39 悪夢
「ほら、言った通りだろ?」
カイの声と、同時に焚火が大きく爆ぜた音とに現実に引き戻された優姫は、ゆっくりと顔を上げた。
「……え?」
「だから、ほら! アリエスとレオのことだって! あの二人、昔は仲が良かったんだよ」
仲が良かった、と言うには語弊があるようにも思えたが、それよりも聞きたいことは沢山あった。
「……カイって、結構歳とってたんだ」
「何だよ、それかよ。まあ確かにそうだけどさ。でもいかした老紳士って感じだったろ?」
「あはは、確かにそうだね」
――自分でも気のない返事だと思った。
もっと他に言わなければいけないことや、聞かなければいこないことがあることも分かっていた。それなのに、肝心の話題に踏み込めない。
「でも今と全然違うよね」
「いやいや、そんなことないだろ! 俺は今だってこう見えても頭脳派だし」
「ていうか、頭脳派は考えなしにスリなんてしないと思うんだけど」
当たり障りのない話題を繰り返す優姫。
――違う。聞きたいことは、そんなんじゃない。けれど――怖い。
「……って、なんかまた顔色悪いけど。大丈夫、お姉サン?」
優姫は、自分の心の中に生まれた恐怖がますます大きくなっていることに気付いた。それに反応するように、体には異変が訪れていた。
「え? あれ、何かおかしいな。どうしたんだろ、私……」
「もう寝たほうがいいんじゃねーの?」
「うん……そう、だね。そうしようかな」
結局、優姫はそれ以上聞くことも出来ず、カイに促されたこともあり、休むことにしたのだった。
恐怖。
アリエス、エルレイン、そしてカイの持つ石の記憶を見て、膨らんでいくそれは、優姫にとって得体の知れないものだった。
なぜ、こんなにも怖いのだろう。
何が一体、恐ろしいのだろう。
いくら考えても出ない答えに、優姫は吐き気すらも催してきた。毛布にくるまり、必死にそれを抑えていると、隣で既に眠っていたと思われたエルレインが、優姫に声をかけてきた。
「……ユウキ」
口元を押さえ、その声の主に顔を向ける。そこには揺らめく焚火の炎に照らされたエルレインの顔があった。
「エルレイン……、まだ起きてたんだ?」
「カイにも見せて貰ったの?」
てっきりもう眠ったと思っていたエルレインから唐突に返され、優姫は虚をつかれるが、すぐにその質問を理解し答える。
「え、うん、まあね。今、見せて貰ってきた所」
「ふうん、そう……」
自分から尋ねた割に、素っ気ない返事をするエルレイン。そんな彼女はぷいと視線を逸らし背を向けてしまったかと思うと、再び口を開いた。
「……あんたさあ、アリエスからも見せて貰ってたでしょ。そんなに、昔が気になるの? 昔のことなんて、思い出したって何もいいことないわよ」
「エルレイン……?」
宵闇に焚火が爆ぜる音が響く。
エルレインは背を向けたまま、優姫の言葉を待っているようだった。
「そう……かな。そう、だよね。実を言うと、だんだん怖くなってきちゃって……」
「それは、あんたが思い出したくないことを思い出しかけてるからよ。いいじゃない、別に、昔のことなんて思い出さなくたって」
思い出したくないこと。
その言葉に優姫の心臓が跳ね上がった。毛布を握る手に汗が滲み、自分の顔が引きつっているのが分かる。
「いい? あんたは今、ユウキっていう別の人間なんだから、無理にヴァルゴだった時のことなんて思い出さなくていいの!」
だからもう寝なさい、とエルレインが言い放つのを受け取った後、優姫はまどろみに身を任せた。
――思い出したくないことを思い出しかけている。そんなことが、もしあったとしたら――。
そんな不安が消えなかったからかもしれない。
その日の晩、優姫は夢を見た。
◇◇◇
男の黒い影がにじり寄る。
すでに部屋は締め切られ、体の自由は奪われている。
私は、誰に聞こえるわけでもない助けを呼んだ。何度も、何度も、何度も。
けれど誰にも届かないその声は、無情にも地面に落ちて息絶えている。
……でも、自業自得だわ。
アイツの忠告を聞かなかった私が、全部悪いのよ。
「さっきまでの強気はどうした、お嬢さん?」
男のにやついた顔が間近に迫る。
汚い。
その汚い顔を近付けないで。
「……酒臭い息を撒き散らさないでくれる。鼻が曲がるわ」
かさついた唇が耳元に寄せられる。気持ちが悪くて身震いがした。
男は下卑た笑みを浮かべながら、ごつごつした手で私の頬をなぞり、それを次第に下ろしていく。
「震えているな。俺が怖いか、へへ……」
気持ちが悪い。
吐きそう。
「触らないで!」
「……うわっ、何しやがる!」
すぐそこにある顔に吐き出した唾が命中しないはずはなく、男は頬についたそれを袖で拭うと、私の髪をぐいと引っ張り反対の手を大きく振りかぶった。
「この、糞女がぁっ!」
男の怒声と同時に響いたのは、何かが破裂するような大きな音。そして走った頬への痛み。
ぶたれたと気付いたのは、口中に鉄錆の味が広がったからだ。
その衝撃は想像以上に激しく、視界はぐらぐらと揺れ、思考がままならない
。
でも、このまま意識を手放してしまったほうがいいのかもしれない。そうすれば、何も考えずに済むもの。そう、何も――。
男が再び手を振り上げたのを最後に、私は意識を手放した。