30 リードベルク
リードベルク。
それはエーアデの最も南に位置する大陸の玄関口となる港街の名。
漁業よりは、その温暖で安定した気候から保養地や行楽地として賑い、かつては世界最大の観光都市としてその名を馳せていた。
しかし現在は、先代ゾディアックの旅の失敗により、世界全体の気候が大きく変わり、この街もまた幾度の洪水や水没に見舞われた為、以前の姿は微塵も残っていない。
「……酷い」
それは導石の指し示す地に辿り着いた優姫の第一声だった。
港街と呼ぶのは憚れるほどの瓦礫の山。周囲には悪臭が立ち込め、空気は淀んでいる。船着き場とは名ばかりの腐食した足場は、今にも崩れ落ちそうだ。
「こんなになってるなんて……噂だけは聞いていたけど」
優姫に続き下船したエルレインは、覚束ない足取りではあったが、アリエスに支えらながら愕然とした表情で息を漏らした。
「ここは、災厄の影響を特に多く受けてしまった。輝く太陽も、潮の香りも、人々の笑顔も、全て失った街だ」
「全て失った街……」
それはまさにこの光景を端的に現している言葉だった。
気持ちがふさぎ込んでいきそうになるのを振り払い、優姫はポケットから導石を取り出し念じると、そこから伸びた青紫色の光を辿り瓦礫の中に出来た細い道を進んでいった。その中には、すでに原形は留めていなかったがビーチパラソルらしきものの残骸や、錆び付いた看板がある。かつてのこの街の賑わいを表すものだと考えると、胸が締め付けられた。
「前はすごく活気のある観光地だったのに。あ、前って言っても私がタウロスだった頃だから三百年前のことだけどさ」
優姫の後をついて来るエルレインは、幾分気分が良くなったのか、そう言ってから何かを思い出して笑った。
「あの時はちょっと空いた時間に海に入ったりして……あはは、平和だったのね、あの頃は今よりはまだ」
「ああ、あの頃訪れていた災厄は、今の序の口だったのだろう」
「アリエスもヴァルゴの水着姿見て、鼻の下伸ばしてたものね」
「……過去の私は愚かだったな」
話がおかしな方向に向かうのを、優姫は歩きながら聞いて吹き出しそうになった。しかし少し淋しくも思う。過去のことをまだあまり思い出していない優姫は、彼等の会話に加わることができなかったから。
どれほど歩き進めただろうか、会話も途切れ、沈黙が落ちてからしばらく経った頃、優姫はあることに気付いた。
「あれ?」
光がゆらりと揺れた。
そのままそれはゆっくりと角度を変え、徐々に真横へと傾いていく。
そのことに優姫の後ろを歩くアリエスも気付いたようだった。
「ユウキ」
「うん、いるみたい。この近くに、ゾディアックの一人が」
光は真横を指している。しかしそこに道はなく、あるのは山積みになった瓦礫。優姫は高くそびえ立つそれを見上げてから、アリエスに視線を向けた。
「ここ、登るの?」
「それが一番の近道だと思うが」
「えー無理無理! 嫌よこんな所登るなんて」
さらに後方から上がったブーイングに、優姫は激しく首を縦に振る。
登れないことはないだろう。しかしここにあるのはただの瓦礫ではない。汚泥に包まれ悪臭を放つそれを登る気には、到底なれなかった。
「しかし、迂回するとなると、今度は見失うかも知れない」
アリエスの言葉も最もだ。
しかし、頭では分かっていても生理的に受け付けられない。実の所、辺りに充満する悪臭に頭痛がし始めているのだ。
「ちょっとくらい遠回りしても平気よ。だから無理! 絶対、無理!」
いっそここまで言ってのけてしまえればと、優姫はエルレインのことを羨ましく思った。エルレインは頑として意見を譲ろうとしない。
優姫は、そんな二人のやり取りをどこか遠くでされているように感じていた。本格的に具合が悪くなってきたのだ。とりあえず、早くここから移動したかった。
瓦礫の山を見上げる。
――ああ、やっぱり無理だ。
そう思った時だった。山の頂点がぐらりと揺れたような気がした。
「あれっ、なんか揉め事っスか?」
突如降ってきた声。
優姫達三人は山の頂きに視線を向け、目を凝らした。
「……人?」
揺れたと感じたのは気のせいではなかった。三人の視線の先にあった山の頂きの影――それは一人の白い該当に身を包んだ人間だった。声の調子で年齢的にはまだ若い青年であることは分かったが、フードまですっぽり被っている為、表情は見えない。
「こんな所で足止めてたら、体調崩れるって。ほら、そこのお姉サン顔色悪いみたいだけど」
青年はしゃがみ込んだかと思うと、そこから一気に膝を伸ばし跳躍する。あっという間に、うずだかく積まれた瓦礫の山から飛び降り、優姫達の前へと軽やかに着地してみせた。
「や、どーも。怪しいモンじゃないんで」
そう言った時点で胡散臭さはさらに急上昇したが、アリエスはずいと前に進み出て冷静に対応する。
「君は?」
その貫禄に圧倒されたのか、青年は一歩後ずさりアリエスをまじまじと眺めた後、息を漏らす。そして、目深に被ったフードを脱いでみせた。
そこから現れたのは、人懐こい顔立ちをした赤髪の青年。
「すっげー……すごい精巧な造りじゃないっスか。騎士団マニアに持ってけば言い値で売れるやつだ」
その口から出た言葉が三人の予想外のもので、辺りは一瞬沈黙に包まれた。アリエスの目は点になっている。
アリエスの周りをぐるりと一周してから、青年はやっとおかしな空気になっていることに気付いた。
「あれ? もしもーし、皆さん固まってるけど、どうしたんスか?」
しかしその空気を作った原因が自分であることには気付いていない。
「……誰?」
「……さあ」
ぼそりと最もな疑問をエルレインが口にし、他に答えようのない答えを優姫が返した。アリエスに関しては、完全に思考停止している。
優姫は、もう一度突如目の前に現れた青年に視線を向けた。
人懐こく見える垂れた目と上がった口角。赤い短髪はどうやら地毛のようだし、白い外套はよく見てみるとゴム製のようだ。
「お兄さん、これ譲ってくんない? 儲けは半分渡すんで! いやあ、本当良く出来てる。ほら、この辺の質感なんて――」
言いかけて、止まる。青年の顔がアリエスの甲冑ギリギリまで近づき、そして離れた。そのままゆっくりと顔を上げる。
同時に、ついにアリエスの手が剣の鞘に伸びたことに優姫とエルレインは気付いた。
「これって、も、もしかして……」
「貴様」
「ち、ちょっとアリエス、落ち着いて」
「そうよ。変なのにかまってないで、さっさと行くわよ」
風を切る音と共に長剣の切っ先が青年の喉に向けられた。
「ほ、ほ本物……!?」
「……去れ。さもなければ斬る」
両手を高く掲げ降伏の姿勢をとる青年に、アリエスは冗談とは思えないような表情で言い放つ。
はらはらしながらその光景を見つめていた優姫だったが、その時やっと衝撃の事態に気が付いた。
「え、ウソ……」
突然のことにずっと握り締めていたこぶしを開く。そこにある石から発された青紫色の光。
ゾディアックを指し示す導石の光は、赤髪の青年を指していたのだった。