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ちくしょう、ちくしょう!ちくしょう!!
白いシャツを着た痩せぎすな男は、足音を大きく響かせてクラブの従業員用出入口を目指して歩いていた。
口の端を赤く泡立たせ、シャツは一部赤く染まっている。
俺の人生はいつもこうだ。どんなに頑張っても、横から俺よりもいい結果を出す人間がどんな分野でも出てくる。
そいつらは俺を見下し、嘲笑いながら何歩も先へ進む。
そんなやつらに復讐するための力を身につけ、これから俺の人生が始まると思っていたのに、全て水の泡だ。
男はその表情の中に、悔しさを隠せずにいた。
「あのガキ、生贄の様子にびびった様子も無く水を掛けやがった…」
既に自分の企みが何者かに察知されているに違いない。あのネックレスの魔力、もしかして『女王様』の関係者か?どちらにせよ早くこの街から脱出しなくてはいけ「おいおい、そんなに急いで何処に行くつもりだい?」
思考をさえぎる様に女の声がした。
「残念だけど、もうキミは逃げられないぜ」
女は不敵に笑いながらこう続ける。
「なんせ私と出会ってしまったからね!」
いきなり水をぶっ掛けた事に怒りもせず、逆に僕が泣き始めた事にびっくりしながらも、優しく宥めてくれた3人の友人はすっかりいつもの様子に戻っていた。
やはり先ほど目があったコントラバスの男が犯人だったのだろう。あんなに憎悪の篭った目で誰かに睨まれたのは初めてだ。
舞台袖に引っ込んだ犯人だが、簡単には逃げ切れないだろう。もう店の裏には二人が張っているし、編集長は銃も所持している。
自称どんなものでもおちゃのこさいさいのエリーだけちょっと心配に思うが、きっと上手く立ち回るだろう事は想像に難くない。
友人の無事に安堵した僕は、この事件の結末を見届けることにした。
自分に出来ることは少ないかもしれないが、あの男を羽交い締めにしてでも捕まえて、何で僕の友人にこんなことをしたのか問い詰めなければ気が済まなかったのだ。
「みんなごめん手が滑っちゃって…ちょっとトイレで顔を洗ってくるよ。あ、あとこれで水拭いてね」
鞄からタオルを3人に渡し席を立つ。
いきなり演奏をやめたバンドメンバーに詰め寄るクラブのスタッフ達、そしてざわめき続ける客。店内が暗いのも相まって、今なら舞台袖に潜り込む事が出来そうだ。
「よし!一発ぶちかましますか!」
僕は頬を軽く両手で叩くと舞台袖へと身を躍らせた。
間接照明の光と煉瓦の凹凸が作り出すお洒落な店内とは違い、従業員のみが使う通路は殺風景な物だった。
少しジメッとした空気がまとわり付くようで息苦しさを感じさせる。
廊下は両側にある控室と事務所を始めとして、倉庫が左右に、その奥には住み込みで働く従業員のための私室が続いていた。
さらにその奥、従業員用の出入り口を、エリーと編集長が犯人を阻む様に立っている。
「ふむ。役者も揃ったようだ、ここはスマートに観念したまえ」
犯人に銃口を向けながら編集長が口を開くが、彼は身動ぎ一つせず、ゆっくりとした動作で廊下の脇にあるソファに踏ん反り返って座る。
犯人は僕の方を見て憤怒の表情を浮かべたがすぐに目をそらして、エリーと編集長の方を見やると溜息をついた。
「はぁ、あと30分弱で完成していたのに…何でこんなに早く俺の事が分かった?それに『女王様』は今ヨーロッパでドンパチしてるんじゃなかったのか?あなたがいない内に事を終わらせるつもりだったのに、全て台無しじゃ無いか」
「私が何処にいたってキミに関係ないだろう?そこのウィルくんに何かあるって虫の知らせを感じて、すぐにこっちに帰ってきたよ。それに今回の魔術を止める事が出来たのは、ウィルくんの情報のおかげだ。僕たちが合流した今、キミみたいにちんけな魔術師はもうおしまいだぜ」
エリーが胸を張ってそう言うと、男がこちらを一瞥する。先ほどの様な嫌な感じがしないため、此方も堂々と視線を返す。
そうして視線を合わせていると、彼がひどくくたびれた顔をしていることに気付いた。
頬は薄っすらと痩け、落ち窪んだ眼窩が不気味である。顔色も土気色をしており、重病患者さながらの不健康さだ。
彼は僕から目線を外し、下を向いて呟く。
「もうどうでもいい。全部お終いだ」
自分の悪事が明るみになり、自暴自棄になったにしては様子がおかしい。
息巻いてこの場から立ち去ろうとしていたのに、今は何かを受け入れた様な、落ち着いている様子だ。
そんなにエリーの存在が大きいのだろうか?
