彼女は焼き肉屋で肉を焼きながらニコニコとしている。
肉を食うのは好きだ。美味しいから。
無煙ロースターの中で、セラミック炭が赤熱している。
その熱源から上に十数センチほどの位置に掛けられたステンレス製の焼き網。
そしてその焼き網の上に、今、上カルビが置かれようとしていた。
要するに、ここは焼き肉屋だ。
生の肉を見ているだけで、これから焼き上がり、甘辛いタレに浸り、ご飯の上にちょこんと乗っかった後で、白米と一緒に口に運ぶところまで想像してしまい、思わず唾液が垂れそうになる。
零れたわけでもないのに、思わず口元を拭った。
十五歳の俺には、堪え難い光景と匂いだった。
店に入り、焼肉の匂いを嗅いだ瞬間から腹の虫が叫んでいるし、もう既にご飯を口に頬張りたい。
「それじゃぁ、お肉、焼くねぇ」
そうのんびりと口にしながら、対面に座った八弥山美々海さんがトングをカチカチと鳴らす。
長い髪を手で押さえながら、白い細い手で、トングを優しく掴んでいる。
……そんなところをジッと見てしまうくらい、俺は、美々海さんのことが好きだった。
見た目二十代後半くらいの彼女はトングを鳴らす派で、俺は鳴らさない派だ。
と思っていたが、この前サラダを取り分ける時に手にしていたらカチカチ鳴らしていたと指摘され、実は鳴らす派だったことが判明した。
目の前には上カルビ、上タン、上ハラミと、取り敢えずランクの高い肉が並んでいる。ここは食べ放題じゃない上に、一皿一皿なかなか良い値段をする。
美々海さんの懐事情の暖かさが垣間見える。ありがたや。
トングで摘ままれたカルビが、そっと網の上に置かれる。ジュワッと良い音がした。
「このお肉を二枚、並べちゃうねぇ」
「並べちゃうんですか」
お肉が宣言通りに二枚並んだ。そして、宣言なしでハラミも並んだ。
「さぁ、りょーくん。食べて食べて」
「置いたばっかだよ!」
ぶぅ、と美々海さんは口を尖らせる。
そんな顔も、綺麗だなと思ってしまう。
「生でも食べられるくらい、鮮度の良いお肉だってお店の人云ってたよぉ?」
「俺はカリッと焼けてるくらいが良いんですぅ」
「えー。お姉ちゃんとしては、生っぽくて、ちょっと血が滴っちゃうのも好きだけどなぁ。カリカリも好きだけど。ベーコンとか」
「生は俺にはまだ早い。いつか好きになるのかなぁ」
生肉を食べようという気持ちがないので、思わず眉間に皺を寄せてしまう。
生肉に限らず、生魚、要するに寿司とか刺身も苦手だった。
「体つきだけはぁ、結構しっかり大人っぽくなってきたけどねぇ」
「そうかな?」
「うん、良い感じ」
良い感じかぁ。
美々海さんは姉を自称しているが、立派に俺の保護者であり、一応母ということになる。
俺は両親を九歳頃に亡くした。そこで、身寄りのなかった俺を美々海さんが引き取ってくれた。そんな関係だ。ほんとに感謝している。
姉と呼ばせたがる美々海さん。しかし、母とも姉とも呼べず、いまだに美々海さんと呼んでいる。
「あ、良い色にお肉焼けてきたからぁ、ひっくり返すねぇ」
「ありがとう」
じわじわと網に接していた部分が良い色になって、良い匂いを放ってくる。
この色の変化はメイラード反応と呼ぶのだと、この前雑誌で見た。それをちょっと自慢げに美々海さんに云ってみようかと思ったけど、思った以上にその名称が食欲をそそらないので、云うのは止めた。
「上手にぃ、焼けましたぁ」
そう自賛しながら、俺の取り皿に網に乗っていた肉を次々移動させてくる。
「さぁ、どうぞ。お食べなさい。空腹の者よ」
「え!? 何その云い回し!? ありがとう、頂きます!」
浮かんだ疑問は空腹の前に霧散する。
既に割ってあった割り箸で肉を取り、タレに付ける。焼肉のタレが好みだ。レモン汁と塩もあるけれど、あまり好みじゃない。
海苔でご飯を巻くように、肉でご飯を巻いて、頬張る。
食感が、良い。
「んー」
野菜炒め等、家で肉を食う機会は多々ある。というか高頻度で食っている。
でも、焼肉って焼肉ならではの感動がある。
口の中の肉と米がなくなる前に、もう一回米を頬張り、肉が冷める前に少し焦りながら頬張る。忙しなく咀嚼する。
この忙しさ、嫌いじゃない。むしろ、好き。
フランス料理とか、食べたことないけど、ああいう淑やかさも悪くはないと思う。でも、がっつきたい。丼とか、焼肉とかは特に。
肉とご飯の相性に感動している俺をジッと見ながら、美々海さんは少し色っぽく、ニコニコと笑っている。
「どう、どう?」
「最高です! 溶ける! 噛み応えあるのに柔らかい!」
「それは良かったぁ。さぁ、どんっどん焼くよ!」
トングも元気にカチカチと鳴って、今度は上タンを焼き始める。
美々海さんはトングを握って離さないが、別に焼肉奉行というわけでもないので、焼き方が特別上手いというわけではない。
