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『開』と書かれたボタンを押すと、合掌するかのように密着していた壁が離れ始めた。もはや人間なのかも分からない何かが、壁に大量の染みを残して張り付いている。それはやがてバランスを崩し、1番パネルの上に横たわった。
思った以上にアウトパネルを踏んだな、と咲弥は笑った。ある程度、人間心理を考慮しパネルを配置したが、五枚も踏むとは思っていなかった。
「どうしてこうも、追い詰められた人間というのは素直になるんでしょうね」
友人二人が殺されたという極限状態になると、人間の思考回路はほとんど失われる。特に、雛菊愛華のような『物事を深く考えない人間』は愚直になる。彼女ならば、遠回りである壁際を進んでいくルートは避け、最短ルートである対角線上か、その近くを選択するであろう事は読めていた。
「まさか、2番パネルまで踏んでいただけるとは思っていませんでしたが。……まあ、1番パネルから最も近い11、12番パネルにも、硫酸以上に残虐なパネルを仕込んでいましたけどね」
咲弥は愛華だったモノへ画面越しに微笑むと、映像を切り替えた。
「愛華! 愛華、返事して!」
何かをへし折るような不気味な音と重低音が聞こえてから、スピーカーは何事もなかったかのように黙りこんでいた。テレビは何も映そうとしない。
叫んでも無駄だと分かっている。それでも真由は、叫ぶのを止められないようだった。
風花は優美の死体を一瞥してから、2と書かれた扉へ目をやった。愛華はあの扉の向こうで何をしていたのだろう、と思う。確かに音声だけは聞こえていたが、それだけでは何をしているのかまで分からなかった。何度も数字が出てくるという点ではビンゴのようだったが、アウトやセーフといった言葉からして、それも違うようだった。
「何か言ってよ、愛華!」
『――加持さんに引き続き、雛菊さんの遺体も確認したいですか?』
真由が叫び続けた名前とは、全く違う人間の声がスピーカーから流れた。真由は唇を噛みしめる。
「神崎……」
『雛菊さんのゲームが終了しました。ゲームの内容は、そこで聞いて頂いた通りです』
その声を聞いた真由は眉間に皺を寄せ、スピーカーを睨んだ。
「冗談やめてよ、あんな音声だけで分かるわけないでしょ? 愛華、本当はそこにいるんじゃないの? 聞こえてるなら返事してよ」
『遺体を確認しないと気が済まないんですか? ――ではどうぞ』
咲弥の声が途切れると、テレビの画面が見たこともない部屋の一角を映した。床には数字が書かれており、壁には赤黒い何かが大量に付着している。1と書かれた床に倒れている愛華の死体は、もはや人間の形をしていなかった。血にまみれ、布切れのようになった服だけが唯一、これは愛華だと示している。
見たこともない程の悲惨な映像は、かえって非現実的に思えた。タチの悪い冗談にだまされたような、そんな空気が一瞬だけ風花達を覆う。
「うっ……」
小さく呻いたのは、ひいなだった。口元に手を当て、浅い呼吸を繰り返している。貧血を起こしたのか、若干顔が青白い。だが、ひいなの反応が、風花達を現実に呼び戻した。
そんな空気を読んだのか、唐突にテレビ画面が切り替わった。左顔面が不自然に白い、咲弥の顔が浮かび上がる。その顔は、笑顔で歪んでいた。
『――雛菊さんのゲームは、『進む』こと。それだけでした』
「なんなの、それ……」
『徳田さん、演技が下手ですね。自分が助かりたくて必死ですか?』
咲弥の指摘に、真由は黙り込んだ。風花とひいなは真由へと視線を移す。
『そんなに頑張って情報収集したところで、雛菊さん達のゲームと、これから徳田さんにやって頂くゲームは全くの別物ですので意味がありませんよ。それともまだ、その部屋から脱出する方法を模索しているんですか?』
「……なに言って」
『先ほどから、私に探りを入れようとしていることが丸分かりなんですよ。やるならもっと上手くやって下さい。駆け引きが苦手なのであれば、いっそのこと素直になって下さい。今のあなたは、ただの胡散臭い人間でしかありませんよ』
「……っ」
『私は単刀直入に聞きましょう。あなたが今、一番知りたいことはなんですか? 私のことですか? ゲームのことですか? それとも……正行君のことですか?』
咲弥の言葉に、真由は表情を変えた。見たこともないような剣幕で、テレビ画面へ怒鳴りつける。
「正行をどうしたの!?」
『どうもしてませんよ、安心してください。ただ、あなた達の事は誘拐する前に色々と調べさせて頂きました。徳田さんはシングルマザー。ずいぶん派手な不倫をしたようですね。お子様の正行君は、今年五歳。……ぽっちゃりしているところが、少し徳田さんと似ているように思います』
