36 険悪な休憩
「はああぁ」
リードベルクを発ち半日。
アリエスの話では、次に目指すべき地は遥か南に位置するサンディーアという町であるようで、そこに到達するには三日はかかると言う。地図を見れば、確かに南方きは他に町と呼べるような場所はなく、思わずを声を漏らす優姫の隣では、あからさまに大きなため息を吐き出すエルレインの姿があった。
「ちょっとぉ……いい加減、まともな場所で休憩したいんだけど。こんなに急ぐ必要なんてないでしょ!」
しかしエルレインの言葉も最もだった。ヨーク島で無駄足を踏み、長い船旅に加え、リードベルクではまともな休息をとれたわけでもない。その上、さらに半日歩き通しで、食事は保存食の干したパンや肉だったのだから。
優姫もカイも言葉に出してはいなかったが、エルレインの発言には二人とも内心大いに賛成していた。
「……何を言っている。ゾディアック集結は私達の急務。こうしている内にも、世界は滅亡へと近付いている」
「そんなこと言ってたら、はっきり言って私達のほうが先に死ぬわよ! 私、前から思ってるんだけど、あなたちょっと焦り過ぎじゃない?」
半ば怒り気味な調子でエルレインが言い放つ。その瞬間、周囲の空気がぴんと張り詰めたことに気付いた優姫と、もっとやれと言わんばかりに目を輝かせ見守るカイ。
「何が言いたい」
静かに答えたアリエスの視線は、明らかに普段より鋭い。エルレインもそのことに気付いていないはずはなかったが、すでに後に引くことは出来ないのか、さらに続ける。
「ヨーク島だって結局無駄足だったし、カイとサイのことだって――」
言いかけてから、ちらりと横目でカイの顔を見て途中で止めたエルレインの言葉に、カイはいまいちぴんときていないようだった。優姫ははらはらしながら、二人を交互に見つめる。
「エルレイン」
張り詰めた空気の中、アリエスの声が響くと、三人の視線は彼の空色の瞳に一斉に向けられた。
鋭く細められたアリエスの瞳に射抜かれながらも、エルレインは怯まない。
そして、再び空気を奮わせたのはアリエスだった。
「休憩はあの丘を越えてからだ。それで文句はないだろう」
それはエルレインの要求を受け入れたということだった。
てっきりアリエスの怒りが炸裂するのではと思い込んでいた優姫は、肩透かしを喰らった気分になりながら、自らの肩を撫で下ろした。それはどうやらエルレインも同様で、険しい表情ながらも安堵の息を漏らしたことに、優姫は気付いていた。
アリエスは何も言わず踵を返すと、休憩場所と指した丘の向こうへとまっすぐ歩を進めていった。
日がすっかり傾き、空が宵闇に包まれたその頃。
ぱちぱちと薪が爆ぜる音を背に、皆は無言で夕食の干したパンと肉を口に運んでいた。何度食べても慣れない食感のそれらを水で流し込みながら、優姫は思い切って口を開こうとしたが、それは新たな仲間に先を越される。
「なーんか、暗くないっスか」
同じように干し肉を頬張りながら、胡座をかいたカイが周囲をぐるりと見回した後言い放つ。
しかし、アリエスはそんな青年を一瞥するが答えることはなく、エルレインもまたぎろりと睨みをきかせてから、勢いよくパンを口に放り込んでしまったため、カイの発言は見事に流されてしまった。そんな彼を不敏に思ったのと、この重苦しい空気を何とかしたい思いで、優姫は口を開く。
「ね、ねえ。次に私達が目指す所……サンディーアだっけ? どんな所なの?」
大きく薪が爆ぜた後、小さく嘆息してアリエスが優姫の問に答えた。
「ひとことで言うならば、砂の街だ」
「砂……ってことは砂漠にある街ってこと?」
「そうだ。砂漠の中央部に広がるオアシスを囲むように造られた古い街、それがサンディーアだ。私も何度か訪れたことがあるが、このエーアデに現在存在する街の中では、比較的災厄の被害が少ない地であることは間違いないだろう」
その答えにふむふむと頷く優姫。
