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大人は皆、出来のいい子供が好きなのだと思った。
教師はもちろん、母親だってそうだ。秀才の兄には優しいくせに、自分には何かと怒鳴りつける。そんな母親が、真由は嫌いだった。
母親は「ゆとり」という言葉も大好きで、よく使っていた。お兄ちゃんは「ゆとり」じゃなかったから良かったわね。まあ、真由は「ゆとり」世代に生まれていないと、もっと落ちこぼれていたでしょうけど。そういう意味じゃ、あの子は「ゆとり」でよかったわ……。
勉強で見返してやろう、とは思っていなかった。自分がいくら勉強したところで兄に勝てるはずがないし、そもそも勉強が好きではなかった。
ただ、母親にこちらを向いて欲しい、とは思っていた。
そんな母親だが、真由の同級生の中で、神崎咲弥の事だけはやたらと褒めた。
PTAの集会では、いつもその名前が挙がるのよ。あの子はすごい、将来に期待できる、頭がいいと顔つきまで違う。
真由もあんな風だったらよかったのにね。
――徳田真由を動かしたのは、嫉妬と劣等感だった。
ひいなの動かなくなった部屋は、奇妙な沈黙と赤い霧に包まれていた。風花がぺたりと床に座り込む。ふう、と息を吐いたのは、咲弥だった。
『……正直、これは少し想定外でしたね。誰かが発症する前に、全員にゲームをしてもらおうと思っていたのに。まあ、免疫力には個人差がありますから、ある意味では仕方のないことですが。ゲーム自体には支障ありませんし、よしとしましょう』
「……あんた、マジでそんなこと言ってるの? 頭おかしいんじゃない?」
『私は真面目ですよ、徳田さん。それともなんです? 自分の頭はおかしくない、と言いたいんですか。大好きなママに存在を認めてもらいたいがために、目障りな同級生をいじめていた自分は正しいとでも?』
咲弥の言葉に、真由は驚愕した。唇が勝手に震えだす。
「なんであんたが……それ」
『ああ、図星でした? 徳田さんの心理、思考の偏り、周囲の環境から分析して適当に言ってみただけなんですけどね……。当たっていたのなら恐ろしいことです。まさかそんな八つ当たりのような理由で、私が狙われたなんてね』
咲弥は呆れた顔をすると、声を殺して笑いはじめた。
真由はしばらく黙っていたが、やがて何かを決心したかのように深呼吸すると、風花へと目をやった。
「先に言っていた通り、次にゲームをするのは私。ひいなは死んじゃったから、私の次はひいなじゃなくて、風花。それで問題ない?」
風花に向かって言ったそれは、咲弥に宛てたものでもあった。風花は頷き、咲弥は目を細める。
『流石の私も、死んだ人間にゲームをしろなんて言いません。徳田さんの仰った順番で問題ないですよ。徳田さん、覚悟が決まりましたら3番の扉を開けてください。ロックは外してあります』
「覚悟するのはあんただよ」
真由は決意を込めた瞳で、咲弥を睨んだ。
「私があんたを殺して、それで終わりだから。もうすぐ死ぬのは、私じゃなくてあんただ」
『――楽しみにしています』
「抗ウイルス薬とかいうの、風花の分も用意しといてよ」
『分かりました』
余裕綽々といった咲弥の様子に、真由は舌打ちした。けれど、何としてでも咲弥を殺さなければならない。でなければきっと、正行の所へは帰れないんだ。
――子供には寂しい思いをさせたくない。自分のように。
真由は拳を握ると、風花へと向き直った。
「風花、怖いと思うけどここで待ってて。すぐ帰ってくるからさ」
「でも徳田さん……」
「だーいじょうぶだって! 相手はあのピエロだよ? 私が負けるはずないし」
でもさ、と真由は続けた。
「もし私が駄目だったら……」
聞いたこともないくらい弱々しい真由の声に、風花は固唾をのんだ。
真由は自分と風花を勇気づけるように、ぱっと笑顔を作った。
「――やっぱなんでもない。ちょっと弱気になっただけ。行ってくるわ」
引き留めようとする風花を避けるように、背中を向けて真由は歩き出した。優美とひいなの死体を横切り、3の扉の前に立つ。
単なる扉が、これほど威圧的に見えたことがあっただろうか。
真由は扉に手を伸ばすと、顔のみを風花へ向けた。
