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桜の君まで間に合うために

桜の君まで間に合うために(上)

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××1××


四月


 入学式から二日後の今日まで風邪で学校を欠席した僕は、案の定クラスの中で浮いてしまっていた。クラス内にはもうすでにいくつかのグループが出来上がってしまっていて、僕が入り込む隙間はない。


 思えば中学の時もそうだった。


 最初に友達作りを失敗してしまって、しばらくの間はずっと一人。幸い幼馴染である浦和美園が同じクラスにいたけれど、積極的に僕に話しかけてくることはなかった。幼馴染といっても家が隣同士というだけで、特別仲が良いというわけでもなかったから。


 だけど近くにいるだけで安心感はあった。


 美園はいわゆる文学少女というやつで、暇さえあれば椅子に座って本を読んでいる人だった。

 そういうやつだから、理由は違えど僕と同じくクラス内で浮いてしまっていたのだ。失礼な話だけど、無意識のうちに僕自身を美園に重ね合わせていたのかもしれない。

 きっと美園も僕を哀れんでいたと思う。ふとしたときにチラリと僕の方を盗み見て、小さく笑みを浮かべていたから。


 同族嫌悪というわけでは決してない。同族だけど、それなりにクラスの中では会話を交わしていた。その会話も、美園が一方的に今日読んだ小説の感想を語るというものだったけど、嫌いな相手にわざわざ笑いながら話しかけてきたりなんてしないだろう。


 僕もその話を聞くのは嫌ではなかったし、むしろ楽しみにしていた部分もある。


 家が隣同士だから必然的に帰り道は一緒になって、クラスメイトに冷やかしのをかけられたこともあったけど、小学校の頃はもっと酷かったからあまり気にはしなかった。


 そういう美園という切り札があったから中学の最初は乗り切ることができたけど、しかし今回は違った。


 中学の頃は三年間同じクラスだったというのに、高校ではクラス一つ分教室が離れてしまったのだ。今まで同じクラスというのが当たり前だったから、僕は完全に不意をつかれた。きっと美園は一人で本を読みながら僕のことを想像して不敵に笑っていると思う。


 さすがに違うクラスに入って話しかけるほどの勇気はないし、そもそも出来上がった輪に入る勇気もない。

 分け隔てなく人と話せはするけれど、誰でもそういう最初の一歩は緊張すると思う。だから僕は、なるべく目立たないように机の天板に身体を預けた。


 同じクラスに同中の人は一人もいなかったから、さながら転校生にでもなった気分だ。いや、転校生ならまだ良い。それなら好奇の目線を向けられて、少なからずぼっちにはならなかったはずだから。


 クラスの中は相変わらず喧騒に包まれている。それをBGMにしながら、僕はゆっくり目を閉じた。


「ねぇ、ちょっといいかな?」


 頭上から女の子の声が降ってくる。それが他ならぬ僕に向けて発せられた言葉だと認識して、俯けていた身体をそちらへ上げた。


 茶色がかったロングの髪が特徴の、気の良さそうな女の子だった。この学校は校則で髪を染めることが禁止されているから、きっと髪色は地毛なんだろう。


 そんなことを薄ぼんやり考えていると、僕に向けられていたその表情が一瞬だけ別のものへと切り替わり、慌てたように元の笑みへと戻った。


 別の物というのは、思いつめたような、かなしそうな、そんな感じの表情だ。

 それに対しての追求は許さずに、彼女は話し始めた。


「長岡……京

みやこ

くんだよね? わたし、前期クラス委員になった羽前椿姫

つばき

っていうの。これから一年間よろしくね!」


 羽前椿姫と名乗った彼女は、それが当然であるかのように右手を差し出してきた。今時自己紹介に握手を求める人なんて珍しいなと思いつつ、僕はしっかりとその手を握る。


 安心したような表情を浮かべた後ににこりと笑う。その人懐っこそうな笑顔を、教室で浮いている僕にも分け隔てなく与えてくれた。


 僕へと話しかけたのは、委員長になった使命感のようなものだろうか。


「よろしく。えっと、羽前さん」

「さんは付けなくていいよ。同学年なんだから呼び捨てにして」


 羽前はさっそく委員長の責務を果たそうとしているのか、手に持っていた水色のクリアファイルの中から配布プリントを取りだした。

 それを僕へと手渡す。


「これ、長岡くんが休んでた時から今日までに配られたプリントなの。親御さんにサインしてもらわなきゃいけないものもあるから確認しておいてね」


 一応素早く目を通し確認すると、住居の証明書や二年次の修学旅行に関してのプリントが入っている。彼女はマメなところがあるのか、重要なところはピンクの蛍光ペンで印を付けてくれていた。よく出来た人だ。きっとクラスではさぞかし人気者なんだろう。


 今度は別のクリアファイルを取り出し、ピン留してある紙束を渡してくれた。


「それとね、休んでた分のノートも写しておいたの。これ余ってたルーズリーフだから、別に返さなくてもいいよ」


 僕は驚いて、プリントに向けていた視線を彼女へ向けた。不思議そうな表情で見返してくる。


「それも委員長の仕事なの?」

「えっ、委員長の仕事じゃないよ。クラスメイトが困ってるなら助けてあげるものでしょ?」


 僕なら見ず知らずのクラスメイトが困っていたとしても、ノートを写してあげたりなんてしないだろう。

 メリットがないし、そもそもめんどくさいから。ノートを貸すぐらいならやってあげてもいいけれど。


「まあ、何も打算なく行動してるわけじゃないから安心して。あなたに恩を売っておけば後から得をすると思ったの」

「それ、本人に言ったら台無しじゃない?」

「あっ、ほんとだね! 今のカット! 全部聞かなかったことにしといて!」


 人差し指と中指でチョキチョキとテープを切るような仕草をして、ニコニコと笑う。とても変わった人だなと思い、思わず僕は苦笑した。


 「わざわざありがとね」と言って、恩を着せるために用意してくれたルーズリーフを机の中にしまう。

 恩を着せられたけれど、なぜだか悪い気はしなかった。

 用の済んだ彼女は、そのまま僕の前から退散せずに一つ前の席に座った。どうやらまだ話は続くらしい。


「それにしても、入学初日から風邪なんて本当についてないね。今年のおみくじとか凶だったんじゃない?」

「今年は大吉だったよ。たぶんその時に運を使い果たしたんだと思う」

「うそっ! おみくじに大吉なんて入ってるの?!」

「凶よりかは入ってると思うけど……というかそんなに珍しくなくない?」

「珍しいよ! 今まで身内の人で大吉引いたことある人いないもん!」


 もしかしてくだらない話でもわざわざ盛り上げようとしてくれているのかと思ったけど、彼女の興奮の仕方を見ると演技とかそういうものではないんだろう。

 わざわざ僕なんかに話しかけるなんて、酔狂な人もいたものだ。


「じゃあ年始に運を使い果たしちゃったから、年末とか悲惨なことになるんじゃない? 長岡くん今すぐお祓いに行かなきゃ!」

「お祓いに行くほどでもないよ。というか、おみくじはあんまりアテにしてないし」

「せっかく引いたんだからアテにした方がいいんじゃないかな? わたし、引いたおみくじは隅から隅まで全部読むタイプなんだけど!」

「結局はその人の頑張り次第だと思うよ。恋愛運が良くても、行動しなきゃ何も変わらないしね」

「なるほどねぇ、長岡くんの考えも一理あるね。でも、自分が行動してもどうしようもないこととかあるよね? たとえば待人とか病の欄とか」

「そういうのは……運とか神様とかに手を合わせた方がいいんじゃないかな」

「やっぱり最後は神頼みだよねー」


 さっきとはまるで反対の言葉だったけど、彼女は気分を害したりせず納得したように頷いてくれた。


「もしかして、今年の運勢悪かったりしたの?」

「ううん、別に悪くはなかったかなぁ。普通に吉だったし!」


 そう言ってポケットから財布を出し、その中に入っている綺麗に折りたたまれたおみくじを渡してくれた。僕はそれを開いて確認する。

 たしかに吉と書かれていた。


「こういうのって境内の木に括り付けとく物なんじゃないの? 持って帰ったら意味ないと思うけど」

「記念に持って帰る人もいるらしいよ? それに、肌身離さず持ってた方がご利益ありそうじゃない? というか見て見て! 待ち人来たるだよ! 恋人とか出来るかも!」


 美園とは対照的な自分のペースで話す女の子だけど、彼女と会話をするというのは嫌ではなかった。

 でも、それをクラスメイトは許してくれない。僕は先ほどからクラスメイトに奇異の視線を向けられている。


 たぶん、どうして僕なんかが彼女と話しているんだ、と思われているのだろう。

 そういうことを考えると、僕は少しだけネガティヴになってしまう。彼女はそれに気づいているのかいないのかわからないけど、先ほどから笑顔を崩してはいない。


「待ち人って必ずしも恋人ってわけじゃないらしいよ。人生の転機になる人とかも含まれるんだって」

「へぇ、長岡くんって物知りなんだね」

「いや、ただ前に幼馴染がそう言ってて……」


 話の途中でタイミング悪く昼休み終了のチャイムが鳴った。各々談笑していたクラスメイトたちもそれを聞くとみんな席へ着き始め、他のクラスの人は教室を出て行った。

 僕の前の席を占有していた彼女は、席の主が戻ってきたのを見て立ち上がる。


「盛り上がってたのに残念だね。初めて学校のシステムに不満を感じたかも」


 社交辞令みたいなものだろうか。

 僕は曖昧に笑みを浮かべる。

 彼女は、いいことを思いついたというように口元を緩めた。


「そうだ! 放課後、図書室で勉強会しようよ! やっぱり数学とかは口頭で説明した方がいいと思うし!」

「えっ?」

「じゃあそういうことだから! 放課後は予定空けといてね!」


 僕の返答も聞かずに、彼女は自分の席へと戻っていった。僕は突然のお誘いに、しばらく気が抜けてしまって放心する。特に予定なんてないんだけど、どうしてか乗り気にはなれなかった。


 そうこうしているうちに本来の座席の主が戻ってきて、先ほどの彼女と同じく僕の方へ身体を向ける。たぶん初めてまともに顔を見たと思う。普通に可愛い女の子だった。


「君、椿姫さんと知り合いなの?」


 この人はたぶん僕の名前を知らないんだろう。僕もこの人の名前を知らない。


「今日初めて話したよ」

「へぇ、そうなんだ」

「それがどうかしたの?」

「いやね、椿姫さんってこの辺の中学校じゃないんだってさ。直接聞いてないからわかんないけど、県外から引っ越してきたんだって」


 だから、親しげに話していた僕らを見て交友があると思ったのだろうか。あいにく、僕も羽前椿姫とは初見だった。


「もう同学年とか先輩で目付けてる人いるらしいから、長岡くん気をつけた方がいいよ」


 どうやら僕の名前は知っていたらしい。


「気をつけた方がいいって、なにが?」

「ほら、好きな女の子が違う男子と会話してると複雑な気持ちになるでしょ? 変に恨みとか買うことになるかもってこと。一応気をつけたほうがいいよ」


 なんだそういうことか。

 たしかに羽前ほど可愛い女の子だと、そういう気持ちになる男子もいるのかもしれない。

 僕は……彼女に対して好きとかそういう感情は芽生えていないと思う。


※※※※


 昼休みのことは彼女の冗談だと少しばかり思っていたけど、どうやら本気で勉強会を開催するらしい。

 終礼が終わると共に、彼女はいそいそとカバンの中に勉強道具を詰め始めた。その間も複数のクラスメイトに一緒に帰らないかと誘われているけど、どうやら全て断っているらしい。


 そしてある程度クラスメイトの波が引けた頃に、彼女も支度が終わったのか急いで僕のところへやってきた。

 僕のそばにやってくると、人懐っこい笑みを浮かべる。


「じゃあ行こっか!」

「待って、本気で勉強会するの?」

「そうだけど、どうしたの?」


 濁りのない綺麗な瞳で僕のことを見てくる。もしかして、気に入られてしまったのだろうか。


「委員長の責任感とか、担任に頼まれたからって理由なら僕は気にしないから、クラスメイトと帰ってもいいよ。勉強は一人でも出来るし」


 すると、彼女は少々ムッとしたのか半歩ほど距離を詰めてきた。女の子に近寄られるのが苦手な僕は、同じく半歩ほど距離を離す。


「わたしは嫌なことは嫌ってハッキリ言うタイプなの。担任とかに頼まれても嫌々長岡くんに勉強なんて教えないし、そもそも今回の勉強会はちゃんとわたしの意思でお願いしてるよ」

「わたしの意思って、いわゆる恩を売ってるってこと?」

「それはそれ、これはこれだよ」


 どちらでもないならどうして僕に構ってくるのかと思ったけど、深く考えるのはやめた。考えても答えなんて出てこないと思ったし。それに勉強を教えてくれるというのは素直にありがたいことだから。

 ただ、タダより怖いものはないと言うから少しは警戒しておいた方がいいのかもしれない。


「じゃあ、お言葉に甘えようかな」

「そうこなくっちゃ!」


 なし崩し的に、僕らの勉強会は始まった。


※※※※


 図書室は放課後にも解放されているけど、生徒の数はおそらくいつもより少ないのだろう。各々は帰宅や部活にいそしんでいるから、活動場所をここに選ぶ人は変わり者であるのかもしれない。

 高校一年の初めに図書室で勉強をするなんて、周りから見ても僕らは相当な変わり者に見えると思う。


 独特のホコリっぽい匂いを吸いながら、僕は彼女から数学を教わっている。教わっているといっても、高校一年最初の数学なんて中学三年の数学よりも簡単だ。

 これはほんとに勉強会をする意味なんてあるのだろうかと思ったけど、ここに来てせっかくのお誘いを無碍になんて出来ない。

 話半分に聞くのも悪いと思ったから、いつもの授業よりも真剣に耳を傾けている。


 中学の頃の教師よりも丁寧に教えてくれているし、彼女は将来何かを教える仕事に就くのが向いていると思う。

 僕は先ほどから、言われた通りに式を展開したり、二次式を因数分解している。たすきがけは少しだけ苦戦したけど、かの教え方が上手いからすぐに覚えることが出来た。


「その問題解けたらちょっと休憩にしよっか。長岡くんも疲れてきたでしょ?」

「僕は別に疲れてないけど」

「うっそだー! もう一時間も勉強してるんだよ?」


 指摘されて壁にかけられている時計を見た。たしかに先ほど確認した時刻より一時間も進んでいる。体感的には三十分ほどだと思っていたから、よほど集中していたのだろう。


 スラスラと残りの問題を解いて彼女に見せる。正解だったのかニコリと満足そうに微笑んだ。


「それにしても長岡くんって頭いいね。今までのやつ全問正解だよ?」

「君の教え方が上手いんだよ」

「おだてても何も出ないよー」

「いや、おだててないから。ほんとに上手いと思う。今までも誰かに勉強とか教えてきたんじゃない?」

「ん、むしろわたしは教えられる立場だったかなぁ。中学の時のわたしって全然勉強出来ない人だったからね。この学校入れたのも奇跡みたいなものだし」


 中学という単語を聞いて、先ほどのクラスメイトの話を思い出す。たしか彼女が他県から引っ越してきたとかそんなような話だった気がする。

 あまり関心はないけど興味がないといえば嘘になるから、ついでに質問してみることにした。


「そういえばクラスメイトに聞いたんだけどさ、君って中学の頃は別の県にいたの?」

「そうだけど、どしたの急に?」

「いや、深い意味はなくてほんとに気になっただけ」

「へぇ、じゃあわたしからも一つ質問ね。幼馴染さんとは付き合ってるの?」


 どうして幼馴染がいることを知っているのかと思ったが、よく思い返せば先ほど幼馴染がいると自分から話していた。じゃあどうしてそんな質問をするのかと思ったけど、深い意味なんてないのかもしれない。

 僕はありのままを正直に話す。


「別に付き合ってないよ」

「じゃあ幼馴染さんのことは好き?」

「……どうしてそんなこと聞くの?」

「いや、深い意味はなくてほんとに気になっただけ」


 僕の真似をしてくすりと笑う。声質とかを寄せてきたのが少しだけムッとしたけど、しかし平常を保った。こんなことでいちいちムキになるほど、僕は子どもではない。


「好きだけど、恋愛感情とかそういうのじゃないよ。幼い時から一緒だから、家族みたいなものかな」

「へぇ、なんかいいねそういうの」

「君はそういう人いないの?」

「わたしインドアだから友達とかあんまり出来たことないの。本気で友達になれたのは今までで三人だけかなぁ」


 意外だと思ったのは失礼に当たるのだろうか。羽前ほど明るいやつだったら、僕なんかとは違ってたくさん友達がいると思っていたんだけど。


 人は見た目によらないのかもしれない。


 それから彼女は、いいことを思いついたというように両手を合わせた。


「よければわたしが幼馴染さんとの仲を取り持ってあげよっか? 仲良いなら付き合っちゃいなよユー!」

「なんでそこで英語? というか、君は人におせっかいを焼くのが趣味なの? 僕は別に今の関係でいいと思ってるから、告白とかそういうの全然考えてないよ」

「えー! 素直になればいいのに!」


 僕は素直になっている。

 本当にこれ以上美園と距離を縮める必要はないと思っているし、なにより向こうもそう考えているだろう。


「ほらほら、わたしならいつでも長岡くんの恋のキューピッドになっちゃうよ?」

「だから必要ないって……君は他の人に対しても僕みたいにおせっかいを焼いてるの?」

「まっさかー! みんなにも同じように振舞ってたら疲れちゃうでしょ?」

「じゃあなんで知り合って間もないのにそんなに構ってくるのさ」

「もしかして、迷惑だった?」

「いや、別に……ただ気になっただけ」


 すると羽前はおちゃらけていた雰囲気から一転、少し真面目な表情へと切り替え儚そうな笑みを浮かべた

 その突然の変わり身に僕は少しだけ緊張を覚え、普段よりは真面目に耳を傾ける。


「長岡くんは、因果応報って言葉知ってる?」

「良い行いも悪い行いも全部自分に返ってくるって意味でしょ。それぐらい知ってる」

「そうそう。良いことをすれば、いずれ必ず巡り巡って自分の元に返ってくる。そういう風にして、世の中は回ってるんだってわたしは思うの。わたしも前にある人に助けられたから、今度はわたしが他の誰かを助けようと思って」

「それで、僕に?」


 頷いて、「長岡くん最初から欠席しちゃって、困ってそうだったから」と言った。

 そして慌てたように、「別に誰でもよかったってわけじゃないよ! 長岡くんって良い人そうだったし仲良くなりたいと思ったの!」と付け加える。


 僕は彼女にそういう人だと思われたらしい。どこを見てそう思ったのか甚だ疑問だけど、実際面と向かってそういうことを言われて悪い気分にはならなかった。

 だけど僕は、彼女の思っているような善人では無いと思う。

 とりあえず、感じたことを素直に教えてあげることにした。


「まあ、そもそも因果応報って言葉自体使い方が間違ってるんだけどね」

「細かいことは気にしないの! わたし国語は苦手なんだから!」


 しかし、誰かに助けられたぶんだけ他の誰かを助けてあげたいという彼女の考えは、素直に素晴らしい考え方だと僕は思う。思うだけで、実践なんてしないと思うけど。

 彼女のように実践する人は、おそらくごく少数の限られた人間だけだろう。


「さーて、そろそろ休憩も終わりかな! 数学はもう終わりにして次は英語やろっか!」

「英語をやるのはいいけど、君の家は門限とかないの?」

「特に何も言われてないから大丈夫かなぁ。高校入ってからは結構のびのびやらせてもらえてるし」


 それなら大丈夫なんだろう。遅くなったら家まで送ればいいだろうし。でもあまり遅くならないように注意しておこう。


 僕は再び彼女から勉強を教えてもらった。


※※※※


「ぷはぁっ! 勉強した後のコーラは生き返るね!」

「喜んでくれるのは嬉しいけどさ、それはおっさんみたいに見えるからやめて」


 勉強が終わった僕らは学校前に設置されている自販機の前でドリンクを飲んでいた。

 彼女が飲んでいるコーラは勉強を教えてもらったことに対するせめてものお礼だ。奢ることを提案したら、遠慮なんてせずにすぐ了承してくれた。


 もう完全に日は沈んでいて辺りは暗い。部活の終わった生徒がまばらに校舎から出てくるけど、本当に疲れているのか自販機になんて目もくれず帰路に着いている。たまに立ち止まって遠目に僕らのことを見てくるのは、おそらくクラスメイトだろう。


