3 異界
泣いてるの?
いつも仏頂面のあなたが。
「どうして……」
そんなの、当たり前じゃない。
どうしてなんて、よく言えるわね。
「……こんなのは、裏切りだ……」
怖い顔。そうそう、あなたが私に見せる顔は、いつもそうだったじゃない。
泣くなんて、らしくないわ。
「俺は……こんなことのために――」
ねえ、いつもみたいに憎まれ口を叩いてよ。
ねえ、いつもみたいに「がさつな女だな」って言ってよ。
「――俺は、こんなことを望んでいたんじゃない」
ねえ……、聞こえないの?
私の声、聞こえてないの?
ああ……、そうだ。
私は――
◇◇◇
「……ん……?」
いつの間にか気を失っていた優姫は、夢見心地で目を覚ました。
夢だったのだろうかと思うほど、あまりにリアルな夢。丈の短い草原で、抱き合う男女。それは自分といつもの夢の彼、レオだった。いつもと違うのは、夢の中で交わした言葉を目が覚めた今も覚えているということ。
不意に手を伸ばした。その先にあるのは、厚い雲に覆われた暗い空。それは夢の中で見た空と同じように見えた。遠目には稲光も見える。いやな天気、と優姫はぼんやりと考えた。
そこでようやく、自分の置かれた状況を思い出した。
「って、ちょっと待って! 私……っ」
がばっと跳ね起きた優姫は、辺りを見回し頬をつねった。夢の続きにも似た風景だけれども、頬のじんじんとした痛みが、確かに目の前に広がる景色が現実であることを教えてくれていた。
「私、家に帰る途中だった、よね」
思わず疑問形になるのにも理由がある。立ち上がった優姫の眼前に広がるのは黄金色の草原。見慣れた通りも、よく立ち寄るコンビニも、いつも赤信号に引っ掛かる交差点も見当たらない。通い慣れた帰り道は、そこにはなかった。
どさりと音がして視線を落とすと、それはどうやら気を失っている間も大事に抱えていたらしい通学鞄だ。今日の昼に食べた弁当の包みが半分顔を覗かせている。
優姫の脳内は、この状況へと至った経緯を思い出すべく目まぐるしく働いていた。 不審な人影、金の大蛇、そして――。
「あっ」
ぐるりと見回すが、そこに人影はない。もしかしたら、と優姫が期待していたのは自分の窮地を救ってくれた理想の青年、レオの姿。
「……いないか」
優姫は肩を落としたが、すぐにかぶりを振った。がっかりなんてしている場合じゃない。
「ここ、どこ」
何か手がかりはないかともう一度周囲をぐるりと見回すが、この場所がどこであるのか知るための術を見つけることは出来なかった。あえて言うなら、何もない。丈の短い草原はどこまでも続き、建築物はもちろん、人っ子ひとり見当たらなないのだ。 どうしよう、と呟く声が風に揺れる草の音に掻き消される。いよいよ不安になってきて、優姫は声を張り上げた。
「おーい! 誰か!」
しかし、当然ながら返事はない。再び大きく息を吸い、吐き出す。
「ねえっ! 誰かいないの!? 香苗ー!」
家族や友人で思い付く人の名を全て呼び終えた頃には、優姫は肩で息をしていた。
風が止むとその場所はあまりに静かだった。ただその場に立ち尽くす足が震える。いきなり訪れた得体の知れない状況に、押し潰されそうになっていた。
「ねえ……お願い、誰か返事してよ……。お願い……っ」
上手く言うことの聞かない足を無理矢理進める優姫の目から、はらりと涙がこぼれた。一度溢れた涙はとどまることなく頬を伝い落ちていく。
「怖いよ……、誰か、誰か助けて……」
何がどうしてこんなことに、と思いを巡らしても答は出ない。ただ分かっているのは、得体の知れない場所に一人ぼちだということ。そしてそれは紛れも無い現実だということ。
優姫はどこへともなく歩き続けた。
その時だった。どこからともなく聞こえる獣の唸り声。例えるなら、虎やライオンのような獰猛な――。
「ひっ……!」
恐る恐る振り返った優姫は、視界に映ったそれを見て思わず悲鳴を上げた。
虎に似た獣が涎を垂らしながら近付いている。しかしその姿はあくまでも虎に似た何かであって虎ではない。なぜならその四肢は鱗で覆われており、さらには本来尾が生えている場所でうねうねと蠢いているのは太い蛇であったからだ。
あまりの恐怖に声も出せず後ずさる優姫とにじり寄る獣。その距離は次第に詰め寄られていく。
「来ないで……っ」
ようやく声を絞り出したその時、踵が何かにぶつかり、体勢を崩した優姫はその場に尻餅をついた。獣の大きな影が、足が、獲物を食いちぎろうと開けた大きな口が目の前に迫る。
優姫は歯を食いしばり目を閉じた。
刹那――上がったのは獣の咆哮。
グゥオオオッと空気を揺らす声と同時にどさりと倒れ伏す音が響く。
優姫は目を開けた。
そこにあったのは今まさに自分に襲い掛かろうとした獣が、ぴくりともせず横たわる姿。牙の間からだらりと舌がはみ出しているのは、死んでいるからなのだろうか。
今だに早鐘を打つ胸を押さえ、顔を上げたのは、獣とは違う気配がしたからだ。
「……大丈夫か」
そこにあったのは、待ち望んでいた救世主の顔。一陣の風に揺れる黒髪と深緑の瞳の持ち主だった。