「……私さ。神崎から何もかもを奪ってやりたくて、親友のあんたにも目をつけたんだ。神崎を完全に孤立させたかった。親友すらもなくしてしまえばいいと思った。だから、風花を脅したの」
――来ないなら、次のピエロはあんただから。
「あんたにとってはいい迷惑だったよね、こんなゲームに巻き込まれてさ」
「徳田さん」「でも」
風花の言葉をまっすぐに遮る真由の声。そこに浮かんでいるのは、疑心ではなかった。
「もしも私が脅してなかったとしても、……あんたは最後まで、神崎の味方でいられた?」
呆然と立ち尽くしている風花に向かって微笑むと、真由は扉の中へと消えた。
「――正行をよろしく、くらい言えばよかったのに。変なところで遠慮するというか見栄を張るんですね」
3の扉をくぐり、薄暗い廊下を歩く真由の映像に向かって、咲弥は微笑んだ。監視カメラの映像を切り替え、風花のいる部屋をアップにする。風花は部屋の隅で三角座りをしたまま、動こうともしない。
「……敵でも味方でもなかったんでしょう? 瀬野さんは」
咲弥は呟くと、カメラの端末を操作し始めた。それが終わると、テーブルの上に無造作に置いていた小さな箱を手に取る。眼鏡ケースのようにも見える、プラスチック製の黒い箱。
「……まあ一応、約束だから」
咲弥は一人ごちると箱を開け、細身の注射器を取り出した。ゲームに勝った者だけに送るとしていた褒賞。箱の中に二本の注射器が入っていることを確認すると、咲弥は蓋を閉じた。
――あらかじめ用意していた注射器は、二本しかない。咲弥が吐いた、嘘の一つ。
最初から、全員救おうだなんて思っていなかった。
咲弥は笑うと、白衣のポケットに注射器の入った箱を入れた。
「注射器のことも、【注射器の中身】のことも。――嘘ばかりね、私の話は」
咲弥は一人で笑い、箱の隣に置いてあった小瓶に手を伸ばした。中に入っている液体を視認すると、それもポケットへと突っ込む。
そうして最後に、ぐるりと部屋を見渡してみた。監視カメラを操作する端末と、モニター、各部屋にある『トラップ』を作動させるパネル。モニターは、薄暗い部屋の中で煌々と光を放っていた。
皮手袋を嵌めている自分の手に目を落とし、咲弥は再度顔をあげた。
指紋をつけないよう気を遣ったせいだろうか。この建物のどこよりも清潔で、その分不吉な場所でもあるような気がした。
「この部屋を見るのもこれが最後、かな」
咲弥は小首を傾げて微笑むと、モニタールームを後にした。
細い廊下をしばらく歩くと、3の部屋と書かれた扉を見つけた。真由は立ち止まり、からからに乾いた唇を舐めた。
「中に入れってこと?」
呟いてみるものの反応がなかったので、真由は扉を軽く引いた。錆びた金属同士が掠れる独特の音を立て、扉が開いていく。ぐっと拳を握りしめると、真由は部屋の中へと踏み込んだ。
先ほどまで自分達がいた部屋以上に、何もない部屋だった。窓のないコンクリートの壁だけが広がる世界。強いて言うなら、扉が二つ付いていた。ひとつは、自分がたった今通ったもの。そしてもうひとつは、0と書かれた扉だった。
「神崎!」
監視カメラの映像でも見ているのだろうと、真由は天井に向かって叫んだ。
「何をすればいい。早く説明してよ!」
「……今回のゲームは、とても簡単ですよ」
その声に、真由は驚いた。それはスピーカーから流れたものではなく、0と書かれた扉の向こうから聞こえたものだったからだ。
「徳田さん。あなたにやってもらうゲームはね。きっと一番簡単で、けれど一番難しい」
真由の入った扉と同じ音を立て、0の扉が開いていく。真由はその方向を注視した。
先ほどまで映像で見ていた白衣。モニターでは分からなかったが、白衣の下には黒のタートルネックとベージュのズボンを合わせている。そして、左顔面には真っ白な包帯。ゆるくパーマのかかった髪。整った顔。澄んだ声。
先ほどまで画面の向こうにいた人物。それが今、目の前にいる。
「――謝ってください」
咲弥は笑う。
「ごめんなさい、と今から十回言ってください。心から、私に謝罪してください。それが、徳田さんにして頂くゲームです」
咲弥は笑う。真由と、――監視カメラの映像を見ているであろう、風花に向かって。




