Jの受難
「こら! こんなトコで何やってる」
Y市中華街の細い路地裏で、日向ぼっこに興じていた太めのぶち猫を捕まえて、男は言った。彫りの深い精悍な顔立ちに、細めのサングラスを掛けた男が凄めば、大抵の者は怯むだろう。
だが相手は猫である。
首根っこを掴まれたまま、男の鼻先へと無理矢理近付けられた顔をしかめ、猫はその容貌に不似合いな、ドスの効いた声と言葉で答えた。
「うるせえな」
平日でも観光客で賑わう中華街も、流石に細い路地裏は人影も疎らで、たまに地元の人間とすれ違う以外、人通りはほとんど無い。
しかし、少し先の通りへ出れば、土産物屋が軒を連ね、修学旅行の学生達の嬌声が、生暖かい風に乗って漏れ聞こえて来る。
飲食店の裏手から漂う油の匂いが鼻につく。
「離しやがれ! てめえニャ関係ねぇだろうが」
男の顔面に鋭い一撃が飛ぶ。猫パンチだ。不意を突かれた衝撃と痛みに、思わず手を離す。
猫はその拍子にさっと空中で受け身を取り、軽やかに着地した。
二本足で。
後ろ足で器用に立ち上がったぶち猫は、首筋を前足の柔らかな肉球で撫でた。よくよく見れば、頭頂から背中、しっぽの付け根まで、僅かに縫い目が見え隠れしている。
「せっかくのおニューの着ぐるみに何しやがる」
すっかり気分を害されたと、猫――の格好をした何か――は、ぶつぶつと文句を言った。
「そりゃこっちの科白だ。人の顔に何しやがる!」
男の鼻の頭には、ものの見事に三本並んだ引っ掻き傷が出来ていた。
「何してるんだ、J?」
背後から掛けられた声に、男は振り向いた。
声を掛けた方は、彼の鼻の引っ掻き傷を見て、ぷっと吹き出した。
「どうした、その顔」
笑いながら聞かれても、答える気になれない。
Jと呼ばれた男は、不満気にむっつりと押し黙った。
「ふん! ニャーの貴重な午睡の邪魔をするから、そういう事になるんにゃ!」
勝ち誇ったように言う声に、後から現れた男は下を向き、なんだ、と呟いた。
「ニャントロ星人じゃないか。こんな所で何してる?」
「おい、地球人!」
ニャントロ星人は更に機嫌を損ねて歯を剥いた。しゃぁ、と音が鳴る。
「お前にも固有名詞ってもんがあるだろうが! ニャーにも、ニャンコ・ニャントロヤンニっつう立派な名前があるんにゃ。覚えとけ!」
「ニャントロ星人は大体皆“ニャンコなんとか”じゃねぇか」
Jが吐き捨てるように言うと、ニャンコはふん、と鼻息を荒くした。
「偉大な救世主、ニャンコ・ノワールにあやかった、有り難い名前だぞ。地球人だって、やれ聖人の名前やら、偉人の名前やらを子供に付けるクセに!」
「わかった、わかった。悪かったよ、ニャンコ・ニャントロヤンニ」
Jよりは幾分物腰の柔らかい彼は、そう言ってニャンコを宥めた。
「おい、A」
Jは鼻の頭をティッシュペーパーで押さえ、苛々とした調子で相棒を呼んだ。
「用事は済んだのか?」
「ああ。――行こうか」
そう言うと、Aはニャンコの首根っこをひょいと持ち上げた。
「おい、何しにゃがるんにゃ」
暴れるニャンコの脇をがっちりと掴み、Aはにっこりと笑った。
「不法滞在だ。ニャンコ・ニャントロヤンニ。一緒に来てもらおうか?」
ニャンコはみゃう、と耳を垂れた。
Y市のランドマークとも言えるタワーの地下深くに、U.S.J.の基地施設が存在する。
広いエントランスホールは三階分はあろうかという吹き抜けで、地下とは思えぬ光に満ち溢れていた。ホールの真ん中には地球と月の巨大な立体映像が写し出されている。常にリアルタイムで、どの地域が昼間なのか夜なのか、月がどの位置にいるのかなど、一目でわかる仕組みになっていて、訪れる観光客達に好評だった。
分厚いアクリルガラスの透明な壁の向こうには、大小様々に仕切られた部屋が並んでいる。大小様々な異星人に対応する為の事務室だ。観光客や学術調査隊、ビジネス目的の業者やボランティア団体など、日本を訪れるあらゆる異星人の手続きはここで行われるのだ。
「滞在目的は?」
