殿下、もしかしたらわたくしを捨てて頂けると国が救えるかもしれません
ようやく現れたトーマ王子の左腕には、それはそれは豊満な体付きの美女が手を添えておりました。
二人がわたくしの前で足を止めると、騒めいていた会場が水を打ったように静まり返ります。
「トーマ様、どういうことでしょう」
「済まないがソフィア、君との婚約を解消したい」
「ヒィッ」と誰かが悲鳴と共に息を呑みました。玉座では国王陛下が顔を真っ青にして微かに震えていらっしゃいます。
無理もありません。残念なのは聞こえた悲鳴の理由を、恐らくは目の前のお二人だけが理解していないと思えることです。
「政略結婚がくだらないと、君だってよく知っているだろう」
嘲笑うようにそう言ったトーマ様の翡翠の瞳の上に、淡い金色の髪が数筋さらりとかかります。相変わらずお姿だけは美しいお方だと思います。
扇を開いて口元を覆ったのは、複雑な思いを読み取られないようにするためでした。一杯に見開いた目だけであれば、わたくしは絶望に打ちひしがれているように見えるかもしれません。
俯くふりをして数秒だけ目元まで扇で隠した隙に、両親の方を盗み見ます。
お父様、いけませんわ、そんなに勢いよく両手で拳を握っては。「やった」と言う喜びの声が聞こえそう。まあ周囲からは怒りの拳を握っているように見えるでしょう。
トーマ様がこの女性と登場するのを待ち構えてはおりました。こうなるように仕向けたのはこちらです。
―――――――――でも本当にここまでなされるなんて。
積み重ねて来たものが失われる瞬間を、少しだけ哀しい思いで受け止めました。
でも後悔はありません。
これで我が家とこの国は救われたと思います。
◇ ◇ ◇
この国のたった一人の王子であるトーマ様と、公爵家の長女であるわたくしソフィアとの婚約が結ばれたのは、王子が十歳、わたくしが七歳の時でございました。それから一緒にお茶をしたり散策したりする機会が定期的に設けられました。
ですが十歳の少年に七歳の女の子の相手は退屈だったのでしょう。少なくともトーマ様は、自分より幼い相手に合わせて遊んであげるようなご気性ではありませんでした。
「可愛らしいお嬢さんね」と王妃様には言って頂けましたが、トーマ様はお嬢さんより馬の相手をしたいようで、付き添いの侍従に向かって乗馬の話を始めては「ソフィア様とお話をするように」と、窘められておりました。
お茶菓子を挟んで向かい合う席や、並んで歩く遊歩道で話が弾んだ記憶はありません。わたしはなぜここにいるのだろう、と半ば放置されながら思ったものです。
それでも「未来の王妃」としての教育は、そんな幼い頃から容赦なく始まりました。二言目には「未来の王妃たるもの」と言われて、それは厳しく教育されました。
「なぜ自分ばかりがこんな目に」、と、楽し気に遊んでいる妹達や弟達を見ては恨めしく思ったものでございます。
とは言え十歳を幾つか過ぎる頃になれば、段々と自分が置かれている立場や責任も分かって来るものです。
誰かが必ず受け取らなければならない鉢をたまたま受け取ったのが自分だというなら、恨みっこはなしでしょう。
どうせやらねばならないことなら高みを目指そうと思う程度にはわたくしは前向きでした。
一般レベルの教養はもちろん、数々の宮廷儀礼を学んでは練習し、数か国語を習得し、国を越えて網の目のように絡み合う血筋と利権を覚えて人脈作りに精を出し……気が遠くなる程の知識と経験を、トーマ様と励まし合いながらコツコツと積み上げて参りました。
年齢と共に変わられたのはトーマ様も同様でした。日に日に王子らしい振る舞いを身に付けられ、わたくしのことも「婚約者らしく」扱って下さるようになっていたのです。
その頃にはわたくしは、「将来この方の妻になるのだ」、と嬉しく思うようになっておりました。それが恋だったのかと言われればよく分かりませんが、トーマ様のいかにも王子様らしい美しいお姿に、ときめく思いはありました。この国とトーマ様を支えて生きる未来を待ち遠しく思う気持ちも、確かに存在したのです。