 特に気にもとめず、僕はスポーツドリンクを口にした。


「これで長岡くんも明日から授業に着いていけるね!」

「君のおかげだよ。まさか放課後だけで落とした授業の復習を全部できるなんて思ってなかったから」

「違う違う、長岡くんの頭がいいからだよ」


 謙遜すると堂々巡りになりそうだったから素直に受け止めることにした。僕はもう一度お礼を言ってスポーツドリンクを飲む。

 渇いた舌と喉に甘いそれが流れ込んだ。


「いやぁ、こうしてると生きてるって感じがするよね!」

「飲み物を奢っただけでそんなに喜んでくれるなら、奢った甲斐があるよ」


 美園に奢っても、お礼は言ってくれるけど基本は無表情だろう。あの子は感情の振れ幅が極端に少ない人だから。


 それでも長い間そばにいると、わずかな感情の機微も読み取れるようになる。

しばらく飲むことにだけ集中していると、先に飲み終わった彼女が空き缶をゴミ箱の中へ捨てた。

 缶と缶がぶつかる軽快な音が夜の闇に響く。


「待ち人、来たるだね」

「いきなり何言ってるの?」

「おみくじだよ。ほら、こんなに早く待ち人が現れてくれたから」


 もしかして、僕のことを言っているのだろうか。その言い方だとまるで、僕が彼女の人生を変える人ってことになるけど。

 僕はただのクラスメイトなのに。


「わたし、君とはこれからも仲良くできそうだよ」

「……そう」

「あっ、もしかしてわたしと仲良くしたくないとか?」

「……べつに」


 ちょうど飲み終わった僕は空き缶をゴミ箱の中へ捨てた。カランという音が響いて、虚しくも夜の闇に霧散する。

 彼女は……なぜか少しムッとしている。でもちょっと嬉しそうで、そしてわざとらしく両腕で伸びをした。


「コーラ美味しかったなぁ」

「炭酸飲料が好きなの?」

「べーつーにー?」

「へぇ、じゃあ甘いものが好きとか?」

「あー」

「……」

「へぇ、はー、そう、べつにー」


 どうやら彼女の思考回路は壊れてしまったらしい。ふて腐れたように地面を見ながら、つま先で足元の石ころを転がしている。


「えっと、なにか気に障ったかな? そうだったら言ってほしいんだけど」

「へー」

「あのさ、ごめん……」


 謝ると、ようやく彼女はクスリと笑った。どうやら僕をからかって遊んでいたらしい。


「炭酸飲料も甘いものも大好きだよ。辛いものは苦手。戸惑ってる長岡くんを見るのはとても楽しかった」

「一応訊くけど、なんでからかったの?」

「だって全然興味なさげに相槌だけ打つんだもん。女の子にそんなことしたら気分を損ねちゃうよ?」

「ごめん、考え事してたから……」


 またクスリと笑って、僕の失敗を許してくれたようだ。これからは真面目に女の子の話を聞くことにしよう。


「あっ! せっかく友達になったんだからさ、明日から一緒に学校いかない?」

「君の友達の基準曖昧すぎない?今まで三人しか友達できなかったのに、その中にいきなり僕を入れてもいいの?」

「いれてもいいんじゃないかな? ほら、一緒に仲良く勉強した仲だし!」


 その理屈だと同じクラスの人はみんな友達ってことになるんだけど。僕は少し呆れてしまったから、何も言い返せない。


 言い返さずにいると、彼女は唐突に僕の制服の袖を掴んできた。甘える仕草に不覚にも心臓が跳ねる。勘付かれたりしないように、あくまでも平常を装った。


「ねーねー、わたしたち友達でしょ? それぐらい、いいよね?」

「自販機の前でそんなこと言ってたら、周りに僕のことをいじめてるって勘違いされるんじゃない?」

「今は長岡くんと話してるから、勘違いされても別に構わないよ」


 袖をグイグイ引っ張ってくる。僕はめんどくさい人に捕まってしまったのかもしれない。


「わかった、わかったから袖を引っ張るのはやめて。いい加減伸びるから」

「ほんと! やったー!」


 子どもみたいに喜んで、ようやく袖を離してくれた。僕は一つ、これみよがしにため息をつく。


「やっぱり長岡くんはいい人だね!」

「君に言わされた感が強いけどね」

「でさー、あと一つお願いしたいことがあるんだけど」

「いやいや、まだあるの……」

「ごめんごめん、実はこれが本題なの。長岡くんにどうしてもお願いしたいことなんだぁ」


 乗りかかった船だから、どうせなら聞くだけ聞いてみよう。了承するかしないかは、聞いた後でも遅くない。勉強を教えてもらった恩もあるし、たぶんそれを聞けば全部チャラになるだろう。


 せめてもの反抗で少し肩をすくめてみせる。彼女も少しは申し訳ないと思っているのか、気まずそうな表情で薄く笑った。


 彼女は、話し始める。


「実はわたし、演劇をやりたいと思ってるの」



※※※※


 僕は彼女を家まで送ってから、そのまま真っ直ぐ帰路へ着いた。ちょうど桜の咲いている季節で、街灯に照らされたそれが妖しく映る。その下を歩きながら、先ほど言われた言葉を思い返していた。


 演劇がやりたい。


 彼女はそう言って、僕にその手伝いをしてほしいとお願いしてきた。

 しかし手伝いといっても、その具体的なことを彼女は何も言ってこなかった。あの様子だと、まだ何も決まっていないのだろう。

 ただ一つ、自分自身が舞台上に立って演技がしたいのだと付け加えてはいたけれど。


 僕はそのあまりにも突拍子のないお願いに対して、ただ黙って首を縦に振ることは出来なかった。しかし横に振ることも出来なくて、とりあえずは保留という形で落ち着かせた。

 すぐに返事が欲しいとは言わなかったから、考える猶予はくれるらしい。


 幸いうちの学校には演劇部があるから、そこに入って劇をすればいいじゃないかと提案してみたけど、やはり首を縦には振らなかった。

 曰く、彼女は端役や裏方をやりたいのではなく主役を演じたいんだとか。仮に演劇部に入って主役をやるとなると三年や上級生の機会を奪ってしまう。それはなるべくしたくないらしい。


 それなら一年二年待って自分が上級生になってから、というのも提案してみたけど、やはり首を縦には振らなかった。

 理由は教えてくれなかったけど、どうしても今年中に主役を演じたいらしい。

 話をしているといつの間にか彼女の住んでいるアパートへ着いていて、そこで話し合いは途切れた。


 すぐにそのお誘いを断ることが出来ないのは、やはり僕に対して好意的に接してくれたからだろうか。その好意がすべて演劇の手伝いをさせるために振るわれたことなのかもしれないけど、僕にはそうは思えなかった。


 あの全てが僕を迷わせるために行った演技だというなら、これから先誰かを信用することが出来なくなる。


 演劇をやりたかったけど、信頼出来る人がいなかった。そこに困っている僕が現れて、話しかけてみるとウマが合って、この人ならと思い演劇を手伝ってくれないかと持ちかけた。


 好意的にあくまで強引に解釈するとこんなところだろうか。彼女の考えていることなんて八割ぐらいわからないけど。


 別に、演劇を手伝うことを断らないといけない理由もない。部活があるとか夢があるとか、ましてや恋人がいるわけでもない。

 趣味なんて本を読むぐらいで、それも飽き時間があれば仕方なくといった感じだ。我ながらつまらない人間だと思う。


 僕も舞台に立てという荒唐無稽なことを言われたらさすがに断るけれど、そうじゃなければ手を貸してもいいと思っている。


 僕には特にやりたいこととか、目指したいこととかもないし、それなら……


 考えていると、いつの間にか家に着いていた。僕は頭の中で思考をする時や集中している時、時間の流れとかが曖昧になることがある。

 さっき勉強している時も、いつの間にか一時間が経過していた。周りも見えなくなる時があるから、少し気をつけなきゃいけない。


 帰宅が遅れたことに関しては、適当な理由をでっち上げておいた。


※※※※


 僕の部屋の窓を開けると、ちょうど目の前には美園の部屋がある。


 距離は大体2〜3メートル。子どもの頃はよくお互いに窓を開けて会話をしていたけど、いつからか近所迷惑だからやめなさいとお互いの母親に叱られて、それ以降は電話を使って話している。


 その電話というのは、いわゆる固定電話とか携帯電話の類ではなく、ただの糸電話だ。紐の先端に紙コップを繋げて話すというアレだ。


 先に提案したのは美園で、僕も面白そうだと思いそれに乗っかった。それからはずっと糸電話。


 話しをする日はほんとに気まぐれで、それを行う主導権を握っているのは美園の方。


 伸ばし棒で僕の部屋の窓を叩いてきた時が、会話をする合図だ。


 今日は二週間ぶりぐらいに窓が叩かれて、向こうが機嫌を損ねないうちに急いでカーテンと窓を開ける。


 お風呂上がりなのかショートの髪の毛は若干濡れていて、いつも通りの無表情。

 無愛想なところがあるけど、彼女はちゃんとした良い子だ。それは今まで一緒にいた僕だからこそ分かること。


 美園は片方の糸電話を僕の方へ投げてよこした。受け取って、耳に当てる。

 しばらく無言でどうしたのかと思っていると、ようやく話し始めた。


「どうして今日帰って来るの遅かったの?」


 くぐもった声が糸を振動して伝わってくる。

 たぶん部屋の明かりが点いているのか確認していたんだろう。僕は基本的に学校が終わるとすぐに帰宅するから。

 美園には隠す必要もないだろうから素直に話す。後で事実を知れば釈明がめんどくさそうだし。


「羽前椿姫って人と仲良くなってさ、勉強教えてもらってたんだよ。風邪で休んでたから」

「……京くんが羽前さんに勉強教えてもらってたの?」


 どうやら羽前のことを知っているらしい。普通に可愛いし美人だし、人当たりも良さそうだから当然といえば当然だ。

 同学年や先輩にも人気らしいし、他クラスにも広まっているんだろう。


「そうだよ。教えるのすごく上手くてさ、ほんとに助かったんだよ。変なところもあるけど、良い人だよ」


 また返事を返すのが遅くて、今度は僕の目をまっすぐに見つめてくる。今日の美園はどこか変だった。何か思いつめているような、そんな表情にも見える。何か、釈然としていないような。

 その表情の意味が、僕にはわからない。


「へぇ……羽前さんと、仲良いんだ」

「仲が良いってほどじゃないよ?今日初めて話したし」

「初めて?」

「うん。だって、今日まで学校休んでたし。学校休んでたことは美園も知ってるよね?」


 こくりと頷く。

 一緒に学校へ行ったりはしないけど、親同士も仲が良いから家庭内の事情は筒抜けなのだ。


「私、朝に京くんにメールしたよね?」

「メール?」


 言われてポケットに入っていた携帯を取り出し、新着メールの項目を呼び出す。その中に溜まっているのは美園からのメールばかりで、悲しいことに僕の友達の少なさが伺える。

 しかし、今日は美園からのメールは一通も来ていなかった。


「届いてないけど、ほんとに送れてる?」


 聞き返すと、美園も携帯を確認しているのか視線をうつむかせ、また声を返してきた。


「送ってなかったみたい」

「それじゃあ届いてるわけないよ……もしかして、何か急がないといけないことだった?」

「別に」


 美園の表情が不機嫌の色に変わる。

 些細な表情の変化だけど、声でなんとなくわかってしまう。ご機嫌を取ろうと言葉を探していたら、握っていた携帯がぶるっと震えた。

 確認してみると、目の前にいる美園からのメールだった。


『明日、一緒に学校行かない?』


 そばにいるんだから声に出せばいいのに……


「ごめん、明日は羽前と一緒に学校へ行くことになってるんだよ」

「私も一緒に行く」


 即答だった。


「別にいいけど、美園って人見知りじゃなかった? 大丈夫なの?」


 余計なことを言ってしまい、美園はさらに不機嫌になる。具体的に言うと、可愛らしく頬を膨らませていた。


「ちょっと女の子と仲良くなったからって調子に乗らないで。中学の時に私以外の女の子と友達になれなかったの知ってるから」

「ごめん、少し調子乗ってた……」

「わかればいいの」


 下手に回るとすぐに機嫌を戻してくれた。ずっと話しているから、美園との距離の取り方は弁えているつもりだ。


 ほんとは優しいのに、ツンケンする時があるというのがたまに傷だ。もちろんそこが美園の良いところであり可愛いところでもあるんだけど。慣れていない人がこの会話を聞いたら僕が美園の尻に敷かれているんだと思われそうだ。


 実際のところはそうなのかもしれないけど。


「でさ、今日はどうして電話してきたの? 最近ずっとご無沙汰だったから近況報告とか?」

「特に深い意味はないよ。ただ、ちょっと確認したかっただけ」

「確認って?」

「こっちの話」


 羽前は余計な言葉が多いのに、こっちは一言足りなかった。別の意味で考えていることがよくわらない幼馴染の頭の中を、僕はあまり詮索しない。


 再び美園は紙コップに口を付ける。わずかに雰囲気が柔らかくなったのを感じたのは、きっと気のせいではないと思う。

 その話を切り出す時は、いつもツンツンしている美園も少し暖かな感じになるから。


「最近ちょっと趣向の違う小説を読んで見たの」

「趣向の違う小説って?」

「いわゆる、ライトノベル」


 美園がライトノベルを読むなんて珍しい。というか初めてのことだと思う。

 読書歴を詳しく把握はしていないけど、少なくともライトノベルの話が出てきたのは初めてだ。あんなのは小説でも文学でも純文学でもないって否定してそうなのに。

 その美園からどんな感想が出てくるか、少し興味がある。


「どんな話だったの?」

「異世界のお姫様が日本の大学生と出会うお話。『異世界のお姫様と異文化交流することになりました』ってタイトルだったかな。文化の違いとかを学んで国際交流みたいなことしてたよ。お姫様がお団子食べたりラーメン食べたりうどん食べたりするの」


 口下手なのにとてもわかりやすく口数が増える。だけど言葉を紡げば紡ぐほど、だんだん表情が険しくなっていく。

 怒っているのだ。何に怒っているのかは知らないけど、たぶん紙の向こうにいるそのお話を書いた作者さんだろう。


「日本の文化というより、地球の文化そのものを知らないお姫様が知らないものを食べてリアクションを取るっていう設定は面白いと思うよ。でも最初から物語が破綻してる。なんで異世界のお姫様なのに日本語を話せるの? 世界で一番普及している言語は英語だよ? それなのに英語は分からないって、それもうただの日本人じゃん。金髪のウィッグ被って水色のカラコンつけた日本人だよ」

「僕はそっちの方向の小説はよく分からないけどさ、たぶん面白くないから省いたんじゃないかな? ほら、最初のシーンが日本語を教えるところから始まるって、それ面白くないでしょ?」

「たしかにそうかも……」


 納得したというように頷いている。自分の意見だけではなく人の意見も耳に入れる素直なところも美園の良いところだ。


「でもあのシリーズ打ち切りだと思うよ。二巻まで出たけど、発売一週間経ったばかりで目立たない棚の隅っこに置いてあったし」

「……どうして美園はよりにもよってそんな端っこの小説を手に取ったの?」

「深い意味はないよ。ただ、その小説が一番取りやすい位置にあっただけ。そういう方面はよく分からないから、まずは適当に選んでみたの」


 適当に選ばれて手に取られた小説だけど、一応は買ってくれたんだから作者さんにとっては嬉しいことなんだろうか。

 手に取った経緯と感想を聞いたら泣きだしそうだけど。


「先生の次回作にご期待くださいだね。まあもうレーベルに切られるかもしれないけど」

「こらこら、そういうこと言ったらダメだよ。作者さんも必死で書いてるんだから」

「ごめんなさい」


 それからもしばらくたわいのない会話を続けていると、いつの間にか時刻は0時を回っていた。また時間の感覚が狂ってしまっている。美園は女の子だから、夜ふかしさせるのはよくない。お肌の敵だ。

 ちょうど会話が途切れたところで、僕は糸電話を投げて返した。小さい声で僕の肉声を伝える。


「明日、美園の家に迎えに行くよ。用意して待ってて」

「うん、待ってる」

「じゃあおやすみ」

「おやすみ」


 手を振って窓に手をかける。そこで僕はようやく羽前から言われた劇のことを思い出し、ちょうどいいから最後に伝えておこうと思った。


「ごめん、あと一つだけ。羽前のことなんだけど」


 美園は窓枠にかけていた手を外す。羽前という名前を聞いた瞬間に、少しだけ表情が張り詰めた気がした。


「どうしたの?」

「実は演劇の手伝いをしてほしいって頼まれたんだよ。断る理由も無かったから受けようと思ってる」


 伝えなくてもいいことだと思うけど、ここで伝えたのは相手が気心の知れている幼馴染だからだと思う。昔から何をするにしてもほぼ必ず美園に話を通しているから、今更話を通さないのは隠し事をしているみたいで気分が悪い。

 美園は一瞬だけ視線を外した。


「羽前さんのこと、好きなの?」

「さっきも言ったけど、今日初めて話したばかりだって……」

「ふーん」


 興味なさげに呟いて、窓枠に手をかける。そのまま閉めようとして、だけどその手は途中で止まった。


「あんまり安請け合いするのはよくないと思う。京くんの悪い癖」

「安請け合いとかじゃないと思うよ。僕なりに考えた結果だよ」

「そう……頑張ってね」


 最後にそう言って、美園は窓をぴしゃりと閉めた。ガラス越しにもう一度小さく手を振ってきたから、僕も振り返す。それを見てカーテンを閉めた。


※※※※


 翌日、用意が出来た僕は美園の自宅のインターホンを押した。一分も経たないうちに玄関から出てくる。時間はきっちり守る子だから、たぶん十分ほど前にはすでに用意が出来ていたんだろう。


「羽前さんはどこ?」

「家の近くに公園があるんだよ。そこで待ち合わせしてる」

「へえ、もう家知ってるんだ。もしかして家にお邪魔したの?」

「お邪魔なんてしてないよ……昨日遅くなったから送っただけ」

「……そう」


 どこか不機嫌な美園はくりくりと前髪をいじっている。昨日もそうだったけど、もしかして何かあったのだろうか。 

 不機嫌モードが翌日まで波及しているなんて、今まではあまりなかったことだ。

 もしかして生理だろうかと考えたのは、少し男として恥ずかしいところがある。


「じゃあ、遅れたら悪いしそろそろ行こっか」

「待って」


 歩き出そうとした僕の袖を掴んでくる。振り返ると、美園は僕の目をまっすぐ見ていた。


「演劇、ほんとに手伝うの?」

「そのつもりだけど……どうしたの?」

「昨日も言ったけど、安請け合いはよくない。羽前さんのこと、まだ何も知らないんでしょ?考え直したほうがいい」


 まるで、演劇の手伝いはしないほうがいいと言っているかのようだ。いや、そう言っているのだろう。美園は優しいから、僕のことを案じてくれているのだ。


「手伝いをしながら羽前のことを知っていくのもいいと思うんだよ。信用できないって分かったら、手伝いはすぐにやめるから」

「そう言って、京くんは結局最後まで関わることになる。私は京くんのことよく知ってる」

「……そうかもしれないけど、やっぱり頭ごなしに否定はしたくないよ。そうじゃないと、そのうち誰も信用できなくなりそうだから」

「……」


 未だ仏頂面をしているけど、ひとまずは折れてくれたのかため息をついて袖を離してくれた。


「私、京くんが傷ついてるところはもう見たくない」

「傷つかないように、傷つけないように気をつけるよ」

「忠告したからね。頭の隅でもいいから留めておいて」

「うん、わかった。それとごめん、ありがとね」


 自分の気持ちを押し通してしまったことに謝罪を入れると、美園は小さく「……謝るなら最初からしないで」と言った。僕は美園の言ったことを頭の中心に留めておこうと思った。


※※※※


 そもそもどうして美園がここまで僕のことを気にかけてくれるのかというと、おそらくそれは小学生の時に起きた事件が糸を引いているんだと思う。


 たしか小学五年ぐらいのことだ。


 そのとき今と同じくクラスで馴染めなかった僕は、クラスメイトからいろいろな雑用を押し付けられていた。たとえば放課後の居残り掃除とか、花瓶の水の取り換えとか、提出物を職員室へ持って行ったりなどだ。

