26 否定
「……ねえ、本当に大丈夫?」
先程までの姿が嘘であるかのように足早で歩くレオに、優姫はもう三度目になるであろう声をかけた。
「大丈夫だ。何度も言っているだろう」
そう言われても、あの時の尋常ではない顔色の蒼白さは、中々脳裏から離れない。
優姫は顔色を窺うようにずいと前に進み出て、しっかりとその横顔を見つめる。レオの言う通り、顔色は戻ってきているような気がしなくもないが、それでもやはりまだ幾分悪いように見えるのは気のせいだろうか。
「……さっきのあれって、魔法、とか?」
それでもいい加減同じことを問うのは躊躇われて、質問を変える。
あれほど多くの獣を一瞬で、しかも消し炭に変えた幾多の雷。あんなことは、通常有り得ない。しかし、小説やゲームの中だけで行使される魔法という力が、この世界にもし存在するというなら話は別だ。否、そう考えるしか、あの現象は優姫には受け入れられない。
「魔法、というものがどういうものかは知らないが、魔女と契約して得た力の一端であることは間違いないな」
魔女の力、と聞いて、優姫は王都で聞かされたレオの話を思い出す。
獅子球レオ――それは裏切り者の名。先代ゾディアックを皆殺しにした大罪人。
優姫はごくりと喉を鳴らした。
嫌な話を思い出した。それでも思い出したからには、確かめずにはいられなかった。
「レオは、裏切り者なんて嘘だよね? ゾディアックを殺してなんかいないよね?」
しかし、期待した言葉が返ってくることはなく、そこに落ちたのは沈黙。乾いた地面を踏み締める二人の足音だけが、虚しく響く。
――嘘だよね。何かの間違いだよね。
願望ばかりが脳内で反響する中、ついにレオは口を開いた。
「俺は、裏切り者だ。お前は――お前達は、俺を許してはいけない」
「嘘っ!」
自分で思ったより大きな声が出て優姫は口を押さえたが、やはり思い直してもう一度声を上げる。
「ねえ、嘘だよね? だってレオは私のこと助けてくれたじゃん! もし前世で皆を……殺したっていうなら、どうして今度は助けたりなんかするの!?」
そこまで言って、レオの腰にある小剣が視界に入った。剣の柄に彫られた繊細な紋様に、真新しい記憶が蘇る。
「それって――もしかして、ナダで助けてくれたのって、レオじゃない? そうだよね、この柄の紋様、私覚えてる」
気が付けば優姫はレオから小剣を奪い取り、それをまじまじと眺めていた。独特な紋様は、恐らく見間違いではない。やはりナダで自分を助けたのはレオなのだと、優姫は確信する。
しかし再び問い詰めても、レオは決して首を縦には振らない。知らないの一点張りの会話は平行線になる。
「……じゃあもうひとつ聞きたいんだけど」
大きく息を吐き、それならばと優姫は話を変える。奪い取った小剣をレオに手渡しながらもその視線は、目の前の青年が首にかけるネックレスに向けられていた。
ポケットに手を突っ込み、一呼吸おく。 それは、特に深く考えて出した結論ではなかった。直感――女の勘というやつと、そうであればいいのにという優姫の願望だったのだろう。
「レオはゾディアックの一員なんでしょ? 違う、なんて言わないでね。アリエスは導石の示す光に間違いはないって言ってたんだから」
優姫は握り締めた拳をポケットから出した。指の間からは青紫色の光がこぼれている。
優姫がしようとしていることに気付いたレオの深緑の瞳が見開く。
「ねえ、レオ。仲間を裏切ったって、何か理由があったんじゃないの? だって、そうじゃないと説明がつかないよ」
開いた手の平に乗る導石。そこから伸びる光は、レオの十字のネックレスにはめ込まれた赤い宝石を指し示していた。
それは、レオもまたゾディアックの一員であるという、揺るぎない事実。しかしよく考えればすでに分かりきっていたことでもあった。アリエスは、役目は全うしなければ逃れられないと言っていたのだから。
「ねえ、本当のことを言って!」
「俺は――」
突き付けた事実に、レオは明らかに狼狽していた様子を見せた。しかし、それでも首を縦に振ろうとはしない。
「……レオ、その首飾りを貸して。見れば分かるはずなんだから――」
優姫は尚も食い下がる。こうなれば強引にでも、と手を伸ばしかけた時だった。
「触るなっ!」
レオの首飾りに触れようとした瞬間、激しく振り払われた優姫の手。
そのあまりの剣幕に、言葉を失い、立ち尽くす。そんな優姫の姿に、レオははっとした表情を見せた後、わずかに俯き静かに声を発した。
「俺は、お前達と共に行くつもりはない。……行けるはずもない」
「でも、でも! ゾディアックは皆で聖地に行かなきゃいけないんじゃないの!? 誰か一人でも欠けたら駄目なんじゃ……」
優姫の精一杯の言葉に、レオはかすかに微笑んだ。
「……今は、他のゾディアックの集結を急ぐんだ。俺には、構うな」
構うな――それは、拒絶の言葉。その言葉に、優姫は心臓を鷲掴みにされたような気持ちになり、胸が締め付けられる。その後はもう何も言えなくなっていた。
レオは踵を返し、再び歩き出す。優姫はゆらゆらと揺れる黒マントの裾に視線を落とし、青年の後をついていく。
泣きたい気持ちだった。夢に見て、現実で出会うことが出来た青年レオ。彼に拒絶の言葉を投げ掛けられたことに、再会を果たすことの出来た喜びも今では地に落ちた気分だ。
けれど、それは以前にも感じたことのある想いだった。遠い昔、確かに感じたことのある苦い想い――しかし優姫にはそれがいつのことだったかは思い出せなかった。
自分の名前が聞き慣れた声に呼ばれていることに気付いた時、青年は足を止め優姫に向き直った。
「ここにゾディアックはいない。早くここから去り、次の地へ向かえ。……石を」
促された優姫はポケットから導石を取り出す。そんな彼女の手に、レオの手が重ねられる。
瞬間、高鳴る心臓。
大きな手。長く冷たい指。全神経が青年の触れる箇所に集中する。
しかし石から伸びる光は、優姫の鼓動に反して、真っ直ぐ揺るぎない直線を描いていた。
「この方角なら、恐らくリードベルク方面だろう。さあ、アリエス達の元へ戻るんだ」
レオの瞳が、長い睫毛が、唇が、青紫色の光に照らされ浮かび上がる。手は触れたまま、優しい声で語りかける彼の姿を、優姫はただ見つめ続ける。
別れたくない――無性にそう思った。しかし、また拒絶されたらと思うと、怖くて口に出すことが出来ない。
やがて、優姫の手からレオの手が離れていく。そこにある微笑み。
告げよう、そう決めた時だった。
一陣の風に、優姫は目を臥せる。
「あっ……」
再び目を開いた時、そこにレオの姿はなかった。優姫の手には、まだレオの冷たい手の感触が残っている。
「レオ」
小さく呟き、空を見上げる。
黒い空にはすでに雷鳴は轟いていない。ただ優姫の名を呼ぶアリエスとエルレインの声だけが、枯れた大地に響き渡っていた。