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風花がこちらに戻ってこないことを確認すると、咲弥はぐらりとよろめいた。
まだ、倒れるわけにはいかない。
時間を確認すると、咲弥は体勢を整えた。――残された時間は少ない。
咲弥はまず、四つの扉が全て閉ざされているかどうかを確認した。展覧会を見て回るように、室内をぐるりと一周する。
そうして密閉されている事を確認すると、今度はポケットの中に手を入れ、液体の入った小瓶を取り出した。
「……いよいよ、最後の見世物になりました」
瓶を見つめ、誰にでもなく呟く。観客はもう、ここにはいなかった。
封を開けると、刺激臭が鼻をついた。構わず、四方八方に中身を撒き散らしていく。二人の死体には多めに振りかけ、残りは新聞紙と段ボールに撒くようにした。
偶然とはいえ、【発症】した二人が同じ部屋で息を引き取ってくれたのは好都合だった。マッドピエロは、発症しない限りは感染しない。つまり、岸野優実と羽村ひいな、――発症しウイルスを撒き散らしている二人の死体とこの部屋さえ始末すればいい。
瓶の中身が無くなると、咲弥はズボンのポケットからマッチを取り出した。余裕など無いはずだが、何故かマッチ売りの少女が頭に浮かんだ。
――マッチを擦り続けていた最期の時、彼女は本当に暖かかったのだろうか。
咲弥は震える手でマッチを擦ると、羽村ひいなの死体に被さっている新聞紙へ向けて投げ捨てた。可燃性の液体を吸った新聞紙は音を立て、大きな炎を生み出す。徐々に周囲の段ボールへ炎が燃え移るのを確認すると、咲弥は4の扉を開き、狭い通路に出た。風花の姿はもう見当たらない。
「……暖かければ、いいな」
燃える炎を部屋に閉じ込めるよう、ゆっくりと扉を閉めると、咲弥は廊下の壁に凭れかかった。そしておもむろに、胸ポケットに入れていたスマートフォンを取り出した。
扉が施錠されると、風花は前へ向かって歩き出した。ぼやける視界を両手で拭う。振り返ったところで、咲弥の姿はもう見えないと分かっていた。
標準体型の人間が一人で通れる程度の幅しかない廊下は、酷く息苦しかった。呼吸困難に陥りそうな気さえする。風花は胸を押さえながら、懸命に前へと進んだ。自分の足音が、低い耳鳴りのように頭の中に鳴り響いていた。
薄暗い場所で一度だけ、静かに呼んでみる。
「咲弥、ちゃん」
返事はなかった。
這うような速度で進み続けると、前方に扉が見えた。非常口という文字と、走る人間を描いたプレートが取り付けられている。風花は一瞬動きを止めたが、そっと扉を押した。
呆気ないくらい、簡単に開く扉だった。
外は、見たこともない景色で覆われていた。木々に囲まれているところからして、山奥か森の中らしかった。それ以上の情報は何も分からない。眩しいくらいの青空には、名前も知らない小鳥が飛んでいる。
振り仰ぐと、周囲とは浮いている建物が目についた。淡いクリーム色の壁でできたそれは、思っていた以上に小奇麗な外観だった。壁には目立ったヒビも染みもなく、廃墟という訳ではなさそうだ。
自分が先ほどまでいたはずの迷宮は、思ったよりも小さく、けれどもその存在感を見せつけるようにそこに立っていた。
復讐のために作られた、それだけの建物。
風花は零れおちそうになる涙をこらえるため、上を向こうとした。それを制止したのは、足元から聞こえた電子音だった。最近流行っている曲が、大音量で流れている。
「……携帯?」
風花の足のすぐそばに、ピンク色のスマートフォンが落ちていた。かわいらしいキャラクターのカバーで飾られたそれを、風花は拾い上げる。モニターには電話の受話器の絵が表示されており、着信を知らせていた。
モニターの下方では、着信元の電話番号が右から左に流れている。その番号を見て、風花は眉をひそめた。
着信元が、自分の携帯の番号だったからだ。
風花は訝しがりながらも、通話ボタンを押した。
「もしもし……?」
返事はない。
「もしもし、えっと……」
『助けを呼ばなくて、いいんですか』
その声を聞いた風花は、縋りつくようにスマートフォンを握りなおした。
「咲弥ちゃん!」
『外に出れたのだから、早く助けを呼べばいいのに。……ああ、ご存知かと思いますが、あなたの携帯お借りしてます。返せないと思いますけど。そこに置いておいた徳田さんの携帯よりも、シンプルで使い勝手がいいですね。気に入りました。携帯の色や機種でも、その人の性格って出るものですね』
咲弥はくつくつと笑う。電波の状態が悪いのか、その声は聞きとりにくかった。
『脱出おめでとうございます。これから何をするつもりでした? ……ああ、答えて頂かなくて結構ですよ。時間がないので用件だけ伝えます。よく聴いてください』
風花はぐっと言葉を飲み込むと、咲弥の声に集中した。なんとかして自首を勧められないか、彼女の側にいてやれないかと考える。十年前は無理だった、――だからこそ。
だが、咲弥の話が終わると同時、風花は森の中へと走り始めた。パトカーが近くにいることは承知していたが、助けは呼ばずに低い体勢で木々の間を走りぬけていく。
誰もいないところまで逃げなければならない。
ピエロはまだ、踊り続けているのだから。
――よく聴いてください。私はあなた達に、嘘を吐いていました。
まず、抗ウイルス薬は人数分用意していませんでした。用意していたのは二本、――あなたと、羽村さんの分だけです。他の人間は皆、初めから殺すつもりでした。
