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忘れられない記憶があった。
赤いランドセルを揺らして、しりとりをしながら歩いた通学路。好きな男の子を教えあった公園のベンチ。どれもこれも特別なことはない。ただ、なんとなく忘れられない風景だった。
一番鮮明に覚えているのは、自転車で登り切れば願い事が叶うとされていた長い坂道だ。夏休みの午前中、顔を真っ赤にして二人で登り切り、顔を見合わせて笑った。
頂上にあった小さな神社に入り、木陰で休憩している時、彼女は言った。
「いつまでも風花ちゃんと仲良くできますように」
背後から湿り気の強い風が吹き、ゆるいパーマをかけたような彼女の癖っ毛が揺れる。風に吹かれた彼女の言葉は、照りつける太陽の熱とともに、坂道に吸収されたような気がした。
風花は笑った。
「そんなの当たり前。大人になっても私達は友達だよ」
忘れられない記憶があった。
薄暗い体育館裏。誰もいないウサギ小屋。使用禁止の張り紙がされた女子トイレ。整然と並んでいる机。
ゴミ箱に捨てられた、彼女の上履き。
「風花ぁ、早くこっちおいでよ」
クラスのボス格である、茶髪の女子が声を荒げた。
「――来ないなら、『次のピエロ』はあんただから」
くすくすと笑う声が、風花の心を揺さぶった。次は、私が。
独りぼっちで踊らされているピエロは、寂しさと悲しみを湛えて、風花の目を見つめている。
「……ごめん」
もはや、何に謝ったのかも分からなかった。舞台に登りかけていた風花は、ピエロを見捨てて観客席へと向かった。独りになるのが、怖かった。
風花の言葉に俯いたピエロは何も言わない。観客は指をさして嗤う。
独りぼっちになったピエロは踊り続け、ある日を境に忽然と姿を消した。
「――……っ」
勢いよく上半身を起こした瀬野風花は、脳を直接揺さぶられたかのような眩暈に耐えきれず、再び倒れ込んだ。天井の一角を見つめながら、ここはどこなのだろうと考える。昨夜、泥酔した覚えはない。そもそも風花はほとんど飲むことがないので、「朝起きたら見知らぬ男の家にいた」などという現象には遭遇したことがなかった。
風花の視線の先――天井の隅には監視カメラが取り付けられている。最近流行りのドーム型ではなく、威圧感を覚えるボックス型だ。軽く頭をあげて確認してみると、監視カメラは天井の四隅に、死角ができないよう設置されていた。
「――風花? 起きた?」
背後から声をかけられ、風花はびくりと身体を震わせた。しかし、その声には聞き覚えがある。風花は片手で頭を押さえながらゆっくりと振り返った。
「徳田、さん?」
風花の呼びかけに、金色のカラーコンタクトで覆われた瞳が肯定したようだった。中学生の時から変わらないその目に、風花は妙な安堵を覚えた。
思った通り、声の主は徳田真由だった。中学の同級生で、最後に会ったのは四年前の成人式だったはずだ。ダイエットすると宣言していたが、若干肉付きの良い身体は大して変わっていないようだった。身体にフィットしているというか、若干無理をしていそうな黒のTシャツの上にモカ色のベストをあわせ、あと一キロでも太れば入らなくなりそうなジーンズを着用している。
「よかったあ。起きなかったらどうしようって相談しててさ」
「相談……?」
「ひいな達もいるんだよ」
真由の指差した方を見ると、やはり見覚えのある顔が並んでいた。
セミロングの黒髪と、それに合わせたようなベージュのポンチョを羽織っている羽村ひいな。黒のパーカーにスリムな黒のジーンズをあわせ、ボーイッシュな空気を醸し出している加持涼子。そして、レースとバックリボンのついたピンク色のワンピースを着こなし、取れそうなくらいに長い睫毛をつけている雛菊愛華。
全員が中学時代の同級生で、苦い思い出のある風花としては一番会いたくない面々だった。
「ね、マジで分かんないんだけど。もしかしてアタシら、監禁されてんの? だとしたらケーサツだよ、ケーサツ」
知的とは言い難い口調で、愛華は言った。この話口調も、昔から変わっていない。
「……誰か携帯持ってんのか? あたしの、無くなってんだけど」
涼子の言葉を聞いて、全員が自分の携帯を探す。風花はスマートフォンを入れていた鞄ごと紛失していた。他のメンバーも同じようだ。真由はため息をつくと、全員の顔を見回した。
「……今なら怒らないからさ。誰が犯人か言いなよ」
「え、マユじゃないの? こういうドッキリしかけるのは、いつもマユだったじゃん」
「私はてっきり、愛華が犯人かと思ってたのに」
「ひどっ。アイカはこんなことしないよ! ねえ誰か、監禁された時のこと覚えてないの?」
「――誰が犯人かよりも、こっから脱出する方が今は大事やと思うんやけど……」
二人の会話を遮るようにして、ひいなが口を開いた。ひいなは小学校に上がる直前に関西から引っ越してきた人間だが、未だに関西弁だった。
「そっかあ。ねえ、ココどこなの? アイカはこんなとこ知らないんだけど?」
「私は知らんよ。むしろ知ってる人、いるん?」
ひいなの問いかけに、全員が黙りこんだ。風花はあたりを見渡してみる。綺麗な長方形の部屋。広さは十二畳ほどだろうか。部屋の四隅に新聞紙と段ボールが無造作に積まれているだけの、倉庫のような埃っぽい部屋だった。新聞紙は何の変哲もない代物、段ボールも中身は全て空だったと、真由が教えてくれた。どうも、風花が目を覚ます前に色々と調べてみたらしい。