 当時のクラスメイトからは、『頼めばなんでも変わってくれる便利な人』程度に思われていたんだろう。

 今思い返せば小さなイジメのようなものだけど、当時の僕は悲しいことに、手伝いをすることでクラスの中に存在しているんだという気になれていたんだ。もちろん、上手く立ち回れているとも思っていた。


 その異常事態はクラスが発足して二ヶ月間、六月の半ば頃まで続いていたと思う。そこまでそれが表沙汰にならなかったのは、美園が当時同じクラスではなかったから。

 もし美園が居たら、もっと早くに事態は解決へ向かっていたと思う。

 担任にそれがバレたのは、偶然にも美園が気付いて報告をしたから。普段はぼーっとしている風に見えるけど、ああ見えて本気になるとグイグイ詰め寄ってくるのだ。あのときも、偶然にも事情を知った美園に放課後の教室で問い詰められた。

 そんなこんなで事態は解決に向かうと思われたが、しかしそう簡単に収束はしなかった。放課後のクラス会議で、誰も彼も本当のことを口に出さなかったのだ。僕以外みんなが団結をして口を割らなかった。最終的にどのような経緯を経て裁判が終わったのかはもう思い出したくないけれど、担任は『仕事はみんなでやりましょう』というようなありきたりな宣言をして強引に幕を下ろした。


 その後は言いつけ通り仕事は分担してみんなで行われるようになったけど、僕のクラス内の立ち位置は無くなったも同然だった。詳しくは詳細を省くけど、いわゆる無視をされたりなどのイジメがエスカレートした。


 美園が余計なことをしたから、なんてことは僕は一つも思わなかったけど、結果的に悪い方へ転がってしまったことを本人は気にしているらしい。もっと早くに気付いていたら、私があの時ガツンと言っていれば。そんなような言葉をあの時何度も聞いた。


 そもそも僕がもっと男らしければそんなことは起こらなかったのだ。結果的に一番大切な人を傷つけてしまったから、僕はそれから強くなろうと思った。せめて、美園が僕のことを心配しなくなるくらいに。


 そういえば、と思い出す。僕と美園が糸電話を始めたのは、小学五年の夏ぐらいのことだった。今や日常になっているそんな出来事も、美園の優しさだったのかもしれない。


 二人で公園への道を歩いている。いつもよりだいぶ早い時間だから、もちろんいつもより太陽の位置は下にあった。


 せっかく久しぶりに一緒に登校するのだから話しかけようと思ったけど、当の美園は歩きながら携帯の画面に忙しなく文字を打ちこんでいる。僕の方が背は高いから近付けば内容が読めるけど、プライバシーの侵害だからそんなことはしない。


 しばらく美園がつまずいたりしないようゆったり歩いていると、ポケットに入れていた携帯がぶるっと震えた。こんな時間に誰だろうと思い開いてみると、発信者は浦和美園。内容は『浮かない顔してるけど、なにかあった?』というものだった。さっきから僕にメールを打っていたらしい。


 だから隣にいるんだから声に出せばいいのに。


「別に浮かなくなんてないよ。ちょっと昔のことを思い出してたんだ」

「むかし?」

「そう、昔。もっと男らしくならなきゃなって」


 何が面白いのか、美園はクスリと笑った。小説の話をしているとき以外で笑うなんてとてもレアなケースだ。額縁に入れて飾っておきたい。


「京くんは女の子っぽいぐらいがちょうどいい」

「それは男として恥ずかしいからさ……って、もう着いちゃったね。ほら、あそこの公園だよ」


 住宅街に立ち並ぶ家々の隙間に小さな公園がある。木製の長椅子しか設置されておらず、普段から子どもの姿は少ない。そのうちこの公園は無くなってしまいそうだ。


 道路から中を覗くと、制服を着た羽前が長椅子に座って伸びをしていた。伸びというより、両手の人差し指と親指でカメラの縁を作って公園に生えている大きな桜の木を眺めていた。遠くから見るとかなり間抜けな絵面である。


 近付くと、僕はすぐに彼女の異変に気付く。彼女は桜の木を見上げたまま、大きな瞳から涙を流していた。


「……羽前?」


 そう呼びかけると、彼女はようやく僕らに気付いて慌てて涙を拭った。どうして泣いていたのか、僕にはわからない。


「ご、ごめんね。なんか気付いたら涙が流れちゃってて……」

「何か悲しいことでもあったの?」


 すると一瞬だけ考えるようなそぶりを見せた後、赤く腫らした目でにこりと笑った。


「悲しいことじゃなくて、嬉しいことかなっ。うん、きっとそうだと思う!」


 一人でそう納得して、ようやく彼女は僕の半歩後ろにいた女の子に気付く。その子が僕の幼馴染だということを察したのか、両手を打ち鳴らした。


「長岡くんの恋人さんだね!」


 僕の期待を裏切って、彼女は思いっきり変化球を投げてきた。もしかしてその空気の読めなさはわざとやっているのだろうか。


「彼女じゃないよ……どうしてそこで勘違いをするのさ」

「えー! お似合いだよ二人!」

「ただの幼馴染だからね。昨日説明したでしょ?」


 美園は僕の後ろからひょっこり顔を出す。人見知りを発揮しているのか、それ以上前には出てこない。

 そんな態度をされても彼女は嫌な顔一つせずに、むしろ喜んでいた。


「あなたが美園ちゃんね! 一度話してみたかったの!」


 昨日僕にやったのと同じように、彼女は手を差し出す。もしかして誰彼構わず手を差し出すのだろうか。やっぱりちょっと変わってる。


 対する美園は少し警戒をしたようだけど素直に握り返した。よかった、二人とも仲良くできそうだ。

 安心していると、羽前はスッと距離を縮めてきて美園に聞こえないぐらいの音量で耳打ちしてきた。


「やっぱり幼馴染ちゃんと付き合ってたり?やだなもー! 恥ずかしがらなくてもいいのに!」


 なに言ってんだこの人。


「だからただの幼馴染だって。それ以上でもそれ以下でもないよ」

「ほんとかなー?」

「ほんとだって」

「ふーん?」

「なにその意味深な笑み。本当になにもないよ」


 チラリと美園を見ると、内緒話をしているのが気に入らないのか案の定眉間にシワが寄っている。せっかく連れてきたのに二人だけで話しているというのも申し訳ない。


「ちょっと人見知り……じゃなくて物静かなやつだけど、羽前も美園と仲良くしてくれると嬉しいかな。美園も、羽前はちょっと変わってるけど良い人だよ」

「わたしが変わってるってなによもー! わたしは普通の女の子だよ美園ちゃん?」


 演劇をやりたいと誘ってくる時点で普通の女の子ではない。でもそれを指摘するとまた騒がしくなりそうだったから黙っておいた。

 代わりにいいことを思いついたから、美園に提案してみよう。


「羽前が変わってるかは置いといて。今朝も美園に話したけど、羽前の演劇を手伝おうと思ってるんだよ」

「うそっ! 手伝ってくれるの!?」


 わかりやすく喜ぶ羽前。これが演技のはずがない。ちょっと安心するとともに、再び美園に視線を移した。


「それでさ、よければ美園も……」

「やらない」


 言い終わる前に即答してしまった。公園の中に嫌な空気が流れる。あんなにはしゃいでいた羽前も、借りてきた猫のように大人しくなった。

 それは、明らかに美園の声色に不機嫌の色が濃く混じっていたからだ。どんな人でも、その声色を聞けば萎縮してしまうと思う。

 現に僕も、こんなに不機嫌な美園を見たのは久しぶりだったから少しだけ気圧された。


「えっと……」

「……ごめん空気悪くして。だけどハッキリ言っておかないと期待させちゃうと思って。だからあらかじめ言質を取っておくの。私はやらない」


 そう言った美園は、再び僕の陰へ隠れてしまう。羽前は少しでも空気を良くしようとしてくれているのか、無理に微笑んでいた。だけどさすがにビックリしたのか、その笑顔は引きつっている。


「たはは、振られちゃったかぁ。だよね、わたしまだ美園ちゃんと知り合ったばかりだもんね。でも仲良くしたいっていうのはほんとだから、気にせずに話しかけてくれると嬉しいかな」


 僕が提案したことなのに、まるで自分が切り出した話であるかのように転換させている。後で両者に謝っておかないと。


「……お手伝いはできないけど、成功するのは祈ってる。私は客席で見てるから頑張ってね」

「もちろんがんばるよ! ありがとね美園ちゃん!」


 調子のいいことは起こらなかったけど、話が良い方向へ進んでくれてよかった。手伝ってくれないのは残念だが、応援してくれるなら頑張れる。



 演劇を手伝うといっても、具体的なことはなにも決まっていない。一人で演劇をやるのか、それとも人数を集めるのか。

 脚本は。発表をするとしたらどの舞台で発表するのか。衣装とかその他もろもろ。

 まずはそのあたりから固めないといけないから、放課後は図書室で話し合いをすることになった。

 終礼が終わると共に支度をして図書室へ向かう。と思ったけど、昨日と同じく今日も羽前はクラスメイトに捕まっていた。昨日と違うのは若干名その中に男の姿が増えたこと。

 お世辞とかそういうのではなく、普通に羽前は可愛いからみんな仲良くなりたいと思っているのだろう。そういうのを抜きにしても、人当たりのいい性格をしているし。


「ほんっとにごめん! 今日はどうしても外せない用事があるの! この埋め合わせはまた今度するから!」

「それ昨日も聞いたよー! もしかしてカレシ?」

「そういうのじゃないよ! ほんとにただの友達!」

「ええー怪しいなー」


 僕はやはり彼女から友達だと思われているらしい。改まって言われると少しだけ照れる。そして友達だと言った彼女は僕の方をチラリと盗み見て、また別のクラスメイトに視線を向けた。


「やっぱり前住んでたとこにカレシとかいたの? 今も連絡取り合ってるとか?」

「彼氏どころか中学の頃は友達もいなかったよ!」

「えー! それは絶対嘘だって!」


 もちろん嘘だ。昨日、三人だけ友達が出来たと言っていたから。どうしてそんな嘘をついたのかさっぱりわからないけど、僕の中に少なからずの疑念が湧いてしまった。

 これはやはり、美園に言われた通り気をつけた方が良いのだろうか。

 僕は複雑な気持ちを携えながら、先に図書室へ向かった。美園に挨拶をしておきたかったけど、もう帰ってしまったらしい。


※※※※


「ごめん長岡くん! クラスメイトに捕まっちゃって!」

「ああ、うん。いいよ見てたから」


 僕らは二人、昨日と同じく図書室の椅子に座り向かい合っていた。彼女は両手を合わせて謝罪の意を表している。しかしその目は途端に薄められた。ジト目というやつだ。


「気付いてたなら助けてほしかったなぁ」

「えっ、嫌だよ。噂されるし」

「わたしと友達だってこと、噂されたくないの?」

「そうじゃなくて、君がだよ。クラスで浮いてる僕なんかと友達だって知れ渡ったら、いろいろとめんどくさくなると思うよ」

「めんどくさくなるって?」

「たとえば、クラスメイトから無視されたり」


 それは小学五年の頃の美園のことだ。人の伝達能力というのはすごいもので、どこからその情報が漏れたのか分からないけど、教師に話したということが次の日には公になったのだ。

 再び細められる彼女の瞳。しかしそれはからかっているとかそういう視線ではなく、なぜかは知らないけど怒っている風だった。


「長岡くんと話したぐらいで無視されるなら、わたしは無視されても全然構わないよ。今のわたしにとってはただのクラスメイトより長岡くんのほうが大事だし。それと前から気になってたんだけど、自分のことを『僕なんか』って言うのもやめて。君はもっと自分に自信を持ちなよ」

「……僕、君に『僕なんか』って言ったっけ?」

「言った。言ったよ。そういうのネガティヴになるだけだから、これからはもっとポジティブに生きてこ」


 そんなこと彼女に言った覚えなんてさらさらないんだけど。だけどネガティヴになるよりはポジティブになる方がずっといいだろう。結局は僕自身の心の持ちようだけど。


「というか君は僕のことを友達だって言うけどさ、じゃあどうして嘘なんてついたんだよ」

「嘘?」


 久しぶりに、自分が誰かに怒っているということに驚いた。そういう感情はいつのまにか何処かへ置いてきたと思っていたのに。


「友達は今まで三人出来たって言ってたよね?君、クラスメイトと話してる時に友達はいなかったって言ってたよ。あれってどういうことなの?」


 僕に嘘をついていないにしても、彼女が咄嗟のことになると嘘をつく人だなんて思いたくなかった。一度でも嘘をつかれてしまったら、それからは疑ってかからないといけなくなる。


「あれって、もしかしてカンナと話してた時のこと?」

「……僕クラスメイト名前は君しか覚えてないから分からないけど、多分その人だと思う」

「あーひどい人だ! カンナって君の前の席の子だよ。せめて前後左右ぐらい覚えなよ」

「……そんなことは今はどうでもいいから、話を逸らさないでよ。そうじゃないと……」


 そうじゃないと、美園に言われた通り演劇を手伝うことが難しくなる。それを口に出すことは、はばかられた。手伝うと告げた時あんなに彼女は喜んでいたんだから。仮定の話でもそれを言い出したりすれば、きっと落ち込んでしまう。


「そうじゃないと、なに?」

「やっぱりなんでもない。とりあえず、どういうことか説明して」


 腑に落ちなかったようだけど、彼女はその先を聞かずに折れてくれた。


「中学の時に友達がいなかったのは本当だよ、ただの君の早とちりだね。ただ小学校の頃とか別の時期にはいたってだけ」

「それって絶交したってこと?」


 なにも考えずにそれを口走ってしまったことを後悔した。絶交したってことは、それなりに思い出したくない出来事だろう。

 事実、彼女は分かりやすく表情を歪めて、落ち込んだ風を見せた。


「ご、ごめん。ちょっと軽率だったかも……」

「ううん気にしないで。わたしも誤解を招くような言い方しちゃったし。そうだね、絶交じゃないよ。ただ、いなくなっちゃっただけ、かな」


 僕は、本当に聞いてしまったことを後悔した。


「姫子ちゃんって友達がいたんだけど……」

「ご、ごめん。ほんとにごめん。辛い話だと思うから、無理に話さなくてもいいよ」


 彼女の言葉をさえぎって止めさせると、僕が予想していた反応とは別の表情を見せた。彼女は、口元を押さえてクスリと笑う。


「長岡くんやっぱり優しいね。でもそんなに慌てなくていいよ、死んじゃったとかじゃないから安心してっ」


 その先を聞く勇気を僕は持ち合わせていなかった。

 少し軽率だったかもしれない。そもそも友達であるなら疑ってかかるべきではなかった。信用をせずに早とちりした僕の落ち度だ。


「ちょっとちょっと長岡くん落ち込みすぎだよ! 気にしないで! ポジティブポジティブ!」

「ごめん……」

「君、さっきから謝りすぎ。何度も謝れば価値はだんだん下がってくんだよ? 今のごめんなさいはわたしに三十パーセントぐらいしか伝わりませんでした。三十パーセントじゃ許したり出来ないかなぁ」

「ごめん……って、何度も謝ったらダメなんだよね……」

「ふふっ。やっぱり面白いね長岡くんは。仕方ないから今度デートしてくれたら許してあげるよ!」

「デートって?」

「デートはデートだよ! 週末わたしを美味しいパフェの店に連れて行くこと!」


 デートなんて少し気恥ずかしいけど、それで許してくれるなら話に乗らない手はない。


「わかったよ。週末に美味しいパフェをご馳走するね」

「やった! あっそうだ! どうせなら美園ちゃんも誘おうよ!」

「美園も?」

「ほらほら長岡くんと仲良いでしょ? もっと急接近しちゃおうよ! わたしお手伝いしてあげる!」


 まだ僕と美園をくっつける気でいたらしい。少し呆れてしまい言い返す気にもなれなかった。美園とはそういう仲ではないのに。


「急接近とかそういうのは全然考えてないけど、美園も甘いものが好きだから誘ってみるよ」

「やったー!」


 週末の予定も決まったところだし、ようやく本題に入れそうだ。僕らはここが図書室だということをすっかり忘れていたから、先ほどまでよりは少し声のトーンを落として会話を再開させる。

 一応紙と鉛筆を用意して要点をまとめていく。


「演劇をやるにしても、他の役者とかはどうするの? あらかじめ言っておくけど僕はパスだよ」


 美園に習って意思は伝えておいた。期待させておいたらガッカリさせそうだし。


「ほんとに演劇をやりたい人は演劇部に入るだろうから、わたし一人で演技するつもりだよ。ほら、一人芝居とかあるの知ってるでしょ?」

「一人芝居って一人で複数の役を演じるんでしょ? 大丈夫なの?」

「大丈夫大丈夫! だってわたし演技には自信ありますから!」

「すごい自信だね。中学の時に演劇部とか入ってたの? それともどこかの劇団とか?」

「ううん入ってないよ。というかわたしインドアだからね、部活とかも今まで入ったことないんだぁ」


 ほんとに一体どこからそんな自身が湧いてくるのか不思議だ。疑っているとか期待していないというわけではないけど、そのうちその自身のほどを見てみたい。


「じゃあ演劇を発表する場所だけど、やっぱり夏休み前の文化祭がベストだよね。前もって昼休みに調べたんだけど、一日目は有志ステージってのがあるらしいし。たぶん先生に申請したら出れるんだと思うよ」

