Aの困惑
エントランスホールの奥には、職員達が『どこでもドア』と呼んでいる、超空間位相転移装置の扉が並んでいる。一見ただのエレベーターにしか見えない代物だが、中は超空間にシフトして、上空250㎞のサテライト基地まで一瞬で移動出来る優れ物である。
その手前で、Aが誰かと話をしていた。
Jの場所からは会話は聞き取れなかったが、彼の身振りから察するに少々もめているらしい。
相手は小さな発光体の集合した生物で、結合が緩すぎるせいで、丸い煙の塊みたいな姿をした、ミスド・クッマ星人だった。発光体が赤から緑、青へと目まぐるしく変化している事から、相手も相当に動揺している様子が窺える。
「ジグロ、お前ちょっとAの様子を見て来てくれるか?」
用を言いつけられた地竜は、嬉しそうに一声鳴いて、鞠が弾むようにぴょこぴょことした仕草で、エントランスを突っ切って駆けて行った。
上手い具合にジグロの興味を逸らしたところで、Jはため息を一つ吐いて、また部屋に戻る。
ニャンコの手続きは、まだちっとも進んでいないのだ。
ジグロはAの傍まで駆け寄ると、彼の黒いスラックスの裾をちょいちょい、と引っ張った。
気付いたAが足元を見ると、ジグロはウキャ、と一声鳴いて小首を傾げ、片目で背の高いAを見上げる。
「なんだい、ジグロ。Jはどうした?」
Aの問いに、ジグロはウキャウキャ、と地竜の言葉で答えたが、ジグロのドラゴンマスターではないAには、何を言っているのかさっぱりわからなかった。
「ミュウ」
Aの肩から子猫のような可愛らしい声がして、小さな竜が顔を覗かせる。こちらはいかにも東洋風の紋様等に良く見られる、鰐のような顔をして、蛇のように胴体の長い、馴染み深い竜の姿をしている。瑠璃ガラスを思わせる青く透明感のある鱗に覆われたその姿は、精巧に作られた陶器の置物がそのまま動き出したかのようだ。
竜はAの肩に掴まったまま身を乗り出し、もう一度ミュウ、と鳴いた。
するとジグロは地竜の言葉で何やら話し、それに答えてAの肩に乗った水竜、ミズノ・ミズノ・ヘルメスが彼に通訳した。ミズノのドラゴンマスターであるAは、ジグロの言葉はわからずとも、ミズノの言葉はわかるのだ。
「そうか。実はちょっと困っていてね」
端正な顔に苦笑を浮かべて、Aは指先で頬を掻いた。
「どうも、機械の調子が悪いのか、彼(?)の言葉が翻訳出来ないんだよ」
そう言うと、Aはミスド・クッマ星人をちらりと見遣って、続けた。
「ミズノに通訳を頼んでみたんだが、ドラゴニア圏以外の星の言葉は、君達苦手だろう?」
困ったように眉尻を下げるAにつられて、ジグロも情けなく耳を垂れる。
「ダー・サン。アウィシュ、ダー・サン。ワチ?」
ミスド・クッマ星人は電子音に似た声で、先程からずっと同じ言葉を繰り返していた。
ミスド・クッマ星はクッマ太陽系にある星で、五つの衛星を有する大きな惑星の中には数百の国が存在し、千に近い言語が使われている。ミスド・クッマ星人の多くは銀河連盟指定の共通語を初めとして、自星の共通語と自国の地域語等々、数十の言語を使いこなす、言葉に明るい種族の筈なのだが、どうした訳か目の前の彼(?)は先程から翻訳不可能な言葉を繰り返すばかりだった。
銀河連盟に所属する星々の数万言語を翻訳する、サイコロ状の機械を弄びながら、Aは途方に暮れてため息を吐いた。
「そうだ。ニャントロ星人はどうしてる?」
ふいに思い出したように、Aはジグロに訊ねた。
ジグロは、ちょっと怒ったように後ろ足で床を踏み鳴らしながら、ウキャゥキャと呟く。ミズノがそれをAに伝えると、Aは思案気に瞳を巡らせ、ジグロに言った。
「あのニャントロ星人をここへ連れて来てくれないかい?」
ジグロがさも嫌そうに耳を垂れて、「えー」とでも言うように不満気に口を開いて見せたので、Aはつい、吹き出してしまった。
「どうしたんだい? ニャントロ星人は嫌いなのか?」
ジグロは首を振りながら、またウキャゥキャと呟いた。どうも愚痴っぽい。
ミズノの訳によれば、地竜はJを傷つけたニャンコに怒っているらしい。
「鼻の頭を引っ掻かれただけじゃないか。大した傷じゃないだろう?」
Aがなだめても、ジグロはますます俯いて、小声で何事か呟いている。まるで拗ねた子供のようだ。
「しょうがないなぁ」
Aは端正な顔に微苦笑を浮かべ、小さくため息を吐いた。
「――ミズノ、こちらのお相手をしばらく頼むよ」
ミズノにミスド・クッマ星人の対応を任せ、Aはジグロを抱き上げて、Jのいるオフィスへと向かう。
残されたミズノは、こちらはこちらで、さてどうしたものか。と、首を傾げ、ミスド・クッマ星人もミズノに合わせて丸い体を傾けるのだった。