④ 4/18 妻帯者のくせに
「どうして男の子は、こう鈍感なのかしら。さ、菜花ちゃんは顔を洗って、歯ブラシもあるからね。トイレは階段をおりて左。それから荷物ね。すっぴんもかわいいけど、口紅ぐらいは塗りたいよね」
春の陽射しのようにほほ笑んだ薫は、菜花の腕をつかんで社務所の奥にある住居スペースを案内してくれた。お風呂場も見たけど、まったく記憶にない。身支度をすませたあと昼食をすすめられた。でもそれは丁寧に断って、送ってもらうことにした。
「忘れ物とかない?」
「はい、大丈夫です」
「それじゃ、司くん。お願いね」
司とふたりっきりになると、菜花は緊張した面持ちで背筋を伸ばした。夜の空気に溶け込む美しさから、縁結びの神様だと勘違いしたけど、明るい陽射しの中でも、司には独特の雰囲気がある。そしていい男には、それに似合うハイスペックな女がいる。菜花は薫のことを思い出して、ちょっぴり残念な気持ちになった。
薫は穏やかな春のような人。何度も謝る菜花を気遣い、嫌な顔ひとつしない。朗らかな笑みを浮かべる妻と、それを支えるいい男。理想的な夫婦を見たようで、軽く落ち込んだ。
「どうした? 早く乗れ」
「あ、すみません」
顔をあげると、新車のように輝いたシルバーメタリックの車に司が乗る。太陽の光を反射して、まばゆい輝きを発するこの車はおそらく高級車。車に疎い菜花でも、すぐにピンときた。
――神社って、意外と儲かるんだ。
下賤なことを考えたが、鏡のような車体はひどい格好をした菜花をはっきりと映し出す。ひぇぇっ、とうつむきながら後部座席に乗り込んだ。
「おまえ、ふざけてるのか?」
「?」
「なんで後部座席なんだ。俺に、運転手をさせるつもりか?」
「え、でも……。あっ、そうだ、タクシー。タクシーを呼んでください。それで、帰ります」
「ここまで来て、面倒くさい。横に座れ」
「横って……、助手席ですか。それはいくらなんでも……。助手席は奥さんの場所だから、わたしは」
慌てふためきながら説明をしている途中で、司がぶはっと笑いだした。
「いまどき、なに言ってるんだか。彼氏いない歴三十年って、本当のようだな」
「なっ!」
「おっと、怒るなよ。昨日、おまえが言い出したんだぞ。男は三十歳まで童貞だったら魔法使い。三十路まで処女を守った女は、なんになるのかって」
「うそ、そんなこと言ってない」
「言いましたー。って、そんなことはどうでもいいから、早くしろ」
横にと言われても、ブローをしていない髪はボサボサで、簡単なメイクしかしていない顔は……。
「さっさとしてくれ! それから、カーナビに住所」
「は、はいッ」
死ぬほど恥ずかしかった。
文句の付け所がない色男の横に座る、みすぼらしい菜花。新たな罰ゲームのような気がして、ずっと落ち着かない。それなのに、司は気さくに話しかけてくる。
「今日で三十歳だろ。結婚、焦る歳でもないのに。あ、もしかして子ども好き?」
「子ども?」
「ほら、若いお母さんに憧れるっていうか。女の人に多いだろ」
「あー、そうですね。そりゃ若いお母さんに憧れますが、子どもは……好きなのか、嫌いなのかよくわかりません。小さな子どもとふれあう機会があまりないので」
「……あんた、正直者だな。大丈夫? あの会社で、いいようにこき使われてない? 総務って、雑用係みたいなところもあるからな」
えっ、と驚いて顔をあげた。
ぼんやりとした記憶の中から、司が「アカツキビール総務の大石菜花」と言い切ったことを思い出す。薫も菜花の名前を知っていた。
前にどこかで会ったことがあるのか。どうして菜花のことを知っているのか。聞きたいことが山のように膨らんだのに、司がやさしい声を投げてきた。
「女の人ってさぁ、子ども大好き。なんでもかわいいー。って感じなのに、どっちかわからないなんて、はじめて聞いた。素直で正直なのは、いいと思うよ。きっとすぐにいい人が現れるって」
イケメンの妻帯者には言われたくない。本当にいい人がいるなら、目の前に連れて来い! と、苛立ちの声がのどもとに突きあげてくる。だがぐっと堪えて、違う話をした。




