21 兄妹
「エル、帰ってきたのか……!」
濃紺の背広に身を包み、いかにも人の良さそうな笑みを浮かべて、男は両手を広げ胸を空けた。さあここに飛び込んでくるといい、という意味のようだったが、そんな男に対してエルレインは憤慨する。
「カイル兄さん! 毎回それ、止めてくれない。私もう子供じゃないのよ。鬱陶しい!」
「そんな淋しいこと言うなよ、エル。たった二人の兄妹の愛情表現じゃないか」
そう言いながら、エルレインの兄――カイルは名残惜しそうに両手を下げた。それでも笑みは絶やさない。
「本当に鬱陶しいったら! だから帰ってくるのは嫌なのよ」
「いやあ、エルは可愛いなあ。素直じゃないところがまた」
ぷりぷりと怒る妹を宥めるように、カイルが満面の笑みでエルレインの頭を撫でる。笑みを通り越して、今にも吹き出しそうな崩れかけた表情を見ると、そのことが余計神経を逆なでしていることに気付いてはいるようだった。
優姫とアリエスの二人はそんな兄妹の様子に呆気に取られている。
「あー! もういいから! それよりハガルさんの所のロヌが死んだの。だから呼びにきたのよ!」
なに、とやっとことの深刻さに気付いたのか真面目な表情に切り替わる。
「どうして早く言わないんだ! こうしている暇はない。エル、私はハガルさんの所へ行ってくるから、お前は家で待っていなさい。……ところで、そちらの方々は?」
「いいから、早く行きなさいよ! 帰ってきたら……話があるから」
再び話が長引きそうになるのを阻止され、カイルは小走りでハガルの家へと向かって行った。
もう、と半ば呆れ気味なエルレインの後ろで優姫はアリエスと顔を見合わせた。目で何かを訴えようとしたが、冷たい視線を返されたのですぐに諦める。
「……ほんと、いつまで経っても妹離れ出来なくて困るわ。まあ、いいけど。さあ、入って」
門を開いたエルレインに入るよう促され、屋敷内に足を踏み入れる。長い廊下を渡り広間に通された優姫は、中央に置かれたソファに腰掛けてから思わず周囲を見回した。邸内は広いが、その割に物は少なく、すっきりしているというよりはどこか物寂しさを感じさせる。壁にはエルレインとカイルを含めた、恐らく家族であろう四人が描かれた肖像画が飾られていた。
会話の取っ掛かりを見つけたとばかりに、優姫は話題を振る。
「ねえ、あれってエルレインだよね? 隣があのお兄さん?」
隣に座るエルレインにぎろりと睨まれたが、一息ついて彼女は再び口を開く。
「……そうよ。歳は離れてるけど、正真正銘私の実の兄よ。何か文句ある?」
「別に文句なんてないけど、なんか兄弟っていいなあって思って。ふふ、私は一人っ子だからさ」
相変わらずの優姫に対してだけの喧嘩腰の口調だったが、怯まない。実はもう慣れてしまっていたのかもしれない。
嫌味で言われたわけではないことに気付いたエルレインは、ほのかに赤くなった。
「鬱陶しいだけだけどね、うちの場合は。……でも十年前に両親が亡くなって、男手一人で育ててもらったことは、感謝してるけど」
「兄上はあの男性の所に?」
アリエスに尋ねられて、エルレインは頷く。
「そう。ああ見えて、この町を治める人間だから。この町の決まりで、疫病が発生した家畜の飼い主は町長の観察の元、速やかに処分しなくてはいけないから」
「……燃やすのか?」
「それが、一番確実な方法でしょう」
ふ、とエルレインは笑った。それはどこか自嘲気味な笑みだった。
優姫は先程のハガルと呼ばれた男の様子を思い出す。自分の飼う家畜―――産まれてからずっと育ててきたそれは家族同然だと、涙を流す姿。