「もうそんなとこまで調べてたの?! 長岡くん頼もしいねー!」

「いやいや、君が楽天的すぎるだけだよ……初めて聞いた時何も決まってなくてビックリしたもん」

「だってほら、こういうのはやる気が一番大事でしょ?」


 たしかにそうだけど、少しぐらいプランは考えておいて欲しかった。


「……というかこれって僕が手伝う意味あるのかな? 劇とか出ないし、僕の出来ること何もないよ?」

「長岡くんのいる意味はありありだよ!だって頼もしいし! それと一番は、打たれ弱いわたしを支えてほしいの。そういう役目、長岡くんに頼みたい」

「打たれ弱いって……すっごく元気はつらつに見えるよ」

「こう見えてわたし、か弱い女の子なんだよね。本番前とか緊張とかで突然逃げ出したり倒れるかもしれないし!」


 どの口が言ってるんだと思ったけど、本人がそうと言っているんだから追求はしないでおこう。


「衣装とかはどうするの? レンタルとかしたら高いだろうし、そういう裁縫の趣味とかあったりする?」

「ううん、全然!」

「あぁ、そう……じゃあどうしよっか」

「それは演劇部の人に頼み込めばいいんじゃないかな? 使ってない衣装とかあるだろうし」

「まあそれが一番妥当だよね」


 とりあえず決まった事柄を紙に書き出していく。プランが決まっていくというのは、自分のことではないけどなんだかワクワクした。

 ワクワクしている僕とは対照的に、目の前の彼女はカバみたいに大きなあくびをしたけれど。


「君、僕が真面目に考えてるんだからあくびなんてしないでよ……もしかして疲れちゃった?」

「ごめんごめん、ちょっと昨日徹夜してて。気にしないで、しっかり起きてるから」


 とはいっても、もう日が落ち始める時間だから疲れているなら少し休憩したほうがいいかもしれない。徹夜しているならなおさらだ。夜ふかしはお肌の敵なのに。

 僕はペンを置いた。


「ちょっと休憩しよっか。まだ時間は有り余ってるし」

「いやぁごめんね、長岡くん。わたしから言い出したことなのに」

「何回も謝ったらダメだよ。価値が下がっちゃうから」


 さっきの仕返しをしてあげると、彼女はクスッと笑って「こりゃ一本取られましたなぁ」と言った。どこのおっさんだ。


「というか、徹夜もしたらダメだよ。女の子なんだから身体は大事にしないと」

「といっても、勉強しないとみんなに置いてかれるからなぁ……」


 何気なく呟いたその言葉は、きっと聞かれたくなかったんだろう。言い終わってしまった後に口を両手で塞いだ。だけど諦めたのか、ガックシと肩を落としている。


「夜遅くまで勉強してたの? 昨日の教え方だと普通に勉強出来る人だと思ってたんだけど」

「だから全然そんなことないってばぁ。わたしすっごく物覚え悪いから、人より何倍も書かないと全然覚えられないの」

「それはなんというか……苦労してそうだね」

「ほんとだよもー! 長岡くんにはおしとやかな出来る女の子って思われたかったのに!」

「それは無理なんじゃないかな。羽前の素顔もう知っちゃってるし」

「素顔って?」

「ちょっと強引な女の子、かな。全然おしとやかじゃないね」

「うわっ、ちょっぴり傷ついたかも」

「君の良いところだと思うよ。そのままでいいと思う」

「あっ、今ちょっとドキってしたかも!」


 図書室であることに気を使ったのか、クスクスと控えめに笑った。


「わからないとこがあったら教えてあげるよ。いつでも聞いて」

「ううんだいじょぶ。むしろ長岡くんが分からないところ教えてあげるよ。わたしにはこれぐらいしか返せるものがないから」

「これぐらいって言ったらダメだよ。君もポジティブに生きなきゃ」


 その切り返しが予想外だったのか、一度大きく目を丸めた後にクスッと笑った。


「こりゃまた一本取られましたなぁ、わっはっは!」

「それ君の中で流行りだしたの? おっさんくさいからやめたほうがいいと思う」

「なにおう! 長岡くんも言うようになったねえ!」


 美園以外の人間と話して楽しいと思ったのはいつぶりの事だろう。僕は素直に今この瞬間が心の底から楽しいと思えていた。

 対する彼女は、また大きなあくびをして口を押さえる。


「眠いならちょっと仮眠しなよ。完全下校時刻前には起こしてあげるから」

「うにゅ、だいじょーぶい」

「いやいや全然大丈夫じゃないよ、キャラ変わってるから」


 そろそろ限界なのか船も漕いでいるし。スイッチのオンオフが激しい人なのかもしれない。

 本気で前のめりに倒れそうになった彼女は、思い出したかのように自分の眉間の方へ指を寄せた。まるで、メガネを外す動作のよう。

 そこに何もないことに気づいて、恥ずかしそうに笑った。


「もしかして、今までメガネかけてたの?」

「そうそう、そうなの! 実は最近コンタクトに変えてさぁ。長年の癖はなかなか抜けないねー」


 そう言って、今度はちゃんとコンタクトレンズ外し専用のケースのようなものに入れた。


「長岡くん、わたしのメガネ姿見たい?」

「別に……」

「赤縁メガネだから、気が向いたらかけてきてあげるよ」


 頼んでもないのにそう言って、五秒もしないうちに彼女は机に身体を突っ伏す。電池切れらしい。

 僕は立ち上がって制服の上着を脱ぎ、毛布がわりにかぶせてあげた。


「寝てる間はそばにいるから、安心していいよ」

「うにゅ、ありがとね……みやこくん……」

「えっ?」


 すーすー寝息を立てて寝始めてしまう。だから突然名前で呼ばれたことに動揺はしたけど、冷静を保つことはできた。

 友達なら名前で呼ぶものなのだろうか。名前で呼んでいた人なんて美園ぐらいしかいないから、僕にはその基準がわからない。

 つい出来心で彼女のほっぺたをつついてみると、嬉しそうにニヒヒと笑う。さすがに寝ている女の子の寝顔を見るのは悪趣味だと思ったからすぐに離れた。


 美園にパフェの件の連絡を入れると数分もしないうちに返事は来た。内容は『逝く』という簡略なもの。興奮して打ち間違えたのだろう、数秒後に『行きます』という丁寧な文体が返ってきた。

 それに苦笑して、それからの僕は彼女が起きるまでそばにいた。


※※2※※


 ファミレスでイチゴのパフェをつつきながら、周りの様子を伺う。

 土曜のファミレスは家族連れが多くて、同時にカップルのお客さんも多い。僕らも周りからそういう風に思われているのだろうか。たぶん、そういう風に思われているのだろう。


「どうしたの京くん」

「いや、なんでも……」

「私一人じゃ不満だった?」

「不満とかそんなことは全然思ってないよ」

「じゃあなに、さっきから浮かない顔して」


 浮かない顔の原因は、おそらく羽前だろう。彼女は集合時間ギリギリになって、ある一通のメールを送ってきた。


『ほんっとにごめん! 風邪引いて行けなくなっちゃった! せっかくだから二人だけで楽しんできて!☆ミ』


 僕は最初、そのメールの意味を素直に読み取れなかった。


「あれ、絶対仮病だよ。京くん嫌われてるんじゃないの?」

「いやいや、決めつけるのはよくないよ。ほんとに風邪かもしれないじゃん」

「だとしても、待ち合わせ時間ギリギリにメールを送ってくるなんてありえない。これは確信犯」

「ほら、寝込んでて携帯を触れなかったとか……」

「それはない。寝込んでるなら☆ミって打つ余裕なんてない。というか、無駄に元気なメールだったね」


 というわけで、僕ら二人でパフェを食べに行くことになったのだ。もう幼馴染同士のお出かけだ。

 街に着くまでは専門店のパフェを食べようという話になっていたけど、実際にそういう店へ行くと若者が列を作っていてすぐに食べられそうになかった。

 別に並んで待ってもよかったんだけど、美園は待つという行為が嫌いらしく、それなりに空いていたファミレスでパフェを注文した。


「ごめんね、羽前さんじゃなくて私で」

「だからそんなこと全然思ってないから……」

「へー」


 仏頂面のまま、美園は抹茶のパフェをすくいとり口に入れる。美味しいのか頬は緩んでいた。そのおかげか、機嫌は少し治っている。


「抹茶のパフェ美味しい。京くん食べる?」

「僕はいいよ。いちごのパフェ食べてるから」

「お互いの味を食べあいっこした方が絶対お得」

「それじゃあ貰おうかな……」


 僕は美園のパフェをスプーンひとさし分すくい取る。パクリと食べると抹茶特有のほろ苦い甘さが口の中に広がった。

 美園も僕のイチゴパフェをすくい取り口に運ぶ。先ほどと同じく頬は緩んでいる。


「最近のファミレスのパフェはよくできてるんだね。僕が食べにきたのはだいぶ前だけど、こんなに美味しくなってるなんてびっくりしたよ」

「値段もリーズナブル。学生に優しい」


 専門店に行ったらこのパフェ二つ分のお金を払わないと食べることはできなかったかもしれない。


「美園はクラスの友達とこういう場所に来たりしないの?」

「クラスに友達はいない」

「もっと周りと仲良くすればいいのに」

「別にいい。……一人じゃないから」


 きっと僕のことを言っているのだろう。今はそうかもしれないけど、将来が少し不安だ。自分から美園と離れることはないと思うけど、社会に出たらやっていけるのだろうか。

 唐突にポケットの携帯がぶるっと震える。美園は携帯を触っていないし他の誰かだろう。


「メール見ないの?」

「美園と話してる時に携帯見るのはマナー違反だから」

「別に気にしない。私はいつも好き勝手触ってるし」


 そうは言われてもちょっとだけ気が引けた。それに食事中に携帯を触るというのもマナー違反だと思う。だけど急用だったら相手に申し訳ないし、携帯を開いてメールを見た。

 相手は羽前からだった。


『美園ちゃんとはいい感じ? チューしちゃいなよチュー!』


 元気だなぁ……

 開かなければよかったと後悔する。

僕は少し呆れて携帯を閉じた。


「羽前さん?」

「そう、ほんとにどうでもいいメールだったよ」

「ふーん」


 少しぶっきらぼうに返事をして、さりげなく僕のイチゴパフェを食べた。甘い物を口に入れても、美園の笑顔は晴れない。

 もっと仲良くなってほしいんだけどなぁ……

 美園のパフェにスプーンを伸ばしたら、すぐに横へずらしかわされた。


「そういえば、いつの間にメアド交換したんだね」

「あぁ、うん。交換しとかないと不便だって思ったから」

「それを口実に、羽前さんのことが好きだからメアド交換したの?」

「何度も言ってるけど、別に好きなんかじゃないよ……」

「でも可愛いんでしょ?」

「まあ普通に可愛いけど。でもまだ知り合って数日しか経ってないし」


 その答えに満足したのか、自分のパフェにスプーンを伸ばしてパクリと食べた。心なしか少しだけ機嫌が直ったようにも見える。


「あの、美園……」

「私はやらない」

「まだ何も言ってないよ?!」

「演劇でしょ?残念だけど、甘いものだけじゃ私は揺れ動かない」


 甘いものだけということは、それ以外にも頑張れば傾いてくれるのだろうか。あの日、羽前にきっぱりやらないと宣言してからもそれとなく誘ってみたりしたけど、やはり今と同じく首を縦に振ってくれることはなかった。


「一応訊くけど、どうして手伝ってくれないの?」

「何度も言ってるけど教えない。自分で考えて」

「考えてみたけど思い浮かばないんだよ」

「鈍感なんじゃない?」


 こういった風に、全然教えてくれないのだ。何度も言い続ければいつかは、なんてことは美園に通用しない。一度決めたことはよっぽどのことがないと曲げないから。

 早くも僕はヤケになって何度もお願いしてしまっている。だって、美園に脚本をお願いしたいと思っているから。本をたくさん読んでいる美園なら適任だと思うのだ。むしろ、頼めるのが美園しかいない。友達がいないから。


「ほら、当日とかは見てるだけでいいから。お願いしようと思ってるのは脚本だし、美園の書いた物語なら絶対文句言わないよ?」

「別に脚本がいなくても演劇できるでしょ。ネットとかで有名な作品拾ってきて演じればいいじゃん。ロミオとジュリエットとか」

「僕は美園の書いた話を読みたいんだよ。美園の書いた脚本を読んで、それを羽前が演じてほしいんだ」


 思っていることをストレートに伝えると、美園は若干頬を赤らめて僕のパフェを食べた。珍しいなと思ったけど、やっぱりそれはすぐに元どおりに戻る。


「そう言ってくれるのは嬉しいけど……やっぱりやだ。他をあたって」


 少し迷うそぶりが見える。ここでもっと押せば折れてくれそうな気がしなくもないけど、その代わりにもっと大切なものを折ってしまう気がした。

 それが怖くなって、僕は引いてしまう。


「パフェ、食べる?」

「だから餌付けしても無駄」

「ジト目向けないでよ。餌付けとかそういうのじゃなくて、普通に喜んでくれると思ったんだ」

「むっ……」


 美園のスプーンは数秒パフェの近くをウロウロさまよい、結局誘惑に負けてひと匙ぶん口に入れた。美園の笑顔がとても嬉しい。


「これ食べたから脚本書いてっていうのはナシだからね?」

「たからほんとにそういうのじゃないよ。今日はもうお願いしたりしないから安心して」

「今日はもうってことは、明日は勧誘してくるんだね。予防線張ってくる京くん、ちょっとずるい」


 それは仕方ないから許してほしい。ほんとに脚本を書いてくれる人が必要なんだから。

 黙々とパフェを食べ続けたけど、美園は僕のパフェを時折つまんでいたから食べ終わるのが遅い。ジッと待っていると、少しだけ残っているパフェを僕の前へ置いた。


「京くんのたくさん食べたからお礼。でも残ったやつだからちょっと汚いかも……嫌だったら全部私が食べる」

「ううん汚くないよ。でも、いいの?」

「もう両方楽しめたから大丈夫。ありがとね」


 そう言ってくれたから、素直に好意に甘えることにした。器の底に少し溜まっているパフェを口に入れる。


「もしかして、もうお腹いっぱいだった?」


 返事をせずに顔をそむけたから、きっとそういうことなんだろう。僕は少し苦笑して、残りのパフェを平らげた。

 お会計の時、ちょうど店内が混み合っていたから先に美園に外へ出てもらった。二人ぶんのパフェのお金を払いお釣りを受け取る。お礼を言ってから美園の元へ向かった。


「おかえり。私のぶん払うから、レシート見せて」

「あぁ、ごめん。貰うの忘れちゃったよ」


 目を丸めた美園は店内を見る。混み合っていたから、レジの前には数名人が並んでいた。

 再び僕にジト目を向ける。


「京くん、わざとレシート貰わなかった?」

「そ、そんなことないよ……」

「顔に出てる。ほんとに嘘が苦手」


 やっぱり、僕は嘘をつけない。

 美園はピンク色の可愛い財布を戻してくれた。だけど一つため息をつく。


「私のぶんは私で払うって言ったのに」

「ごめん、いつも美園にはお世話になってるから……それに、僕ってこういうことでしか恩返しすることできないし……」


 そう言うと、美園は人差し指を僕の唇に押し付けてきた。その行為に、幼馴染だけど少し心臓が跳ねる。


「自分のことを卑下するのは京くんの悪い癖。そういうところ、直したほうがいい。京くんにはちゃんと良いところがあるから自信持ちなよ」


 人差し指を離した後も美園の指先の感覚は消えなかった。その感覚が僕の口に封をしているみたいで、なぜだか落ち着かない。だから再び話し始めるのに微妙な間が空いた。


「僕にいいところってあるかな……?」

「いきなりどうしたの?」

「ちょっときになって」


 自分に自信を持ちなよと言われても、自信を持てる部分なんて皆無に等しい。

美園はすぐに返事は出さずに、考える仕草を取ってくれた。少し緊張して再び僕を見る。


「京くんの優しいところとか、私好き」

「優しいところが好きって、それって他に良いところがない人に言うセリフじゃないの……?」

「京くん女々しい。というかめんどくさい」


 女々しいとめんどくさいのダブルコンボを頂いてしまった。ちょっと凹む。


「……でも、他にもあるよ。小学校の頃私のために怒鳴ってくれたでしょ?」

「えっ、いつ?」

「私が学校で無視されるようになった時。帰り道にクラスメイトから悪口言われて怒鳴ってくれた」


 たしかにそんなこともあったような気がするけど、具体的にいつ頃の出来事かは覚えていなかった。


「私、嬉しかったよ。いつもは女々しいのに、その時だけは私のために頑張ってくれたから。昔からそうだったけど、京くんの友達を大切にしてくれるところが私は好き」


 顔が火照るのを感じた。僕は勘付かれたりしないよう冷静に努める。幸い美園も視線を逸らしてくれたから見られずに済んだ。

 というか、ファミレスの前でする会話ではない。気まずい雰囲気の僕らは、退店するお客から不思議なものを見るような視線を向けられていた。


「えっと、まだ時間あるし本屋とか行きたい?」

「うん、行く……」


 幼馴染という存在は不思議なもので、あれだけ気まずかったのに、本屋に着いた頃にはもういつも通りの僕らだった。

 本屋の中を美園はぶらぶらと周り、僕は黙ってそれを見守っている。買いたい本はすでに決まっていたのだろう。しばらく回った後、今日は目立つ場所に平積みされていた本と、棚の端っこに置かれている本と、数年前に有名な賞を取った本の三冊を購入していた。

 三冊目の本については読むのが楽しみなのか、嬉々としてその本の楽しみな部分を語っていた。他の二冊はそれほど関心を示していないのか、何も語りはしなかったけど。

 そのようにして楽しい週末は終わりを告げた。


※※※※


 その後、夜に羽前から電話がかかってきた。


「ごめんね……風邪引いちゃったみたいで……」


 電話の向こうから彼女の酷い咳が聞こえる。とっても辛そうだ。


「君、本当に風邪だったんだね。美園と仮病なんじゃないかって疑ってたんだよ」

「こんなことで嘘はつかないよ……」

「じゃあ風邪引いてるのに無駄に元気なメールを送らないでよ……」


 あんな元気なメールを送られてくると、誰だって勘違いしてしまう。


「ところで、どうして風邪引いたの? お風呂に入って髪乾かさなかったとか?」

「……夜遅くまで勉強してました」


 僕は呆れてしまい、手のひらを額に当てる。雰囲気でそれが伝わったのか、電話口の彼女がむすっとした様に思えた。


「頑張るのはいいけど、もし本番で体調を崩したら元も子もないんだよ?といっても、勉強も頑張らなきゃいけないんだけど」

「体調管理気をつけます……」

「これからはあんまり夜ふかししないでよ?」

「……わかりました」


 本当に理解出来たのか分からないけど、彼女がそう言うなら信じよう。

 尚も彼女はゴホゴホと咳をしていて、僕は本気で心配になる。というか、そんなに咳をされるとわざとらしいなとも思ってしまう。

 時間ギリギリにメールを送ってきた。そしてそれはすごい元気なメール。本当は仮病なんじゃないかと再び疑ってしまった。

 僕はやっぱり、あまり人を信用できなくなっているのかもしれない。

 彼女のことを少しは信用したいと思っているのに。


「みやこくん、みやこくん」

「さっきからずっと気になってたんだけど、どうして名前で呼んでくるの?」

「だって、みやこくんって呼んだ方が響きが可愛いでしょ? 」

「そんなこと考えたこともないけど」

「まあそれはおいといて。美園ちゃんと上手くやれた?」


 たぶん一番気になっていたんだろう。電話してきた理由もそれだと思う。

 動揺する理由も無いから、僕は平然と問いを返す。


「何もないよ。ただの幼馴染だから」

「パフェを食べさせあいっことかしなかったの?」


 当たらずとも遠からずだけど、そんな恋人みたいなことは決してやってない。そもそも美園とそんな劇的な雰囲気になったことなんて一度もないから。


「一口ずつ交換したけど食べあいっこはしてないよ。美園はそういうの嫌いだと思う」

「そうなの? わたしはちょっとした夢なんだけどなぁ。男の子に食べさせてあげるのって、少女漫画とかの定番でしょ?」

「美園はそういうのとは無縁な人だから」


 逆に美園にそういうことをされると、頭がおかしくなったのかと本気で心配になる。羽前がやってくるのはギリギリ許容範囲だけど。

 それからも僕が美園と上手くいったかどうかを執拗に訊いてきて、とりあえず上手くいったと伝えておいた。もし次の機会があるなら、二人が仲良くなれるように三人で出かけたいと思う。


「わたしも、みやこくんたちとパフェ食べに行きたかったなぁ……」


 とても残念そうに彼女は呟いた。わずかに開いた口からぽろっと漏れてしまった言葉なんだろう。

 それは彼女の本音で、だからこそ僕の胸の奥あたりにチクリと刺さった。元はといえば夜遅くまで勉強をして体調を崩した彼女が悪いのだけれども、寂しくさせてしまったのは事実だ。きっと僕が楽しいと思ったぶんだけ、彼女は寂しかったんだろう。


「……今度、また埋め合わせしようよ。時間があるときに」

「ほんと?!」


 とても嬉しそうな声をあげて、電話口からは彼女の立ち上がる音が聞こえた。単純だなと思いながら、僕は苦笑する。


「君、そんなにはしゃいだら風邪が悪化するよ?」

「だってだって、嬉しいんだもん!」

「わかったから、せめて今日ぐらいは安静にしててよ。勉強もダメだからね、分からないところは僕が教えるから」

「はーい」


 素直に僕の言葉を聞いてくれたのか、椅子に背もたれを預ける音が聞こえた。それを聞き僕も安心して、今日はもう遅いからと電話を終わらせる。

 彼女はまだ話をしたいと食い下がってきたけど、さすがに病人に夜ふかしをさせるわけにもいかないから、強引に話を打ち切った。少々ムッとしているようだったけど、彼女のためだから仕方がない。


 それから数日後、四月の下旬あたりに美園から以前買った三冊の本についての感想を教えてもらった。期待していた本は期待していた以上の面白さで、いつにも増して口数が増えていたけど、残りの二つは作者がかわいそうになるぐらい酷評していた。


××3××


五月


 入学したての四月はあっという間に過ぎ去って行く。クラスで一人でいることに慣れてしまった僕は、今日も昼休みを一人で過ごしていた。もう完全にグループは出来上がってしまって、僕なんかに入れる隙間はない。

 そういうことを考えて、彼女から自分にもっと自信を持ってと言われたことを思い出した。もし彼女に僕の心の内側を読む力があったなら、きっと叱責を食らっている。『僕なんか』と考えてはいけない。

 その当の彼女は、クラスの中では比較的中心の人物になっていた。無理もない。彼女は最初からそういう人間なんだから。

 お昼を共に過ごすことがたまにあるけど、そういう時は決まって一部のクラスメイトが怪訝そうな表情を浮かべる。無視しているのか気づいていないのか分からないけど、彼女はそれについては一切関心を示さない。そういうことが続いていたから、僕は自分を卑下せずにはいられなかった。僕と一緒に過ごすより、クラスメイトと過ごす方がよっぽど有意義だと思うから。

 そして今日も一人でいる僕は、タイミング悪く彼女と目が合ってしまった。こちらへ微笑みを向けて、クラスメイトたちと仲良く昼食を摂っていたのに僕のところへとやってくる。その手には花柄の弁当箱が握られていた。


「前の席借りていいかな?」

「返事を出す前に座らないでよ」

「えー? でも私が来てくれて嬉しいでしょ?」

「……別に」

「あーひどい! せっかく一緒に食べようと思ったのに!」


 そう言って、彼女は僕の机に弁当箱を広げた。卵焼きや肉じゃがやサラダが彩りよく散りばめられている。手作りなのだろうか?


