24 ヨーク島の異変
「うわっ!」
刹那、響いたのは、空を切る音。
その直後、金属同士がぶつかる音と、背広の男の短い呻き声が吐き出される。
優姫はおそるおそる目を開けた。
「…………え」
目の前にあったはずの刃はそこにはなく、その代わりにあったのは手の甲を押さえながらしゃがみ込む背広の男の姿だ。ナイフは地に落ち、その近くにもうひとつの小剣が落ちていた。それに見覚えがある気がして、優姫はぼんやりとそれを眺める。そうするうちにエルレインが血相を変えて走り寄ってきた。
「ユウキ!」
エルレインの声に優姫は顔を上げた。青ざめた顔色に反してに目の縁は潤んで赤くなっている。それを見てやっと、自分がしたことの無謀さに気付いた。
しかし、それも束の間。
「たっ、いたたたっ! ちょ、エ、エルレインっ!」
「いいからちょっと来なさい! バカユウキ!」
感動の対面といくはずもなく、エルレインは優姫の腕を掴み、ずるずると引きずりながら人だかりの輪から外れていく。擬音をつけるのであれば、ずしんずしんと一歩一歩に力を入れて地面を踏み締める彼女の形相は鬼のようだ。
人だかりからだいぶ離れた路地で、やっと優姫は解放された。
「あんたねえ! 死にたいの!? あんな風に飛び出して……偶然あの男がナイフを落としたから良かったものの」
「ナイフを落とした……? でも何かぶつかるような音が聞こえたんだけど……」
「ぶつかる音? 知らないわよそんなの! それより、あんたは自分の立場をわきまえなさい! あんたは〈導星〉、他のゾディアックを探すことが出来る唯一の人間なんだからね。ゾディアック集結、そして世界の運命がかかってるんだから、不用意なことしないで!」
「でも、本当に……」
聞こえたのにと言いかけて、ぎろりとエルレインに睨まれた為、優姫は口をつぐんだ。
ゾディアックを探すことが出来る唯一の人間――それは正しい言い分であり、現実だ。もし優姫が何らかの理由で〈導星〉としての役目を担えなくなれば、ゾディアック集結という希望は露と消えるのだからら。
エルレインの言葉を受け止めて、優姫は少し軽率だっただろうかと、俯く。気付いたら足が動いていたなんて言い訳をするのは止めた。
「もういいわ、早くアリエスと合流しましょう」
鼻息荒く言い放たれ、もう市場を見る気分でもなかった優姫は、エルレインと共に踵を返した。
◆
空は快晴。
雲ひとつない空には、沢山の海鳥が飛び交っている。
優姫達一行は凪いだ海を走る、ヨーク行きの船上にいた。
「ユウキ、私がいない間に騒ぎを起こしたようだな」
波風がそよぐ船上で、アリエスは腕を組みながら呆れたように言った。
「え!? どうしてそれを……じゃなくて、もしかしてそのことってエルレインに聞いた? でも騒ぎを起こしたって、人聞き悪いって! 騒ぎを起こしたのは私じゃないし!」
内心ぎくりとしながらも、平静を装いアリエスに言葉を返す。言い訳のようになったが、優姫にとっては言い訳ではなかった。紛れも無い真実なのだ。あの騒ぎに首を突っ込んでしまったのは確かに自分の失態だったが、ことの発端は彼等のほうにあったのだから。
「……そうだとしても、関係のない騒ぎにわざわざ首を突っ込む必要はないだろう。お前は〈導星〉、ゾディアック集結に欠かすことの出来ない星だ」
エルレインと同じことを指摘され、優姫は俯いた。しかし今度は黙り込むわけではなく、思ったことを口にしていた。
「……勝手に足が動いちゃったんだよね。仕方ないじゃん」
最後はし尻窄みになりながらも、自分の言い分を述べた。
どうせ何か言われるに決まっている。そう覚悟したが、返ってきた言葉は予想外のものだった。
「そうだろうと思っていた。……お前は、昔からそうだった」
「え?」