優姫は幼い頃に犬を飼っていたが、死んでしまった時はとても悲しんだものだ。きっと、あの男の悲しみはそれと同じものなのだろう、と。
そして疫病が発生した時、その悲しみはこの町に住む多くの人々に等しく訪れたのだ。それを災厄と呼ばずに何と呼ぶのか。
「……ゾディアックが祈れば、本当に災厄はなくなるの?」
そういう話で、ゾディアックとして旅立つ決心をした優姫。
しかし本当にそうなのだろうか。この酷い災厄――それでも人に直接害のないこの災厄は軽いものと分類されるのだろうが――がただそれだけで免れることか出来るのだろうか。
優姫の胸中にふと不安がよぎった。しかしそれをアリエスが一蹴する。
「何を今さら当然なことを。それがこの世界を救う唯一の道だ。ゾディアックの祈りだけが、世界を救えるのだ」
「そう……だよね」
釈然としない気持ちは完全には拭えなかったが、優姫はアリエスの言葉に同意する。嘘をつく理由などないのだから。
どれほど時間が過ぎたのか、玄関口が騒がしくなったことで、優姫は顔を上げ、アリエスは扉を一瞥し、エルレインは大きなため息を吐いた。妹の名を連呼する声は徐々に近付いて来る。
「エル! ああ良かった! まだいてくれたんだな。兄さんは嬉しいよ!」
豪快な音を立て広間の扉を開け放ったのはエルレインの兄、カイルだ。息を切らし上着をぽいと放ると、両手を広げ走り寄って来る。
「あーホント鬱陶しい! いいからちょっと座ってよ。話があるって言ったでしょ」
「ああ、そう言えばそうだ。どうしたんだ、エル。兄さんに言ってみなさい」
カイルは優姫とアリエスに軽く会釈をしてから目の前のソファに腰掛けた。にこにこと柔和な笑みを浮かべて、エルレインに話をするよう促す。
「兄さん……私、ゾディアックとして旅立つことになったから」
簡潔にひとこと。
しかしそれはカイルの笑顔を瞬時に凍り付かせた。
「な………んだって」
「でも、心配しないで。私は全部終わったら帰ってくるから」
エルレインは笑顔で述べるが、カイルは固まったまま、徐々にその口元をわなわなと震わせていく。
「駄目だ、エル。危険だ……危険すぎる! 聖地は今や怪物共の巣窟だって話じゃないか! そんな物騒な所に大切な妹を誰が行かせるものか!」
「ち、ちょっと兄さん! 平気よ、この二人だっているんだし」
温厚な雰囲気を一転させ激昂する兄をエルレインは宥めるが、カイルは聞く耳を持たない。
優姫はそんなカイルの発した言葉に思わず耳を疑った。怪物共の巣窟――そんな話は聞いていない。思わず隣に座るアリエスを睨んだが、ふいと目を逸らされてしまった。
「アリエス、怪物の巣窟って……私聞いてないんだけど!」
「聞かれていないからな。てっきり知っているかと」
「何と言われても駄目なものは駄目だ。もし先代ゾディアックのようになったらどうするんだ!?」
「大丈夫だってば! 兄さんは心配し過ぎなのよ」
「てっきりって……そんなはずないじゃん! 私はあの時、まだこの世界に来たばかりだったんだから!」
「聞いているか、エル! とにかく駄目だ。こればかりは認められない」
怒涛のようにそれぞれが言いたいことを口にして、広間は一気に騒然となる。
「ねえアリエス、やっぱりこの話……なかったことにならない?」
「何を今さら。却下だな」
「エル、お前は修道院で恙無く暮らしていればいいんだよ。それが兄さんの願いなんだ」
「えぇー……、詐欺なんだけど」
「エル、聞いてくれるよな?」
なかなか皆が落ち着かない中、そこに収拾をつけるべく声を発したのは――。
「ああー!! もう! うるさい! ちょっとあんたら黙れー!!」
屋敷はもとより、町中にさえも響き渡るようなドスのきいた声。その主はエルレインだ。
