1ー8
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彼は男に諭されるまま頷く。俺のことを認めなかった者達に復讐をせずにいられない。
「まずは君に知識を授けよう。この世界の裏側に蔓延る冒涜的な知識を。くれぐれもじっとしていたまえよ。失敗すると弾け飛ぶ」
そう言うと男は彼の頭をその手で掴むと何やら唱え出した。
英語ではない未知の言語。それは脳を犯していく。様々な知識が浮かんでは消えて行く。この街の裏側、冒涜的な神々、自身の中に埋め込まれた者、そして復讐する際に気をつけなければならない人物について。
知識が溢れるにつれ、彼の中に生まれた復讐心はどんどん大きく肥大化する。そして憎しみが最大まで高まった瞬間にブツリと気を失った。
朝、彼はガス灯に寄りかかった状態で目を覚ました。そして自分の中に何故か存在する知識を逡巡し、ある計画を思いついた。
「その計画が、アンタらに止められたって訳だ」
彼は先程から表情を変えずにあらましを喋った。
「雨合羽の男は俺の中にタールの様な不定形の化け物を入れていった。そいつを通して呪文をコントラバスに刻み込み、知名度の無いバンドのメンバーとクラブのボスに洗脳の呪文をかけて、演奏をすることのできる舞台を整えた」
「そしてその酒場に来る学生を化け物の餌にして抹殺する事で、社会への復讐とした。この街の連中は面子を大事にするから、それを汚す事も出来て一石二鳥だと考えたよ」
言い終わった彼は少し憑き物が取れたかのように笑う。その言い方ではまるで相手は誰でもよかったかのようではないか。
「俺の中に入れられた化け物は、一週間に1回、人間3人分ほどの栄養があれば維持できる。比較的若い20代前後の肉が好きらしい。この化け物を通じて魔術を使う場合、さらに栄養を追加で摂取する必要がある。」
「不定形生物のなりそこない…か。若い命や体を欲しがるのは、自身が生み出される時に使用された命の残滓が、どうにか体を取り戻そうと求めているからか?」
エリーがいつになく真剣に独り言を言う。
「今も俺の中に化け物が巣食っている。あと少しでこいつの餌の時間だから、腹を空かして出てくる筈だ。出てきて餌が無かったらどうなっちまうかは正直分からない。きっと俺は腹を空かしたこいつにやられると思う。だからもうどうでもいいんだ。」
「被害者の体に模様が書かれていたのは、その模様があった方が、化け物が早く栄養として取り込めるから。違うかい?」
「正解。洗脳にかかった奴らに、自分で自分に模様を掘らせる。それが終わり次第供物として化け物に与える。黒いタールが膨張して一気にバクンだ…これが全てだよ。殺すなら殺してくれてもいい。きっとあの男に何かされたんだろう。思考が全て復讐へ強制されている事が分かる。もう今では全てに対して憎く思えてしま…うん……ぁ…」
言い終わる直前に、彼の目、鼻、口、耳から真っ黒なタールの様な物が流れ出てくる。
それは勢いを増していき、夜の空に浮かび上がる満月の様に、ボコッと音を立てて何個も目玉を黒い湖畔から浮かび上がらせた。
その瞳は血走っており、縦横無尽に辺りを見回す。餌を探しているのだろう。
バケモノの視線がエリーの視線の重なる。
しばしの沈黙が流れた後、まるで威嚇するように化け物は叫び声をあげた。
「へぇ…私のことを餌じゃなくて敵として認識したなんて、案外出来る子じゃないか」
エリーがバケモノを嘲笑った瞬間、そいつの体が膨張し始める。
彼女の態度がそうさせたのか、さらなる奇声をやたらめったら廊下に響かせ、その振動で壁の絵がカタカタ鳴っている。
男の口や目と、化け物の本体とを繋げている部分が脈動する。
それに伴って化け物は自身の体と存在感を大きくしていき、男は養分を吸い上げられるように萎んでいく。
男という苗床からたっぷりと養分を吸い取った異形の存在は、再度大きく奇声を上げた。
それはまるで産声のようで、それに合わせて並々ならない状況が動き始めようとしていた。
「ウィリアム君!伏せたまえ!」
そう編集長は叫ぶと、化け物に向かって銃を撃ち込む。その横でエリーが腕を持ち上げ、掌を化け物に突き出した。
ーきぇえぇぇぇえええええいいぁああ!!!ー
化け物が悲鳴をあげる。目下一番の脅威はアイツだと言わんばかりに、その不定形の体から触手を伸ばし、編集長を拘束しようとするが、彼は的確にその触手に鉛玉を食らわせて怯ませて行く。
4、5回編集長へと触手を伸ばそうとしていたが尽く失敗した化け物は、自身の背後にいる苗床の首を触手で掴み、前に持ってきた。盾として利用するつもりなのだろう。