トーマ様以外の方に恋することなどどのみち許されないのですから、トーマ様を想おうと自分に暗示をかけていたのかもしれません。
そんなわたくし達の日々に水を差す出来事が起きたのは、わたくしが十三歳、トーマ様が十六歳になられた頃でした。
「母上が城から追放される」
うなだれたトーマ様がそう仰った時、すぐには言葉が出ませんでした。
わたくし達がトーマ様に母親違いの兄君がいらっしゃると知ったのは、その少し前のことでした。昔陛下が、下級貴族の女性に手を付けてしまったらしいのです。
父を始めとした重臣達が頭を抱えていた頃にはトーマ王子はお生まれになったばかり、わたくしはまだ生まれてもおりませんでしたから、タブー視されていたその話を知ることがなかったのです。
確認のために対面した者の話によれば、赤ん坊にははっきりと陛下の面影があったとか。髪と瞳の色も後からお生まれになったトーマ様とそっくりの、淡い金色と翡翠色だったと言うことです。
兄君の存在を知った時、先ず陛下のご行状に腹が立ちました。
子供でも出来たら問題になることが自明でしたでしょうに、抑制が出来なかったのでしょうか。
しかもトーマ様より先に、しかも男児が、しかも僅か数カ月違いで生まれたというのですから、最悪です。王妃様の心情はいかばかりでしたでしょう。
正直同情を覚えてしまいますが、王妃様もその後がよろしくありませんでした。
陛下は子供を認知し、それなりの額の養育費を支払ったそうですが、その子を王族として城に迎えることはありませんでした。
ですがそれからの十数年、王妃様はどうやら嫌がらせというレベルでは済まない悪行をその母子に重ねていたらしいのです。
大小の事件がわたくし達の耳に入らなかったのは、それが王妃様の仕業という確たる証拠が掴めなかったために、公になることがなかったからのようでした。
王妃様は明らかにやり過ぎでした。
そしてお相手の家を襲わせた賊徒が捕まったことにより、とうとう足が付いてしまったのです。
火種を作ったのは国王陛下ですが、ここに至って陛下も遂に王妃様を庇い切れなくなりました。
父が言うには母子の食事に毒が盛られたり乗り込んだ馬車の車輪が外れたりと、それまでにも数々の洒落にならない事件があったそうなのです。証拠が掴めなかっただけで王妃の仕業であるとは誰もが分かっており、陛下と重臣達は、長年母子の安全を守るために心身を削ってきたのだと言うのです。
こうして王妃様は「ご病気のため」、王都から遠く離れた地で静養することとなりました。実態は王都からの追放と、生涯監視付きの軟禁です。
王妃様は少し癇が強いと感じられるところもありましたが、わたくし達の前ではごく普通の方でした。トーマ様にとっては、大切なお母様でしかなかったでしょう。
まさか裏でそんな恐ろしいことをしていたなんて、と表からは見えない人の顔に胸が冷たくなる心地が致しました。
父親と母親の両方の不品行は、十六歳の多感な少年にとっては衝撃が大きかったのでしょう。この時からトーマ様は変わってしまわれました。
十八歳を迎える頃には、王子はすっかり怠惰で享楽的になっておりました。
「トーマ様。明日は建国際です。そのように飲まれては」
「父上の後を付いて歩くだけだ。何も考えなくても出来る」
「ですが各国の使者の方のご挨拶がありますのに」
「父上が勝手にやるだろう」
「トーマ様。城を勝手に抜け出されてはなりません。城内がどれ程の騒ぎになるか」
「父上だって若い頃抜け出して浮気してたんだろう」
「……トーマ様。陛下の不道徳な行いに怒りを持たれるのは尤もですが、トーマ様が陛下を見返すような立派な国王になってみせればよいではありませんか。いつまでもこのようにしていては」
「父上も母上も好きにしたんだ。僕が好きにして何が悪い」
そんな調子でしたから、貴族達の心はどんどん王子から離れて行きました。そもそも陛下と王妃様のやらかしで、王家に対する信頼や尊敬には既に結構な傷が付いていたのです。月日を重ねる程に臣下達の忠誠心は坂道を転がって落ちて行きました。
