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真由の怒鳴り続けている部屋の中、それに気付いたのは風花だった。
「徳田さん、ちょっと静かにして」
「ああ!?」
「何か聞こえる」
三人が黙ると、その音声はよりはっきりと聞こえた。
「スピーカーだ」
真由がスピーカーに近付き耳を澄ませる。ノイズだらけの音声の中、女性の声がうっすらと聞こえた。音が割れているせいで分かり辛かったが、二人の話声のようだ。真由に怒鳴られ放心していたひいなが、はっとした様子で顔をあげた。
「これ……愛華ちゃんと神崎さんの声違うん?」
そう言われ、風花と真由は再びノイズに集中した。
『――……雛菊さん。いつまで100番のパネルを踏んでいるつもりですか。発症したくないのなら、早く動いた方が賢明です』
『いやだ、やだあ、うあああ……!』
『――――………………よかったですね。89番パネルはセーフです。次のパネルを選択してください』
『いや、もうやだあああ!』
風花と真由は、目を見合わせた。
「これってもしかして、あの扉の向こうの――」
三人は、愛華を押しこんだ2の扉を見つめた。扉からは何も聞こえない。けれどもスピーカーから流れる音声だけは、その向こう側に愛華がいることを教えてくれているようだった。
89と書かれたパネルを踏むと、足元でかちり、と音がした。その小さな音が、今の愛華には死刑宣告のようにすら聞こえる。100番のパネルを踏んだ時になった音はこんな音だっただろうか。もっと高い音だったかもしれない。まさか、アウトのパネルを踏んでしまったのだろうか。愛華は目を瞑り、大声をあげた。
しかし、何も起こらなかった。
『……よかったですね。89番パネルはセーフです。次のパネルを選択してください』
「いや、もうやだあああ!」
『雛菊さん。何度でも言いますが私は別に、あなたがそこで死んでしまっても一向に構わないんです。そのゲームは、一種のチャンスだと思ってください。ちょっと怖い思いをするのと引き換えに、生き延びる可能性が増えるチャンスなんですよ』
咽び泣く愛華に、咲弥は語りかけた。
『何も、フェルマーの最終定理を解けと言っているわけじゃないんです。パネルを踏むだけの、雛菊さんにだって出来る簡単なゲームなんですよ? 何をそんなに恐れる必要があるんですか』
まだ、アウトのパネルを踏んだわけでもないのに。咲弥はそう言うと、一人で笑いはじめた。その笑い声から少しでも逃避するため、愛華は耳を塞ぐ。
『――まあ、発症するまでそこでのんびりしてくださっても構いませんよ。あなたのゲームが終わるまで、次のゲームを始めるつもりはありません。そうなると、時間切れで全員発症してしまうでしょうね。……先ほど、徳田さん達に無理矢理引っ張られて悔しかったでしょう? 皆を道連れにしてしまってもいいんですよ』
「―――――っ」
その言葉に、愛華は立ち上がった。
道連れにしたくない、とは考えていなかった。真由達のことはどうでもよく、自分が助かりたい一心だった。とにかく、一刻も早くゴールに近づきたい。愛華はそれだけを考え、最短ルートである対角線上の78番パネルに飛び乗った。
かちり、と軽い音がした。三度目の音に、愛華は酷く安堵する。しかし、セーフだと思った次の瞬間、パネルが真っ二つに割れた。
「――ひあ!?」
パネルの上に両足で立っていた愛華は、そのままの体勢で落下した。落下したと言っても着地点は五十センチほど下で、なんとか両脚で立っていられた。ただ、猛烈な悪臭と、ぬるりとした感触があった。
『――ああ。アウトですね』
「ひ、な、なにこれ!?」
『見て分かりませんか? その辺の中華料理屋から頂いたものですよ』
足を突っ込んだ先――パネルの底には、生ゴミが詰められていた。ゲーム前に裸足になっていた愛華は、腐った残飯の感触に倒れそうになる。一刻も早く脱出しようと足を動かすと、ぬちゃりと粘着質な音が鳴った。
