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『さて……どこから話した方が、あなた達には分かりやすいでしょうか?』
咲弥はのんびりと首を傾げた。ゆるいパーマのかかった髪の毛が、ふわりと揺れる。
「出して! ここから出してよ!」
愛華が泣きながら、咲弥へと懇願した。酷く取り乱しているせいか、血の雨を浴びたせいなのか、化粧がところどころ剥げ落ちている。
『……そうですね。それじゃあとりあえず、皆さんが感染したウイルスについてお話ししておきましょうか』
咲弥は愛華の言葉を無視して、滔々と語り始めた。
『あなた方の身体の中に取り込まれたウイルスの名前は、【狂った道化師】。これは開発者の私がつけた名前であり、正式名称ではありませんがね。長時間、空中浮遊できるタイプのウイルスではないので、そういった意味では感染力はさほど強くありません。ただ、感染してしまった場合の発症率および死亡率はほぼ百パーセントです。感染から発症までの時間は、平均四時間。これは個体差があるので、免疫力が低ければもう少し早く発症するかもしれません。まあ、確実に安全なのは二時間程度だと思ってくだされば結構です』
それを聞いた愛華の泣き声が更に大きくなり、風花達の中の絶望感も増した。
何もかもが冗談であればいいのに。そう思えば思うほど、優美の最期が目に浮かぶ。あれが……あれが、冗談であるはずがない。
『発症とはすなわち、【爆発】――さきほどの岸野さんのような状態を指します。体中から血液を噴出させ、他の人間にウイルスを撒き散らしながら死ぬ……。発症するまでは、ほとんど無症状といえます。ですが、吐き気や眩暈といった自覚症状が出てから【爆発】するまでの間は約二分、発症してから死に至るまでは約一分です。つまり、自覚症状が出てから死に至るまでは約三分。この間に助かる見込みはありません』
「冗談やろ……」
『冗談? この状況下でまだそんなことを言いますか、羽村さん。なんなら、今から四時間ほど何もせずに過ごしてください。血を噴き出して死んでしまえば、この悪夢から現実に戻れるかもしれませんよ。ああ、あるいは自殺してくださってもかまいません。感染者が発症前に死んだ場合は、ウイルスも一緒に死滅しますから。他者が感染することはありません』
ひいなは、両手で頭を抱え込みがたがたと震え始めた。その様子を監視カメラで見ているのであろう咲弥が、溜め息をつく。
『――あなた方に、このウイルスの発症の仕組みを説明しても無駄でしょうね。血中に侵入したウイルスが活性化して……なんて、言葉だけで説明しても馬鹿には通じないでしょうから。簡単な例えをするならば、あなた達は電子レンジに入れられた卵のようなものです。電子レンジでゆで卵、作ったことあります? ああ、危険ですのでやらないでくださいね。……レンジの仕組みをあなた達がどこまで理解しているのかは分かりかねますが、あれに近いと思ってください』
風花はテレビで見た映像を思い出した。実際にやったことこそないが、レンジで卵を温める映像は何度か見たことがある。加熱し始めてからしばらくの間は何ともないが、やがて大きな音とともに爆発する――。
レンジの仕組みは水分子を振動させ、その摩擦熱を利用している……と聞いたことがあるが、詳しいことは覚えていなかった。
咲弥は右顔面だけで微笑み、五人を見渡すようにした。
『皆さん、安心してください。そのウイルスは発症さえしなければ、問題ありません』
「ふざけんな! 四時間で発症するって言ったのはお前だろうが!」
『人の話は最後まで聞いてください、加持さん。さっき、開発者の私、と言ったのを覚えていますか? ……そのウイルスを開発したのは私です。この意味、分かります?』
咲弥はそこで言葉を切ると、画像の切れている部分から注射器を取り出した。キャップの付いた注射器には透明の液体が入っているが、中身までは分からない。
『そのウイルスは、発症してから治療する術はありません。が、発症を抑えることはできます。私の作ったこの抗ウイルス薬さえ接種すれば、いつも通りの楽しい毎日を過ごすことができますよ』
「なっ……」
それはまるで、蜘蛛の糸のようだった。絶望的な状況のもとに垂らされた、細い糸。それに皆が縋りついた。
「それならそうと言ってよ。頼むからそれを渡して!」
「お願い! アイカを、アイカを助けて!」
「神崎さん、お願いやから!」
『――皆さんを監禁して、ウイルスをばら撒いて。私が何故、こんなことをしたと思います?』
咲弥の問いかけに、愛華達は沈黙した。咲弥は注射器を画面からは見えない位置に置くと、話を続ける。
『既に岸野さんが殺されたこの状況で、お願いしますと頼むだけで抗ウイルス薬を貰えると思いますか? もしもその程度の話なら、岸野さんは今でも生きてますし、それ以前に私だってこんな大仰なことしませんよ』