「わたくしから殿下によく申し上げておきます」「そのお話はわたくしが伺います」
あちらこちらでそんなことを言っては頭を下げ、いつしかわたくしは、殿下が開けた穴を塞ぐために奔走するようになっておりました。その内にトーマ様を諦めた方々が殿下に伝えるべき話を先ずわたくしに伝えるようになり、気付けば殿下の職務の多くもわたくしが担っておりました。王妃様が「静養」に入られてからは、まだ結婚前だと言うのに王妃様の仕事の一部もわたくしの仕事になっておりましたので、時間は幾らあっても足りなくなりました。
やがて心労と寝不足が積み重なり、わたくしは時折立ち眩みを起こすようになりました。そしてある時、家の階段を上りかけていた時にふらついて、後ろへ落ちそうになってしまったのです。
高い位置からではありませんでしたが頭から落ちていればまずいことになっていたでしょう。でもその時は一瞬意識を失っていて、そんなことを考える暇もなかったのです。
どさり、と自分の体が誰かに抱き止められた瞬間に意識を取り戻しました。「お嬢様!」という叫び声を聞きながら薄っすらと目を開けると、家で一番若い黒髪の執事が青ざめた顔でわたくしを覗き込んでおりました。
「エール……」
「どうなさいましたか!」
「疲れただけなの。あまり寝ていなかったから」
「無理をなさり過ぎです!」と言われましたが、無理をしなければ政務が回らないのです。力なく微笑むしかありませんでした。
我が家には四人の執事がおりますが、その中でも一番若く、わたくしとあまり年齢が変わりないのがエールでした。でも黒髪に黒い瞳のエールは、その姿通りに年齢よりもずっと落ち着いているのです。そのせいなのか彼の腕に抱き止められたこの時、なんとも言えない安堵感で体からも心からも力が抜けて行きました。
近くの部屋にわたしを座らせると、彼はその後、黙って温かいお茶を淹れてくれました。カモミールだったので、疲れを和らげようとしてくれたのでしょう。
ほっと息を吐いたのも束の間。
「……王子殿下が城下で遊び歩いているというのは本当でしょうか」
「そんな噂が」
その問いに血の気が引きました。トーマ様の悪評が民の間にまで広まれば、いよいよ治世が揺るぎかねません。いくらトーマ様と言えども王子と分かるような姿で城下をうろついたりはしていないと思うのですが。
「……人の口に戸は立てられませんからね。どこからともなく話は広まるものです。ソフィア様がお休みになれないのはそのせいですか」
静かに言われてうなだれます。
「陛下がもっと強く諫めて下さればいいのだけど……」
「………」
陛下のお考えやご様子は時々父から聞かされておりました。無責任に恋に溺れた自分の過去を、陛下は悔いていらっしゃるのだとは思います。陛下のご軽卒によって少なくとも二つの家族の人生が滅茶苦茶になり、多くの者達が今も振り回されているのです。
でもその自責の念ゆえに、陛下が王妃様やトーマ様に強く出られなかったことは事態を悪化させておりました。
自らの罪を棚上げにして悪者になるお覚悟や強さが陛下にあれば、今日の日は違ったのでしょうか――――――そもそも罪がなければこんなことにはならなかったのですが、後悔先に立たずとしか言いようがありません。
「エールは話を広めないでね。誰かがそんな話をしていたら、出来れば否定か口止めをして頂戴」
「……はい」
一度溜め息を吐いて気持ちを落ち着かせ、「ハーブに詳しいの?」と話を変えますと、「怪我や病気の応急手当は一通り心得ておりますよ」と、黒髪の執事は優しい眼差しで微笑ってくれました。
彼と話していると安心するような落ち着かないような、何か不思議な気分になります。静けさを湛えた顔には、トーマ様とはまた違った美しさがありました。どこか苦しい気持ちもするのは、疲れているからなのでしょうか。
◇
トーマ様の振る舞いは年を追ってよくなるよりも、どんどん悪化して行きました。
そしてトーマ様が二十歳を迎えられた頃。
