25 契約者の力
「……何を考えてるんだ、お前は」
相変わらずの憎まれ口。
もういい加減聞き飽きたわ。
「いいか、おまえはゾディアックの一員、〈導星〉だ。……俺が何を言いたいかは、分かっているな?」
「相変わらず口煩いのね、騎士団長サマは。何よ、私は間違ったことなんてしてないわ……!」
そんなに睨んだってちっとも怖くないわ。
そうよ、私は間違ってないもの。何かを言われる筋合いはないわ。
「痛っ……」
走った痛みに、唇にもまた傷が出来ていたことに気付いた。思い出したかのように、体中に出来た擦り傷が痛み出す。素足に砂利の冷たさが染みた。
「ヴァルゴ」
ため息が出る。
ああ、私――こんな筈じゃなかったのに。
きっと呆れてるわ。呆れ果てた表情で、また言うのよ。馬鹿な女だって。
顔を上げる。
けれど、そこにあったのはいつにない真摯な表情。
レオの手が、私の頬に触れる。その冷たい指先が唇に当たった。
「な、何よ」
レオの深い緑色の瞳が瞬く。
……何よ。
そんな顔したって、私は――。
◇◇◇
「……私は――」
目の前にある深緑の瞳を持つ青年に手を伸ばす。
「レオ……あなたに――」
言いかけて、優姫は目を見開いた。
目の前にいるのは――レオ。
「レ、レレレレオ!? どうしてここに!? ていうか、ここどこ!? あれっ?」
急速に意識がはっきりとして、上体を起こし、周囲を見渡す。辺りは暗く、手の平に伝わるのは冷たい土の感触。日中には感じなかった寒さに、優姫は思わず身を震わせた。
「大丈夫か」
状況の飲み込めない優姫に、レオが声をかける。その手が近付き、指先が唇に触れた。
その瞬間、沸騰したかのように顔が熱くなっていく。優姫はふわふわした気分になりながら、慌てて答える。
「わわわ、だ、だ大丈夫!」
しかしそんな気分は、すぐに吹き飛ぶことになる。
それは、足音と振動。
何かが、それも沢山の何かが近付いてくる。腹を突き上げるような地響きと揺れに、さすがの優姫も気付いた。
「……?」
ほんのわずかな静寂。そこに混じる浅い息遣い。それは人のものではない。
危険だ、そう本能的に察した瞬間。
低い唸り声と、闇夜に光る双眸、鋭い牙が一斉に二人の元に襲い掛かった。
「やっ、いやああっ!」
目を閉じる刹那、視界に映ったのは、狼に似た獣。狼だと断定出来ないのは、四足全てが鱗に覆われていたからだ。
爪が、牙がまさに届きそうになったその時放たれたレオの斬撃。横に薙ぐように大きく一閃。それをくぐり抜け再び飛び掛かろうとする獣は、その刃で刺し貫く。
血飛沫が舞い、獣の骸がどさりと音をたて地に沈んだ。深手を負いながらも生き残った数頭は、散り散りに逃げ出していく。それは時間にして、ほんの数秒のことだった。
優姫は固く目を閉じ、身を縮こませたまま動けない。ほんの数秒、しかし彼女にとっては悪夢のような時間に等しかった。そんな姿を見て、レオの手が優姫の肩に伸びたが、赤く濡れた自分の指先を見て、レオは動きを止めた。逡巡した後、伸ばした手を戻し、優姫に背を向ける。
「もう、大丈夫だ」
長剣を鞘に納める音に、優姫は恐る恐る目を開いたが、その眼前に広がった光景に身震いする。
折り重なるように転がった獣。舌をだらりとはみ出し、ぴくりとも動かない死体もあれば、痙攣し泡を噴いている獣もいる。共通しているのは、全てが斬られ血みどろになっていることだ。
「ひ……」
思わず優姫はレオにしがみつき、レオの黒衣の裾を掴む。震えは中々収まらなかった。
しがみついたまま、もう一度周囲を見渡す。幾分暗闇に慣れたからなのか、今度はもっと鮮明に状況が理解出来そうだった。
あんなにも美しかった風景は、そこにはなかった。草原や色とりどりの花は姿を消し、広がっていたのは枯れた大地。水分を失い、ひび割れたそこに生命の色はない。
空を見上げる。青く澄み渡っていた昼間の空とは打って変わり、黒く厚い雲が立ち込め、星が出そうな気配はない。
加えて、襲い掛かってきた沢山の獣。昼間と状況はあまりに変わりすぎていた。
「何……、何なの」
優姫は震える声を絞り出す。