……羽村さんについては、本当に想定外でした。当初の予定では、あなたと羽村さんは解放し、『その後の事』も全てあなた達の判断に任せるつもりでしたから。
羽村さんとあなたは、いじめについて積極的ではないと、気付いていました。だから、最後の選択権をあげようと思っていたんです。
次に、こちらの方が重要なんですが……抗ウイルス薬についてです。ウイルスに関して説明している時、抗ウイルス薬を接種すれば発症を抑えることができる、と言いましたよね。あれ、嘘なんです。
実は、マッドピエロは『失敗作』のウイルスなんですよ。
細菌兵器として裏社会に流通させるには、ウイルスとセットで、抗ウイルス薬も必要となります。例えばテロリストにそれを売る時、「あなた達も感染しちゃったら死にますよ」では意味がないでしょう。その兵器を使う本人達のためにも、そしてその兵器を使って何らかの取引をする時のためにも、抗ウイルス薬というのは必ず必要になります。
だというのに、そのマッドピエロには『正式な』抗ウイルス薬というものが存在しないんです。
つまり、感染してしまえば必ず発症するウイルスなんです。……あなたに注射したのはあくまでも、不完全な抗ウイルス薬だったんですよ。その抗ウイルス薬にできる事は精々、『発症を引き延ばすこと』くらいです。
そしてそのウイルスは、発症すれば死は避けられません。
つまるところ、あなたは今すぐ発症する事こそありませんが、いずれは羽村さん達と同じ末路を辿ることとなります。
……最初に軽く説明しましたが、このウイルスは【発症者の血液を浴びる、もしくは吸いこむ】ことで感染します。感染するのは【発症者】の血液のみです。つまり、まだ発症していない、単なる感染者であるあなたの血液から、他人が感染するということはありません。
更に、発症前にあなたが死亡した場合、ウイルスも死滅します。あなたの死体から誰かが感染するということもありません。これだけは確実だと言っておきます。
……あなたが一番気になっていることをお教えしましょうか。
『不完全な抗ウイルス薬』を打った場合、どの程度発症を抑えられるのか、ですよね。
実は、分からないんです。
動物で何度も実験しましたが、個体によって違っていました。それも、平均なんてものはないくらいに。ある動物は抗ウイルス薬を接種してもすぐに死亡しましたし、違う動物は一年経っても健康体でした。
あらゆる角度から分析してみましたが、結局その原因を突き止めることができませんでした。力不足ですみません。
下手をすれば一時間後にでもあなたは発症しているかもしれませんし、逆に二十年経っても無事に生きているかもしれません。
これは、私にも分かりません。神のみぞ知る、というやつかもしれませんね。
つまりあなたは一生、いつ爆発するか分からない、複雑な爆弾を背負ったようなものなんです。
そしてその爆弾を背負っているのは、この世界であなた一人です。
今日こちらに来る前、そのウイルスに関するデータは抹消してきました。データから完全な抗ウイルス薬を作られないようにね。
完全な抗ウイルス薬を作るには、あなた自身がデータとなるしかありません。
しかし先にお伝えしておきます。恐らく、普通の医者や研究者では、あなたの血液中からウイルスを――マッドピエロを採取することは不可能です。
マッドピエロは『踊りだす』まで、赤血球に擬態する性質を持っています。それもかなり巧妙に。よほどの人間じゃない限り、それを暴くのは困難だと思いますね。
それでも希望を捨てないのであれば、病院へ行ってみてください。血液検査では異常値なしと判断されるでしょう。結果、あなたが被害妄想に囚われていると勘違いされ、放置されるかもしれません。最悪入院となり、院内で『発症』し、患者や医者にその血液を撒き散らしてしまったら……。
考えるだけで面白いじゃないですか。
これから先、どうするかはあなたの自由です。
病院へ行ってもいい。カウンセラーという仕事に没頭してもいい。恋愛してもいい。
ただいずれにせよ、あなたはいつか確実に発症する。
その時、あなたの側にいるのは誰でしょうね。
院内にいる患者か、医者か、看護師か。
クライアントか。
大切な人か。家族か。
誰に、その爆弾を渡してしまうんでしょうね。
……他の人間に感染させたくないのであれば、あなたにできることは一つしかありません。
誰とも関わらず、誰もいない場所で生きるか。
誰とも関わらず、誰もいない場所で死ぬか。
どちらを取っても、独りぼっちですね。可哀想に。
親友だと思っていた人間を捨てるほど、恐れていた孤独。あなたはそれに耐えられるんでしょうか?
――サイレンの音が聞こえてきましたね。ええ、警察です。私があなたの携帯で呼んでおきました。あなたの名前と、『私が皆を殺しました』という言葉も添えてね。
どうします? 私はどちらでもいいんですよ。捕まってくれても、逃亡してくれても。ただ、今捕まればどうなるでしょうね。取り調べや裁判、服役中に発症しないかどうか。私は判断しかねます。
もしも誰にも感染させたくないのであれば、……分かりますよね?
今のあなたならばまだ、『死ねば間に合います』よ。
そろそろ限界ですね。幸運を祈っています。
独りぼっちで踊り続けるピエロがどれほど寂しいか、――独りぼっちに耐えきれず壇上から飛び降りるピエロの気持ち、少しでも理解して頂ければ幸いです。
私は、あなたがいずれ辿り着くであろう場所で、待っていますから。出来ればゆっくり来てほしいですね。
それじゃあね、――風花ちゃん。