「……アナンザ公爵家が、殿下の兄君を探しているらしい」
父の書斎でそう聞かされた時、意味するところがすぐに分かってぞっとしました。その場に共にいたのは母と、最年少の執事でありながら父の信頼が一際厚いエールだけでした。
「まさか――」
と言いかけたわたくしの言葉の続きを、父が引き取りました。
「トーマ殿下を追い落とそうというのだろうな」
室内が緊張で満たされます。これは結構深刻な事態だと思われました。
我が国には公爵家は僅か二つしか存在しておりません。
一つが我がリリル家、もう一つがアナンザ家なのです。
二大巨頭の片方が廃太子を狙っているとするなら、それはクーデターと言っていい動きです。
「ですが兄君は行方不明なのでしょう?」
「うむ」
王妃様の手の者達に襲撃された後、実は兄君とその母親は行方知れずとなっているのです。
今は監視付きで軟禁されているとはいえ、王妃様はまだご存命です。いつまた命を狙われるか分からないと身を隠すのも当然であろうと思います。母子はそれ以前も何度も転居を繰り返していたのだとか。
「陛下だけはお二人の行方をご存知らしいが……問題は兄君の今の顔を知る者がほとんどいないことだ。最悪、偽物を担ぎ出してそれを兄君だと強弁するかもしれん」
「まあ……」
「陛下にも既にアナンザ公爵の動きは伝わっている。当然警戒は強めるが、仮に今アナンザ家が兄君を掲げて立てば、それが本物であれ偽物であれ、かなりの数が兄君側に付くだろう。今のトーマ殿下にはそれぐらい人望がない」
血の気が引きます。
「……もしかして我が家はまずい立ち位置におりますね?」
「その通りだ。もしそんなことが起きれば我が家は『トーマ王子派』として立つしかないからな」
つまりアナンザ家が立てば、自動的に二大公爵家が激突することになると言うことです。下手をすれば我が家はトーマ様と心中することになるでしょう。トーマ様の人望のなさを考えますと、低くはないリスクと思えます。
今のトーマ様が国王として相応しいとわたくし自身が思えないだけに、「我が家はなんのために戦うのだろう」と、一層複雑な思いが致します。とは言え王族としての教育を受けたことがない「兄君」が即位されたとしても、アナンザ家の傀儡となるだけでしょう。
「トーマ様さえ行いを改めて下されば……」
からからに乾いた声で呟きます。ふと見ると、エールが沈痛な表情を浮かべてわたくしを見つめておりました。エールがどのような思いであったのかは分かりません。ただどきりとして数瞬、彼から瞳を逸らせませんでした。
◇
なんとかしてトーマ様に立ち直って頂かなければ。
トーマ様がまたしても大問題を起こされたのは、これまで以上にそんなことを心に誓っていた矢先のことでした。
各国大使との会合のさなかに席を立たれた殿下が、そのまま街へ遊びに行かれたと言うのです。
「トーマ様、他国の大使との会合を放り出されるのはこれまでの投げ出しとは訳が違います!他国からの信頼が―――――――!」
トーマ様に意見する者はもはやほとんどおりません。「わたくしが最後」と、崖の淵に立っているかのような思いで必死に申し上げていた時。
「ああっ、もううんざりだ!」
だらしなくソファに座られていたトーマ様は、突然、舞台俳優のように大きな身振りをして立ち上がられ、傍にあった小さな香炉を床に叩き付けられました。
ガシャアアアンッ!!
陶製の香炉が粉々に砕けて、破片がわたくしを掠めて飛びました。侍女や護衛や、近くにいた全ての者達が驚愕の声と共にわたくしとトーマ様の間に入ろうと動きます。
「うるさいんだよ!なんで僕ばかりがこんな面倒を!どっかにいるって言う兄上でも連れて来てやらせてやればいい!」
呆然としてすぐには声が出なかったわたくしに言い捨てると、トーマ様は荒々しい足取りで部屋を出て行かれてしまいました。
「……………」
「ソフィア様、お怪我は?!」
青ざめた侍女達に尋ねられましたが、まだ声が出ず応えられませんでした。
「僕ばかり」……?
よりにもよって「兄上を連れて来ればいい」……?
