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真由が部屋を出てしばらくすると、風花は床に座り込んだ。緩慢な動作で、近くに横たわっているひいなへと目をやる。
ひいなの顔は穏やかで、けれども悲惨だった。風花は残っている力を絞り出し、ひいなの死体に新聞紙をかけ始めた。新聞紙にどんどん血が染み込むのを見て、更に六枚ほど追加してやる。それが終わると、ひいなと優美の死体を避けるように、腰も上げずにずるずると部屋の隅へ移動した。
――あんたは最後まで、神崎の味方でいられた?
「私は……」
壁に背を預け、両手で目を覆う。二人で自転車を漕いだあの日。長い坂道。風に揺れる彼女の髪。二人で笑う、それが普通だと思っていた時。
「ずっと友達でいたいと、思ってた」
言葉にしてみれば、それは単なる願望でしかなかった。
「ずっと友達でいたいと思ってた」
もう一度繰り返す。繰り返せば繰り返すほど、それが単なる否定だと気付く。今でも友達、というのを否定するための文章。
「友達でいたいと思ってた」
友達でいたいと思ってた。けれど、何もできなかった。風花は心の中で付け足すと、嗚咽をあげた。
『きっと一番簡単で、けれど一番難しい』
不意に聞こえてきた咲弥の声に、風花は顔をあげた。見ると、モニターが自動で切り替わっている。
先ほどまで咲弥のアップだったはずの画面は、見知らぬ部屋を映しだしていた。天井に設置されている監視カメラのものらしいアングルで。
「徳田さん!」
画面に映っている人物の名前を、風花は叫んだ。真由はカメラに背を向ける形で立っている。風花はふらつく身体を起こし、テレビの元へと向かった。
涼子の時は何をしているのかすら分からず、愛華の時は音声しか聞こえていなかった。それが今は、映像も音声もはっきりと分かる。風花はテレビにすがりついた。
その時、画面の右上に黒い影ができた。
『――謝ってください』
影が確かにそう言った。見覚えのある、小さな影。
『ごめんなさい、と十回言ってください。心から、私に謝罪してください』
そっと、モニターへと手を伸ばしてみる。
真由にも、影にも、決して届くことはないと知っていた。
「――……咲弥ちゃん」
昔、隣で笑っていたはずの友達は、酷く遠いところにいた。
「あんた馬鹿? あんたの言うことなんて誰が聴くか。この部屋で、私があんたを殺して終わり。でしょ?」
真由が吠えると、咲弥は鼻で笑った。
「それでもいいですけど。徳田さんはいいんですか? 私のような人殺しになっても」
咲弥は何のためらいもなく、自分の事を『人殺し』だと言った。そのことに真由は一瞬ひるみ、けれどもすぐに威勢を取り戻す。
「私があんたを殺したって、それは正当防衛ってやつでしょ?」
「なるほど。では、好きなようにしてください。私の提示するゲームは一つ、『十回、ごめんなさいと言う』です。それが完了しない限り、抗ウイルス薬はお渡しできません」
「あんたを殺してから奪うわよ、そんなの。どうせ、そのポケットの中にでも入ってるんでしょ」
真由は言い終わるや否や、咲弥に向かって突進した。画面越しではない、本物の咲弥がいる。今がチャンスだと思った。ここで全てを終わらせて正行のところへ帰る、チャンス。
勉強はともかく喧嘩ならば、例え咲弥がナイフを持っていても負けない自信があった。一発殴って、脳震盪を起こしてやればいい。包帯で覆われている左顔面を狙ってやろうか。恐らく、死角になっているはずだ。更に右目も潰してやれば、やりやすくなる――
真由の思考は、ここで途切れた。
乾いた音と共に、真由はバランスを崩した。背中から後方に倒れこむと同時に、少量の血が降ってくる。なに、と思った次の瞬間、左腕に熱い痛みが走り、真由は悲鳴をあげた。
「……今のも正当防衛って言うんでしょうか。ねえ、徳田さん?」
硝煙を吐きだす拳銃を右手に持った咲弥は、無表情だった。黒い皮手袋のせいか、拳銃は手と同化しており、やたらと重々しく見えた。
「やはり、西部劇のような早撃ちは難しいですね。片目というのも相当なハンデのようです。おかげで、肩を打ち抜くつもりが腕を掠める程度になってしまいました」
左腕を押さえたまま何も言い返してこない真由を見て、咲弥はがっくりしたように肩を落とした。
「私が武器を持っていることも予想していなかったんですか? だとしたら相当なお馬鹿さんですね。……痛いですか?」
咲弥は右目だけで微笑むと、真由との距離を詰めた。それに気付いた真由は、何とか起き上がり逃げようとする。背中を向けられた咲弥は、笑った。
「駄目ですよ、怪我人が無理に動くなんて」
軽い発砲音と共に、右太腿が抉れる感覚。真由は再び悲鳴を上げ、今度は前方に転倒した。
咲弥は一歩ずつ、確実に真由との距離を詰めていく。銃は、真由に照準をあわせたままだ。真由は右足に手を当てながら、咲弥へと向き直った。
――こいつは本当に、私を殺す気だ。咲弥の表情を見た真由は確信した。こいつはきっと、何の躊躇いもなく私を殺す。真由の思考回路は、瞬時に方向を変えた。神崎を殺すのではなく、ゲームに勝つことを考えなければならない。でなければ、死んでしまう。……このゲームに、勝たなければ。
