在りし日の。
おとぎ話の英雄と御姫様が結婚して、ずっと幸せに暮らす絵本。
それは、宝物だった。
「絵本、か」
皺にまみれた指先で、私はそれをなぞる。かつての若々しさが消え失せた顔を見て、ふっ、と微笑んだ。
始まりは若い日の些細なすれ違いだった。英雄であることを望む姫と、夫婦であることを望んだ私の、若い若いすれ違い。それは大きな歪となって、今では私が英雄であることを願い、姫は私に夫婦であることを望んでいる。
私と姫は、今日、離婚する。
姫と呼び続けてしまった、私の過ち。近づけなかった、私たち夫婦の隙間が形となっている。
「ステファノ様」
「様は要らないと、言ったでしょう?」
「それならあなたも、その口調は要らないと、言いましたよね」
姫が微笑む。
あの日の輝かしさを、一寸も失わず、それどころか年齢と共についた肉も、皺も、姫が隠したがる白髪の一筋すら私には愛おしい。
だがいくら愛しく思っても、私たちの間には、遠い遠い距離がある。
「気持ちは変わりませんか」
「ええ。貴方は?」
「変わりません」
確認しあったその時、部屋の中に懐かしい魔力の波動が満ち溢れる。見えたのは、美しい、あの日の姿と変わらない青年。金髪に碧眼、女性と見まごうばかりの美貌。あの日から変わらない笑みを浮かべ、彼は朗らかに言った。
「久しぶり!」
私と、姫の目に、知らず知らずのうちに涙がにじむ。
「ステファノ、エルメリリア」
勇者、レイオン。
私たちの希望。今なお輝く、不老不死であり、世界を守る魔王封印の礎。
「君たちの選択を聞いて、ここに来たよ」
どこまでも、あの日と変わらない口調で言う彼の優しさに、胸が詰まる。ああそうだ、結婚のあの日ですら、彼は何一つ変わらなかった。
多くが変わった。この街も、世界も、たくさんのことが変化してしまった。
その中の一つが、変わる日が来た。それだけのことだ。
「すまない、レイオン」
「ごめんなさい、レイオン」
謝る私たちに、彼は変わらぬ声で、応えてくれる。
「大丈夫だよ。ステファノ、エルメリリア」
あの日と変わらない、優しい笑顔だった。
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「この街に戻るのも、いつ以来だろうか……」
感慨深さもひとしおに、私は乗ってきた馬車を降りた。
「それでは旦那様、打ち合わせ通りに」
「うむ。宿へ向かってくれ、連絡は後程する」
「かしこまりました」
長い付き合いの御者兼執事であるゼネルへ声をかけ、私は周囲を見回す。そこは活気ある、馬車乗り場の一角であった。外見は初老の男性にしか見えないように魔道具を利用している。この街では、私の外見は少々目立ちすぎる。一般的な茶髪に、緑色の目をした40代前後の男。馬車に乗ってきたというあたりから、おそらくは商人か下級貴族にみられているだろうことを願う。
今のところ、じろじろ見られてもいないし、そこはこの街が立派な観光都市となった御蔭だろう。
私の本来の外見は、”ある理由”から年齢に不相応な瑞々しさを保っている。その外見というのは、20代前半の女顔をした青年で、その上金髪碧眼だ。少し歩けばやや華美な装飾の、在りし日の私を模した像に出くわした。私を中心に、4人の仲間の像も共に安置されている。
勇者、レイオン。
今も、そして昔も、私を形作る名前である。
そう、勇者と呼ばれていた。最も魔王討伐ということ自体が、20年以上前の出来事なのだが。
もともと、4人組の冒険者だった。私はパーティーの盾役で、あるダンジョンを制覇した際、奥底に眠る剣を引き抜いたことがきっかけで、勇者となった。
魔王討伐の旅路は、今でも鮮やかに思い出すことが出来る。
剣を抜いたから私は勇者になれたのではない、と断言できる。それだけ過酷で、遠く、気が遠くなりそうな旅路だった。
やがてたどり着いた魔王の城で、私は勇者としての務めを果たした。結果として魔王を封印する”鍵”となった私は不老不死となり、生涯老いることは無くまた、死ぬことのない体となってしまった。人々を見送るだけの日々を過ごすことを覚悟し、山深い場所に領地を貰い、今日まで穏やかに過ごしてきた。私が不老不死となったことを知るのは、ごく一部の人間だけである。
しかし思うことあって、こうして今日、この街へやってきた。
「おじさん、誰か探してるの?」
低い位置から話しかけられ、私は顔をそちらへ向ける。小柄な少年が、私を見上げていた。にっ、と笑顔を作る彼からは、微かな自信を感じる。私が人探しに来た、と感づいた辺りも気にかかり、会話をすることとした。
「うむ、これから探すところだ」
「あてはあるの?」
「ある。古なじみでな、久しぶりに会いに来たんだ」
「ふぅん」
客にならないと判断したのだろうか。詰まらなさそうな顔になった少年に、しかし、と続けた。
「だが街の様子はずいぶん変わったな。最後に来たのが十年以上前だった、この像もまだなかったころだ」
「えっ、そりゃずいぶん前だね! 俺が生まれるより前だよ」