じりじりとナメクジのようにゆっくりと二人に近づいて行った。どうやらダメージ自体は大して受けていないようだ。
「ふむ、少しは知恵もあるし、痛みも感じる。飼い慣らせばよく働きそうだ」
編集長はそういいながら、コートのポケットを漁り、小さな小瓶のようなものを取り出しすぐさま投げた。その中からは白く輝く液体が弾け、化け物に降り注ぐ。
ーきぇえ…え……えぇいあ………ぃあー
液体は化け物に触れると薄く発光し、その流動体の表面を固めて行く。
「やはり、ショゴスと同じような組織構造を持っているのか。念の為持ってきていたが、正解だったな。さて、もう準備はいいかね?」
編集長はすでに臨戦態勢ではないものの、相変わらず銃を構えてエリーに声をかける。
目を閉じてなにやら呟いていたエリーだが、ようやく準備が整ったのか目を開き、ニヤリと笑いながら「当然」と編集長の問いかけに返した。
その瞬間、風の吹かない室内だというのにヒュゥっと音がなった。
その音は徐々に大きさを増し、ついにはゴウゴウと黒い軌跡を伴って、全方位から化け物めがけて吹き荒れる。
その軌跡が化け物の表面を撫でるごとに、体がパラパラと砂の白を崩すように消えて行く。
ー…いぃぃ………ぅあぁあ…ー
化け物はその体を徐々に小さくしながら、次第に呻くことも出来ずに消えて行く。
最後に残ったのは幾ばくの黒い砂とその上に鎮座する化け物の瞳のみであった。
頭を抱えて伏せていた僕はそろそろと立ち上がり出す。
「見ていたかいウィルくん!僕はすっごい魔術師なんだよ!銃が効かない相手だって瞬殺さ!」
エリーがそう言いながらぴょんぴょん飛び跳ねる。化け物に対峙する彼女はあんなにカッコよかったのに、落差が激しすぎる。
何はともあれ無事に終わった。と思った瞬間、足の力が抜けて尻餅をつく。どうやら怒涛の展開に体が付いていかなかったようだ。
「大丈夫かね?逃げ出さなかっただけ君は良くやったよ。さぁ、手を貸そう」
編集長の差し出した手を取ってなんとか起き上がる。
「犯人はあの化け物に色々と吸われてもう死んでしまったよ」
ちらっと犯人の方を見やると、胎児のように蹲った姿で寝ている木乃伊が転がっていた。
急激に自身の体から大切なものを無理やり抜かれたのだろう。激しい苦悶の表情を浮かべている。
「…裏の事件に関わった者の末路は、皆あんな感じになるんですか?」
「ここまで酷いのは久々だよ。多くの事件の犯人は廃人になるか、人間として殺されるかのどちらかだ。このように消費され尽くして死ぬことはほとんどない」
「…そうですか」
あんなに犯人に対する怒りがあった筈なのに、今僕の中あるのは哀れみだった。誰にも認めてもらえず馬鹿にされ続け、最後は何者かに唆され外道に堕ちてしまった音楽家。
あんなに苦しそうな顔の相手に安らかな眠りをなんて祈ることはとてもじゃないが出来ない。
「ウィルくん、この街の裏側や真実にはね、臭くてカビの生えた呪いだったり、彼の様な常軌を逸した復讐心だったり、理解できない狂気が潜んでいるんだ。それは私でさえ一部しか知らないし対処できない。そして確かに君のすぐ近くにも存在している」
エリーが化け物の瞳を拾い上げながらこちらに話しかけてくる。
「どうだい?その恐怖や不安に震えて過ごすか、私たちと一緒に自分自身や、大切な人を守って行かないかい?」
エリーが不安そうな顔をして僕に握手を求める。
エリーは不思議な女性だ。広すぎるコネクション、太すぎるこの街の有力者とのパイプ。今回の事件で僕に見せつけた魔術は、知識のない僕からしても凄い物だと理解出来る程だった。
そんなエリーでさえ一部しか対処できないこの街の裏側と真実。正直に言えば恐ろしくてしょうがないが、僕や友人が巻き込まれるかもしれない。そして僕がお世話になっている目の前の二人だけにお危ないことをして欲しくない。
「きっと僕は何もできないし、さっきみたいに蹲ってることしか出来ないけど、友人を守りたいし、なにより二人に危険な目にあって欲しくない。だから僕も手伝うよ」
エリーの手を取って二人に笑いかける。
アーカム・ナイト・クラブの従業員通路、黒い砂と不気味な木乃伊が横たわる中、
僕は二人の仲間になったのだった。
ついに事件が結末を迎えましたが、もう少々彼らの1日は続きます。きちんと家に帰るまでがクトゥルフです。
※ブックマーク等、本当にありがとうございます。また、読みづらいとの声をいただきましたので、自分なりに修正を加えさせてもらいました。
ご指摘、ありがとうございます!