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⑤ 4/25 菜花の寝顔

 涙が止まらなかった。悲しくて。でも、なぜ悲しいのかわからない。菜花は冷静に心の中を分析しようとしたが、眠気に襲われる。 


「大丈夫か? 送ってやるから、駐車場まで」

「歩けます。大丈夫です。ごちそうさまでした。……あっ!」

 

 菜花ひとりの財布では到底支払えない額の料理は、味覚はもちろん、視覚、嗅覚にも美味しさを伝えてくる絶品ぞろい。ごちそうさまをして席を立つのが残念で、名残惜しい。きっとこの複雑な思いが胸を突いて、悲しくなっている。そう解釈して席を立った。

 でも――。


「池田さんは、どうしてわたしに声をかけてくれるんですか?」

「えっ、なに。迷惑だった?」

「そんなこと、ないですけど」


 それ以上、言葉は続かなかった。無言のまま駐車場にたどり着いて、菜花は後部座席のドアに手を伸ばす。すると、鋭い視線を感じた。頭を上げると「おまえはまた、そこに座る気か?」と黒の瞳が呆れている。


「じょ、冗談ですよ。助手席でしたね。はい、わかってます。そちらに座らせていただきます」

 

 誤魔化しながら心地良く沈み込むシートに腰を下ろすと、眠気がいっそう強くなる。車が走り出すと、丁度よいゆれにまぶたが重い。シトラスの爽やかな香りを感じながら、全身の力が抜けていく。


「菜花?」


 司の声が耳に届くけど、眠気が勝って返事ができない。


「さっきの答えだけど、気になるからかな」


 ――気になる?


「小さな背中を丸めて、必死になって祈ってただろ。神社で――」


 その先を聞きたくても、意識を保てない。深い穴に落ちていくような眠りに包まれた。


「完全に寝たか。泣いて、眠って、子どもだな」

 

 司は表情をゆるめた。

 しばらく静かに車を走らせて、マンションの近くで止まる。菜花を起こそうとしたが、唇を薄く開いて穏やかな寝息を立てていた。

 完全に力が抜けた寝顔を、司はじっと見つめた。

 ほどよい高さの鼻に愛らしい口もと。あまりにも無防備で、簡単に奪えそうなふっくらとした唇にそそられる。だが、目をそらした。


「中山良雄かぁ」


 その名前を口にして、欲望をねじ伏せた。そして、大きく息を吸い込んで「大石菜花ッ!」と叫ぶ。


「ひゃぁぁいッ‼」


 びっくりして飛び起きた菜花は、小動物のようにジタバタして車のドアに頭をぶつけた。


「いっったぁ……」

「着いたぞ」

「あれっ、わたし、寝てました?」

「グーグーいびきかいて、ダラダラとよだれ垂らして」

「うそッ!」


 慌てて口もとを拭うから、司はハンドルに突っ伏して肩を震わせた。

 からかわれたことに気付いた菜花は耳まで赤くしたが、笑い続ける司をきつくにらんだ。


「送ってくださり、ありがとうございます。では、これで」

「部屋まで送っていこうか?」

「結構です! いまので目が覚めました」

 

 しっかりした足取りで車を降りる。

 親切にしてくれたり、応援してくれたり、もしかして気がある? と厚かましい考えがほんの少しあった。でも司は、菜花をからかって楽しんでるだけ。


「あー、ムカつく」


 荒々しく部屋の扉を開けて、閉める。ひとしきり文句を言い続けたら、また睡魔に襲われて横になった。


「もしかして、ちゃんと部屋まで帰れるように、わざと怒らせ……た?」


 まさかとほほ笑んで、目を閉じた。

 ぐっすり眠っても、夜になればお腹が空く。パチッと目を覚ました菜花は、鉛のように重い身体を引きずって冷蔵庫を開けた。だが、昼間の料理を思い出して項垂れる。


「ムール貝、美味しかったな。強いコクとうまみならハマグリの勝ちなのに」


 ほのかにクリーミーでやさしい味と、やわらかい食感を思い出してうっとりした。こうなると、手の込んだ料理をつくっても無駄。きっとなにを食べても物足りなくなる。

 

「簡単なもので、いっか」


 鍋にお湯を沸かして、市販のミートソースを温めた。冷蔵庫からは牛乳と卵を取り出してスクランブルエッグに。

 温かいご飯をお皿に盛り、熱々のミートソースをかけて、とろとろのスクランブルエッグを乗せる。最後に香辛料として、オレガノを少し振りかけて完成。


「バジルの香りに包まれたスープパスタも美味しかったけど、オレガノの爽やかな香りもトマトに合うよねー。ややほろ苦いけど」


 くん、と鼻を寄せて満足げに頷く。完成したのは「なんちゃってオムライス」

 オムライスは大好きだけど、チキンライスをつくるのが面倒。そんなときにつくる手抜き料理。混ぜて食べればオムライスの味がする。

 お腹も満たされて一息ついていると、スマホが鳴った。千乃からのメッセージだった。





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