『――……どのパネルに移動するのか、良く考えてくださいね』
「うえ?」
唐突な咲弥の言葉に、愛華は妙な声を出した。
『確実に安全な89番パネルに戻るのか、それとも他のパネルに飛び乗るのか。……89番に戻った場合、ゴールからは遠のきます。逆に、他のパネルに飛び乗る場合はアウトを踏んでしまう可能性がありますから、良く考えてください』
「――……うっ」
今の愛華に大して考える余裕はなかったが、本能的に対角線上は避けた。左横にある77番パネルに飛び乗ると、かちりと音が鳴り、けれども何も起こらなかった。
『助かりましたね。77番パネルはセーフです』
マップ上の数字は、100、89番が緑色に、78番が赤色に点灯している。77番には現在地を示す黒星が、それ以外――愛華がまだ踏んでいない部分は、白い背景に黒字のままだ。
愛華は足を確認した。どろりとした妙な液体が付着し、悪臭を放っている。指と指の間に腐ったネギが挟まっているのを発見し、指を動かして床に落とした。足の指は思い通りに動かず、ゴミを落とすまでにかなりの時間を要したが、それでも手で取りたくはなかった。
「…………」
次はどこへ行けばいいのか、愛華は途方にくれた。77番パネルという安全地帯にずっといたい、と思ってしまう。しかし、77番パネルにずっといるという選択すなわち死、なのだ。
できれば、1番パネルに近づきたい。だとすれば、後方にある87、88番のパネルは論外だ。ジャンプするのは? ――駄目だ、生ゴミで足がぬめっている今、ジャンプしても無事に着地できるか分からない。
『……中学で、あなた達にお世話になっていた頃』
咲弥が懐かしむような、けれども嫌悪感の混ざった声を出した。
『毎日が苦痛で仕方無かったです。当時、私は親戚の家に預けられていたんですが、いじめのことをおばさん達に知られたくない一心で学校に通い続けていました。……本当は引きこもりたい気持ちでいっぱいでしたがね。同じ学校に通っているはずなのに、毎日楽しそうに登校する従兄が羨ましくて仕方なかったです』
咲弥はそこで言葉を切ると、溜息交じりに笑った。
『学校はもちろん、通学路も嫌いでした。一歩進むたびに学校に近づいているのだと考えるだけで、足がすくみましたよ。行きたくない、けれど進まなければならない。――そういう気持ちを少しでも、その部屋で表現できていればいいんですが』
咲弥の声はほとんど、愛華には届いていなかった。愛華にとって大切なのは、この部屋を作った経緯や心境ではなく、『自分がどうやってこの部屋から脱出するか』の一点だけだった。
最短ルートには、アウトパネルが沢山しかけられているのかもしれない。けれど、ゴールには近づきたい。そう考えた愛華が選択したのは76番パネルだった。
――そうだ、まずは右足だけ乗せて、パネルが反応するかどうか様子を見ればいいんだ。もしもパネルが開いたら、すぐに右足を引き込めばいい。
愛華は軽く、76番パネルに右足を乗せた。――何も起こらない。徐々に体重をかけてみるが、かちりという音もしない。
このパネルはきっとセーフだ。愛華はそう考え、右足に力を入れた。
途端、パネルが開いた。
パネルが開いたら右足を引き込める、という愛華の考え通りにはいかなかった。片足に体重をかけていたせいで中途半端に前傾姿勢を取っていたこと、そして愛華自身の反応が鈍かったこともあって、右足から勢いよくパネルの中に突っ込み、挙句尻餅まで付いてしまう。
――パネルの中は今度も生ごみ、ではなかった。何か黒いものが、大量に蠢いている。
「ひいっ!」
愛華は中途半端な悲鳴をあげた。黒いものの正体を瞬時に理解したからだ。
ほとんどのものは一斉にパネルの外へと飛び出したが、何匹かは素足で踏んでしまった。
『片足だけパネルに乗せてみても意味がないなんて。本当に、雛菊さんは見ていて楽しいくらいの運動音痴ですね。……そこには、ゴキブリを三十匹ほど入れておきました』