「これ実はわたしが作ったんだー」


 訊いてもないのに答える羽前。


「へー、料理できるんだ」

「食べたい?」

「……別に」

「そっかー! 食べたいか!」


 聞いちゃいなかった。

 彼女はお箸で卵焼きを掴んで、僕の口元へ寄せてくる。


「ちょ、ちょっと待って! 自分で食べるから!」

「ダメ! みやこくんは素直じゃないから、罰として食べさせてあげる!」


 グイグイと近付いてきて、僕は半ば無理やり卵焼きを食べさせられた。出汁の味付けではなく、砂糖の味付けだ。それも程よい甘さで、僕の口にすごく合っている。

 甘いものを咀嚼して少し元気になったけど、それとは対照的に彼女は不安そうな表情を僕へ向けていた。


「どう? 美味しかった?」

「うん、美味しかった……」


 すると今度は安堵のため息を漏らす。


「よかったぁ。わたしの家いつもだし巻き卵だから、うまく作れてるか心配だったの」

「じゃあ、なんで今日に限って味付けを砂糖にしたの?」

「ほら、みやこくんに食べさせてあげようと思って」


 どうやら僕に食べさせることは決定事項だったらしい。


「僕って君に甘いものが好きだって言ったっけ?」

「言ってたよ?わたしがパフェ誘った時」


 言ったかもしれないけど覚えていない。彼女が直前で約束をすっぽかしたことの方が印象強く残ってるからだと思う。すっぽかしたというより、本人曰く風邪をひいたらしいけど。


「ほらほら、肉じゃがとかもあるよ! 食べなよ食べなよ!」

「もういいよ……他の人も見てるから、ちょっと静かにしない……?」

「お友達と話してるだけだから静かにする必要はありませーん」

「じゃあせめて自分で食べるから。わざわざ食べさせてくれなくてもいいよ」


 彼女は仕方ないという風に妥協してくれた。

 肉じゃがを食べると、完璧に僕好みの味付けというわけではないけれど違和感なく食べることができた。


「どう? 美味しい?」


 今度もまた、不安げな表情を見せる。自分の作ったものを誰かに食べさせるという経験が少ないのだろうか。


「美味しいよ。君って料理も上手いんだね」

「えっへへー! 練習したの!」


 元気よくそう言った彼女の目元には、隠しきれているようで隠してきれていないクマがあった。僕だから気付けたというのは自惚れだろうか。


「もっともっとお食べ!」

「自分のがあるから大丈夫だよ。それに、僕がたくさん食べると君のぶんがなくなるし」

「そう?せっかく作ったのになぁ……」


 わかりやすくシュンとして、それが見ていられなかったから二つ目の卵焼きに箸を伸ばした。それを食べると彼女は笑顔になる。

 だけど、さすがにもう弁当をいただくのはやめた。彼女のぶんがなくなるという理由と、クラスメイトからの視線が痛いからだ。こんな大衆のど真ん中じゃ気軽に振舞うこともできない。

 気にしないと彼女は言っていたけど、気にしざるを得ない。


「今日の放課後、覚えてる?」

「この前君がすっぽかしたから、またパフェを食べに行くんだっけ?」

「そうじゃなくて! 文化祭でステージを使用するのを申請しに行くの!」

「あぁ、そうだったね」

「そうだったね、じゃないよもー! 一番大事なこと!」

「今度はちゃんと来てよね?」

「わかってるって!」


 どうも信用ならない。

 彼女はパフェを食べに行った時だけでなく、それ以降も土壇場で約束を反故にしてきたのだ。

 たとえば三人で一緒に帰ると言って玄関前で約束していたのに、用事が出来たから先に帰るといったこともあった。休日の映画鑑賞の時は、用事が出来たと言ってキャンセルしてきた。美園との仲を進展させたいと思っているのだろうか。

 パフェの時は本当に風邪なのかと思ったけど、今では仮病を使ったんじゃないかと疑問に思っている。

 僕には彼女の意図がよくわからなかった。


「そうそう、この前みやこくんがメガネ姿を見たいって言ったから持ってきました!」

「言ってないけど……」


 例のごとく僕の言葉を無視して、ポケットの中から赤いケースを取り出した。その中に入っているのは赤い縁メガネ。


「どう? どう? 可愛いでしょ!」

「可愛いね、メガネが」

「後ろの単語は余計だよ!」

「いいからかけてみてよ。かけないとわからないから」


 少し頬を膨らませたけど、彼女は素直にメガネをかけた。その姿を見て、僕は自分の顔がだんだんと熱くなっていくのに気付いた。きっと、彼女のメガネのように紅潮している。

 幸いコンタクトの上にメガネをかけているから、たぶん羽前には何も気付かれていない。

 だけど慌てて顔を反らし、反射的に感想を漏らしてしまった。


「かわいい……」

「えっ?」


 彼女は目を丸める。僕はそのメガネを外す前に、いつもの表情へと戻さなきゃいけない。

 しかし彼女はメガネを外すことさえも忘れ僕と同じく顔を紅潮させ、それを見られないように頬に手を当てる。

 そんないつもと違う羽前を見れたから、僕は幾分冷静になれた。まるで乙女のようだった。


「か、かわいいって……」

「ちょっと驚いたよ……君すごくメガネが似合うんだね」


 なおも恥ずかしがっているけど、ようやく冷静になったのかメガネを外した。手元が震えていてうまくケースにしまえてしないから、深呼吸をして心を落ち着かせている。


「うわぁ、びっくり……恥ずかしいなぁもう……」

「さすがにびっくりしすぎじゃない……? 君なら言われ慣れてるんじゃないの?」

「慣れてないし、今のは心の準備が全然出来てなかったから……」


 羽前にもこういう顔もあるんだと知れて、僕はちょっと嬉しかった。それと、いつもリードされている僕が一矢報いられたみたいで優越感のようなものがある。

 火照った顔を、彼女は両手で叩いた。紅葉のような模様ができる。


「みやこくんの前でメガネかけるときは気をつけなきゃ……か、かわいいってからかわれるし……」

「僕としてはからかってないんだけどね……さっきも反射的に言っちゃったし」

「だから! そういうの恥ずかしいから思ってても言わない!」


 怒られた。

 それがおかしくてクスッと笑う。彼女はご機嫌斜めみたいだ。

 だけどしばらくすると糸がほぐれたのか、この前と同じく大きなあくびをする。


「ふわああああ……」

「あくびがうつるからやめてよ。というか夜更かししたらダメって何度も……」

「ごめんごめん! でもでも、授業とか難しくなってきたでしょ?仕方ないって」

「だから、僕が教えてあげるって」

「んー、もうほんとにダメだー! ってなった時にみやこくんのことを頼ろうかな!」


 彼女は授業の範囲が難しくなることに比例して、あくびの数も増えている。そして成績も高い位置を維持しているけど、明らかに無理をしているのが見て取れた。

 僕が何度手伝うと言っても聞いてはくれない。ひらりとかわして、僕が勉強で行き詰まっているとわかりやすく懇切丁寧に教えてくれていた。


「……また、体調崩さないでよ?」

「わかってるよー」


 ほんとにわかってるのだろうか。小さな疑問が湧いたままお昼の時間は過ぎていった。


※※※※


 しかし今日の約束は守ることが出来なくなった。たぶん彼女はちょうどトイレに行っていて、僕は教室で箒と塵取りを持っている。僕にその責を押し付けたクラスメイトは彼女が戻ってくる前に教室からは退散していた。

 放課後の掃除を僕に丸投げしたのだ。たぶん、僕が彼女と仲良く話しているからその当てつけのようなものなんだろう。トイレから戻ってこないか、しきりに入り口の方を確認していたから。

 そしてその確認が功を奏したのか、羽前が戻ってきたのは押し付けてきたクラスメイトが教室を出て五分後くらいの出来事だ。もうこの時にはクラスメイトの大半は帰宅か部活に向かっている。


「みやこくん、箒と塵取りなんて持ってどうしたの? お掃除に目覚めたの?」

「そんなわけないよ。……押し付けられたんだよ」


 明らかに彼女の表情が変わって、僕は言葉を間違えたと思った。


「……押し付けられた?」

「じゃなくて、頼まれた」

「同じだよ。そういうのは当番の人がやらなきゃ」

「そうだよね……」

「みやこくんも、そういう時は断らなきゃ。わたしとの約束があったでしょ?」

「うん……」


 怒ったまま帰るかと思ったけど、それが当然であるかのように彼女も箒と塵取りを持って掃除を始めた。


「君がやらなくてもいいよ、僕が頼まれたことなんだし」

「一人より二人の方が早く終わるから。早く終わったら、早く申請に行けるでしょ?」

「そうだけど……」

「それに、わたし一度こういうことやってみたかったんだぁ。頼りないクラスメイトくんと一緒の居残り掃除!少女漫画とかの定番でしょ?」

「頼りないって……」

「あーうそうそ、みやこくんとっても頼り甲斐があるよ! とりあえずチャチャッと済ませちゃおっか!」


 たぶんほんとに頼りないと思われているんだろう。それでも掃除を一緒に手伝ってくれるのは嬉しかった。

 箒で床を掃きながら、彼女はこちらを向かずに話しかけてくる。


「みやこくんさ、もうちょっと他の人とも仲良くしようよ」

「いきなりどうしたの?」

「だって、この一ヶ月わたしと美園ちゃん以外に話しかけてた人ほとんど見たことないもん」

「別に仲良くしなくても一人でやっていけてるからね」

「ダメだよーそういうの。人生は一回しかないんだから、一人で生きてくんじゃなくてみんなと関わらなきゃ」

「またおせっかい?」

「そうだよー」


 にへらと笑って、彼女は掃き掃除を続ける。

 僕だってこの性格を直したいとは思っている。だけど小学校から培われてしまった経験は、僕を後ろ向きにしてくれることはあっても前向きにさせてくれることはなかった。

 その経験を、彼女は知らない。

 最後に集めたゴミを丁寧に塵取りで集めてゴミ箱へ捨てた。彼女はと二度手のひらを叩き、「おわったー!」という清々しい声を上げる。


「ありがとね、わざわざ手伝ってくれて」

「いいってことよー! それより、早く申請しに行こっか!」


 僕らは手早く帰りの支度をして、職員室へ向かう。

 放課後といっても、教師は事務机に向かってなにやら作業をしていた。そういえば以前テストがあったからその採点に追われているのかもしれない。

 ノックをして職員室へ入り、有志ステージの係を担当している体育教師の元へ向かった。やはり窓際で事務作業をしていて、チラと覗くと保健のテストの採点を行なっている最中だった。


「すいません! 文化祭で演劇したいんですけどー!」


 空気を読まずに大声で叫んだから、周りの教師たちも僕らを見る。もうちょっと静かにしてほしい。

その意を彼女に目線で伝えようとしたけれど、どうやら気付いていないようだ。


「あーっと、羽前椿姫さんと……長岡くんだっけ?」


 僕は名字しか覚えられていないらしい。


「羽前椿姫です! 文化祭で演劇したいんです!」

「わかったわかった、二回も叫ばなくていいから」


 少しうんざりしながら耳の穴をかいて、教師は引き出しの中から一枚のプリントを出した。それを二枚ぶん僕らへ渡す。


「ステージを使いたい人全員に説明してるんだけど、有志ステージは文化祭前に行われる期末テスト平均六十点以上がボーダーラインだから。これクリアできないと用意出来てても参加は認められないよ」


 それは初めて聞く話だった。

 一応進学校だから成績の悪い人は遊びに走らずに勉強しなさいということだろうか。まあ、当然の処置だと思う。

 文化祭の出し物を頑張っていたから勉強はできませんでしたなんて、まさに本末転倒だ。


「お前ら大丈夫? 特に羽前、入学試験の結果ギリギリだったらしいな。それに勉強だけじゃなくて……」

「勉強は大丈夫です! 任せといてください!」


 教師の言葉を遮りあまりない胸を張った。

 勉強に関しては本当に大丈夫だろう。前のテストの結果を教えて貰ったけど、僕より五点ほど平均が高かったし。これからも順調に行けば、何も心配することは起きない。


「お前がそう言うなら……まあダメだと思ったらいつでも辞退しろよ?」

「おっけーでーす!」


 それから教師とたわいのない会話をして、申請用紙を貰ってから職員室を出た。隣にいる羽前はなにが楽しいのかニコニコと笑っている。


「第一関門突破だね! これでステージの心配はしなくて大丈夫!」

「君話聞いてなかったの?成績下がったらどれだけやる気あっても出れないからね」

「大丈夫大丈夫! わたし勉強するから!」


 まあそこらへんはあまり心配していない。もし彼女が失速しても僕が手伝えばなんとかなるだろう。

 問題は劇でなにをやるかなにも決まっていないことだ。なにをやるか決まっていないという問題は、同時に脚本家が決まっていないという問題にも直結する。

何度かお願いしているけど、美園は未だ首を縦に振ってはくれなかった。

 とりあえず僕らは玄関で靴を履き替えて外へ出る。校門の前には予想外の人物が立っていた。


「美園、もしかして僕のこと待っててくれたの?」

「久しぶりに一緒に帰ろうと思って」


 美園からそういう提案があるのは珍しいことだ。いつも大抵は先に帰っていて、だから素直に嬉しい。だけど美園は羽前を認めると少し不機嫌な表情を浮かべる。


「なんで今日こんなに遅かったの?」

「実はね、教室でさぁ……」

「放課後に職員室に行って演劇の申請してたんだよ。それで遅れた」


 敢えて羽前の言葉を遮った。昔のことを知っている美園には、そういうことを知られると余計な心配をかけてしまう。

言葉を遮ってしまったけど、幸いにも羽前と美園は特になにも訝しんだりしなかった。


「へぇ、頑張ってるんだね。成績は大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。羽前は僕より平均高いから」

「ふーん」


 美園はチラと羽前を見て、羽前はニコリと微笑む。すぐに視線を外して今度はまた僕を見た。


「もしかして、お邪魔だった?」

「そんなことないよ、三人で帰ろっか」

「うん……」


 そんな風に話がまとまりかけていた時、羽前は何かいいことを思いついたというように手を叩いた。こういう時、彼女は大体突拍子も無いことを口走る。


「今からみんなでカラオケ行かない?」

「は? カラオケ?」

「そうカラオケ! 親睦深めようよ! それにわたしカラオケ行ったことないから興味あるの!」


 僕は別にいいけど。というかむしろ、今まで遊びに行こうとなった時は全て羽前が当日ドタキャンをしていたから、そのうち本当に出かけたいと思っていたのだ。

 今日は元気そうだし、なにより学校帰りだし、こんな時まで途中に居なくなったりはしないだろう。


「美園は?」

「行く」


 即答だった。

 歌うのはあまり好きそうじゃないのに。


「じゃあ決まりね! 駅前にあるらしいから行こっか!」


 急遽僕らはカラオケに行くことが決まった。


※※※※


 カラオケに行く途中、用事思い出した!ということを一切言うことなく、羽前はちゃんと一緒について来てくれた。

 笑顔で美園に話しかけ続けていて、話が尽きるということはなかった。


「美園ちゃんは歌うの好きなの?」

「べつに」

「わたし音痴なんだよねぇ。そもそもあんまり歌ったことないし!」

「へぇ」

「外しちゃうと思うけど笑わないでね!」

「うん」

「美園ちゃんは駅前によく来るの?」

「パフェ食べに来た」

「そっかパフェかぁ、もしかしてみやこくんとデートした時?!」

「うん」

「うらやましいなぁ、わたしも風邪引かなかったら行ったのに!」

「へぇ」


 羽前はとても忍耐力があると思う。美園は会話を続ける意志なんてサラサラないのに、必死に笑顔を崩さずに会話を続けている。

 美園も少しは心を開けばいいのに。


「みやこくんみやこくん」


 今度は僕にだけ聞こえるようにそっと耳打ちしてきた。駅前は学生や社会人の人たちがたくさん歩いて会話をしているから、きっと美園には届いていない。


「デートだねっ!」

「あぁ、うん……」

「美園ちゃんに告白しちゃいなよ!」


 まだ言ってるのか。そしてなぜか嬉しそうな表情をしている。

 僕は半ば呆れていたから、ため息を意思表示にした、

 放課後だから時間もあまりないし、とりあえず二時間コースで部屋に入った。


「わーすごい!中ってこんな風になってるんだ!」

「これがマイク?二本あるんだね!わー!わー!すごい!声大きくなってる!」

「みやこくんみやこくん!照明も空調も弄れるよ!」


 一人ですごく盛り上がっていた。美園は僕の隣に座ってメニュー表を眺めている。


「時間ないし、そろそろ歌おっか。羽前が先に歌っていいよ」

「えっ、わたし歌とか全然わからないよ?!」

「何歌っても笑わないよ。小学校の頃に音楽で習ったやつでもいいから」

「それならギリギリ覚えてるかなぁ。この機械に打ち込んだら再生できるの?」


 頷くと、慣れない手つきでパッドを操作し始めた。たぶん機械類が苦手なんだろう。以前スマホを操作してるときも四苦八苦していたし。

 しばらくすると、誰もが一度聞いたことのある童謡が流れ始める。

 緊張している面持ちで、彼女は少し声を震わせながら全て歌いきった。音程はギリギリ外してないけど、お世辞にも上手いとは言えない。

 彼女自身も微妙な笑顔を浮かべていた。


「いやぁ、歌うのって難しいんだね。演技は自信あるけどこっちは苦手だなぁ」

「音程は外してないから、練習すれば上手くなると思うよ。慣れてないだけだと思う」

「そうかなぁ……ありがとね気使ってくれて!」


 別に気は使ってないんだけど。だけど、ちょっと嬉しそうにしている顔を見れてよかった。


「美園ちゃんはどう思った?」

「下手」


 直球だった。

 しかし羽前はめげていない。


「そっか下手かぁ!お聞き苦しくてごめんね!」

「べつに、私も下手だし」


 と思ったら謙遜した。

 本当によくわからない子だ。


「次はみやこくんが歌ってみなよ!」

「えっ、いいよいいよ。僕も下手だし」

「歌わないとダメ!恥ずかしいのにわたしも歌ったんだよ!」

「自分だけ歌わないのはずるい」


 美園も歌ってないじゃんとツッコミを入れたかったけど抑えた。仕方ないから最近話題の曲を入れてそれなりに真面目に歌う。

 僕もカラオケは初めてだから、羽前と同じく緊張した。


「むむむ、みやこくんの方が上手い……」

「そんなことないよ、同じくらいだと思う」

「美園ちゃんはどう思った?!」

「京くんの方が上手い」

「ほら負けたあああ!」


 本気で悔しがっている。

 そもそもカラオケは競うものじゃないから、自分の思った通りに歌えばいいのに。


「ほらほら、美園ちゃんは歌わないの?」

「私トイレ行く」

「あ、そうなの?いってらっしゃい!」


 分かりやすく逃げたのに、羽前は笑顔で応対した。

 狭い個室の中で彼女と二人きりというのは、意識してしまうと途端に心拍が早くなる。図書室で二人だけの会議をしていた時は、こんな気持ちにならなかったのに。

 彼女は全くそういうことを気にしていないのか、わざわざ僕の隣に移動してきた。


「それにしてもカラオケって楽しいね!三人で来れてよかったなぁ」


 屈託のない笑顔で、きっと本心をしゃべっている。この一ヶ月彼女と過ごして来たけれど、やっぱり笑顔はまぶしくて、僕は萎縮してしまう。


「今までクラスメイトに誘われたりしなかったの?」

「誘われたよー」

「じゃあ、その時に行ったらもっと楽しかったんじゃない?」

「それはやだなー、私は今の三人で行きたかったし」

「そう……」


 彼女の中での優先順位は、クラスメイトより僕らの方が高いらしい。


「それに、クラスメイトと遊んだらみやこくんとの時間が減っちゃうでしょ?」

「べつに僕は気にしないけど」

「私が気にするの!」


 そう言ってくれているのに、早く美園が戻って来てくれないかなと考えている僕はきっと酷い人だ。

 考え事をしていると、人指し指で頬を突いてくる。


「みやこくんぼーっとしてるよ?体調悪い?」

「……べつに」

「あ、また生返事。べつに、へえ、ふーん」


 なぜか、彼女は嬉しそうな表情をしていた。


「ごめん、考え事してた」

「考えごと?」


 食いついて来たけど、素直に思っていたことを話すのは出来なかった。だから別のことを質問してみる。


「どうして演劇がしたいのかなって。結局聞いてなかったから」

「あぁ、そんなこと?」


 どうやらそこまで深い意味はなかったようだ。


「実は子どもの頃に一度だけ劇場に連れてってもらったことがあるんだけどね、その時に見た演劇が今でも忘れられないの。だから、死ぬまでにわたしも舞台の上で演技がしたいなって思ったの。みやこくんはそういうこと考えたことない?」