薄汚れた白色にも見えるコンクリートの壁には、窓が一切無く、重々しい鉄製の扉が設置されていた。念のため扉について真由に確認してみたが、やはり施錠されているようだ。――が、
「……四つ全部?」
鉄の扉は、それぞれの壁に一枚ずつ取り付けられており、1から4までの番号が振られていた。更に、1の扉の横には、壁面埋め込み型のテレビとスピーカーが設置されている。
――希望的観測だが、どれか一つくらい施錠し忘れている扉があれば。
しかし、風花の質問に、全員が表情を暗くした。
「それが駄目でさ。テレビも試してみたけど、何の反応もなかった」
真由が溜め息をつきながら首を振った瞬間だった。
1と書かれた扉の内側からガシャンという金属音が聞こえ、五人は身体を震わせた。
鍵の開く音だ、と直感的に風花は思った。風花の直感が正しいことを裏付けるかのように、キイ……という擦れた音とともに扉が開いていく。部屋が静まり返っているせいか、風花にとってその音は妙に大きく、扉が悲鳴をあげているようにすら聞こえた。
誰が来るのだろうか。犯人か、それとも……。
「優美!」
中から現れた女性を見て、真由が声をあげた。
岸野優美。やはり風花達とは中学時代の同級生で、長い黒髪が特徴的な女性だった。今はその自慢の髪も、すっかり乱れてしまっているが。
優美は、ふらふらとこちらに向かって歩いてきた。嘔吐する寸前の酔っ払いのような足取りだが、その顔は妙に青白い。優美はさほど色白ではなかったはずなのに――。
「お前も監禁されてたのかよ。……おい、優美? 具合悪いのか?」
涼子が怪訝そうに、優美の元へと近づく。それを見た優美は、首を横に振りながら後ずさりした。壁に背が当たったかと思うと、今度は前屈みになり両手で口元を押さえる。涼子は眉をひそめつつ、ゆっくりと優美へ手を伸ばした。
「優美? 大丈夫かよ」
「……っか、」
「え?」
「かん……ざ、き……っ」
そこまで言うと、優美は吐血した。いや、吐血などというものではない。目や耳、鼻の穴からも血が噴きでている。噴水というよりも、赤い霧と言った方が正しいのかもしれない。鉄臭く、生温かいそれが周囲を覆っていく。優美の側にいた涼子は、優美の吐いた血をもろに浴びたようだった。
「たすけ……っ……」
優美は助けを求め、血を噴き出しながらもふらふらと歩き始めた。
「――ひっ」
愛華は小さな声をあげ、自分の身体に血が付着しないよう後ずさりしたが、霧のような血を全身に浴びた。この狭い部屋で、霧状の物を防ぐのは難しい。しかも、問題である優美が歩いている。結果、真由もひいなも、そして風花も、優美の血液を身体中に浴びた。
霧状の血液を噴出させていた優美は、やがて断末魔の叫びをあげると地面に突っ伏した。身体はしばらく痙攣し、血も垂れ流していたが、どちらも止まった。
「なに……なんなのコレえええ!!」
愛華が声をあげて泣き始め、涼子と真由は呆然と優美の死体を見ていた。ひいなは部屋の隅へ這うように移動すると、嘔吐し始めた。
風花は目を見開き、薄い赤で染まった自分の身体と優美を交互に見た。そして、優美の最後の言葉を口にした。
「神崎……?」
風花の呟きと同時に、設置されていたスピーカーがざらりとしたノイズを出した。テレビのスイッチも勝手に入ったようだ。
テレビは銀色の砂嵐を映した後、焦点の合っていない映像に切り替わった。左顔面に包帯をした女性の顔が、テレビ電話のようなアングルで映っている。胸より上しか映っていないので分かりにくいが、白衣を着ているようだ。
『――お久しぶりです』
モニターの中にいる女性が口を動かすと、スピーカーが声を吐きだした。皆一様に、テレビ画面へと視線を移す。それを見た包帯の女性は、静かに微笑んだ。
『私の声、ちゃんと聞こえているみたいですね。よかったです』
「あんた……」
真由が画面の向こうにいる女性を喰いいるように見つめながら声を出す。
「神崎、だよね……?」
びくりと反応したのは、包帯の女性ではなく風花の方だった。
――神崎、咲弥。
『……かんざき? 今更、名前で呼んでいただけるなんて思ってもみませんでしたよ』
画面の中の咲弥は、右目だけで笑う。
『私の名前はピエロ、でしょう?』
誰もが言葉を失う中、咲弥の笑い声だけが部屋に響いた。
『岸野優美さんは無事、役目を果たしてくれたようですね。どうです? なかなか面白い見世物だったでしょう』
「神崎お前っ……」
『ふざけるな、もしくはお前がやったのか、ですか? 今からちゃんと説明しますから黙っていたほうがいいですよ、加持涼子さん。今一番危険なのは、あなたですからね』
「なに……?」
『相変わらず馬鹿な人たちですね。自分がどういう状況に置かれているのか、岸野さんの死体を目前にしても、まだ理解できないんですか?』
呆れたと言わんばかりの顔で、咲弥は肩をすくめた。
『岸野さんは、とあるウイルスに感染していました。そのウイルスの感染経路は【発症者の血液を浴びる、もしくは吸い込む】こと――。つまり、発症していた岸野さんの血液を浴びたあなた達五人は確実に感染しています。感染、そして発症する確率は九十九%です。今から約四時間後には、全員発症しているでしょう。……発症すなわち、岸野さんと同じ末路だともお伝えしておきましょうか』
全員、息をのんだ。それもほんの一瞬で、愛華だけが甲高い悲鳴をあげて泣き始める。
その中で咲弥は、ふんわりと笑った。黒い皮手袋を嵌めた手で顔面の包帯を押さえ、歪んだ口を開く。
『さあ、楽しいショーの始まりです』