あの方は何も分かっていない。
ふつり
自分の中で何かの糸が切れた音がしました。
◇
トーマ様は最初はただ、純粋に傷付いていたのだと思います。
それが分かっていたから側近達もしばらくは、怒りや苛立ちを周囲にぶつけられるトーマ様を黙って受け止めていたのでしょう。
でもその内にトーマ様は、多分、楽を覚えてしまったのだと思います。
この国の唯一の王子であるというお立場ゆえに、気持ちのままに他者を傷付けても、職責を放り出して怠けても、許されてしまうことに気が付いて。
永年に保証された地位に就きながら、自分を律し続けるのは並大抵のことではありません。
決して驕ってはならないと、自分達が手にしている権力は簡単に凶器になるのだと、ですからわたくし達は幼い頃から、徹底的に厳しく教えられて参りましたのに。
臣下は王太子を諫めることは出来ますが、そこまでです。どんなに諫言しても変わらない殿下を諦めた者達が、一人、また一人と去って行っていることに、トーマ様は気付かなければなりませんでした。
支える者達を失えば、権力は土台を失った建物のように崩れます。
◇
「………わたくし考えたのですが。いっそトーマ様を廃太子して頂けば、わたくしとの婚約は解消になるのではないでしょうか?」
そう申し上げますと、お父様はしばし絶句されました。
「何を馬鹿な」と仰られたお父様ですが、食い下がっている内に段々と考え込まれるようになりました。
トーマ様に既に人望と言えるものはありません。それでも「正当な王太子」は彼であるために、仮に反乱が起きれば、多くの者達が我がリリル公爵家の下に集ってトーマ様のために戦うことになるでしょう。最悪の場合、殿下と心中する羽目になるやもしれません。
そうなる前に、陛下自ら王太子を「もう一人の王子」にすげ替えて下されば、国が割れる理由も二大公爵家が噛み合う理由もなくなります。
兄君の能力と人柄が分からないと言う不安はありますが、国王としての資質に明らかに問題があるトーマ様よりましであればよいのです。内戦を回避出来るのなら、その恩恵は大抵の不利益を上回るのではないでしょうか。
「トーマ様の評判は既に地に落ちています。何か一つ大きな事件でも起こして頂けば、陛下も兄君を呼び戻すことを考えざるを得ないのでは」
「――――――――お前はそれでいいのか、ソフィア」
「………」
少しだけ喉の奥が苦しくなります。
婚約者として、この国の者として、今日までトーマ様を支え続けて参りました。人々の心が離れて行く中で、どんなにぞんざいに扱われても歯を喰いしばり、お傍に踏みとどまって来たのです。
力及ばなかったという悔恨はございます。
ですが、もう。
「この国をトーマ様のために失う訳には参りません」
その言葉にとうとう、お父様は無言で頷いて下さいました。
◇ ◇ ◇
「だからと言ってお嬢様がここまでする必要もないのでは?」
「でも最小限の人数でやらなければならないのだもの」
廃太子計画は極秘です。発覚すればアナンザ公爵家ではなく、我が家の方が反逆罪に問われます。
お父様との話し合いの二日後にはわたくしは平民の服を着て、城下の街を歩いておりました。
アナンザ家が兄君を見付けたり、偽物を担ぎ出したりする前に事を終わらせなければなりません。
服を用意してくれたのは、やはり平民の服を着て隣に付き添ってくれているエールです。
トーマ様が城を抜け出す回数は、年々増えておりました。臣下の目の届かない所で何かをやらかしている可能性はそこそこにあるでしょう。廃太子の理由になるような行いでも掴めれば。トーマ様がよく出掛けられている先はある程度調べが付いておりましたので、調査に乗り出すことにしたのです。
「……この先はあまりガラがよくありませんよ」
「………」
昼間だと言うのに薄暗い路地を見て、さすがに足が止まりました。
薄汚れた路地には、傾いたり欠けたりしている小さな看板がポツリポツリと出ております。でもどこも日中は閉まっているようで、生活臭はするのに人の姿はありません。
トーマ様がよく訪れる場所の一つとして名前が挙がっていた路地で、「場末の繁華街」のように聞かされておりましたが、確かにそんな雰囲気です。ただ、昼間に営業している店が全くないとは思っておりませんでした。
「平民でも堅気の女性はあんまり入らない所じゃないですかね……」
「………」