 死ぬまでにって、そんな大げさな……


「僕は、ないかな……無趣味だし、目標とか何も。つまらない人間だよね」

「そんなことないよ!目標がないならこれから見つければいいじゃん!生きてれば案外なんとかなるし、そのうち生きがいとか見つかるよ!」


 ネガティヴになっていた僕の軽い励ましだったのかもしれないけど、彼女の言葉はどこか説得力があって心の内側へ響いた。

 こんな夢見る女の子の夢を叶えてあげることができれば、僕も変わることができるのかもしれない。


「でもそうだねえ、まずは彼女とか作ってみたらいいんじゃない?ほら、美園ちゃんとか!」

「だから君はどうしていつもそっちの方向に話が進むの?」

「だってほら、美園ちゃんならみやこくんのこと支えてあげられそうだし!任せてあげられそう!」

「君は僕の保護者なの?」

「保護者じゃなくて友達!今日わたしが一緒にここへ来たのも、素直になれないみやこくんのキューピットになるためなんだよ?」


 この人はどうしても僕らをくっつけたいらしい。


「ほんとにお似合いだと思うけどなぁ」

「仮にお似合いだったとしても、美園が了承しないと付き合えないでしょ?」

「美園ちゃんなら了承してくれるでしょ!だってあの子、絶対みやこくんのこと……」


 ガチャっとドアノブをひねる音。タイミング悪く美園が戻ってきた。羽前は少々食い気味に迫っていたから僕は少し身を引いている。

 そんな僕らを見て、美園は不機嫌な表情を浮かべた。


「もしかして、お邪魔だった?」

「美園の思ってることほんとになにもないよ……」

「とかいって、二人きりになれる瞬間をずっと待ってたんじゃないの?最近仲良いし」

「ほんとにそんなことないってば……」


 羽前も黙ってないで否定してほしい。そう考えていたら、ゆっくり僕から離れて姿勢を正した。

 そして、いつもの笑顔を見せる。


「ほんとになにもないよ。みやこくんをからかって遊んでたの、だから美園ちゃんの考えてることはなにもなかったよ。みやこくんは、ただの友達」


 それが事実であるはずなのに、ハッキリとそう言われるとなぜか心にモヤモヤするものが残った。

 羽前は元の位置へ戻り、美園は僕の隣に座る。いつの間にか美園の機嫌も直っていて、先ほど持ってきたオレンジジュースにストローを刺してチビチビ飲んでいる。


「美園ちゃん!そのオレンジジュースどこにあったの?!」

「入ってきた時店員さんが説明してた。カウンターの隣にドリンクバーがある」

「そういえばそんなものがあったような……ちょっと行ってくるね!」


 気まずい雰囲気だったのに、せわしなく羽前は部屋の外へ出ていった。そういえばさっきなにか言いかけてたけど、なにが言いたかったんだろう。

 ふと美園を見ると、曲を転送するパッドを遠目に眺めていた。


「美園も歌ってみたいの?」

「べつに」

「今なら僕だけだし、一回だけでも歌ってみなよ」


 提案してみると、案外素直に曲を入れて歌い始めた。僕と羽前よりは上手かったから、もっとたくさん歌えばいいのに。

 一曲ぶん歌い終わった美園はもう満足したのか、マイクを置いて再びオレンジジュースに口を付ける。


「……京くんは、もっと私が羽前さんと仲良くした方が嬉しい?」

「嬉しいというか、仲良くなれると思うよ。もっと柔らかくなればいいのに」

「京くんが嬉しいかだけ聞いてるの」

「……仲良くなるのは結局のところは自分次第だけど、僕は仲良くしてくれた方が嬉しいかな」

「そう……」


 どうして改めてそんなことを聞いてきたのだろう。


「美園は、羽前のこと苦手?」

「べつに。嫌いとか、苦手とかじゃない」

「じゃあ、もっと仲良くしてみなよ」


 思いつめたように俯いて、だけど小さく頷いてくれた。

 しばらくすると羽前が戻ってくる。


「ほらみて!コーラが無料だよ!」

「いやいや、ドリンクバーはカラオケの料金の中に入ってるから無料じゃないよ……」

「え、そうなの?でもたくさん飲めば元取れるよね!」


 すると美園は珍しく心配そうな視線を向ける。


「コーラは身体に悪い。飲みすぎたらダメ」

「だいじょぶだいじょぶ!わたしコーラ好きだから!」


 なにが大丈夫なんだろうと思ったけど、美園も呆れたのかそれ以上はなにも言わなかった。


「でも心配してくれてありがとね!美園ちゃんに言われた通り、今日は一杯だけにしておく!」

「そのほうがいい」


 こっちは素直だった。

 やっぱりこの二人は仲良くなれると思う。


※※※※


 ほとんど歌わずに会話をしていただけだけど、そのおかげで羽前と美園の距離は近付いた気がする。具体的にどう近付いたかは上手く表現できないけど、相槌だけではなくしっかりと文章で言葉を返すようになっていた。

 二人からお金を貰って会計をしているとき、後ろでは楽しげに女の子同士の会話をしている。


「わたし少女漫画大好きなんだよね!こういうの憧れてたの!」

「京くんは少女漫画の主人公になれない。ただのモブ」

「そんなことないよ!みやこくんとってもいい人だよ?!」

「百歩譲っても、主人公の親友ポジション」

「あっ、確かにそれは言えてるかも」


 失礼な会話が聞こえてきた。

 でも、仲良くしてくれるなら僕が罵倒されても構わない。

 三人分のお金を払い終えて、僕は二人の元へ戻る。

 すると、二階へ上る階段の方から女の子二人の話し声が聞こえてきた。その二人は、ゆっくりとこちらへ降りてきているようだ。


「椿姫のやつ、いつも付き合い悪いよね」

「しょうがないよ、なにか理由があるんじゃない?ほら、訳ありそうだし」

「確かになんか隠してるっていうか……上手く説明できないけど」

「ゼッタイ彼氏とかいるよ。あたしたちに隠してるね。というか、なんで長岡なんかと仲良くしてるんだろね」


 その会話が羽前にも聞こえていたのか、明るかった表情を歪めてしまった。やがてその二人は僕らのいる階に降りてきて、バッタリと出くわしてしまう。

 美園はすぐに僕の後ろへと隠れてしまった。羽前は、崩した笑顔を元通りに取り繕っている。


「アカネとヒカリじゃん。こんなところで会うなんて奇遇だね!」


 まるで、今までの話は聞こえなかったかのような口ぶり。アカネとヒカリと呼ばれたクラスメイトは、聞かれていなかったことに安堵したのか安心した表情を浮かべている。額には少しだけ冷や汗が滲んでいた。


「もー、椿姫もカラオケ来てたならあたしたちも誘ってよ。あんたのお誘いなら絶対断らないのに」

「ごめんごめん、実は長岡くんと約束しちゃってたの!だから、また誘って!」

「長岡?」


 ようやく側にいた僕に気が付いたのか、女はやや睨みつけながら僕のことを見た。蛇に睨みつけられたみたいに僕は萎縮してしまう。


「そうそう!わたしから誘ったの!」

「椿姫から誘ったって……椿姫って長岡と仲良いけど、もしかして付き合ってんの?」

「やだなぁ、恋人とかそんなんじゃなくて友達だよ!友達!」


 二人は僕を見た。だけど羽前は視線を遮って僕の前に立つ。


「今日はほんとごめんね、この埋め合わせは絶対するから!じゃあまた明日学校でね!」


 そう一息でまくし立てて、僕と美園の手を握って外へ出た。唖然としたのは僕だけではないらしい。


「あれ、友達じゃないの?」

「ううん違うよ美園ちゃん。ただのクラスメイトだから」

「そう……」


 その声と言葉は、どこまでも冷たかった。

 夜の駅前は無数の光に照らされている。仕事帰りや学校帰りの人たちがみんな違う方向に喋りながら歩いていた。

 ちょうど向こうからの車のライトによって、羽前の一瞬の表情を見ることはできない。彼女が一体どのような表情をしていたのか、きっと美園にも分からなかったと思う。


「ほらほら元気出そうよ!そうだ!今から二次会とか行く!?」

「いや、さすがにもう遅いから帰らないと……」

「だよねー!じゃあ帰ろっか!」


 無理に場を盛り上げている羽前を見て、僕は不甲斐なく悲しい気持ちになった。たぶん先ほどのクラスメイトの会話を聞いていたんだろう。だから、僕に気を使ってくれているのかもしれない。

 それを指摘することもできずに、彼女は僕らの先をぐんぐん進んで行く。結局のところ、後をついていくことしか出来なかった。


※※※※


 美園が窓を叩いたから、僕はすぐに電話に出た。投げてくれた紙コップをキャッチする。

 ちょうど誰かと話したいと思っていたから、美園から誘ってくれて嬉しかった。


「今日はどうしたの?」

「……羽前さんのこと」


 僕と同じことを考えていたらしい。


「帰るとき、何か思いつめてるみたいだった」

「僕も、ちょっと気になってた」


 だけどその違和感の正体がなんなのか、僕にはわからない。


「無駄に元気だし」

「それはいつものことじゃないかなぁ……」

「いつもあんな風にしてたら、羽前さん大変だと思う」


 ああ見えて、美園は羽前のことをよく見ていたのかもしれない。

 二人して無言になり、どうして羽前があんな態度を取っていたのかを考えたが、しかし思い浮かばなかった。


「ちょっと気になってたんだけど、どうして美園は羽前と普通に話すようになったの?」

「私が羽前さんと普通に話したらダメなの?」

「いや、話してくれた方が嬉しいんだけどさ……」


 羽前としっかり話して、三人で遊んだ方がずっと楽しい。想像していた事が短い間だったけど偶然現実になった。

 嫌いあっているより、ずっとそっちの方がいいと思う。

 美園は俯きながらゴソゴソと何やら作業をしている。しばらくすると、ポケットに入れていた携帯が震えた。送信者は浦和美園。


「側にいるんだから、声に出そうよ……」

「いいから、メール見て」


 仕方なくメールを開いた。

 本文には『そっちの方が京くんは喜んでくれるから』と書かれていた。それを見て、僕のために無理強いさせてしまっているのかと思ったけど、どうやらそれだけではないらしい。

 今度はしっかりと、紙コップを通して声を出した。


「私が心を開いた方が、羽前さんが楽しくなるかと思って」


 美園が僕以外の人間に心を開こうとしているのは、もしかすると初めてのことかもしれない。


「うん、絶対その方がいいと思う! だから一緒に演劇を、」

「それはやらない」


 きっぱり即答だった。

 そう上手くはいかないらしい。


「美園が脚本書いてくれたら、もっと羽前は楽しめると思うよ?」

「それはそれ、これはこれ」

「実はもう申請用紙はもらってて……」

「くどい」


 これ以上は本当に怒りそうだったからさすがに自重した。

 女の子の心は複雑なのかもしれない。特に、浦和美園という少女の心は。


「正直私は、今でも演劇を手伝うべきじゃないって思ってるよ。安請け合いしたんじゃないってことはなんとなく伝わってるけど、今日の羽前さんと京くんを見て本当に不安になった。友達になるのは別にいいと思うけど、深く関わらない方がお互いのためになると思う。羽前さんはそこのところうまくやってるみたいだけど……」


 本当に珍しく長文で言葉を紡いだから、それが美園の本心なんだということがすぐにわかった。そしておそらく、クラスメイト二人と鉢合わせた時のことを言っているのだろう。

 僕と深く関わらない方が、もっとクラスメイトとも仲良くやっていける。それは僕が一番分かっている。それなのに、彼女を完全に拒絶出来ないでいる。僕自身が関わりたいと思っているからだ。

 彼女もそう思ってくれていると考えるのは自惚れだろうか。少なくとも、先のクラスメイトとは違って僕は友達だと思われている。

 そのきっかけが『恩を売っておけば後から得をすると思った』というものだったけど。


「どうしたの? 京くん」


 考え込んでいたら美園が僕の顔を遠目から覗き込んでいた。慌てていつも通りの表情を作る。


「ごめん、なんでもない」


 そう言うと、美園も先の僕と同じく顔を伏せ「突然こんなこと言ってごめんね」と謝った。


「ううん。すごく心配してくれてるんだって分かったから謝ることないよ。美園が言ったこと、頭に留めておくよ」

「そうして」


 それからお互いに何も喋ることをせず、窓と窓の間に嫌な沈黙が降りた。幼馴染と会話してこんな空気になったのは久しぶりのことだと思う。

 その沈黙が破れたのは、僕の携帯が震えた時だった。

 開いてメールを確認すると、送信者は浦和美園。

 内容は、


『もし何があったとしても、羽前さんのことを助けてあげてね。私、京くんのそういうところ大好きだから』


 大好きという言葉に心臓が跳ねて、そのメールの意味をすぐに確認したいと思った。だけど美園は糸電話を離して、そのままぴしゃりと窓を閉める。

 ぶらんぶらんと紙コップが揺れていて、窓の向こうで美園は小さく手を振った。


『おやすみ』


 小さな口がそう動く。

 僕も「おやすみ」と返した。

 次の日の美園は、いつもと変わらない普段通りの美園だった。


※※4※※


 この前はタイミング悪く風邪をひいてパフェを食べに行くことができなかったから、僕らはその埋め合わせとしてもう一度街へ赴いていた。美園は珍しく「今日はいい」と言ったからここにはいない。どうやら本屋を巡りたいらしい。

出来れば三人で行きたかったんだけど仕方ない。

 赤い縁メガネをかけた彼女は、クラスメイトには見せない笑顔を僕に見せてくれる。


「みやこくんと二人でお出かけするなんて初めてだね。まさに初体験!」

「その言い方いかがわしいからやめてよ。それに、ほぼ毎日放課後は図書室で顔合わせてるじゃん」

「それはそれ、これはこれだよー」

「……というか、何度か誘ったのに断ってきたの君だよね?」

「だってみやこくんにはすっごくお世話になってるし。みやこくんが手伝ってくれてなきゃ、たぶん絶対舞台に立てないよわたし。それに加えて一緒に遊びに行こうだなんて、ちょっと申し訳ない気持ちもあったから……」

「僕は基本的に暇だから。誘ってくれても嫌だとは思わないよ」

「そう?嬉しいなぁ」


 本当に嬉しそうに微笑む。僕は何度かその笑顔を見てきて、最近別の感情を抱き始めていることに気付いた。

別の感情、というとうまく説明はできないんだけど。

 この前出かけた時と同じく、駅前は帰宅する学生と社会人によって混み合っている。僕らもその中に紛れ目的地に向かう。


「わたし抹茶のパフェが食べたいんだけど、みやこくんはなんのパフェが食べたい?」

「いちごパフェかな。前に美園から食べさせてもらったけど、抹茶パフェはちょっと苦かったから。それにもともといちごは好きだし」

「へぇ、甘党なんだね。わたしも甘いものが好きだけど、苦いものも好きなかぁ。辛いのも好きだけど!」

「結局全部好きなんだね。僕は辛いものも苦手だよ」


 あの舌がヒリヒリする感触が耐えられない。世の中には辛さの限界に挑戦している人がいるらしいけど、たぶん僕には一生縁のない世界だと思う。


「好き嫌いはしたらダメだよ?全部食べなきゃ」

「さすがに出されたものは全部食べてるよ。嫌いっていうより、苦手なだけだから」


 給食や親から出された料理は一度も残したことがない。どれだけ時間がかかっても全部食べるし、むしろ残している人を見ると嫌な気分になってしまう。

 街を歩きながら彼女は周囲をぐるぐる見回していて、正直危なっかしかった。通行人にぶつかりそうになるし、段差につまずいたりしている。僕はなるべく彼女の歩幅に合わせて、危なくないように車道側を歩いた。

 今度は行列を作っているクレープ屋に目が止まったらしい。


「やっぱり人気店だとこの時間帯は混み合ってるのかな?」

「そうかもしれないね。前行った時はすごい人が並んでたから」

「へぇー並んだの?」

「ううん。美園は並ぶの嫌いだから、ファミレスでパフェを食べたよ」


 クスッと笑って「美園ちゃんらしいね」と言った。最近羽前と美園との距離が近付いたように思える。これも具体的には言い表せないんだけど、とにかく美園からの生返事が減ったのだ。

 普段の美園を知ってる僕から見ればすごい進歩だと思う。

 やがて目的の専門店へとたどり着き、当初の予想通りその店には大量の学生が並んでいた。それも八割がカップル。僕は少し、恥ずかしい気持ちになる。


「どうしよっか、並んで待つ?並んだら日が暮れちゃいそうだけど」

「じゃあラーメン食べに行こっか!」

「……は?」


 このファンシーな店とは不釣り合いな単語を飛び出させた彼女は、すごくご機嫌な表情をしていた。こういう突拍子もない提案を彼女はよくする。


「もしかして、みやこくんラーメン知らない?」

「いや、知ってるけど……パフェ食べたいんじゃないの?」

「みやこくんと出かけられたら、わたしはどこでもいいかなぁ。いやどこでもいいってわけじゃないんだけどね。わたし実はラーメン食べたことあんまりないの」


 それが彼女の望みなら、ラーメンを食べに行ってもいいんだけど。でも、学校帰りのセーラー服を着た女の子がラーメン屋に入るのはさすがにアウェーだと思う。彼女が行きたいというなら止める権利はないんだけど。


「行きたい行きたい!みやこくんと行きたいの!」

「わかったわかったから、袖を掴むのはやめて」

「やったー!じゃあ混み合わないうちに行こっか!」


 僕らは進路を変えて駅前から離れる。ちょうど事前にラーメン屋を調べていたらしく、そちらへ向かうことになった。

 そこは味噌ラーメンで有名な店で、先のパフェ専門店ほどとは言わないまでも数人が列を作っていた。見た感じカップルなんて一人もいなくて完全に浮いてしまっている。いや、僕らはそもそもカップルじゃないんだけども。

 お店の外装は列を形成していなければ見落としてしまいそうなぐらいこじんまりとしていて、とても人気があるお店には見えなかった。もしかすると、こういうお店が案外穴場だったりするのかもしれない。


「こっちも列作ってるけど大丈夫?」

「これぐらいなら大丈夫だから待つよ!」

「じゃあ並ぼっか」


 これぐらいの人数なら二、三十分待てば中に入れるだろう。


「待ってる間、楽しい楽しいお話でもしよっか」

「僕そんなに話題振るの得意じゃないんだけど」

「んー、じゃあわたしから話振るね。美園ちゃんに告白する意思は固まった?」


 またか、と呆れる。


「意思も何もそんなこと全然考えてないし。というか、最近ちょっとおせっかいが過ぎると思うよ?」

「考えようよーみやこくん、そろそろ美園ちゃんに対して素直になってもいいんじゃない?」

「だから、僕は素直だってば……」


 顔を合わせれば毎回こんな会話をしている気がするのは気のせいだろうか。


「じゃあ仮に、このまま美園ちゃんが彼氏を作らずにずっと一人だったらみやこくんはどうするの?」

「そんな遠い未来のことを言われてもなぁ……」

「遠くないよ。だって、大学に行かなきゃすぐに社会に出るじゃん。みやこくんは大学に行くかもしれないけど、美園ちゃんは就職するかもよ?これはたとえばの話なんだけど、一人じゃなくても美園ちゃんが他の誰かに取られちゃったら複雑な気持ちにならない?」