「だろう。今もバンゲルク通りはあるかね? そこに住んでいる友人なんだが……」
少年の顔が明るくなる。
こうした道案内を申し出る見習い冒険者、あるいは貧民街の子供は、旅先の観光地ではよく見かけたものだ。この街にもいるようになったのか、とふと思う。安全だが、街に詳しくなければ金を払ってもらえないことも多く、難しい仕事だ。
「ああ、その通りはね。今は違う名前だし、区画整備で通りが変わっちゃってるよ」
「おや。じゃあ探すに苦労しそうだな……」
「同じ位置になら案内してやれるけど?」
窺うように尋ねる少年に、頷き返した。
「任せよう。冒険者見習いかね?」
「えっ、そうだけど」
「なら後でギルドに出す書類はあるかね。案内の証明に必要だろう」
「おじさん、冒険者? そこまで知ってる人、俺、じゃなくて、グレスって言うんだけど……初めて会った」
どこか高揚した面持ちの彼、グレスに、旅をする中で必要になったもう一つのギルドカードを見せる。一端の冒険者であったことを示すための、身分証のようなものだ。見習いから始まり、1級まで順に数字が小さくなる冒険者の階級である。その中で4級となれば、一流の冒険者だと周囲から認められる。
もう引退しているがね、と付け加えると、グレスは納得した面持ちになった。
「おじさん、じゃなくて、レイオンさん! 勇者と同じ名前なんだ」
「偶然でね。若い頃はよく聞かれたが、とても似てないだろ」
「うーん、まあね」
書類に魔力印を押してから、グレスの先導で歩き出す。
「でもあの通りに住む知り合いなら、レイオンさんよっぽど古い知り合いだね」
「ああ。二人とも幼馴染でな……私が引っ越してきたとき、最初に友達になってくれたのだよ」
「そうなんだ」
そんなことを会話しながら歩くと、見慣れない街並みにひそかに動揺する。区画整備があった、というのは、既に聞いていたし、目的の幼馴染も索敵魔法ですぐに見つけられる。だがしかし、街の中をわざと歩いていきたい、と思っていた。
人々の会話に耳をそばだてるが、危惧していた内容はどこからも聞こえてこない様子だ。
「ほら、あれが、前はバンゲルク通りだったっていう証の碑だよ」
「……ずいぶん、警備が厳重になってしまったな。当たり前だが」
「……そりゃあ、そうだよ」
呆れた目で見てくるグレスに、すまんすまん、と謝る。
「十五年以上帰らなかったから、まるで知らんかったのだ。だが、当たり前か」
「うん。でも、昔を知ってる爺さん婆さん達も、よく言うよ。仕方ないとはいえ、ちょっと寂しいって」
私とグレスが見つめる先。
巨大な門に、鎧の騎士。街の中で、そこから先がまるで隔離されたかのような造り。他の家々に比べると、明らかに大きく、そして装飾がしっかりと施された屋敷ばかりが続いている。
出入りを待つ人々もいるが、多くは観光客の様子だ。街の中ではあるが、身分証を提示しているのが見える。それだけ警備が厳重だということであろう。
「今はなんと?」
「エルメリリア通り」
「……なるほど、違いない」
私がこの街を訪れた理由、それは”離婚の承認役”となるため、だ。
魔王討伐の仲間であり、大親友である元騎士のステファノ。そして、その妻となったエルメリリア姫。
かつて誰もが祝福した英雄同士の結婚。
今もなお、物語の英雄と姫だと、ある意味勇者である私以上に慕われる二人。
身分差を乗り越えた恋物語として、愛を貫き通した真の騎士道として、民に愛される二人。
その二人が、離婚するという。
結婚の認め役を果たした私に、その連絡は二人の執事より伝えられた。
「で、レイオンさんはここを見に来たの?」
「中の者に用事がある。すまないな、手間をかけた」
「えっ。……あ、ううん、大丈夫」
「ありがとう」
銀貨を一枚。こうした報酬のうちでは、かなり破格だろう。驚く顔をする彼を置いて、門番を務める騎士の元へ向かった。列に並び始めてすぐ、騎士がもっともらしい理由を言いながら、私を早いうちに通してくれた。
むろん、見せるのは、本物の身分証だ。不思議だが、こういう場では、こうしたものが最も役に立つし、分かりやすい。
「話は?」
「伺っております」
低い声で答えてくれた彼は、何処か沈痛な面持ちをしていた。
「それでは」
「お願いいたします」
観光客でごった返す通りを抜けて、奥へと向かう。二人が暮らす屋敷は、通りの奥にあった。
ひっそりと探知魔法を使い、思い知る。
おそらく。
おそらく私が思っていた以上に長い間、この屋敷は外観の手入れだけが続けられていたのだろう。中に、人気は、まるでなかった。代わりに二人の反応は、遠い場所にある小さな屋敷から伝わってくる。
「……そうか、君たちは」
ずっと長い間、我慢していたのだろう。
そんなことを、ふと思った。
魔道具の効果を裏路地で静かに切り、私は彼らの元へ、一足飛びに転移した。
「久しぶり!」
ああ、あの日と同じ笑顔を、私は浮かべていられるだろうか。
彼らは次の旅路を選んだだけだ。そう思って、祝福できているだろうか。
おわり