そんな彼に引き続き質問を重ねる。
「楽器の内側に刻んだのは、『他者を魅了する呪文』の亜種かね?随分と強力な催眠を対象に掛ける様にアレンジしてあったが、誰から教わった?そもそも何をしようとしている?警察から拷問紛いな取り調べを受けるか、我々に正直に話して無駄な痛みを受けずにいるか…好きな方を選びたまえ」
銃口を男へと向けたまま、編集長が男に尋ねる。
こんな非現実的な話を警察に言っても信じられることもないだろう。きっと彼が嘘を付いていると思われて、情報を吐くまで厳しい取り調べが永遠に続く筈だ。
「そうだな…『女王様』の前で俺が足掻いたって無意味。拷問されて都合のいい自供文を用意されるよりも、あんたらに話した方が楽になれるか…」
ソファの横に置いてある花瓶の中の花を撫でつつ、男はポツポツとあらましを話し出した。
男が魔術と出会ったのは1ヶ月前、別のクラブの出場オーディションに落ちた帰りであった。
彼は代々音楽家を輩出している一族に生まれ、そこそこの才能を持ってはいたが、それは彼の弟には遠く及ばないものだった。
弟は既に様々なクラブと契約しており、その伝で今回のオーディションに参加する事が出来た訳だが、やはり弟のネームバリューが上げたハードルを彼が超えることは叶わず、悔し涙を流しながら帰路に着くこととなった。
すれ違って行く全員が彼を嘲笑う感覚。後ろから浴びせられる見下した目線。ありもしない妄想は彼を既に壊していた。
そんな妄想から逃げるべく、人通りを避けて歩いていると、ビルの合間の暗がりである大男とぶつかった。
その男は2メートル以上ある背丈に、黒い雨合羽の様なローブをすっぽりと被っていた。
その風態からマトモなヤツで無いのは一目瞭然だが、フードから覗く目に見つめられるとどこか安心する様な、それでいて焦燥感を与えられている様な、なんとも言えない気分になって彼は立ち尽くした。
「思いつめた目をしているね。何か嫌な事があったのかい?私に話してごらん」
男の声色は何とも心地よく、彼の心に沁み入った。普通に考えれば怪しい事この上ないが、そんな些細な事は関係ない。
彼は今までの自分の人生を話した。
繰り返してきた挫折、自分を評価しなかった親やクラブのオーナーへの憤怒、弟への劣等感、そして自分には無い、眩しい可能性を持った若者達や学生等への羨望。
自分の心の内に秘めていた叫びが涙と共に吐き出される。男は話を聞き終えると口を開いた。
「君は今までの人生の全てに仕返しが出来ると言ったらどうする?」
その甘言はあまりにも魅力的で、一度思い描けば思考はそれに強制される。
仄暗い復讐心が彼の中に確かに根付いた。
この事件の真相が見えてきました。
もうしばらくのお付き合い、皆さまよろしくお願いします。