 僕は少し考えた。

 たとえば美園が僕以外の誰かと付き合ったとして、それを祝福することができるだろうか。答えは深く考えるまでもなく、すぐに出た。


「ちょっと複雑、かな……」


 告白もするつもりがないのに、美園を誰かに取られるのが複雑だなんて。僕は自分で思っているよりも酷い人間なのかもしれない。幼馴染の幸せを祈ってあげられないなんて。


「複雑ってことは、みやこくんは少なからず美園ちゃんのことを想ってるってことだよ。失ってから気付いたんじゃ遅いと思う。少しでも可能性があるならすぐに行動に移さなきゃ」

「こんな中途半端な気持ちを美園に伝えるのは失礼だと思うんだけど……」

「はぁ……これは重症だなぁ……」


 なぜか手の平をおでこに当てて呆れられた。彼女の目には僕の心の中が見えているのだろうか。仮に見えているのだとして、内側はどのように映っているのだろう。


「今までそばにいすぎたから、近すぎて気づかないのかなぁ。美園ちゃんがかわいそう」

「そこでなんで美園の名前が出てくるのさ」

「あぁ、かわいそうだなぁ……」


 今度は哀れみの目線。


「美園ちゃんが演劇を手伝ってくれない理由、もしかしてみやこくんは理解出来てないの?」

「いやわかんないけど。羽前は分かってるの?」

「そりゃあなんとなくね。予想みたいなものだけど、たぶん合ってるよ」

「なにそれ。教えてよ」

「やだ」


 ぷいっと顔を反らしながら即答した。

 知ってるなら教えてくれてもいいのに。


「わたしが思ってる理由なら、ほんとはこういう場所にわたしがいたらダメなんだけどなぁ……」と、彼女は小さくそんなことを呟いた。


「それ、どういう意味?」

「あっ、聞かれてた?ダメだなぁそういうとこは聞きながさないと」

「それは口に出した君が悪いと思うよ」

「そう?じゃあ聞かなかったことにしておいて!」


 そんな意味深なことを呟かれて、今さら聞かなかったことになんてできない。追求してあげようかと思ったけど、彼女はすぐに「それにしても勉強大変だねー難しくなってきたからわたし点数取れるか心配になってきたよ!」と話を変えてきた。蒸し返すのも悪いと思ったから、素直に話を変えてあげる。


「僕は全然心配ないけどね。だけど君は頑張らないと。最近演劇の練習もしてるんでしょ?」

「そうそう。両立って大変だよねー舞台に立って無様な演技も見せられないし」


 前に彼女が言っていたけど、合間を見て軽く演劇の練習をしているらしい。といっても脚本を担当してくれる人が未だ不在だから、演劇で有名な物語を図書室で借りて発声練習するというものだけど。

 一度だけ放課後に見せてもらったことがあるけど、その演技を見て本当に演劇部に入っていたんじゃないかと疑った。普段の彼女とは印象が全く違っていたから。

 本人は部活に入ったことはないと言っていたし、たぶん天性の才能のようなものだろう。


「最近思ってきたんだけど、みやこくんと二人で演劇するのもいいかなぁって考えてるの」

「えっ、嫌だよそんなの」

「さすがに直球すぎない?!さすがのわたしでも傷つくなぁ……友達だと思ってたのに……」

「いや、そうじゃなくて。羽前と演劇をするのが嫌なんじゃなくて、人前に立つのが嫌なんだよ」

「そんなの、舞台に立っちゃえば緊張なんて吹き飛んじゃわない?舞台立ったことないからわかんないけど。わたし結構あがり症だけど、大丈夫だっていう自信あるなぁ」


 クラスで小さなレポートを発表する時でさえ僕は足が震えてしまうのに、何百人も一堂に会する体育館の舞台に立つなんて、考えたただけでも頭が痛くなってくる。


「やりたいなぁ、みやこくんとの演劇」

「僕は流されるタイプだけど、それだけは絶対やらないよ。死んでもやらない」

「おいおい死んじゃったらそもそも演劇出来ないじゃねーかっ」

「……ただの比喩だよ。ツッコミしないで」


 これだけは美園と同じくハッキリと明言しておかなきゃいけない。期待させておくと、いざ本当にやらないということになれば落ち込ませてしまいそうだから。

 それからも二人でわいのわいのと盛り上がっていると、いつの間にか最前列に着いていた。結局中に入るまでに日が落ち始めたけど仕方ない。

 ガタイの良いお兄さん方二人が店を出たのを見て、僕らは中へ入った。

 店内も外装と同じくこじんまりとしていて、十人が座れるカウンター席しか用意されていない。羽前みたいなセーラー服を着ている女子高生なんて一人もいなくて、お客含め店主までもが彼女を二度見していた。それは彼女が可愛いという理由も多分に含まれるだろうけど。

僕らは席に着いた。


「へい店長!味噌ラーメンヤサイマシマシニンニクマシマシアブラで!」

「なにその呪文。ここはそういう店じゃないよ、恥ずかしいからやめて」

「たはは、一度言ってみたかったの!」


 麺を啜っていた客も、ラーメンを作っていた店主もクスリと笑った。少し閉鎖的な雰囲気が漂っていたけど、彼女の冗談で一気に和やかなムードになる。


「そういう注文は出来ないけど、嬢ちゃんは可愛いからチャーシューを一枚サービスしとくよ!」

「わーい!ありがとうございます!」


 出てきたラーメンには彼女のぶんだけでなく、僕のぶんにもチャーシューがおまけされていた。アゴヒゲの生えた店主はニカっと笑い、秘密だよと人差し指を立てる。

 僕は小さく頭を下げた。


「美味しそー!ほらほら、こんなに油入ってる食べ物わたし初めて食べるよ!」

「ほんとに恥ずかしいからもうちょっと声抑えて……他のお客にも迷惑だから……」

「あっ、ごめん」


 素直に謝ったけど、可愛らしく舌をペロッと出していた。ほんとに悪いと思っているのかわからない。だけど他のお客さんは誰一人邪険な表情をしていないから、僕はもう諦めた。


「ラーメンってズズーって吸うんでしょ?ズズーって。みやこくんもそれできるの?」

「出来るけどやらないよ」

「どうして?他の人みんなやってるよ?」

「中学一年の頃だったかな、美園が家に遊びに来た時に母さんがカップ麺を用意してくれたんだよ。それで僕の部屋で食べたんだけど、その時にズズって啜ったら美園に嫌な顔されてそれ以来音を出さないようにしてる」

「へぇー、また一つみやこくんと美園ちゃんのラブラブエピソードを聞いてしまった椿姫ちゃんなのでした!いやぁのろけるねぇ、火照っちゃうなぁ」

「また風邪でも引いたんじゃない?」


 適当に流して、僕は音を立てずにラーメンをすすった。濃いめの味噌の味が効いていて、口の中に油っぽさが広がる。

 彼女は出来もしないのに麺を啜っていて、細めた口の端からはチューチューという可愛らしい音が響いていた。さすがに恥ずかしくなったのか顔を赤く染めて、ついでにメガネも曇っていたから僕は自然にクスッと笑う。


「あ、みやこくん笑ったね?酷いなぁ」

「ごめんごめん、必死なのがちょっと面白くて。あと、メガネ曇ってる」


 こういうときメガネは不便だなぁと感じる。彼女は丁寧にメガネを外して机の上へ置いた。メガネを外した羽前もやっぱりかわいい。

 すこし、頬が染まってるし。


「ま、まあ、みやこくんが久しぶりに笑ったからよしとしましょう」


 でも笑われたのが本気で恥ずかしかったのか、それからは音を立てずに麺を食べていた。それはそれで面白くてクスッと笑ったけど、どうやら彼女には気付かれなかったらしい。


 ラーメン屋を出た頃にはもう街灯が点いていて、日は完全に落ちていた。この店は裏通りに面しているから、辺りは少し薄暗い。

 さすがに彼女も人通りの少ない裏通りは怖いのか身体を萎縮させ、僕のそばを子猫みたいに着いてきた。僕は少しでも彼女を安心させたくて、無意識的にその手を握る。


「あっ……」


 小さな吐息とも似つかないその言葉を漏らした彼女は、だけどそれきり何も喋らず黙ったままでいてくれた。

 ガラの悪い人に絡まれるのも嫌だったから、すぐに人通りのある表通りに移動する。それは恥ずかしさもあったけど、手を離した瞬間は少しだけ名残惜しいと感じた。

 頬を染めた彼女は一歩離れたあとに再び僕を見た。


「ありがと……」

「ご、ごめん。勝手に手繋いだりして」

「ううん、気にしないで。嬉しかったから……」


 そんな短いやり取りの後、僕らはバス停へ歩き出した。どこかぎこちなくて、今までは歩幅が合っていたはずなのに、それもお互いに乱れていた。

 それでも必死に歩を進め、僕らはバス停でバスが来るのを待っている。ここは駅から近いため本数も多く、周りに人もたくさんいるから変な人に絡まれる心配も少ない。最悪叫べば誰かが助けてくれるだろう。

 萎縮していた彼女は僕の隣でほっと胸をなでおろしていた。だけどぎこちなさは残っている。


「やっぱり裏道は怖いね。道角からお化けとか出てきそうだし」

「お化けより呼び込みとかそういうのに気をつけたほうがいいと思う。ちゃんと断らなきゃ怪しい店に連れてかれるよ」

「そこはまあ、みやこくんになんとかしてもらうから」


 最初からそのつもりだったけど、改まって頼られると嬉しい気持ちになる。


「でもたまに頼りないところがあるから、そこは不安かも」

「君は本当に一言余計だね」

「たまにだから大丈夫だよ。さっきは本当に嬉しかったから。それに、みやこくんはクラスで一番信頼してるよ」

「そう……」

「嬉しい?」

「べつに……」


 生返事っぽくなったけど、彼女は嫌な顔をしなかった。むしろ笑顔になっている。


「わたし、みやこくんのこと少しわかってきたかも」

「いきなりどうしたの?」

「みやこくんって素直な好意を向けられたこと、あんまりないでしょ?」


 少し考えて、確かに僕は今までそういうことがなかったことに気づいた。僕の表情の変化を読み取ったのか、彼女は話を進める。


「わたしが君のことを褒めたりした時、ほとんど必ず生返事っぽくなってる。実はちょっと恥ずかしいって思って、でも嬉しくって、そのモヤモヤした気持ちのやり場に困ってるんだと思う。当たってるでしょ?」


 当たっているかどうかなんてわからない。そんなこと今まで考えたこともなかったし、考えてくれる人もいなかった。与えてくれる人も身近な美園しかいなかったから。

 なおも黙っていたけど、彼女は優しい微笑みを向けてくれた。


「君はもっと自分に自信を持ちなよ。そうすれば、たぶん今よりもっと魅力的になるから」


 生返事も相槌も返せない。おそらく初めて幼馴染以外の人に心の内側を見通されてしまった。それがたとえば事実じゃなかったとしても、彼女は僕のことをそう思ってくれているんだ。

 自分のわからないことを、彼女は僕以上に知っている。そのメガネの向こうにある綺麗な瞳は、いったい僕のことをどう捉えているのだろう。

 遠くからバスがやってくる。彼女はそれに気付き向こうを見た。僕は別の視線に気付き、反対側を見る。

 見たことのある女の子だった。たぶんクラスメイトで、僕らを怪訝そうな顔で見つめている。

 いや、僕らではない。その視線は他ならぬ彼女のことを見つめていた。


「バス来たよーみやこくん!」

「あ、うん……」

「どうしたの?」

「ううん、なんでもない……」


 見られていたことは彼女に伝えなかった。彼女も二人の視線に気づいていなかったから。

 バスに乗って帰路に着く。住んでいるアパートまで送って、僕はまっすぐに家へと帰った。

 嫌な予感は僕の心の内側をざわざわと動き回っていて、ずっと消えてくれることはなかった。


××5××


 六月になった。

 文化祭まであと一ヶ月ほどだというこの時期に、僕らの演劇はまだ脚本を担当する人が決まっていない。そろそろ本気で決めないと、演劇をすること自体が出来なくなってしまう。


 ギリギリまで待てば美園が折れてくれるかと期待していたけど、それは淡い期待だった。美園は未だ「私はやらない」と一点張り。美園の脚本で、羽前が演じる。それを夢見ていたけど、そろそろその自分勝手な夢も諦めなければいけない。


 だけど諦めたくなかった。


 それは僕だけの夢ではなくなっているから。何度か彼女が「美園ちゃんに脚本を書いて欲しい」と口にしているのを聞いていたから。もう僕だけの夢じゃなくて、二人の夢なのだ。その夢の中に、美園も入ってほしい。


 終礼が終わっても、僕は椅子に座ったまま思案に暮れていた。どうすれば美園が脚本を書いてくれるのか。そもそもどうして美園が脚本を書いてくれないのか。


 どれだけ考えても、その答えは出なかった。


「おい長岡」

「へ?」


 いつの間にか二人のクラスメイトが僕のことを見下ろしていた。たしか、アカネとヒカリという名前だったと思う。前にカラオケで彼女がそう言っていた。

 一切悪びれる風もなく、女は口を開いた。


「悪い、今日も放課後の掃除頼むわ。私たち忙しいし」


 これで何度目だろう。羽前に怒られた日から、僕は何度も放課後の掃除を変わっている。幸い彼女との予定が被っていなかったから引き受けていたけど、今日は作戦会議という名目の話し合いがあるから頷くことはできなかった。


 『そういう時は断らなきゃ。わたしとの約束があったでしょ?』


 彼女の言葉を思い出す。たぶん、僕はそれを初めて口にした。


「ごめん、今日は羽前と用事があるんだよ。だから掃除はできない」

「は?」


 その返しが予想外だったのか、女は軽く目を丸めている。僕だって自分自身に驚いている。


 辺りを見渡して、まだ羽前がトイレから帰ってきていないのを確認した二人はもう一度僕を見た。


「まあ頼むわ。私たち帰るから」

「ちょ、ちょっと待ってよ!」


 僕の言葉を一つも聞かない二人は、無視して廊下の方へ歩いていった。立ち上がったけど、追いかけるほどの勇気はない。

 

 結局僕は彼女との約束を破ることになる。子どもの頃から何も変わらず、僕は……


「ごっめーん! みやこくん待った?いやぁ戻ってくるときに先輩に捕まっちゃって遅れたの!」


 タイミングが悪いのがいいのか、二人の向かっていた側のドアを彼女が開けて元気に現状報告した。おちゃらけていたけど、立ち上がっている僕と今廊下へ向かおうとしていた二人を見て、すぐに表情を引き締める。


 見つかってしまった二人が、軽く舌打ちしたのが聞こえた。たぶん、羽前にも聞こえている。


「あっれー、アカネとヒカリ今日は掃除当番じゃなかった?」


 どう返答しようか迷っていたようだったけど、結局は友人に見せる笑顔を無理に張り付けていた。


「悪い、忘れてたわ……」

「だよねー、じゃあまだ時間あるし、わたしも手伝ってあげるよ」

「いや、椿姫が手伝ってくれなくても……」

「いいからいいから、わたしたちクラスメイトでしょ?」


 友達だとは言わなかった。彼女は強引にも話をまとめて箒と塵取りを手にする。呆然としていた僕は、立ったまま動けずにいた。


 そんな僕を見て、彼女は友達に見せる笑顔を向けた。


「ごめんねみやこくん。すぐに終わらせるから、先に図書室行ってて」

「あ、うん……」


 また、助けられてしまった。本来なら男である僕がしっかりしなきゃいけないのに。


 掃除をすることになったアカネとヒカリは僕のことを睨みつけてきて、それにひるんでしまい慌てて荷物をカバンにまとめる。そこで筆箱がなくなっているのに気付いた。これも、もう何度目かの出来事だ。


 たしか三回目だったから、なくなっても痛手にならないように安いもので揃えている。


 僕は、彼女を置いて一人で図書室へと向かった。


※※※※


「もー! みやこくんはわたしとの約束があるって言ったでしょ?」


 いつもの図書室で、彼女は頬を膨らませながら怒っていた。でも本気で怒っているわけじゃなくて、スキンシップのようなもの。


「一回は断ったんだよ……だけど聞いてくれなくて……」

「それはあの二人が悪い!」


 手のひらクルクルだった。


「だいたい、掃除は決められた当番の人がやらなきゃいけないのにね!」

「羽前は大丈夫だった?僕が図書室向かった後……」

「あぁ、全然大丈夫だったよ。だって、あの人たちには友達だって思われてるし。さすがに友達に手を出したりしないでしょ?」

「そうだけど……」

「でも、みやこくんに酷いことしないでってキツく言っておいたよ! 頷いてたから今度は大丈夫だと思う!」


 不甲斐ない。僕は男のはずなのに、女の子であるはずの羽前に助けられている。不甲斐なくて、恥ずかしかった。


「みやこくん、男として恥ずかしいって思ってる?」


 いつの間にか俯いていた僕を、彼女は少し下から覗き込んでいた。


「心の中を読まないでよ……」

「これはみやこくんが悪いよ? だってすぐに顔にでるし、わかりやすすぎ」


 そんなにも僕はわかりやすいのだろうか。美園にも言われた経験があるけど。

 考え込んでいると、彼女は仕切り直しだと言わんばかりに一度手を叩く。


「はいはい落ち込んでちゃダメだよ! もう文化祭まで一ヶ月ほどしかないんだから! 脚本を決めなきゃ!」

「そうだね……」

「やっぱりわたし的には美園ちゃんを推したいんだけど、本人はまだ?」

「やらないの一点張りだよ。さすがに嫌われてるんじゃないかって思ってきたところ」

「美園ちゃんがみやこくんのことを嫌いになるわけないじゃーん。それはネガティヴになりすぎ!」


 どこからその自信に満ちた言葉が出てくるのかはわからないけど、彼女の言葉はやはり説得力がある。でも、さすがに美園に何回もお願いを続ければ嫌われるもしれない。


「そうだなぁ。最悪既存のお話を演技するっていうのも考えておいたほうがいいかも。わたしは最後まで諦める気はないんだけど、みやこくんにこんなに手伝ってもらって演劇が出来ないっていうのはさすがに避けたいから」


 そんなに僕が手伝っているようには感じないけど、そう思ってくれているならネガティヴなことは言わない。


「劇で使う衣装は? といっても、何するかまだ決まってないけど」

「そこは大丈夫だよ! 演劇部に入ってるクラスメイトにお願いして、文化祭で使わない衣装は貸してもらえることになったから!」

「それってほんとに僕がやることなくなったじゃん……」

「前にも言ったでしょ? 打たれ弱いわたしを支えて欲しいって。みやこくんはちゃんと役目を果たせてるよ!」

「そう……」


 ほんとに支えになっているのか疑問だけど、何か役に立てることがあれば手伝いたいとは思っている。だからそのために、たまに勉強を教えたりもしていた。 

 彼女は家で一人で勉強するから、教えるところなんてあんまりないんだけど。


「さーて、そろそろ大事な期末試験だから勉強しなきゃね! みやこくんわからないところある?」

「僕は特にないけど、強いていうなら英語かな」

「英語かぁ。予習復習バッチリだからなんでも教えてあげるよ!」


 そう言った彼女の目の下には、やはり薄くクマが出来ている。何度も夜更かしはダメだと言ってるのに。僕は小さくため息をついた。


「実はすごく眠いんでしょ? 最近、授業中も寝てること多くなったし」

「授業中もわたしのこと見てるんだぁ、もしかしてわたしのこと好きになったの?」


 即答できなかった自分がどこかもどかしかった。不自然な間が空いたあと、口を開く。


「そんなんじゃなくて……席替えで僕の方が後ろの席になったから、君が寝てるのよく見えるんだよ。君の体調が心配だから、夜はよく寝て、分からないところは僕が放課後に教えるっていうのはダメなの?」

「ダメだよーみやこくんに迷惑かけられないし」

「迷惑だなんて思ったこと、一度もないよ」

「みやこくんがそう言っても、わたしが迷惑かけてるなって思っちゃうの。ほら、それにわたし誰かに尽くしたいタイプだし!」


 やはり、どれだけ注意しても聞いてはくれない。僕が信頼されていないからではなく、僕が信頼されているから折れてくれないのだろうか。信頼されているからこそ、迷惑をかけたくない。それは僕も感じていることだから。


