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――君は、化け物と言うには感情がありすぎる。感情がないふりをしている……という意味では、『化けている』のかもしれないが。
けれどね、本当に感情がなければ、復讐なんて考えないだろう。
だから君には感情がある。ただしその感情が、『人間として正しく機能している』かどうかは、保障しかねるがね。
一般人がここまでして、復讐をすることはないだろうから。
「そういえば昔、ピエロという渾名が付いていたなあ……なんて」
科学実験室を彷彿させる空間で、白衣の女は呟いた。薄暗い照明と、左顔面に巻かれている包帯のせいで、表情はよく分からない。
ただ、『ピエロ』という女のことは知っている。何せ、その渾名をつけたのは自分自身なのだから。
――どうすればここから逃げ出せるのか。こいつは私に何をする気なのか。猿轡と手錠で自由を奪われている黒髪の女は、普段は使わない頭を回転させた。
まず、ここはどこなのか。……分からない。
整然と並んでいる長机と、ホワイトボード、得体のしれない薬品の匂い。壁に添えつけられている棚に並んでいる瓶と、そこに書かれているカタカナ。全ての情報を頭の中でまとめても、科学準備室か病院くらいしか思い浮かばない。
大体、自分は何故ここにいるのか。つい先ほどまでバイトをしていたはずだ。その帰り道、――……帰り道?
夜道で急に記憶が途切れ、気付けばここに倒れていた。
襲われて監禁された? けれど、なんのために。
「何を考えているんですか?」
白衣の女は膝をついて興味深そうに、黒髪の女の顔を覗き込んだ。右は、薄暗い茶色の瞳。左は、何も映さない白の包帯。そのコントラストにぐらりとする。こいつは、自分の知っているピエロではない。こいつは、――これは、何なのだろう。
「……どうして自分がこんな目に、なんて考えていましたか。だとすれば減点ですね。こういった非常事態の場合、まずは助かる方法を考えるべきです。ここに監禁された理由なんて、後から考えればいいだけですから。物事にはね、優先順位というものがあるんですよ」
出来の悪い生徒をたしなめるような口調と、それにそぐわない笑顔に恐怖を感じる。逃げなければ、一刻も早く。だけど、どうやって?
「――まあ、今更な話ですが。あなたにとっては」
白衣の女は立ち上がると、おもむろにポケットに手を突っ込んだ。取り出したのは、注射器。中に入っている白濁色の液体は、素人目に見ても明らかに異常だった。
注射器を片手に、女が一歩近づいてくる。――嫌だ。まだ死にたくない。ほとんど動かない手足をばたつかせながら、黒髪の女は大きく首を振った。汗と涙が同時に、リノリウムの床に落ちる。
「もうすぐ、サーカスが始まります」
突拍子もない女の発言に、黒髪の女の頭は真っ白になった。何を言ってるんだ、『これ』は。
「そうですね……。開演は、今から四時間ほど後でしょうか。舞台の上でピエロが踊るだけの単純なものですが、さぞ面白いショーになるでしょう」
もう一歩。女との距離が縮まる。更にもう一歩。女の影は、もう目前まで迫っている。嫌だ、来るな、やめろ。
「幕開きは、あなたの役目ですよ」
白衣の女性は足を止めると、注射器の中身を矯めつ眇めつ眺め始めた。注射器を使うかどうかで悩んでいるのではなく、それを使うことで『どれほど楽しいことが起こるのか』を想像しているようだ。
「んー! んうー!」
「……なんですか? 言いたいことがあるのなら聞きましょう。ただし、チャンスは一度きりです。余計なことをしたり言ったりした場合、すぐに殺しますからね」
――殺しますからね。簡単に口にされると、かえって不気味だった。相手が本気だということを、本能的に理解したからなのかもしれない。
こいつは、私を殺す気だ。
チャンスは一回、チャンスは一回。何か言わなきゃ。助かるために。
そうだ。とにかく、昔の「あれ」だ。きっと、今こんな目に遭っているのはあれのせいだ。だから、
「――……さい」
猿轡を外され、噎せながらも発した一言は、ほとんど聞き取れなかったらしい。けれど言わなければ。チャンスは今しかない。
「ごめんなさい、ごめんなさい。あの時のことは謝るから。本当にごめんなさい、助けて。絶対にこのことは警察に言ったりしないから。ねえお願いごめんなさい助けて私まだ死にたくないごめんなさい赦して」
「……以上ですか?」
物を見るかのような茶色の目に、黒髪の女は戦慄した。
私の知ってるピエロじゃない。私の知ってるピエロはまだ、人間だった。
白衣の女は注射針の保護キャップを取り外すと、シリンダー内の空気を抜くため、プランジャーを数ミリ押し込んだ。余計な空気とともに、濁った液体が注射針から飛び出し、床を濡らす。
「ある意味、あなたが一番楽な役割なんですよ。他の踊り子たちはもっと大変ですからね。……感謝して欲しいくらいです」
黒髪の女が聞き取れた言葉は、それが最後だった。




