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「その花は見たくない。捨ててきてくれないか」
と彼は、いくぶん低めの声で言った。私が部屋に入ってきて、幾許もたたないうちに、である。
「え・・・なんて?」
「その花を、さっさと捨ててこいって言ったんだ」
と、平坦な、意識的に押し殺したような声。
「だって、きれい・・,」
「奇麗なんかじやない、絶対にっ。嫉妬なんて・・・!」
私の声に覆い被さるように乗せられた叫び声。それは知る由もなかった彼の姿であった。
なにもわからない私は、おたおたと彼の顔を見上げ、そこに薄ら暗い陰鬱な炎を認め、ただその怖さを逃れようと、慌てて部屋を後にしたのである。
私は、なにやら無性に寂しかった。 急に彼と私との差が開けたような、そんな感じさえ覚えた。それはただ、彼についてなにも知らないということに、始めて気づいたことからくる思いであった。彼は、私の話には耳を傾けてくれる。しかし、自分自身のことについては巧妙に、気づかせることなく話を逸らせる。そのことに、私は遅ればせながらやっと気づいたのである。
部屋を出た私は、その、黄色い薔薇を捨てるに忍びなく、さりとて、彼の部屋に飾るわけにもいかなく、近くの病室の前にそっと立てかけておいた。しかしこのままでは帰りがたく、かといって彼の病室に入るのはなかなかに勇気がいる。
長い廊下をゆっくりと、端から端まで息をひそめて歩いては、重いため息をつく。
窓から差し込む燦々とした陽光が、なぜか白い空虚な光と化していた。
重いため息が胸の奥に凝り固まり、息をするのさえ辛くなった私は、彼の部屋の前に立ちそっと扉に触れた。
『っきしょう・・・っ』
・・・扉の向こう、低く眩く声。 いつもの明るい闊達としたそれではなく、深く暗い、もの思いに沈んだ声。それもまた、彼の声だと知ったわたしは、驚きのあまり凍りついてしまった。
『ああ、自由に動けないことが悔しいよっ。走ってみたいよっ。
絶対手に入らないものだからよけいに・・・つ、「嫉妬」してるよっ。
なんで・・・なんでオレだけ自由に動けないんだっ。
まだ何も、何もやっていないのに・・,・・っ』
開いてはいけない・・・・もう、これ以上。
彼の心のなかに、土足で踏み込むようなことをしている。
そう思うのに足は動かず、なぜか私は戸口に座り込んでいた。
カだけが体から抜けていき、けれど、急に熱くなっていく。
そして熱さが限界に達したとき、私は弾かれたように駆けだしていたのである。
次の日。
私は無性に、彼の顔が見たかった。
真剣な眼差しで窓の外を見る、その横顔が見たかった。
私のたあいのない話を真剣に閉いてくれる、その瞳が見たかった
彼の静かな、熱い視線は、いつも決して生きることを諦めていなかったから。
そして同じ真剣さを、いつも私にも求めていたから。
しかし同時に、彼の顔を見るのがこわかった。
彼があれほど激しく、自分の思いを吐露することはなかったから。
彼の痛みは、同じ思いを持つ人でなければ分からないだろうから。
彼の、私に対する接し方が変わるのがこわかったから。
何より、私が彼にどう接していいのかわからなかったから。
心の奥底に烙きついた、それ、に、私は翻弄されていた。
幻が魂に食い込んで、苦しい呻きが漏れる。
苦い夢に、惑わされている、彼の姿・・・。
彼に、会いたい。
会わなきゃ、いけない。
顔を見て、そしてごめんって、いわなきゃいけない。
一週間後、ようやくそう決心を固め、私は扉をたたいた。
だが。
もはやその扉のなかから、彼の声がすることはなかったのである。