砂の街――それだけ聞けば、胸がわくわくとしてきそうなものだったが、ヨーク島での出来事を経験してしまった今、全ての話を鵜呑みにすることは出来ない。
「……またヨーク島みたいなことになってたりしてない、よね?」
ヨーク島での悪夢のような出来事。
地獄の果てのような景色と、闇に光る双眸を持つ沢山の獣。それらに襲われかけたことを思い出して、優姫は思わず身震いする。
「それは……分からない。あれは私も初めて遭遇した事態だった。だが、しかし、こうも言えるだろう。今まで起きたことのない変化――それはユウキ、お前がヴァルゴとして、先代ゾディアックが旅を失敗して以来初めて現れたからだ、と」
ばちんと大きく薪が爆ぜる。
つまりは、ようやく転生を果たし、エーアデに現れたというヴァルゴたる自分がヨーク島での異変を引き起こしたと、アリエスは言うのだ。
「私、のせいってこと……?」
「そうではない。災厄に侵食されていくこの世界に新たな変化が訪れたということだ」
アリエスの言の端には、その変化が吉兆であるかのような、前向きな気持ちが込められている。優姫は暗い気持ちに沈んでしまいそうになりながら、ヨーク島で出会ったレオの言葉を思い出していた。
――オフィウクスの支配と幻影――その意味は一体なんだったのだろう。それは、吉兆と捉えていいものなのだろうか。
そして、ついにその疑問を口にした。
「あのさ……、オフィウクスってなにか分かる?」
その瞬間、再び空気が張り詰めたような気がして、慌てて口元を押さえる。
しかし、時すでに遅く。
「……それをどこで耳にした」
「えっ、えっと、あの……あっ、カイの家でお医者さんが言ってたじゃん! オフィウクス教徒がなんとかって」
しどろもどろになりながらも、優姫は記憶の糸を手繰り寄せてそれを口にした。そんな彼女に、アリエスは鋭い眼差しを向ける。エルレインに助けて貰おうと視線を送ってみたが、我関せずといった表情を見せた後、そっぽを向かれてしまった。
「ね! カイ、あなたは知ってるんでしょ!」
耐え切れず、優姫はカイに向き直り話を振ると、振られた青年はばつの悪そうな顔でため息を吐き出した。
「……オフィウクス教ってのは異教だよ。ゾディアック教とは正反対の教えを説いてるんだ」
ここにきて、またもや初耳の単語が現れたことに優姫は内心困惑した。しかしそれを察したのか、低い声で続けたのはアリエスだ。
「エーアデで信仰されているのはもちろんゾディアック教だ。歴史は古く、その教えに則って託宣を授けられ、ゾディアックたる十二人は世界救命の旅に出る。“三百年に一度、世界に災厄降りかかる時、星より定められしゾディアック集結し約束の地で祈りを捧げん”――この世界に古くから伝わるこの言い伝えもまた、ゾディアック教の教典に記されているものだ」
「そうそう。それに対してオフィウクス教は出来てからまだ三百年しか経ってないんだよねー。つまりほら、前のゾディアックが旅を失敗してからってこと」
「……オフィウクス教は、はなからゾディアックを否定している。ゾディアックという存在こそが、世界を混沌と破滅へと導くと、この異教はそう説いているのだ。そしてゾディアック教の教えには存在しない、十三番目の星宿――オフィウクスこそが救世主と信じ、唯一絶対の神としていただいている。……馬鹿馬鹿しい」
「まあ、先代ゾディアックの記憶がある俺達にとっては、面白くないよなー……結果は失敗だったけど、それでも命懸けで世界を救う為に頑張ってきてたのにさ」
「本来であれば異教徒は罰すべきなのだが、現状は見て見ぬことになっているようなものだ。不甲斐ないことだが、騎士団は日々各地に現れる怪物の討伐に追われ、手が足りなくてな。それに、奴らの根城は巧妙に隠されていて、王都にはオフィウクス教の情報はほとんど入ってこない」
交互に説明をする二人の話を聞きながら、優姫はそれを頭の中で整理してみる。