焼きながら、美々海さんはうっとりとした目で肉を見ている。
俺の取り皿に乗せる肉なのに、まだかな、まだかなと、待ちきれない様子も見て取れる。俺も同じ気持ちなのだけど、美々海さんの方が一層強いように思える。
「もう、かなぁ?」
「まだかな」
「まだかぁ」
それから1秒ほど待機。
「お姉ちゃんはそろそろだと思うよぉ」
「俺はまだだと思うんだ!」
落ち着きがない。
肉を焼く時間を稼ぐ為に、俺はふと、今此処で云う必要もないけれど、云っておきたいことを云っておくことにした。
「あ、そうだ美々海さん、今更なんだけどさ」
「なぁに?」
よだれでも垂れそうな感じな美々海さんが、肉から目を離してこっちを見た。
「やっぱり、俺思うんだ……美々海さんって、お姉さんって云うには歳が」
「そい」
「あいたぁ!?」
眉間へのデコピンを食らう。指一本のくせに、正拳突きみたいな威力だった。
「年齢を追及するなんてぇ、失礼だと思うの。りょーくんはどう思うかなぁ?」
「はい、失礼なことでありました! ごめんなさい! あー、いっでぇ」
首を回す。骨が外れるかと思うくらいの衝撃だったけど、無事だった。肉とか米とか噴き出さなくて良かった。
「というわけで、追加のお肉の刑ですぅ。太りなさい」
「なんて幸福な刑罰だろう」
追加の肉が俺の皿に乗せられ、空いた網に肉が移住する。焼かれる。
牛タンは、厚かった。食感が素晴らしかった。コリって。でも柔らかかった。
高い肉は美味い。シンプルにそう感じた。
肉を網に四枚置いて、美々海さんはそれをジッと見つめながら、さながらたき火を見ながら話し掛けてくるみたいに、俺に話し掛けてきた。
「私としてはぁ、がっちりしてても、太ってても、どっちでもりょーくんのこと好きだよぉ」
「太りたくはないなぁ……」
「ホルモンとか食べる? 脂っぽいんだよねぇ?」
「太りたくはないなぁ!」
できれば健康的に生きていきたい。
モツ系好きだけども。ちりとり鍋とか。
「じゃあ、えっと、大トロにしようかぁ」
「ない。ここにはない」
「脂の乗ったやつだよねぇ?」
「そうね、鮪にね」
「鮪かぁ」
値段に躊躇がないのもあれだけど、脂責めにしようとしてきているので食い止めたい。赤身を所望したい。
その後、美々海さんは、追加で上カルビ、サーロイン、あとなんか聞いたことない部位を三つくらい頼んだ。ご飯もおかわりしたので、さすがに腹がはち切れそうになった。
最後に出た杏仁豆腐も二人前食べた。
……うぷ。
お会計をいつの間にやら美々海さんが済ませていたので、苦しい腹を押さえながら、俺は外に出た。
肌寒くて、心地良かった。
「お腹いっぱいになったぁ?」
「いっぱいすぎるので、少し歩いて帰りたいです」
「いいよぉ、健康的だねぇ」
ころころと笑うと、俺の手を優しく掴んで歩き出す。
「え、いや、ちょっと恥ずかしいから!」
「私はそうでもないよぉ」
「俺が! 恥ずかしい!」
「だぁめ。逃がさないからぁ」
優しい笑顔で、本気か、冗談なのか、掴めないことを云う。
少し、ゾッとした。
ただ、すぐに俺の頭は冷えたので、彼女と笑い合いながら、雑談をして歩いて三駅分歩いた。
「ねぇ、美々海さん。お腹空かない?」
「んー? まだ我慢できるよぉ。すごく空いてるけどねぇ」
にこにこしながら、彼女は云う。ただ、それ以上は云わない。
だから、俺もそれ以上は訊かなかった。
八弥山美々海。彼女は、人を食う化け物だ。だが潔癖で、自分の育てた肉しか食べられない。だから彼女は、酷い飢餓感を抱えながら、十数年後食う為に、都合良く見付けた身寄りのない孤独な俺を育ててくれている。
そして、ありがたいことに衣食住、学校も含め、全ての世話をしてくれている。
そんなことを、彼女は俺を引き取る時に笑顔で説明した。それでも良ければと、俺に手をさしのべてくれた。
実際のところ冗談なのではないかと思うところもあるが……確かに彼女は、俺の目の前で一度も食事をしていない。
ただ、もし本当であったとして、俺にはそれを断る術はなかった。
それに、それを語る彼女が、とても美しかったから……それでも良いかななんて、思ってしまったから。
確か、前に聞いた時に、三十歳くらいが好みなのだと云っていた。その頃に俺は、彼女が熱心に見ていた焼肉の、焼かれる側に回るのだろうか。
「りょーくん。アイスとか食べるぅ?」
「満腹です」
できれば、最初にきちんと絞めてから焼いて欲しいななんて、思ったりしていた。
とりあえずあと十五年。健康に生きて、彼女の隣に居たいななんて、思っていたりしていた。
「でも食べます」
「そっかぁ、じゃあコンビニ往こぅ!」
「はい!」
彼女は俺を、美味しいと思ってくれるだろうか。