自分が置かれている状況は理解出来た。しかし、どうしてこんな状況になってしまったのかが分からない。
ただ一歩を踏み出しただけだ。ほんの少しだけこの島を見てくると、そうアリエスに告げて。
「ア、アリエスは? エルレインはどこ? ねえ、レオ……っ」
縋るように、優姫はレオを見上げる。涙が溢れた。
優姫に背を向けていたレオだったが、啜り泣く声に、振り返り跪く。自分の目を真っ直ぐ見つめるレオの深緑の瞳に、優姫ははっと息を飲んだ。
「ここは、オフィウクスの支配下にある地だ。幻影は払ったが、お前は危うく引きずり込まれる所だった」
「オ、フィウクス、って何?」
その単語は一度聞いたことがあった。この世界に来て間もない頃、怪物に襲われかけた時も、確かにレオはその言葉を発した筈だった。オフィウクスに支配された地と怪物――当然すぎる疑問を優姫は口にした。
「……立てるか? アリエス達の所まで送り届けよう」
しかし、レオは問いには答えず、立ち上がる。優姫は幾分落ち着き、一度大きく深呼吸すると、青年に倣って立ち上がった。それを待ってから歩き始めたレオに、遅れまいと着いていく。
前もこんなことがあったなと思いつつ、優姫は今度は別の質問を投げかける。
「ねえ、幻影ってどういうこと?」
道の悪さを感じさせない颯爽とした歩きで、優姫の前を行くレオ。優姫は相変わらず、その速さについていくのに精一杯だ。
「その言葉の通りだ。この島は幻影に覆われていた――今までお前達が見ていた景色は幻だ」
「ま、幻? じゃああの草原も、沢山咲いてた花も」
「そうだ。あれは本来この場所の景色ではない。ここにはもう何もない、過去の遺物がわずかに残るだけだ」
「でもでもっ、どうしていきなり幻なんて。アリエスは何度か来たことがあるけど、初めてだって――」
言いかけて、突然レオが立ち止まり、優姫もぶつかるすんでのところで足を止める。広い背中から顔を覗かせると、先程と同じ獣が行く手を遮っていた。手負いの獣が仲間を呼び寄せたのか、おびただしい数の双眸が、闇の中に光っている。
その数は、一度に切って捨てられる限度を軽く超えているように見えた。
「レ、レオ」
恐怖に身を竦める優姫。
レオはそんな優姫を左手で庇い、右手を胸の前に掲げると、同時に素早く印を結び呪詛を唱え始めた。
優姫の知るどの国の言葉でもないそれがレオの口から発されると、空に厚く広がる雲が雷鳴を伴いながらうねり出す。その間にも獣達は優姫とレオの周りを取り囲んでいく。
「身を屈めていろ」
頭上から降るレオの声。
震えながらも、優姫は顔を上げた。その瞳に映った光景――青年は脇に差した小剣を左手で抜き取り一瞬高く掲げると、それを勢いよく地面に突き刺した。
「魔女と契約せし我が名において命じる!」
それは目を疑うような光景だった。
小剣の刺さった地面に青白い光の陣が現れたかと思うと、その光が黒い空に立ち昇っていく。
「来たれ、雷!!」
刹那、空に閃光が走ったかと思うと、激しい音と共に幾多の雷が大地に降り注いだ。
「きゃああっ」
腹の奥までにも感じる衝撃に、優姫は悲鳴を上げる。目を閉じ耳を塞ぎ、これでもかと言うほど身を低くした。しかしその体勢もすぐに崩すことになる。あれほどの轟音はすぐに止み、静寂に包まれたからだ。
「……って、あれ?」
恐る恐る目を開け、顔を上げる。
そこにあったのは、抉れた大地と黒く焦げた影、そして膝を折り息を切らしたレオの姿だった。
「レオ!? どうしたの! 大丈夫!?」
それまで感じていた恐怖など吹き飛んだ優姫は、思わずレオに駆け寄った。荒い呼吸をする青年の顔色は、酷く青ざめて見える。優姫は突然のことにおろおろするばかりで、とりあえず背をさすってみるが、レオは俯いたままだ。
「ねえ、レオ……大丈夫? ねえ、しっかりして」
やがてその声に応えるように、レオは大きく嘆息し立ち上がった。
「大丈夫だ……俺は大丈夫だ。さあ、急ごう、今のうちに」
小剣を鞘に納めながら、漆黒のマントを翻し踵を返す。優姫は不安げな眼差しで、目の前に立つ青年の姿を見つめていた。