明かりのもとで菜花は心を奪われた。ほのかに青く、澄んで光る容姿が美しすぎて息を呑んだ。冷たく突き放されたり、心配してくれたり。口喧嘩もしたけど楽しかった。だからこの気持ちに名前を付けてみた。

「恋心」と。


 三十歳になっても恋をする。

 若さを失い、彼氏もいない。仕事は不安定な派遣で、お金がない。ない、ないばかりでうつむいても、ときめきは胸を温める。いくつになっても、それは変わらない。


「こういうのを、なんて言ったかなぁ」


 視線を廊下の天井に向けて歩いた。ふと「恋する乙女は強い」そんな言葉を思い出したけど、「乙女じゃないな。年齢的に」とつぶやいて笑みをこぼした。

 あとは胸を張って、今日に挑む。


「おはようございますー」


 司がいる、多目的ホールの扉を開けた。



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