咲弥は左顔面の包帯にそっと手を当て、笑う。それを見ていた真由は、きっと睨み返した。
「あんたがこのウイルスを作ったとか、嘘でしょ? 確かにあんたは、子供の頃からすっごい頭良かったよ。だからってこんな事できるとは思えない。作ったんだとしてもどうやって。それに金は? ねえ、本当はこんなの嘘なんでしょ? 私達、感染なんてしてないんでしょ?」
『――そうですね、誰が作ったのかはこの際、関係ありませんよ。そんなズレた事ばかり考えている時点で、相当なお馬鹿さんです。自分も感染しているのかどうか、と疑うのはまだ許せますが』
咲弥はやれやれと言った様子で、首を振った。
『いいですか。今のあなた達にも分かる【確実なこと】は、監禁されたことと岸野さんが死んだことです。そして、その犯人は私です。……私がウイルスだのなんだのと面倒な手は使わず、その建物ごと爆破し、一瞬で終わらせる可能性もあるんですよ。あまり私を怒らせない方が賢明です』
右顔面からは笑顔が消え、恐ろしいまでの無表情になっていた。愛華は小さな悲鳴を上げ、おどおどと部屋を見渡す。どうも、爆弾がないか探しているらしい。
『安心してください、雛菊さん。爆弾なんて使う気はありません。そんなもの使ったら、私の十年が無駄になります』
「十年……?」
思わず風花が声を出すと、咲弥は少しだけ懐かしそうな顔をした。
『中学二年の頃、裏世界の人間に引き取られましてね。色んな研究をしましたよ。生物兵器なんかは高く売れますし、喜ばれました。まあ、あなた達【表の人間】は知らなくてもいいことです。――学校に比べ、研究所は快適でした。研究室の人たちは皆優しくて、協力的でしたから。…………いじめなんて、なかった』
その一言が、風花の心に重くのしかかった。風花だけではない。誰もが絶句していた。
『だから、【同級生に復讐するためウイルスを作りたい】と言ったら、皆協力してくれましたよ。ウイルスと、この施設と、あなた達を監禁するために雇った人間と。十年かけてようやく、ここまで来たんです。……いじめられっ子が科学者になって復讐するなんて、素敵なシンデレラストーリーだと思いません?』
顔を歪めてくつくつと笑う科学者は、風花と自転車を漕いでいた咲弥でも、ゴミ箱に捨てられた上履きを拾う咲弥でもなかった。誰も知らない、見たことのない咲弥。けれどもそれは間違いなく自分達が、自分達のいじめが作り出した顔なのだ。
「……何が……目的、なの」
『質問の意味が分かりませんね。はっきりと言ってください、徳田さん』
「はぐらかさないでよ! さっきあんたが言ったじゃない、その気になれば爆弾使って一瞬で終わらせるって! それをしなかった意味は何!? どうしてこんな事するの!」
『いい質問ですね。ですが、答えはシンプルかつ簡単です。――謝ってほしい。それだけです』
真由は目を見開き、凝り固まった。その代わりのように、愛華が声を出す。
「謝る……?」
その言葉に、咲弥は嬉しそうに頷いた。
『はい。昔の事をきちんと謝ってください、誠心誠意。私が望んでいるのは、本当にそれだけなんです。謝罪さえしていただければ、抗ウイルス薬はさしあげます』
「そ、それならっ」
『ただし』
咲弥は小首を傾げ、全員を見下すかのような目をしてみせた。
『私の心に響く謝罪でなければ、抗ウイルス薬はお渡しできません。時間が来たら、岸野さんのように赤色の世界で死んでください』
「嘘や……嫌や……あんな…………」
ひいなは肩を震わせながら、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。しかし誰も、何も言わない。見かねた風花が、ひいなの背中をさすってやった。
『――随分と余裕なんですね、瀬野さん』
咲弥に名前を呼ばれ、風花は手を動かすのをやめた。モニターではなく監視カメラの方に視線を合わせる。
『……瀬野さん。もしかして、自分だけは助けてもらえるかもなんて考えてますか? だとしたら大間違いですよ。確かに私達は』
咲弥は逡巡してから、ふっと息を吐いた。
『確かに私達は昔、親友と呼べる関係でした。けれどあなたは、私がいじめられている時、助けてくれましたか? ……助けてくれませんでしたよね。なのに今、あなたは私に助けを求めるんですか?』
風花は唇を噛みしめ、涙がこぼれそうになるのを堪えながら、それでも監視カメラから目を逸らさずにいた。
忘れられない記憶は、本当に些細なものだった。二人で近所の犬を撫でたこと。小さな駄菓子を交換したこと。二人で植物係になって、ヘチマに水をあげたこと。
そんな日常が崩れるのは、簡単だった。
画鋲の撒かれた椅子。ゴミ箱に無断で捨てられる私物。授業の度に「忘れました」と繰り返す彼女。
笑い者の、ピエロ。
『――来ないなら、『次のピエロ』はあんただから』
親友だったピエロを見捨てるのはいとも簡単で、その分苦かった。