と、目の前に座った美しい顔の女性が、ニャンコ・ニャントロヤンニに問いかけた。尤も、美しい人間の顔をしているのは顔だけで、体は蛸か烏賊のように触手が何本も伸びている。彼女はその数本を器用に動かして、タッチパネルを素早く操作し、ニャンコの申請手続きを手伝っていた。
「就労」
「働いてねぇじゃねぇか!」
Jがすかさず突っ込む。鼻の頭に痛々しく貼られた絆創膏が、眼光鋭い顔にミスマッチで、何やら笑いを誘う。
「じゃあ、就学」
ニャンコは懲りなかった。
「どこの学校だ。どこの!」
「じゃあ観光」
「三週間で帰れ!」
答える先からJに否定され、みゃう、と情けない声を出す。
着ぐるみを上半身だけ脱いだニャンコは、その本来ののっぺりとした姿で、くねくねと流動的な動きを見せる。
辛うじて耳が猫の様に尖っている事と、アーモンド形の大きな目が、猫の面影を残してはいるが、体は平べったく、真っ黒で、頭も体も幅が一定で、首やら顎やらがどの辺なのか見分けも付かない。口を開くと逆三角形の穴が空くのだが、閉じた状態の時は全く見えない。
中身の方が余程、出来の悪いぬいぐるみのようだった。
ニャンコの腹(たぶん)の辺りでよれよれになっている、着ぐるみのリアルな猫の頭が、瞳を無くして虚ろな顔をしているのが、余計に不気味だった。
「そんニャにいじめニャくたっていーじゃニャいかぁ~~」
のっぺりとした顔にのっぺりとした手を添えて、ニャンコは最大限瞳を潤ませて見せたが、Jの同情は得られなかった。
「そんな格好で潤まれても可愛くねぇ」
「まぁ、半年も更新申請し忘れてて、観光は無いわね」
そう言って魅力的な微笑みを湛えた、U.S.J.の優秀な事務官 レディ・デオ・キシは、透明な体色を鮮やかな青のきらきらラメに変化させて、触手をうねうねと動かした。
Jは内心ホタルイカを連想したが、勿論口には出さなかった。
僅かな空気圧の音と共に、自動扉が開くと、小さな生き物が慌ただしく入って来た。
Jの膝にも届かないくらいの背丈しかない、恐竜か怪獣のミニチュアを思わせるそれは、Jの足元にまとわりついて、「ウキャッ、ウキャッ」と、甲高い声で鳴いた。
彼は大きな後ろ足でぴょこぴょこと跳び跳ね、頻りにJに何かを訴えた。
体の割りに小さな手には、鋭い鉤爪が伸びている。片手に水晶玉のような物を持ち、もう片方はJのスラックスの裾を掴んで離そうとしない。
緑色の体は、まるで陶磁器の釉薬のような透明感のある鱗で被われている。三等身に近い大きな頭の頂には、白く輝く角が生え、大きな口は顎まで裂け、鋭い歯を覗かせる。その容貌はまさしく獰猛な肉食恐竜を思わせるのだが、大きく円らな金色の瞳で、ちょいと首を傾げて見つめられると、これがどうにも憎めない。
「どうした、ジグロ」
キュウキュウと騒ぐそれを抱き上げて、Jは自分の鼻先へ、その顔を近付けた。
ジグロと呼ばれた生き物は、Jの鼻に自らの鼻をくっ付けた。彼らの挨拶である。
しっとりとして、少し冷たい感触が、案外心地いい。
「見ての通り、俺はぴんぴんしてるぞ。ちょっとそこの猫に引っ掻かれただけだ。心配すんな」
Jがそう言うと、納得したらしいジグロは、「ウキュ」と、一声鳴き、こくりと頷いた。
そして今度は、嬉しそうにJの周りを奇妙な踊りを繰り返しながら、ぐるぐると回り始めたのだ。
少々鬱陶しい。
「うるせぇぞ。ドラゴニア人め!」
堪り兼ねて、ニャンコがドスの効いた声で脅かすと、ドラゴニアの地竜族である、ジグロ・ジグロ・クロノスは、きっ、と目尻を吊り上げて睨み返した。
「ウキャッウキャウキャ!」
地竜の言葉で反論する彼に対し、ニャンコもニャントロ語で言い返す。
「うにゃっぅにゃぅにゃ!」
ウキャウキャウキャウキャ!
うにゃぅにゃぅにゃぅにゃ!
不毛な言い争いは、どうやら平行線を辿っているらしい。
見兼ねてJは、二人を掴み上げようとして、ジグロだけを抱き上げた。着ぐるみを着ていないニャンコは、ツルッとしていて掴み難かったのだ。
「後で遊んでやるからな、ジグロ。ちょっと向こうに行っててくれ」
宥めるJの声にはどこか、うんざりとした響きがこもっていた。