Ⅲ 妖精王オベロン
薄靄のかかる森の中、帰りの目印となる真っ赤な木の実をばら撒きながらやってきたのは、小さな泉だ。
木立の合間を抜けた先には、滾々と静かに湧き出る水源があり、苔むした石で縁取られている。光虫が水辺を飛び交い、霧に濡れた樹葉から涙のように滴が落ちては、泉に波紋を刻んでいく。
そんな幻想的な風景の中に、リルは目当ての人物を見つけた。
その人は、リルが「妖精のお立ち台」と勝手に呼んでいる一つの石の上に立っていた。直径二十センチほどのその石の真ん中辺りに、小さな足の形をしたようなくぼみがあるのだ。その上に立ち、ジッと水面を見つめる妖精がいた。
身の丈そのままに、女王様の羽とよく似た形をした、薄い青色の羽。月桂樹の冠をかぶり、女王の衣装に赤色を足したような豪華な装飾のローブを着込んだ、妖精王オベロンその人だ。
驚かさないようそっと近づく。
ただ一点を見つめるようにして動かない妖精王にリルは声をかけた。
「あの、オベロン様……」
「わわっ、ビックリした! 後ろから急に声をかけないでくれ」
肩を跳ねさせ、妖精王は鼓動を落ち着かせるように心臓の前に手を置いて振り返る。
「やっぱり、ここにいたんですね」
「…………」
この場所を目的にしてやってきて正解だった。
この「妖精のお立ち台」は、なにを隠そう妖精王オベロンがつけた足跡だったのだ。自然をこよなく愛する彼は、この泉をとても気に入っている。暇さえあればここにこうして、ボーっと水面を眺めに来るほど、この泉はティターニアを除いたならば、彼の心の安らぎと平穏、癒しとなっていたのだ。
しかし、訳有って、今は彼女の元を離れている。妻と喧嘩をし、挙句仲良くしている家族の人間の娘に居場所を突き止められ、妖精王は訝しげに表情を歪めた。
「妻の、差し金でやってきたのか……?」
「いいえ、違います。わたしの意志でここに来ました」
リルの返答に、妖精王はホッと安堵する。
「この泉の美しさは、やはり種族を問わず魅了されてしまうものなんだな。自然というのは初めから調和された在り方だ。特にこの森なんかは、人の手がほとんど加えられていない、原初の森と酷似した環境だと言っても過言ではないだろう。故に泉は有り触れた自然な姿を晒し、ただそれだけに自身を美しく見せるよう努める。君もそう思わないか?」
「は、はぁ、まぁ、思いますけど……」
これはまずい、とリルは心の中で呟く。
オベロンは、自然をあまりにも愛でるゆえに、その素晴らしさを語る癖があるのだ。以前にもそんなことがあり、その時は、昼から夕暮れまで延々と話を聞かされた。
今は、そんな時と場合ではないというのに。
「そうだろう。人間の手が加えられた自然などというのは、もはや人工物と相違ない。ありのままの自然は、本当の意味での心の開放を約束して――」
「あ、あのっ! オベロン様!」
「ん、なんだ?」
話を途中でへし折られ、いささか不機嫌そうに眉を寄せる妖精王。
機嫌を損ねたのは申し訳ないと思いながらも、夫婦の危機を救うため、リルは心を熱く保ち問いかける。
「こんなところで、何をしているんですか?」
「何って、泉を見に来たんだが……」
「お一人でですか? ティターニア様は……?」
事実を知っていながらも、知らない体を装って訊ねてはみたものの――
「知っているんだろう。僕と彼女が、その、喧嘩をしたってこと」
初めの会話でなんとなくだけど想像できた。
遊びに来た、ではなく、自分の意思で来たと言ったのだから、何かしらの事情を知っているのだと推測出来る。しかも少女は毎年世話になっているお爺さんの孫なのだ。犬も食わないような夫婦喧嘩であるけれども、しかし事は緊急性と重大性を要しているのだということも知っている。
申し訳なさ気に小さく頷くリルから目をそらし、妖精王は気まずそうに水面に視線を落とす。
わがままな僕たち夫婦に、こんなに親身になってくれる人間の娘を、落ち込ませてしまったことへの罪悪感。
そして、小さく吐息を漏らした。
「……宝石を、探しに来たんだ」
「えっ?」
くぐもった声で、聞き取りづらかった。