十回、ごめんなさいを言わなければ。
「ご、ごめんなさい」
一回目。咲弥の肩がかすかに動いた。真由は床に這いつくばったまま、大きく息を吸い込む。
あと九回。ごめんなさいを、あと九回言えばいい。
「ごめっ……」
ごめんなさい。その一言を言いきる前に、咲弥の右足が負傷している真由の左腕を蹴り上げた。
「っ……うああああ!」
「ああ、すみません。一回目の『ごめんなさい』は聞こえました。その後、なんて言いました?」
「――っご、ごめんな」
負傷している箇所に手を当てていたせいで無防備だった顔面に、咲弥の足が振り下ろされた。みしり、と不気味な音がして、鼻から生温かいものが溢れる。それを飲み込んだ真由は、激しく噎せた。
「なんて言いました?」
それは、何の感情も込められていない声だった。
咲弥の目は光を宿していなかった。その目を、真由は見たことがある。優美の、涼子の、愛華の、ひいなの。――それは、死んでいった者の目だった。
真由は鼻に手を当て咳込みながらも、どうにかして言葉を繋げようとした。
「ご、ごめ」
またしても顔面に、咲弥の蹴りが直撃した。今度は口元ではなく、両目に。失明こそしなかったものの、両目が頭の奥へ押し込まれたような感覚に、真由は叫喚した。
「なんて言いました?」
「ごめんな、――がっ」
鳩尾に渾身の蹴りを喰らった真由は、身体をくの字に折り曲げ胃液を吐いた。その拍子に、鼻血と胃液の混ざったものが気管に入る。ごめんなさい、と言う言葉は形にならないまま、真由は噎せ続けた。
「なんて言いました? 言いたいことがあるなら、はっきり言ってください」
咲弥は言葉を切るとしゃがみこみ、銃口で真由の頬をつついた。
「――下品な言葉を大勢の前で叫ぶ。あのゲームを考えたのは徳田さんでしたっけ。帰宅ラッシュ時の駅構内で、恥ずかしい単語を連発して来い。大きな声ではっきりと言わないと、あとで殴るからな。……私、あのゲームも嫌いでした。ですが、あなた達はお気に入りのようでしたね。次々と新しい【単語帳】を持ってきて……」
枝で蟻をつつく小学生のような体勢で、咲弥は真由を見下ろした。
「大声ではっきりと叫ぶ。あなたが教えてくれたんですよ。なのにどうして、そのあなたが出来ないんです?」
「――……ご」
咲弥の左手が真由の右手首を掴み、引っ張った。その直後やってくる、軽い発砲音と重い衝撃。
宙に飛んだのは、真由の右手小指だった。
「なんて言いました?」
「う、あ……」
消し飛んだ指の先から噴き出る血を見て、真由は泣きじゃくった。
死にたくない。死にたくない。死にたくない。
「だって、だってまだ正行は五歳で、だってまだ私死ねない、嫌だ、だって、悔しかっただけなの、あんた全部持ってた、頭良くて顔も綺麗で、羨ましくて、だから、でも、正行がいるから私、死にたくない、ごめ、ごめんなさい、殺さないでください」
しばらく無言だった咲弥は、銃口を下ろした。左顔面に手を当て、笑う。
「逆ですね」
「え……」
「私はあなたが羨ましい。大切なものを持っているから。私が失くしたもの、全部」
咲弥は微笑み、けれど、と続けた。
「徳田さん、『何故謝っている』んですか?」
真由はその質問の意味が分からず、瞬きを繰り返した。咲弥は銃口を床に向け、首を傾げる。
「あなたはどうして、先ほどから私に謝っているんですか?」
「え……だって私まだ、死にたくないから、十回謝らないと、私……」
「そうですか」
――私まだ、死にたくないから。その言葉を号砲に、咲弥は立ち上がった。下ろしていた銃口を、真由の頭部へと向ける。真由は目を見張り、大きく首を振った。
「嘘、やめ、ご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
「……ええ」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、ごめ」
「やはり難しいものですね。謝るのって」
……嘘。早く逃げなきゃ。約束したのに、正行と。寂しい思いさせないって約束したのに。こんな所で死ぬわけにはいかないのに。
逃げなきゃ、動け、動かないと。今死んだら、誰が正行を育ててくれるんだ。
赦してもらわないと。だって私まだ、死ねないから。
「ごめんなさ……」
――おかーさん。ぼく、はしるのはやいって、先生にほめられたよ!
――よかったね、正行。
――今日もいっとうしょうだったよ。
――すごいすごい。流石お母さんの子供!
――うん。うんどうかい、ぜったい見にきてね! ぼく、またいっとうしょうだから!見ててね、ほら、よーい
どん。
頬に付いた返り血を手の甲で拭うと、咲弥は天井に取り付けた監視カメラを見た。自分からは見えない、けれど自分の姿が見えているであろう相手に、静かに語りかける。
「……瀬野さん。これで、残るはあなた一人となりました。このゲームも次で最後ですね。今からそちらに向かいますので、その部屋から動かないでください。――まあ、逃げたくても逃げられないとは思いますが。それでは、また後で」
咲弥は優しく微笑むと、監視カメラを拳銃で撃ち抜いた。