その意味が分からず逡巡するも、そういえばと優姫は思い出した。アリエスは過去の出来事を全て覚えている。つまりは優姫の前世であるヴァルゴもまたそうであったということなのだ。
「ヴァルゴもそうだったの?」
波の音を背に尋ねるがアリエスは答えなかった。その視線は空に向かう。遠い昔を思い出しているかのような、遠い目だった。
優姫もまた、晴れ渡った空を見上げる。わずかに胸が痛んだが、その理由は分からなかった。
◆
「ここが、ヨーク……?」
久しぶりの大地を踏み締めながら、優姫は素っ頓狂な声を上げた。
毎回毎回思うことだが、どこに災いが訪れいるのだろうと、優姫は眼前に広がった世界を見つめながら考える。ナダ港から丸一日かけて海を渡って辿り着いたヨークという島は、ゾディアックとしての存在意義を問われかねない場所だった。
青々と広がる丈の短い草原。色とりどりの花が咲き乱れ、遠くには鳥の鳴き声が聞こえる。彼方に見える草原と同じ色をした山々、澄み渡る青い空、そして花のものなのだろう香しい空気。どれを取っても、エルレインがあんなに嫌がった理由は見当たらない。
「ねえ、エルレイン。なんか話が違くない?」
「えー……」
思わずエルレインに理由を問いただそうとするが、彼女は顔面蒼白で答えられる様子ではない。重度の船酔いで、いつもの調子の半減以下なのだ。
「……ねえ、アリエス。なんか私が想像してたのと違うんだけど」
仕方なくアリエスに話を振る。
ここに来るまでのエルレインの騒ぎようからして、このヨークという大陸は、怪物の巣窟と化し、草ひとつない暗闇に包まれた場所だと勝手に想像していた。だからこそそんな優姫にとって、この景色は拍子抜けだった。
しかし、なかなか返事をしないアリエスを見上げると、さの表情は驚愕しているようだった。
「そんな、まさか」
その台詞を聞いて、優姫はヨークに起きた異常を察することが出来た。
「何か、おかしくなって、とか……?」
「私は騎士団を率い、何度もここへ渡っている。この景色は……有り得ない。これは一体……」
アリエスの唇がわななく。
確かに、彼はヨークで発生した怪物の討伐に向かったことがあると言っていた。
しかし、それでは、と思う。
この景色は一体何なのだろう、と。
草がざわめき、鳥が囀るこの場所は、何をどう経てこの異変を遂げたのだろう――考えてみても答えは出ず、優姫は黙り込んだ。
すでにここまで三人を運んだ船は発ち、再びヨークに寄港するのは二日後だ。それまでに、次なるゾディアックの一員を見つけなければいけない彼等にとって、この不可思議な現実は、幸先が悪いことだと言えた。
「……とりあえず、これで見てみるね」
呆然としたアリエスと、今だに動けそうにないエルレインはさておき、優姫は気を取り直してポケットから導石を取り出すと、再びそれを握り締め強く念じた。そこから青紫色の光が溢れ出し、開いた手からそれは真っ直ぐ伸びていく。
「あっちみたいだけど、行ってみようか」
そう言って優姫は二人に向き直る。
しかし、アリエスは深く何かを考え聞こえていない様子で、エルレインは完全に燃え尽きた状態だ。
「……私、ちょっと少し様子を見てくる」
動き出す気配のない二人に、優姫はそう言い残し踵を返した。
もし、ここがエルレインの説明から想像した通りの場所であったなら、いくら優姫であっても、こんな軽はずみな行動はしなかっただろう。
油断、だったのだろう。あまりにその景色が美しく、平穏に見えたから、一歩を踏み出してしまったのだろう。
それは一瞬だった。
足を踏み出した刹那、現れた揺らぎ。
「………っ!?」
声を出す間もなかった。
踏み出した足は地面につくことなく、優姫の姿は水中に沈むかのように一瞬で消えてしまったのだった。