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③ 5/1 相談したかっただけ

「なにやってるんだ?」


 司が目をぱちくりさせるから、菜花は「シィーッ」と人差し指を唇に。それから資料をぐいっと引っ張って、ペンを走らせる。


 ――真後ろに、知り合いが座っているので静かにしてください。


 挨拶しなくていいのかと聞いてくるから、小刻みに頭を震わせて拒否する。頭の回転が速い司は、菜花の挙動不審な態度にすべてを察した。


 ――もしかして、おまえの男か?


 その文字を見た菜花は、ボッと顔を赤らめる。司はにたりと笑って、興味深そうに後ろの席を覗き込もうとするから。


 ――ちょっと、やめてくださいよ!!

 ――ふたりいるけど、どっち?

 ――ここからわかるわけないでしょう!


 筆談が進む。だが、良雄たちの声が菜花の鼓膜にはっきりと突き刺さった。


「やっぱりおまえに頼むんじゃなかった。僕は相談相手として紹介してほしかったんだ。それなのに千乃さんの中では、僕と大石さんが付き合ってることになってる。どうしてくれるんだッ」

「オレはちゃんと頼んだぞ。堀部が勝手に勘違いしたんだ。でも、いい機会じゃん。いいか、大石は三十路の派遣女だ。そんな女を選ぶほど困っているなら、ワタクシの方がマーケティング部の出世頭。良雄を幸せにできる! そう考えるのが女だよ」


 一瞬、すべてが止まった。それからじわじわと、心臓を握り潰されていくようなショックが駆けめぐる。


「失礼なことを言うな。千乃さんはそんな人じゃない。それよりも大石さんだ」

「あー、面倒くさい。大石は結婚に焦ってるから、良雄にしがみついてるだけ。愛情なんかこれっぽっちもないって。他に好きな人ができましたって捨てても、ケロッと別の男を捜すから、無視しとけ」

「そんなこと、できるか」

「じゃあ、このまま大石と付き合えよ」

「……それはできない。大石さんだって僕なんかよりいい人がきっと」

「うわぁー、ひどい男。だいたい、良雄が自分で大石さんと連絡を取ればよかったんだ」

「合コンの日、大石さんは真っ先に帰っちゃったから、連絡先を知ってるのは千乃さんぐらいだろ。僕から声をかけたら、絶対に誤解されるから」

「良雄からの好意はすべて兄弟愛に変換されるし、おまえもう無理だって。誤解されないように気を配って伝えたのに、大石みたいな女と付き合いたいに変換されるんだから、こっちだってお手上げだ」


 からかうように笑う溝口に、良雄は怒りをぶつけていた。

 菜花は動揺で激しく脈打つ胸を押さえて、浮かんでは消える思考を必死につなぎ止めた。

 やはり良雄は菜花と付き合うつもりはなかった。千乃のことが好きで、三十歳の菜花に相談したかっただけ。薄々勘づいていたけど、はっきり聞かされると泣きそうになる。


「俺、ちょっと殴ってくる」


 分厚いファイルを閉じた司の声に、ハッと顔をあげた。まったく抑揚のない声だったのに、黒い瞳は敵意を剥き出しにしている。

 

「おまえはここで、伏せてろ」


 ぞっと鳥肌を立てた。菜花を見下ろす司の表情は、怒りを通り越した冷酷な顔。あまりの気迫に気圧されていたが、「やめて」とか細い声を絞り出した。それでも司は止まりそうにない。

 菜花は下唇をきつく噛んでから、ダンッとテーブルを叩きつけて立ち上がった。


「やめてください。これはわたしの問題です」


 楽しい一時を過ごしていた店内のざわめきが、瞬時に身を潜めた。何事かと注目する視線に、良雄と溝口が加わる。


「大石さん……」


 ひどく青い顔をした良雄に、振り返って「やべっ」と顔を曇らせた溝口。どちらの顔も、深く心をえぐってくる。これ以上は身が持たない。そう感じた菜花は心に蓋をした。


「あはっ、やっぱりなー。おかしいと思ってたんですよ。中山さんは年下だし、わたしなんかを選ぶ理由はこれっぽっちもなかったし。ごめんなさいね。勝手に勘違いしちゃって。厚かましいですよね、わたし」


 フラれることには慣れていた。笑顔はまだぎこちないだろうけど、身の引き方は悲しいほど知っている。精一杯の無理をして、これで終わりにしようとしたのに。


「菜花、やめろ」


 司が荒々しく立ちあがった。


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