この世界、エーアデで昔から広く信仰されているのがゾディアック教であり、その教えに則って託宣は授けられ、ゾディアック――つまりは自分達が旅立つことになった。そして三百年前、先代ゾディアックが旅を失敗させてしまってから新たに布教されたのがオフィウクス教。その教えはゾディアック教とは正反対のもので、十三番目の星宿オフィウクスを唯一神としている。
さらに本来はオフィウクス教は罰する対象だが、騎士団は怪物の討伐に追われ手が回らない。
しかしそこまで整理して、再び疑問が浮かび上がる。レオは、ヨーク島をオフィウクスに支配された地と言ったのだ。そして今思い返してみれば、この世界で初めて出会った時もまたそう言い放ったのではなかったか。
だとすれば、矛盾している。
オフィウクスの支配というのが、オフィウクス教のその場所での広まりを例えたことだとしたら、人が住める場所とは到底思えないヨーク島には当て嵌まらない。人がいなければ、信仰は広まらないのだから。
しかしその疑問を口にするには、必然的にレオのことも説明しなくてはならなくなる。優姫は疑問を自らの胸に納め、頷いて見せた。
やがて再び沈黙が落ちたその時、口を開いたのは、それまで三人のやり取りを傍観していたエルレインだった。
「……そう言えば、あんた――カイ。ラトハルクって言ってたけど、なにそれ? 私、聞いたことないんだけど。話の流れ的に町の名前だと思ったけど、地図にだって載ってないわ」
一人焚火から離れ地図を眺めていた彼女は、視線をカイに移し怒ったような口調で話しかける。
「……そこがオフィウクス教の根城ってやつなんじゃないの?」
「ぎくっ」
あからさまにエルレインの言葉に動揺したカイが、漫画でしか見たことのないような効果音を声に出してたじろぐ。その視線は泳ぎ、しまいには怪し過ぎる口笛を吹き出す始末だ。
しかし誰がそれを指摘するわけでもなく、逆にそのせいで訪れた沈黙がカイの口を開かせた。
「……そうだよ。ここからだったら多分西の方角になると思うけど、なぜか三百年前、災厄から逃れることが出来た地区があるんだ。そこは〈奇跡の場所〉って意味でラトハルクって呼ばれてる。地図には載ってないけど、きちんとした町がある……オフィウクス教の奴らが隠れ住んでるんだ」
「何だと」
「あいつらとろいから絶好のカモなんだ……たまに武器持った奴もいるけど。だから知ってても教えたくなかった。そう思ってるのはここいらには死ぬほどいるし、生活を成り立たせる為に、騎士団にあそこを潰されたら困るんだよ」
アリエスの低い声にびくりと肩を震わすが、しかしここで口をつぐむこともなく、自分の言い分を述べるカイ。エルレインは、やっぱりねと言った表情で大きく息を吐いた。優姫は状況を整理するのに必死だ。
「……どうするの、アリエス? 今まで掴めなかったオフィウクス教の根城はすぐそこよ。騎士の本分、果たすの? それとも、ゾディアックとして先を急ぐの?」
エルレインは立ち上がりアリエスの元に歩み寄ると、手にしていた地図を渡し言い放った。それを受け取り、眺めるアリエス。
「騎士の本分を全うしなくても、逆にゾディアックの使命を少しくらい後回しにしても、責める人間なんてここにはいないわ。それにどっちを選んでも、私達はついていくから。ね、ユウキ、カイ」
そこまで聞いてから、優姫は違和感を覚えた。
エルレインが浮かべる表情は、アリエスと険悪な雰囲気に陥ってからは一貫して仏頂面だ。言葉の端には棘があるようにも感じる。しかしその内容はどうだろう。そこにあるのは旅路を急ぐ騎士団長への心配の気持ちであるような気がした。
そう思い当たってから、休憩前のやり取りも同じだったことに気付く。そして、アリエスもまた、エルレインの言葉に怒ったからではなく、そこに隠れた彼女の真意に気付いたからこそ、素直に休憩をすることに応じたのかもしれない、とも。
「……完全無欠な人間なんていないのよ」
ぼそりと最後に付け加えた言葉は、薪の爆ぜる音に掻き消された。