先ほどとは打って変わり、真由の表情が蒼白になる。咲弥は笑った。
『もちろん、他のお二方のことも調べていますよ。羽村さんは短大卒業後、お母様が働いていた弁当屋でパートをしているようで。接客は苦手だからとレジには一切出ず、揚げ物ばかり担当しているんですね。お母様とそっくりです』
「神崎さん……。お母さんに、何したん……!」
『徳田さんとのやり取り、聴いてました? 私は何もしていませんよ。ただ、調べただけです。――瀬野さんは今月で大学院を卒業、来月から病院勤務でしたね。修士論文、読ませて頂きましたが素晴らしかったです。社会心理も取り入れているあたり、瀬野さんらしいなと思いましたよ。その調子でお仕事の方も頑張ってください。まあ、ここから無事に脱出できたらの話ですが』
風花達は顔を見合わせ、黙り込んだ。咲弥の言っていることを、誰も否定しなかった。
どれだけの時間をかけて、全員の事を調べたのだろうと風花は考えた。それと同時に、ふと思った。
「……神崎さんは?」
『はい?』
「神崎さんは私達の知らない間、どんな生活をしていたの」
風花の質問に、咲弥はふっと笑った。左顔面に巻かれている包帯を、左手で軽く押さえる。それから唐突に無表情になると、淡々と語り始めた。
『……あるところに、ピエロと呼ばれている女の子がいました。女の子は、小学生の間は人間として扱われていました。しかし中学生になる頃から、同級生にいじめられるようになってしまいます。ピエロになった女の子は、舞台の上で一人、踊り続けなければいけませんでした。途中で舞台から降りることも許されません。舞台の上で滑稽に踊り続け、嗤われるためだけにそこにいました。……独りぼっちのピエロは泣くこともできず、親友すらいなくなった舞台にいるしかありませんでした。毎日、毎日、独りぼっち。それはとてもみじめで、恐ろしいものでした。そんなピエロはやがて、復讐することを決意しました。自分の人生のすべてを捨ててでも、観客全員に復讐してやる。自分を嗤いものにした奴を、今度は自分が嗤ってやる。お山の大将にその子分、腕っぷしだけの人間、単なる暇人、傍観者、――裏切り者。のうのうと舞台を見ている観客みんな、ピエロにしてやる。そう決めたピエロは、狂ったように踊り始めました。頭がおかしくなっても、顔がつぶれても、踊り続ける覚悟で。みんなみんな死んでしまえ。これが自分の、……ピエロの最後の舞台だ』
それは一字一句間違えずに覚えたセリフを、ただ述べているだけのようだった。
あえて、感情を込めないよう話しているようにも聞こえる声。
咲弥はふ、と話すのを止めると、風花に笑いかけた。
『――もっと詳しく聞きたいですか? こんな、つまらないお話』
風花は俯き、首を振った。咲弥は疲れたように息を吐くと、何かを言おうと口を開いた。それを遮ったのは、俯いたままの風花だった。
「――――――ないよ」
『……え?』
「つまらなくなんか、ないよ……」
震える声はとても弱々しく、どこかへ吸収され消えた。
風花の反応が予想外だったのか、咲弥は一瞬動きを止めた。しかし小声で、『やっぱりあなたは馬鹿ね』と言ったのを、風花は聞き逃さなかった。
その声は決して、蔑みから出るものではなかった。
『……なんだか白けてしまいましたね。ゲームを再開しましょうか。次は徳田さんでしたね』
咲弥に指名され、真由は目を泳がせた。咲弥は嘲るように笑う。
『嫌がる雛菊さんは引きずってでも強制参加させたのに、自分となると黙りこむんですね。本当に分かりやすい人です。……どうします? 命がけでゲームをするか、命を捨ててそこにいるか』
「……う、え」
咲弥の声と混ざるように、低い呻き声がした。風花は振り返る。その声を出したのは、指名されている真由ではなく、ひいなだった。風花はそっと、ひいなに近づく。
「……羽村さん? 大丈夫?」
土気色の顔をしたひいなが、弱々しく首を振る。その頬に手を当てた風花は絶句した。顔色とは対照的に、酷く熱を持っている。よほど寒いのか、羽織っていたポンチョの肩をギュッと抱き寄せるようにしたまま、ひいなは浅い呼吸を繰り返している。
「羽村、さん?」
――まさか。嫌な予感が、風花の背筋を走った。
『……あーあ』
残念そうな表情と、呆れたような口調だった。風花がテレビへと目をやると、咲弥はやれやれと肩をすくめた。
『羽村さん達が岸野さんの血液を浴びてから、まだ二時間も経ってないんですけど。……その様子だと発症、したみたいですね』
風花と真由は瞠目した。
ひいなは自分自身の異変に気付いていたのだろうか。取り乱すこともなく、そっと目を瞑った。彼女の浅い呼吸音だけが残った部屋に、咲弥の死刑宣告が下される。
『羽村さんが死ぬまで、残り時間は約三分です』