そんな言葉を聞く余裕もなく、愛華は反射的に75番パネルへと飛び乗った。かちり、と音がしたものの、パネルが開くことはなかった。
わざとらしい咲弥の笑い声が、スピーカーから聞こえてくる。二十匹以上のゴキブリが這う部屋で愛華は耳を塞ぎ、泣きじゃくった。足の裏を確認する事すらできない。もちろん、洋服も。
『……もしかして何匹か踏んじゃいました? 可哀想に。――ああもちろん、今のセリフはゴキブリに向かって言ったことです。よかったですね雛菊さん、その部屋の中で心強いお友達ができて』
心強い友達は愛華の周りで、カサカサと軽い音を出し続けている。耳を塞いでいるはずなのに、その音は部屋中に響き渡っているように感じられた。
「ごめ、ごめんなさい、謝るから、ごめんなさい、ごめんなさ……」
『謝る場所が違います。そのゲームをクリアして、私の目の前に来てから謝ってください』
その声は酷く静かで、その分だけ冷たかった。
愛華はふらふらと立ちあがると、65番パネルへと移った。とにかく、早くこの部屋から抜け出さないと。優美のように死ぬのも、涼子のように死ぬのも嫌だ。自分は、自分だけは生き残らないと。
65番パネルがセーフであるのを確認すると同時に、55番へと移る。55番を選んだのは単純に、ゴキブリが近くにいないパネルだったからだ。
そんな安易な選択を窘めるかのように、55番パネルは大きな口を開け、愛華の足を飲み込んだ。
足の裏全体が熱くなるような、経験したこともない痛み。愛華は、先ほどとは比べ物にならないほどの高い悲鳴をあげた。
『……昔、プレゼントして頂いたもののお返しです。私の上履きに素敵なプレゼントをくれるのは、いつも雛菊さんでしたよね?』
「――――っ!」
愛華は半ば転げるようにして、45番パネルに乗り移った。タイルに足の裏や指先が当たると、カチカチと硬い音が小さく鳴る。
55番パネルが開いた時、一瞬見えたものが足の裏に……。愛華はなるべく足の裏に刺激を与えないよう胡坐をかくと、息を荒げながら『それ』を確認した。
足の裏には、大量の画鋲が突き刺さっていた。土ふまず以外の部分にはびっしりと、土ふまずにも何本か刺さっていたり、刺さった痕が残っている。
『画鋲の入った上履きをじゃらじゃらと鳴らしながら、これ履いて、と言ってきたのは誰でしたっけ。あれはとても痛かったです。あの時は、上履きを履いたまま校舎を一周させられましたよね。――ああ。雛菊さんはその画鋲、今すぐにでも取っていただいて結構ですよ。でないと痛いでしょう?』
咲弥がそう言う前から、愛華は足に刺さっている画鋲に手を伸ばしていた。歯を食いしばり、ひとつひとつ抜いていく。その恐怖と痛みで、手が震えた。
画鋲を引き抜くと、少しの間をおいてから、ぷつりと血が滲みだす。それを何度か繰り返しているうちに、足の裏も手も鉄臭くなり始めた。
『……大丈夫です、痛いのは最初のうちだけですから。化膿さえしなければ、一週間ほどで元に戻りますよ』
咲弥の声は安心感の欠片もない、平坦な声だった。愛華は時間をかけて全ての画鋲を抜くと、55番パネルの中に、血の付いた画鋲を放り投げた。
「……だいじょうぶ」
愛華は呆けた顔で、誰にでもなく呟いた。
「だいじょうぶ、アイカが死ぬはずない。今だって、パパとママがアイカの事探してくれてるだろうし、だいじょうぶ、だいじょぶ……」
片言のような独り言を呟きながら、何も考えず左斜め前の34番パネルに移った。頭にできた大きな空白が、判断力を蝕んでいるようだった。
34番がセーフパネルであることを確認すると、愛華は笑った。やっぱり大丈夫、自分ならやれる。後は23番、12番パネルさえクリアすれば、ゴールの1番パネルに辿り着ける。そうだ、ジャンプすれば1番パネルにだって届くのではないか。足は痛いけれど、一度くらい我慢できる。大丈夫、やれる。
愛華は笑いながら血まみれの脚に力を入れ、跳んだ。