「じゃあせめて、放課後は図書室でちゃんと寝てよ。僕は勉強してるから」

「それじゃあわたしが勉強してる意味ないよー!」

「勉強してる意味ならちゃんとあるじゃん。夜更かしのおかげで、テストはちゃんと点数取れてるし」

「そうじゃなくて! わたしはみやこくんに勉強を教えたくて……」


 おそらく聞かれたくなかった言葉なんだろう。口を滑らせてしまった彼女は、出しかけた言葉を両手で塞いだ。

 僕に勉強を教えるために、勉強を頑張っている。その意味が僕には分からなかった。


「……ごめん。これ決して君のことをバカにしてるわけじゃないんだけど、君に教えてもらわなくても僕は点数取れるよ。そりゃあ、分からないところを教えてくれれば点数は高くなるし、平均もだんだん高くなってる。だけど今回の目標は僕の点数を上げるんじゃなくて……」

「やだなぁ、言葉のあやだよみやこくん。ほらほら尽くしたいってさっき言ったでしょ? みやこくんのためになることならなんでもしたいの!」


 僕のためにはなっているけど、それは本当の意味ではない。彼女にはおそらく、僕の言いたいことが届いていないんだ。


 今までハッキリとした態度を取ってこなかったから。


 それならちゃんと分かって欲しい。今まで本音で話すことをせずに、流されるままに生きてきた僕だけど、彼女には本心をわかってほしかった。


 そんな僕に、彼女は踏み込んでくれたんだから……


「僕のためだって言うなら、まずは生活リズムを整えてよ。勉強が出来たり、勉強を教えてくれたり、料理が出来たり、笑顔な君も好きだけど、健康でいるほうが僕にとって一番大事だし、君にとっても大事なことなんだから」


 一息で言ってしまった。だけど恥ずかしいなんてことはなく、むしろ心の中が軽くなった感じがする。


 もしかすると、ずっと溜め込んでいたのかもしれない。それを彼女にぶつけてしまうのは身勝手なことかもしれないけど、少なくとも僕自身が彼女のことをそう思っているということは確かだ。

彼女は困ったように頬をかいた。


「や、やだなぁわたしのことが好きって。愛の告白じゃないんだからさぁ……」

「ご、ごめん。言葉のあやで……」

「そっかぁ、勘違いか……そうだよね……」


 儚げに笑った彼女は、どこか寂しそうだった。


「そうだよね、うん……みやこくんが心配してくれるなら、わたしも健康には気を使わなきゃねっ。元気だけがわたしの取り柄だし、元気じゃないと演劇もできなくなるし!」


 その寂しさを引っ込める。初めて、彼女が僕の前で元気を装った。それが無理に作られた笑顔なんだと知った。


 もしかすると、彼女は僕が見ている姿とは反対の人間なのかもしれない。能天気なんかじゃなく、頭でしっかりと考えていて、打たれ弱くて……


 初めてお弁当を食べさせてもらった時もそうだった。僕が感想を話すまでずっと不安げな表情を浮かべていた。

 あれからたまに、新しく料理を覚えたと言って僕に食べさせてくれるようになったけど、僕が感想を話すまではいつもの笑顔を浮かべることは出来ていなかった。

 カラオケ店でクラスメイトと遭遇した時は、表情は見えなかったけど、もしかすると似たような顔を浮かべていたのかもしれない。

 メガネを褒めた時は、彼女は珍しく頬を赤らめ恥じらいを見せた。一瞬だけ覗かせた彼女の素の表情。似合っていると言った後は、たまにメガネをかけてくるようになった。


 思い返してみれば数自体は少ないけど、僕が褒めた時は本当の素顔を見せていたのかもしれない。勉強が出来ることを褒めた時も、頑張れば歌も上手くなると褒めた時も。

 ようやく僕はそれに気づいた。

 気付いてしまった僕は、その言葉を口にしていた。


「……君はもっと自分に自信を持ちなよ。そうすれば、たぶん今よりもっと魅力的になるから」


 今日の僕は少しおしゃべりなのかもしれない。僕も彼女もちょっとずつおかしい。

 こんなにも本心を話したのは初めてだし、こんなにも素の表情を見せた彼女も初めてだ。

 僕の言葉を聞いた彼女は目を丸める。そして何かで押さえつけていたものが決壊したのか、そのまま大粒の涙を流し始めた。


「ご、ごめん! 何か気に触るようなこと言ったかな……?」

「なんでもないの……ただ、ちょっと、ね……嬉し涙だからっ……」


 ポケットからハンカチを取り出し彼女に渡す。コンタクトを外して、溢れてくる涙を必死に拭こうとしていた。だけどそれを止めることは出来ない。


「ごめんみやこくん、今日だけ、今日だけだから……」

「うん……」


 それからしばらくの間、彼女は泣き続けた。心配して司書の先生が見にきてくれたけど、それでも泣き続けるのをやめなかった。


 彼女は嬉し涙だと言ったけど、それだけではない気がする。もっとどうしようもない何かを彼女は背負っていて、それに耐えられなくなって涙が溢れた。僕にはそんな風に感じた。


 僕は彼女に泣き止んでほしくて、手を握って優しい言葉をかけ続けた。


 結局泣き止んだのは、彼女が疲れて眠ってしまったから。突然糸が切れたように突っ伏して、それからは下校時刻ギリギリまで眠り続けた。その間、僕の手を握ったままだった。


※※※※


 コンタクトを外した彼女は代わりにメガネをかけた。普段身につけていないものをつけるのは、やっぱり新鮮味があってよく映える。


 この前と同じく似合っていると褒めたかったけど、また取り乱したりするかもしれないからやめておいた。もっと素の表情を見たいけど、あんなに泣いた後だからきっと疲れているだろう。


 暗くなった路地を二人で歩く。いつもなら元気に話しかけてくるのに、今は美園みたいに口数が少なかった。


「ごめん、今日は取り乱したりしちゃって……」

「今日の君、謝ってばかりじゃない? 僕は気にしてないよ」

「だけど、迷惑かけたから」


 だから、迷惑だなんて一度も思ったことない。それを図書室で彼女に伝えたから、二度も言わないことにした。きっと、たぶんわかってくれている。


「やだなぁ。いつもわたしがリードしてあげてるのに、今日はほんとにダメダメだな……」

「そういう日もあるよ。誰だって、生きてれば疲れたりするんだから」

「みやこくんはそう言うけど、わたしは弱いところなんて見せたくなかったのっ」


 僕としては隠さないでいてほしい。ずっと隠したままだったら、一番大事な時に気付いてあげられないかもしれないから。

 またしばらく歩くと、電柱のそばに自販機が見えた。喉も渇いたし、何かおごるよと言ってそこに近付く。隣を見ると、自販機の明かりがメガネのレンズに反射していた。


「何飲む? いつものコーラ?」

「んー、健康でいてほしいって言ってくれたから、今日はやめとこうかな」

「身体に悪いって自覚してたんだね」

「そりゃあね。でも身体に悪いって分かってても、自由に生きたいなって思ってたの。ほら、わたしインドアだったから。こんな感じに誰かと歩いたことなかったし、外に遊びに行くこともなかったから」


 高校デビューというやつだろうか。少し前の彼女なら部屋に引きこもってるところなんて想像出来なかったけど、今の彼女ならそれが容易に想像出来る。

 彼女は美園と同じで、普段はベッドの上で本を読んでいそうだ。


「僕がこういうこと言うのはムカつくかもしれないけど、やっぱり健康管理はちゃんとしなきゃね。好きに生きて病気にでもなったりしたら、それこそ何も出来なくなっちゃうし」

「そう、だね……何事もほどほどが一番だもんね! じゃあ今日は、ヘーイお茶にしようかなぁ」


 どこか歯切れが悪かったけどその要望を聞いて、二人ぶんのお茶を買った。片方を彼女へ手渡す。


「いつもありがとね。そろそろ、わたしも何かお礼しなきゃ」

「お礼ならもらってるよ。たまに勉強教えてくれたり、毎日お弁当のおかず食べさせてくれてるし」

「それは恒例行事みたいなものだから、他に何かしてあげたいの」


 たしかに恒例行事になっている。今日はいいと言っても弁当のおかずを無理やり食べさせてくるし。


 そしてそれが分かっているから、僕もお昼ご飯は少なめに用意して、彼女は多めにお昼を用意している。


「もっと他にないかな? わたしに出来ること」

「そうだなぁ……」


 少し考えて、僕はいいことを思いついた。表情の変化を読み取ったのか、彼女は少し期待した眼差しを向けてくる。


「明日だけでいいから、僕のお弁当作ってきてよ」

「お弁当?」


 予想外だったのか、彼女は少し目を丸める。


「わたしなんかのお弁当でいいの?」

「わたしなんか、じゃないよ。僕、君の作るおかずが好きだから。どうせなら一度だけ、全部君の作った手料理が食べたいなって思って」

「手料理かぁ……」


 その提案をして、僕はとても恥ずかしいことを言ってしまったと思った。女の子にお弁当を作ってもらうなんて、まるで恋人同士みたいだ。


 それに、そんなこと美園にもやってもらったことがない。いや、そもそも美園は料理なんてできないんだけども。


 しばらくお茶を開けずに思案して、ようやく彼女は僕を見た。


「いいよ! みやこくんの分も、わたしが作ってあげる」

「ほんとにいいの? 提案しといて今更なんだけど、もし負担とかかかるなら……」

「ほんとにいいよ。どうせいつも多めに作ってるから、一人分増えてもそんなに支障はないと思うし」


 それならと思い、僕は彼女に甘えることにした。明日は手料理が食べられる。そう考えただけで、憂鬱だった学校に楽しみが出来る。

 彼女はお茶の蓋を開けて、口をつけた。


「あっ、このお茶おいしいね。もしかしたら当たりかも!」

「当たり外れなんてないと思うけど……」

「わかってないなぁみやこくんは。こういうのは気の持ちようだよ?」


 少し元気になったみたいで、僕は安心した。


※※※※


 新しい筆箱を用意しておいたのに、次の日には教科書がなくなっていた。持ち帰らずに机の中に入れておいた僕が悪いんだけど、こう何度もなくなると不注意とかそんなレベルじゃなくなってくる。

たぶん僕に悪意の矛先が向けられているのだ。


 誰にそれが向けられているのかは分からない。断定することなんて出来ないし、もしそれが間違っていたとしたらその人を傷つけることになる。


 高校生にもなって、どうしてこんなくだらないことをするのかと思った。だけどこんなことは年代を問わずに多かれ少なかれ起きていることなのかもしれない。諦めにも似たような心を抱いていたけど、ちょっとだけ小学生の頃を思い出して憂鬱な気持ちになる。


 彼女に時折数学を教えてもらっていたから解けたはずなのに、教科書がなかったから教師から当てられた問題に答えることができなかった。


 もちろん彼女は後ろの僕を見て怪訝そうな表情を浮かべる。僕は視線をそらした。


 遠くからは静かな笑い声。誰がそれを発しているのか、僕には分からない。


 お昼は二人ぶんのお弁当を彼女が持ってきた。


 それが嬉しいことのはずなのに、素直に喜ぶことができなかった。教科書がなくなったことが糸を引いている。それでも僕は平常を装う。


 今日の彼女はメガネをかけていた。


「みやこくん、今日調子悪いの?」

「全然そんなことないよ。むしろ楽しみにしてたから」

「そう?」


 嘘をついた罪悪感が、僕の心の中へ積もっていく。


 いつも通り彼女は僕の前の席を借りて、向かい合って座った。カンナさんの席だ。

 珍しく、彼女は頬を染めて恥じらいを見せていた。


「上手くできたか分からないけど、頑張って作ってきたよ。口に合えばいいけど……」

「君の作った物なら僕は好きだよ。早く食べよっか」


 恐る恐るといった風にお弁当を開けてくれる。中にはタコさんウインナーと肉じゃがと卵焼き。それと小さなハンバーグが入っていた。これだけで、時間と手間暇をかけて作ってくれたんだということが伝わってくる。

 彼女はとても献身的な人だ。


「やっぱり君は料理上手なんだね」

「もー! そういうのは食べてから言ってよー」


 食べなくてもこれが美味しいということぐらいわかる。何度か食べさせてもらっていたし、きっとこれも僕の口に合っているんだろう。

 まずは卵焼きを箸でつまみ、口の中へ入れた。一口噛むと程よい甘さが口内に広がって、沈んでいた心がすぐに元どおりになる。

 不安げな顔をしている彼女を安心させてあげるために、僕は微笑んだ。


「やっぱり美味しいよ、これ」

「ほんと?! よかったぁ!今日はハンバーグが自信作だから、そっちも食べてみて! 肉じゃがも!」

「ちょっと落ち着いて、ゆっくり味わいたいから」

「あ、ごめん……」


 シュンとしたのが彼女らしくない。今度はハンバーグを口に入れて、感想を言った。やっぱり笑顔になって、僕はいつの間にか今朝の出来事は忘れていた。


「健康な生活を送らなきゃって思ったから、今日は早寝早起きをして作ったの! 久しぶりにお母さんより早く起きたから、今日は一つも手伝ってもらわなかったんだよー」

「今までお母さんに手伝ってもらってたんだね」

「ちょっとだけ! ちょっとだけね! ほとんどわたしがやってたから!」


 ムキになるところはとても可愛い。今日はなんだか憑き物が落ちたみたいで、リラックスしているように見える。やっぱり寝不足だったのだろうか。

 今日の授業中は一度も眠っていなかった。


「もっともっと食べてね! 実はご飯もわたしが炊いて……」


 そこで、教室のドアがガラガラと開いた。昼休みだから普段は全然気にしないんだけど、入ってきたのは担任の先生で、どうやらある生徒に用事があったらしい。先生はクラスの女の子と短い会話をしている。


「みやこくんみやこくん、どうしたの?」

「あぁ、いや、なんでもないよ。先生が来たのが珍しいなって思っただけ」

「たしかに珍しいね。何かあったのかな?」


 とは言ったものの、それほど興味がなかったのか次の話をしたいといった風にウズウズしている。先生も会話が終わったのか職員室へ戻ろうとしているし。


 だけど、その足は途中で止まった。


 視線はゴミ箱の中に向けられていて、先生は中にあるものを拾い上げる。


 数学の教科書だった。


「おい、教科書をゴミ箱に捨てたのは誰だ!」


 怒っている。当たり前だ。

 あの人は数学の教師でもあるし、自分の担当教科の教科書が捨てられていたら悲しい気持ちにもなるだろう。皆静まり返り、一様に顔を見合わせて、手をあげるのを待っている。


 その光景が、奇しくも小学生のあの頃と重なって、僕の胃の中はキリキリと痛み出した。早く終わってほしい。責任の所在を追求して、早く終わらせてほしい。


 彼女が僕を見る。僕は俯く。名乗り出ない僕たちを見て、先生はようやく教科書を開いた。


「長岡京、こっちに来い」


 その名前を呼ばれて僕は反射的に立ち上がる。クラス内でそれなりに真面目な生徒として通っていた僕が教科書を捨てた。


 それが意外だったのか、少しだけどよめきが走った。


 だけどその事実に一番反応していたのは、目の前に座っている他ならない羽前椿姫で、僕はその顔を見ることが出来なかった。


 判決を言い渡された被告人は前に出た。先生も僕が捨てたことを信じられなかったのか、先ほどの怒りは沈めていた。優しい言葉をかけてくれる。


「どうした長岡、なんか辛いことでもあったか?」

「……いえ、別に」


 ここで僕が捨てていないと答えれば、あの時と同じく学級裁判が開かれるだろう。これは擁護することのできないイジメで、教育者ならそれを突き止めなきゃいけない。


 だけどそんなことをしたところで犯人は出てくるわけないし、イジメがエスカレートしていくことも理解出来ている。

 僕が感情を沈めなければ、向こう三年間の生活を棒に振ってしまう。彼女にもそれは飛び火するかもしれないし、返す言葉は決まっていたも同然だ。


「じゃあ、なんで捨てた?」

「……」


 これ以上嘘をつきたくなかったから、沈黙で返す。それは嘘をついているのと同じだった。

 先生は数学の教科書で僕の頭をそっと叩いて返してくれた。


「次やったら怒るからな」


 クラス内全員に聞こえる声で言って、先生は廊下へ出た。たぶん後から呼び出しをされるのだろう。


 未だ静まり返っているけれど、再びどこからか二つの笑い声。


 それを無視して席に戻ろうとした。だけど彼女の肩が震えていることに気付いて、僕は立ち止まる。


 それを止めることが出来なかった。


 彼女は椅子を後ろに倒してしまうんじゃないかというぐらい勢いよく立ち上がり、そして叫んだ。


「みやこくんの教科書を捨てたのを見た人は、今すぐに名乗り出て!!」


 再びの静寂。

 もう、笑い声は聞こえなかった。

 彼女は初めから、僕自身が教科書を捨てた線を消してくれていた。僕がそんなことをしない、彼女がそれを一番分かっているから。


「こんなに人がいて、誰も見てないなんてありえないよ。絶対に誰かが見てた。だって先生が教科書を見つけた時、教室の空気が変わったから」


 そこまで分かっていたなら、きっと二つの笑い声が誰から発せられたものか分かっているはずだ。分かっているのに、猶予を与えた。


 きっと、自分から名乗り出てほしいと思っているから。彼女は優しいから、名乗り出てくれれば少しは矛先を収めるつもりだったんだろう。


 だけど現実は残酷で、当事者は名乗り出なかった。


「あの……」


 気まずい空気の中で、笑い声が聞こえた反対側の場所から手が上がる。四月に忠告をしてくれた、カンナという女の子だ。

 密告をすれば後からイジメの対象にされるかもしれないのに、それでも手を挙げた。

 クラスの中では羽前といる時間が多かったから、二人は特別仲がいいのかもしれない。

 羽前は、安心したのか少しだけ頬を緩めた。だけどすぐに引き締める。


「朝礼前に、アカネとヒカリが……」

「おい!」


 反対側から二人が立ち上がる。それに怯むことなく、カンナさんは続けた。


「そりゃあ、注意出来なかった私だってもちろん悪いよ。今さら許してなんて言わない。でも、ごめんなさい……」


 そう言って、僕に頭を下げてくれた。

僕はなんて言葉をかけていいかわからなくて、口をつぐんだまま立ち尽くす。だけど、正直に言いだしてくれたのは嬉しかった。


 あの時は、誰も立ち上がることをしなかったから。


 羽前は二人に近付く。見下ろして、今まで見たことのないような怖い表情を浮かべていた。それは友達やクラスメイトに向ける表情なんかじゃなかった。


「わたし、言ったよね? みやこくんに酷いことしないでって。友達に手出さないでって」

「ま、待てって! なんで椿姫はそんなに長岡なんかに入れ込んでるんだよ! 私たちの方が友達でしょ?!」

「友達じゃない」


 きっぱりと言い切った。


「あなたたちなんて、友達じゃない」


 二人は完全に怯えてしまって、羽前の手元を見ている余裕なんてなかった。右手は怒りで震えていて、きつく握りしめている。それが振り上げられ、次にどうなってしまうか予想できた僕はようやく硬直が解けた。


「椿姫!!」


 咄嗟に彼女の名前を呼ぶ。

 椿姫の手は振り上げられたところで止まり、自分もその行動が予想外だったのか目を見開き、ゆっくりと下に降ろした。


 よかった、止めることが出来て。その手を汚さずに済んで本当によかった。


「……ごめんなさい。でも、もうみやこくんには関わらないで。次やったら、本当にぶつから」


 言いきった椿姫の瞳からは涙が溢れていた。メガネを外して慌てて拭う。それが止まらないと悟ったのか、全てを置いて走りだした。


「椿姫!!」


 もう一度名前を叫んで、僕も追いかける。彼女は人にぶつかりながらも廊下を走り、決して止まってはくれない。教室での出来事が騒ぎになっていたのか、生徒が野次馬になって道を狭めている。

 その中には、美園の姿もあった。


「京くん!」


 珍しい大声。

 だけど立ち止まっている暇なんてなかった。美園には悪いけど、視線で返事をして椿姫を追いかける。階段をいくつも登り、結局屋上の扉が開かなくて椿姫は止まった。


 屋上の鉄扉の前。


 階下の音が響かないこの場所で、僕らはようやく二人になった。


※※※※


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