クロスセンティメント
奏の夢を見たせいで、寝起きから胸が激しく高鳴っている。
アイツの夢を見たのはいつぶりだろう……。おかげで嫌な汗をかいた。室内にはクーラーの冷たい風が満ちているというのに。
『レン、大好き!』
そう言って、夢の中のアイツは俺に笑いかけてきた。あの頃と同じ笑い方をする奏を見て、胸の中には三つの感情が混ざり合った。喜び。切なさ。そして、罪悪感。俺なんかにそんな風に笑いかけるなよ、と。
奏とは、中三の時に半年だけ付き合っていた。両想いなのが分かって喜び満点で付き合ったのに、卒業前にはつらい気持ちで別れることになった。
奏と付き合っていた当時、俺にはアイという女友達がいた。アイとは小学校からの腐れ縁で、今さら異性を意識し合うような関係ではなかった。アイの方も俺を男というより女の延長みたいに思うと言っていた。
当然やましいことは何もないので、アイと会う時は奏に言ってから出かけるようにしていた。だけど、たまに緊急で呼び出されると報告し忘れてしまう時があり、そのたび奏はアイにヤキモチをやいて怒った。そして、不安ゆえに泣いた。
奏が泣くたび、俺は必死に謝り仲直りをした。奏に嫌われたくない。
それなのになぜアイと会ったりしたのか。
俺に彼女がいたように、アイにも彼氏がいた。ソイツは女癖の悪い軽いタイプで、しかも他校生。塾で知り合った男らしいが、アイはソイツの女関係を目の当たりにするたび落ち込んでいた。ひどい頻度だったと思う。
そんなアイにとって、悩んだ時に頼れるのが俺だけだった。アイには、恋愛相談できるほど仲の良い女友達がいなかった。
『女同士は色々難しいの。悩んでるのは私だけじゃないし。片想いしてる子の前で彼氏の話なんてしづらいんだよ。だってそういう子達からしたら私は恵まれてるもん。その点、レンは気楽。彼女いるから対等に話せるっていうか』
アイは一度だけ、困ったようにそう打ち明けてきたことがある。俺はたいして役に立てていないけど、話すことでアイが楽になるならそれでもいいかと思った。
俺にグチることで彼氏への気持ちを再確認し、アイは元気になる。一方、浮ついたアイの彼氏の話を聞くたび、奏を絶対大事にしようと心に誓った。アイと会った日は必ず奏とも会うようにした。だんだん奏は泣かなくなったので、これがバランスのいい付き合い方なんだと俺は勘違いした。
ある日、奏から呼び出された。いつもより暗い顔をしている。何かあったのだろうか。尋ねようとした矢先、別れを告げられた。
『私、友達を大事にしてるレンはすごいと思うし、そんなレンも好きだよ。でもね、やっぱり受け入れられない。私だけ見てくれないのは寂しいの。だから別れよう。ちょうどもうすぐ卒業だし、ね』
頭の中が真っ白になり言葉が出てこなかった。
俺がアイに呼び出されるたび、奏はいつも笑って見送り、いってらっしゃいと声をかけてくれた。無理させてしまっていたんだと、初めて気付いた。
それから二年。今はお互い高二だ。しかし、高校が離れた今、奏がどうしているのか知らない。中学の時からスマホは持っていたけど、奏はフェイスブックやインスタグラムもやっていなかった。そういうのは苦手だと言っていたから、多分今もやっていないと思う。
となると、再会する手立てはない。
いつもなら夢なんてすぐに忘れてしまうのに、今日はなぜか頭から離れず、時間が経つごとに記憶が濃くなっていくようだった。今が夏休み真っ最中なのもいけないのかもしれない。学校のある日だったら気分転換もできたはず。
誰かを誘って気を紛らわせようか……? 微妙だ。そんな気分になれない。まだ鮮明に覚えている。夢の中で響いた奏の声を。
別れてもうだいぶ経つのに、奏に対してまだ未練があるんだろうか。たしかに、別れた後はものすごく引きずったけど、どうして今さら? 結局、あの後二人の子と付き合ったけど長続きしなかった。奏への想いが残っていたせい?