瞬間、広間はしんと静まり返る。
優姫はちらりとアリエスを見た。今まで猫をかぶっていた彼女の姿を目の当たりにした騎士団長の顔は引きつっている。
「兄貴、いい加減にしてよ! 私はもう子供じゃないの! 自分で考えて、自分で決めたの! 私は世界を――この町を救いたいの!」
ふいに優姫はエルレインと目が合ったが、すぐにその視線は兄へと向けられる。
「……兄貴だって、ずっと苦労してきたでしょう。ロヌ達が死んでいって、沢山泣いたでしょう。世界を救えるのはゾディアックだけ……しかも、ヴァルゴがいるのよ、行かないわけにいかないの」
そこまで黙って聞いていたカイルの表情が変わった。目を見開き、そのまま正面に座る優姫にそれを向ける。
「ヴァルゴ様……? まさか、あなたが?」
まっすぐ見据えられたまま、ゆっくりと頷く。カイルは額を押さえ俯き愕然とした。
「まさか……、長い間産まれることのなかった星だったんじゃ……」
わなわなと奮え声を絞り出すカイル。
その斜向かいに座るアリエスはやっとエルレインの本性を見ての衝撃から立ち直ったのか、静かに口を開いた。
「失礼、私はゾディアックの一人であり、王立騎士団の長を務めているアリエスと申します。この度あなたの妹君にゾディアックとして旅に同行するよう要請したのは私です。伝承は、ご存知ですね?」
「王立騎士団のア、アリエス様!? ああ、こんなあばら家に申し訳ありません……!」
放っておけば、床に頭がついてしまいそうなほど深々と腰を折るカイルに、アリエスは頭を上げるよう促した。
「いえ、こちらこそ突然の来訪申し訳ない。あなたのおっしゃる通り、確かに〈処女宮〉ヴァルゴは長い間産まれてこなかったのです。隠されていた、と言ってもいいほどに。しかし、それが今この時に、ようやく現れた……それが、彼女です」
「あ、どうも! えーっと、私が〈処女宮〉ヴァルゴです」
二人の視線が一斉に注がれ、優姫は思わず改まって挨拶をした。
「そしてあなたの妹君は〈金牛宮〉タウロス。夢の話は少なからず聞いたこともあるでしょう。……今、ゾディアックとしての星宿を持つ者は、旅立つことが必然だと思いませんか?」
アリエスが問う。
しかし、それは質問と言う名の断言だと優姫は思う。旅立たなければいけない、と。
カイルは言葉を失っている。その顔面は蒼白だ。
何だかいたたまれない気持ちになったが、優姫にはどうすることもできるわけもなく。
「変な夢を何度も見ると……聞いたことは確かにあります。ついにヴァルゴ様が現れたというなら、ゾディアックとして旅立つことは道理なのでしょう。ですが、私にはたった一人の妹なんです。そんな妹を危険な場所へ行かせるなんて、私にはどうしても――」
「兄貴……」
カイルの言い分は、それが家族のことであるならば当然のものだといえた。しかし、ひとつの町を治める長、そしてこの世界エーアデに住む人間の一人としてのものだとすると、それはあまりに身勝手だ。
しかし、そのことを本人が分かっているだろうことは、広間にいる人間の誰もが察していることだった。
「……先代ゾディアックは、旅を失敗し皆死んだと言います。しかしそれは裏切りがあったから――信を置いていたはずの仲間、レオによって旅の成功は阻まれたのです。……約束をします。私がいる限り、仲間は全て守ってみせましょう。そして必ずここに戻って来ます。平和な世と、あなたの妹を連れて。だから、妹君が旅立つことを許していただきたい」
頭を抱えるカイルに、アリエスは諭すように言う。
その言葉に、カイルはそれまで我慢していた箍が外れてしまったかのように、泣き崩れたのだった。