咄嗟に返ってきた疑問の声で、聞こえなかったのかということに反省し、妖精王は照れくさそうに声を荒げて言った。
「宝石を探しに来たんだよっ!」
「あ、ああ、宝石ですか。……え、宝石? いったい何に使うんですか?」
「そんなもの、もちろん妻との記念日に、妻を飾るための指輪を作るため、に決まってるじゃないか」
「忘れてなかったんですね!」
「あ、当たり前だろう」
女王様みたいにプイッとそっぽを向く妖精王の頬は、色付きかけのりんごみたいにほんのり赤かった。
この二人、なんだか似てる、と照れ隠しの仕草が可愛くて、ついくすくすと笑ってしまう。
でも、と妖精王は近場に落ちていた細枝を手に取りながら、困ったような顔をして再び水面に目を移す。
「どうしたんですか?」
訊ねると、リルの前方を携える枝で指し示しながら妖精王は言う。
「目の前にその宝石があるのだが……」
周囲十メートルくらいの広さしかない泉の、まだ手前の浅瀬側に、キラリと何かが反射したのが見えた。
「そんなに深くないですし、取りに行けばいいのに」
それは足首までの靴下くらいの深さしかないのだが……。
簡単なことのように言ってのけるリルに、妖精王は情けないと肩を落としながら答えた。
「羽が濡れてしまうんだ。僕たち妖精の羽は、少しでも濡れると飛べなくなってしまう。乾かすのにかなり時間がかかるんだよ。結婚記念日に妻と踊るため、いまは極力濡らさないように努めているんだ」
ああなるほど、と手を叩き、
「だったら、私が取ってくるわ」
とリルは言う。
そして自分の靴が濡れてしまうこともいとわずに、ザブザブと泉の水を蹴って進む。こんなことなら長靴を履いてこればよかった、なんて少し思いながらも、目標地点に着くと腰を屈めた。
「あった!」
微かな光を反射して光る小石を抓みあげるようにして拾い上げる。それは、真っ赤な石だった。リルの小指の爪よりも小さいけれど、確かに、それは宝石だ。
記憶が正しければ、「ルビー」だった気がする。母の誕生石でもあるから、なんとなくだけど覚えていた。
手のひらで大事に包み、リルはお立ち台で構える妖精王の元へと戻った。手のひらを差し出して開けると、赤い宝石がころころと転がり、指の先で止まる。
木の枝を投げ捨てて手を泉で洗い、妖精王は宝石を受け取った。
「ありがとう、娘よ。これで記念日の指輪を作れる」
よほど急ぎなのか、礼を述べ立ち去ろうとしたところで、しかしふと妖精王は立ち止まりこちらへと振り向いた。
「――娘よ、くれぐれもこのことはティターニアには内緒だ」
「どうして?」
「妻は僕が結婚記念日を忘れていたと思っている。忘れるはずなどないというのに。しかし、そう思い込んでいる」
「うん。だから、忘れていないんだよって伝えてあげれば、仲直りできるんじゃないかな?」
「それはそうだと思う。しかし、僕は思いついたんだ」
何を? とリルが問うと、妖精王は今しがた手に入れた赤い宝石を、光にかざして言った。
「妖精の真心と呼ばれるこの宝石できれいな指輪を作って、結婚記念日に、改めてプロポーズしようと思うんだ。彼女を、喜ばせてあげたいんだよ」
まあ! と手を叩いて感激するリルに、オベロンは真摯な眼差しを向ける。口元で人差し指を立て、
「だから、ティターニアには内緒だ。これは、二人だけの秘密さ」
ついでにウインクまでしてみせた。
「分かったわ」
妖精王の意向を汲み取ったリルは、同意を首肯で表した。
さらに妖精王は微笑を浮かべて続けた。
「それに、喧嘩してぷりぷり怒ってるティターニアも、僕はけっこう好きなんだ」
照れくさそうに頬を掻き、背を向けると、妖精王は泉から立ち去った。
自分が心配するほどのことではなかった。杞憂に終わったことにホッと胸をなで下ろし、リルは大祭の日を思う。きっと素敵な一日になるはずだ。こんなにも思われているなんて、ティターニア様は幸せね。
けれど安心したのも束の間だった。そういえばと、不意に思い出したのはユリの花。オベロン様に聞けばよかったと、後悔しても時すでに遅し。
はぁ、と吐き出したため息は、シンとした森の静けさの中へと紛れた。