ベッドの中で寝返りを繰り返しながらうだうだしていると、視線は自然と本棚の一番下にしまってある青い背表紙に引っかかった。中学の卒業アルバム。のっそり起き上がり、何かに突き動かされるようにそれを手にした。
久しぶりに手にしたアルバムは、初めて受け取った時より軽く感じる。卒業式の日はもっと重たい物のような気がしていた。
パラパラと無造作にページをめくっていく。仲良かった友達を何人か見つけ、懐かしくなる。今、皆はどうしているんだろう。二組の顔写真欄にアイを見つけ、五組に奏がいた。痛みと共に、あの頃の優しい気持ちが蘇ってくる。
肩までの髪はサラサラで。まっすぐな目は穏やかで。あどけない表情ながらも凛としている。たまに何もないところでつまずく癖も可愛かった。好きだった。とても。
アイの顔を見ても何とも思わないけど、奏の姿は今でもやっぱり特別だった。奏は元気にしてるんだろうか。時々は俺のことを思い出していたりする? さすがにそれはないか。
奏と別れた後、何かを察したのかアイは遠慮して俺を呼び出す回数を減らしていった。今でもたまにラインが来るけど他愛ない雑談で終わるし、今は中学時代とは別のヤツと付き合っていて幸せそうだ。
アイだって前に進んでいるのに俺だけが過去に閉じ込められている。そんな気がした。
アイに新しい彼氏ができたように、奏だって俺以外の男と付き合ったりしているかもしれない。時間が経っているのだから当たり前なのに、どうしてもそれが嫌で、浮かんだ悪い想像を打ち消すようにアルバムを閉じようとした。
動揺しすぎで最後の方のページに指を引っかけてしまい、うまく閉じられない。
「なんだよもう」
つまらない気持ちで義務的にそのページを開く。
そこは人からメッセージを書いてもらうための余白ページで、何人かのクラスメイトや友達が卒業祝いのメッセージを書いてくれた。当然、メッセージを読めば書いてくれた人の顔が思い出せる。
読んでいて、ピタリと指が止まった。書いてもらった覚えのない書き込みがあったからだ。
《三年間ありがとう!別れたこと後悔しています。もしレンさえよければ、また……。 奏》
急激に体が熱くなり喉が渇き始めた。
奏からの最後のメッセージ。でも、いったいいつの間に書かれたんだ?
無視するつもりはなかったが気まずさが上回り、卒業まで俺達は一切口をきかなかった。普通の挨拶すら、胸の痛みでできなくて。
クラスの誰かがお節介をやいてこれを? いや、それもないはず。皆、俺の前で奏の話をしないように気を遣ってくれていた。
そういえば、卒業式が終わった後、校庭でクラスメイトや友達とたくさん写真を撮った。撮影に邪魔だったのでカバンとアルバムは体育館の出入口脇に置きっぱなしにしていた。その間体育館や校庭には保護者や卒業生がわらわらいたし、シチュエーションがシチュエーションなので奏が俺のアルバムを開いて何かを書いていても不思議がる人はいないだろう。
奏からのメッセージには続きがあった。それまで以上に小さな文字で、
《誰にも内緒でツイッター始めました。もし可能性があるのなら、◯◯◯◯までDMください。》
ツイッターでの名前とアカウントが綴られている。
今度は背筋が冷えた。どうして今までこれを見逃してしまっていたんだろう!? 奏は、ツイッターをやりながらずっと俺からのコンタクトを心待ちにしていたかもしれないのに。
たまにしかやらないツイッターを開くと、間違わないよう慎重に奏のアカウントを打ち、検索した。すぐに見つかったので一応フォローし、ぎこちない動作でDMを送る。
《久しぶり。中学一緒だったレンだけど覚えてる?アルバムのメッセージ今見ました。今まで気付かなくてごめんなさい。》
送信。
指先が心臓になったかのように小刻みに震えていた。
いい返事が来るのを期待した直後、やっぱり送らなければよかったと後悔する。いや、後悔することはないはずだ。向こうだって別れを後悔しているとアルバムに書いていたんだし! いやいや、別れて二年だよ? さすがにこわいって。やっぱりやめときゃよかった!!
人にメッセージを送ってここまで死ぬような気持ちになったのは初めてだ。
返事が来るまで、息をするのもつらい状態だった。意外にも早く、十分後に返事が返ってきた。体感時間はもっと長かったけど、それすら有意義に思える。
《DMありがとう。もう嫌われてるかと思ってたから連絡きて嬉しかった。》
さっきまでの心配や不安が溶けていく。浮き足立つような気持ちでやり取りを続けていった。
《嫌われてるのはこっちの方かと。高校、どう?》
《楽しいよ。来週友達の家に泊まりに行くんだ。レンは?》
《楽しいよ。それなりに》
DMでのやり取りなのに、まるで目の前に本人がいるような心地がする。夢の内容を思い出して気持ちが弾んだ。しばらくやり取りを続けていくと、核心を突くような質問を受けた。
《アルバムなんて最近全然見てなかった。レンはどうして見る気になったの? 気になることでもあった?》
どう答えたらいい? 正直に夢のことを言ったら引かれないか?
《なんとなくかな!》
《そっかー。なんとなくかー。》
どことなく拗ねた反応。どう返そうか考えていると、立て続けに次のDMが来た。
《もう一度レンに会いたいって思ってた。それが通じたのかなって思ったんだけど、違ったかな。》
まさか。本当にそんなことがあるだろうか? 奏が会いたいと願ってくれていたから、俺の夢に奏が出てきたと。こうしてDM打ち合っている限り好感触な気がするけど、これで全てうまくいくなんてポジティブ過ぎないか? 別れて二年も経ってるし。
奏の気持ちは分からない。だけど、今たしかに言えるのは、奏ともう一度会いたいということ。
思い切って、俺は返信した。
《奏と付き合ってた頃の夢を見た。だからアルバムが気になって……。気持ち悪いこと言ってたらごめん。忘れて!》
《忘れない! ずっとずっと覚えてる!》
1分も経たずに返ってきたDM。その勢いの良さが、奏の気持ちの強さを表しているようで。今度こそ奏との再会を期待してもいいと言われた気がした。
アルバムなんてそう何回も見直すものではないけど、だからこそ、そこに詰まった大切な思い出はこれからのかけがえない未来につながっていくのかもしれない。
《完》