しかし、自身が思っていたほど跳べなかった。
自分の足から流れでる血で滑った愛華は、目の前にある23番パネルに着地した。バランスを崩していた割に、両足で着地できたのはラッキーだっただろう。ただ、着地した場所が23番パネルの上だったという点に問題があった。
まるで愛華の事を待ち構えていたかのように、パネルが開いたのだ。
――熱した鉄板の上に水をかけたような音が鳴った。それを打ち消すかのような愛華の絶叫が、部屋に響き渡る。
23番パネルの中に仕込まれていたのは画鋲ではなかった。一見何の変哲もない、液体だった。
『……硫酸って、濃度が薄いと大した効果がないって知ってましたか? 濃度の薄いものであれば、すぐに洗い流してしまえばさほど問題ありません。硫酸というだけで、なんでも溶かしてしまう危険な液体のようですが、それは濃度と量、温度によるんです。――まあ、雛菊さんが両足を突っ込んだそれは、特別な濃度の物をご用意したので、こんな解説は不要だと思いますが』
叫び続ける愛華に、咲弥の話など聞こえているはずがない。愛華は転げながら24番パネルへと移動した。振り切れるはずもない足の痛みをどうにかしようと、パネルの上をのたうち回る。
早く、早く1番パネルに行って、手当てしてもらわないと……!
短絡的な思考回路は、1番パネルに行くことだけを指示した。それに従い転げながら、そして這いながら愛華は進む。
14番、3番――どれもセーフパネルだった。ただ、愛華の移動したパネルの上には、肉片のようなものが飛び散っている。
「いや、いや、しにたくない、やだ、あつい、いたい、しにたくない……!」
残るパネルは一つだけだ。2番パネル。これさえ突破すれば、1番パネルに辿り着ける。早くしなければ死んでしまう。足も醜く爛れていく。早くしないと早くしないと早くしないと……。
2番パネルへと転がり、そのままの勢いで1番パネルへ移動しようとした瞬間、ブザーのような音が鳴った。
それは何かの劇が始まる合図のようでもあったし、クイズ番組特有の効果音にも似ていた。クイズ番組の――不正解の時、の。
『……残念でしたね、雛菊さん』
クイズの司会者のような、残念そうでもない爽やかな声で咲弥は言い捨てる。
『2番パネルは【失格】パネルです。名残惜しいですが、ここでお別れですね』
「うそ……」
愛華は眼を見開いた。それでは、これまで自分がしてきたことには何の意味があったのか。生ごみを踏んだ。ゴキブリも、画鋲も、硫酸も――
愛華は這いずるようにして、1番パネルへと移動した。けれども何も起こらない。
「いや! うそ! うそって言って!」
『――嘘、です』
咲弥の声は柔らかく、けれども感情は込められていなかった。
マップ上では右側にある壁が、徐々に左へと近づいているのが分かった。正方形だった部屋が、少しずつ縦長の長方形になっていく。愛華は迫りくる壁と向かい合い、ずるずると後退してみたが、すぐに背中と壁が接触した。逃げられないと言わんばかりに、背後の壁は微動だにしない。それとは対照的に、真正面の壁は愛華との距離を縮めていく。まるで意志を持って、愛華を潰そうとしているかのように。
『もう一度言ってあげましょうか? 嘘です。……これで満足ですか』
遂に部屋の幅は四十センチほどになり、愛華の身体と、両側の壁が接触した。それでも構わず壁は動き続ける。焼け爛れた足が小気味のいい音を立てて潰れていく。足の指が、甲が、足首が、徐々に、徐々に。時間をかけて足を咀嚼した壁は、胴体を侵食し始めた。
クリスマスの時に食べた骨付きのローストチキン。不注意で骨を噛んでしまい、口の中でばきり、と砕ける音がした。
その音を全身で鳴らし、自身が潰れていく。数ヶ月前の自分は、そんなこと考えてもみなかった。
「…………いた、い」
口から大量の血を吐きながら、この部屋から脱出したら病院に行かなきゃ、と愛華は思っていた。




