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① 5/8 菜花の裏切り

 昨日、千乃との関係を聞き出したら叱られた。今日も菜花の斜め後ろから、コーヒーを吹きこぼして大変だったと文句を言っている。

 千乃とは付き合ったこともなければ、同期の仲間以上の気持ちはないらしい。完全に、菜花の勝手な思い込みだった。


「あり得ない。どっからそんな話になったんだ。あいつは俺のことをクソ野郎と呼ぶ女だぞ」

「だから誤解でした。すみませんでしたって、昨日も今日も謝ってるでしょう」


 午後七時前、菜花と司はカフェレストランへ向かっていた。

 

「ここは会社、働く場所。すぐそうやって色恋に結びつけるその頭、なんとかしてくれ」

「はいはい、すみませんでした。どうせわたしの頭の中は、少女マンガの読み過ぎでお花畑ですよ。脳内少女マンガですみませんね」


 ツカツカと早足で歩く菜花を、追いかけるような形になっていた司は足を止めた。


「菜花らしくない」

「これがわたしです。見損ないましたか?」


 振り返った菜花は堂々としている。これから復讐をはじめることが、当たり前の権利だと主張しているようだった。

 

「人を傷つけると、自分まで傷つくぞ。それを教えてくれたのは、菜花だろ。新しいクラフトビールを松山の鼻を明かすための道具にするなって。あの言葉は俺に深く響いたけど、復讐するのか? やめとけっていう俺の言葉は、届かないのか」

「届いてますよ。わたしはいつも我慢してきました。怒ると嫌われたり、言い返されたりするでしょう。それが怖くて、自分が正しいと思えなくて……。でも、もう我慢しません」


 司には理解できなかった。目の前の菜花はいつもと同じ姿をしているのに、まるで別人のよう。いくら失恋で心が傷ついたとしても、復讐の文字は穏やかでない。心配する気持ちは伝わっているはずなのに、まったく動じない菜花に不信感さえ抱く。

 どうすれば止められるのか。頭を悩ます司の横で、菜花は艶やかな唇を横に引き伸ばして笑みをつくった。


「池田さんと出会えて本当に良かったです。価値観の違いは誰にでもあって、意見や考え方をぶつけるから、お互いのことが理解できる。そんなこともあるんですね。怖がって、逃げてばかりだと気が付きませんでした」

「どういうことだ?」


 菜花の考えていることがわからない。むなしい気持ちになってくると、菜花はほんの少しだけ瞳をゆらした。でもすぐに表情を引きしめて歩き出す。


「さっき、池田さんと口喧嘩しました。昨日も言い争って。普段なら、余計なこと言ったとか、相手を傷つけたかもって落ち込みます。だけど全然、まったく、平気なんです。落ち込むどころか、晴れやかっていうのかなぁ」

「俺と一緒にいたらムカついて、怒りのパワーがぐんぐん上がってくるって話か? なんでもできそうな気になるって」

「そうです。いまのわたしは無敵です」 

「……なら、俺は仕事に戻る。おまえの復讐に利用されてるようで、気分が悪い」

「戻れませんよ。明日、インターカム。インカムを使いますよね」


 ヘッドセットにイヤホンとマイクが装着されたインカムは、試飲会の進行を遅滞なく円滑に行うために必要なもの。ハンズフリーで同時双方向通信できる。これがないとスタッフ同士の連携がとれず、大混乱に陥る。


「まさか、おまえ」


 先を進む菜花の肩をつかんで、荒々しく引き止めた。

 

「インカムに細工したのか?」


 司の問いに、菜花の口もとが嬉しそうに歪む。

 インカムはとても大切なものだから、どこの誰だか知らない奴に準備させるより、菜花になら任せられる。信頼できると考えていたのに、それを裏切ってきた。

 菜花は信じられないと言った面持ちの司を無視して、カフェレストランの扉を開ける。


「いらっしゃいませー」


 ホールスタッフの明るい声と共に、菜花の決意が固すぎてもう止められないことを痛感した。

 心が暗く沈んでいくのを感じながら、司は菜花から視線をそらした。



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