進むことを逡巡していた時。一台の馬車がわたし達の横を通り抜け、歩道と車道の区別もないその狭い路地へと入って行きました。
あまりに人がいないので勘違いしそうになっておりましたが、昼間は立入禁止と言う訳ではないようです。
どこに行くのかしら、とぼんやりとみすぼらしい馬車を見ておりますと、少し先でその馬車は止まり、馬車の扉と対面する家の扉が、ほとんど同時に開きました。
「……!」
咄嗟にエールの後ろに隠れました。
「どうしました?」
「王子の護衛………」
「!」
やはり平民のような格好をしておりましたが、数年来の付き合いです。遠目に見ても王子の護衛は分かります。
と、言うことは………
二人の護衛に前後を挟まれるようにして、トーマ王子が馬車を降りていらっしゃいました。家の中から出て来た豊満な体付きの美女が、「待っていたわ」などと言いながらトーマ様の首に腕を絡めます。
「トーマ様………」
「あれが………?」
わたくしの呟きを聞いたエールが顔を強張らせます。
不審に思われないように路地の入口を横切る方向へと歩きながら、エールの陰からその様子を盗み見ました。明らかにただの友人とは見えない雰囲気です。
やがて王子と女性は絡み合うようにしながら家へと入って行きました。護衛が後に続いて扉が閉められます。
トーマ様の遊び先をわたくしに報告した者は、わざと詳細を濁して「場末の繁華街」としか言わなかったのかもしれない、とその時になって気が付きました。
「―――――――――」
「お嬢様、大丈夫ですか?」
大丈夫。
大丈夫な筈なのに。
涙がぼろぼろと零れて止まりませんでした。
「お嬢さん、どうしたの?」
「兄ちゃん、泣かしちゃ駄目じゃないか」
優しい通行人が集まって来て困ってしまいます。発音で貴族と分かってしまうから絶対に喋ってはならないと、ここに来る前にお父様に厳命されております。
「あ、あ~……今仲直りしたとこなんだ!」
そう庶民っぽい口調で言ってわたくしの肩を抱き、エールは人の輪の中からわたくしを脱出させてくれました。
しばらくして街灯を真ん中にした円形のベンチを見付けると、エールはそこにわたくしを座らせてくれました。
涙はまだ止まりません。
失恋のショックとは違うと思います。
ただ悔しかったのです。
今日までずっと、トーマ様が放り出された仕事の多くを引き受けて参りました。気を失って階段から落ちそうになるほどまでに。
その努力と苦労はトーマ様の心に届きませんでした。
それでもかつては同士のようだった方への微かな信頼と、ご両親の行いによって傷付かれたトーマ様への同情の思いは残っていたのです。
それなのに、わたくしを顧みることなくご自分を傷付けた陛下と同じ過ちを……
この十年はなんだったのだろう、と思うとただ悔しかったのです。
まだ泣き止むことが出来ないわたくしの前に、エールは気遣うように立っていてくれました。
ようやく涙が止まった頃。
数秒無言で天を見つめた後、エールはわたくしの前にしゃがみ込みました。
「……旦那様からお預かりして来ました」
そう言ってエールは折り畳まれた小さな紙包みをわたくしに見せました。……不穏な気配を感じたのは、それが薬の包みに見えたからです。
まさか毒?
「中毒性はほとんどありませんが、一応麻薬です」
「えっ?」
「国によっては合法なクスリですが、我が国では医師だけが取り扱いを許されております」
「……それはつまり、ここにあってはいけない物ということでは?」
「まあそうですね。これで王子を嵌められないかと幾つか持たされた訳ですが」
「……お父様はあなたにそんな危ない橋を渡らせたの……?!」
「わたくしも覚悟の上です。王子の荷物に忍ばせて官憲に発見させるとか、旦那様はそんなことをお考えだったのではないかと思うのですが……廃太子に追い込むには少し弱いかもしれません。日頃の素行が祟って王子の潔白を誰も信じなかったとしても、多分王妃様の時のように、王家の体面を守るために公にされることはないでしょう。でも他の使い方もあるかもしれません。」
「他?」
父の信頼が厚い執事は、ちょっとだけ難しい表情をして言葉を接ぎました。
「あの女に『惚れ薬』として渡すんです。『食べ物に混ぜれば王子を夢中にさせることが出来ますよ』、と」
◇ ◇ ◇
それから半年経っておりません。
この数カ月、トーマ様はこの女性に城下の小さな屋敷をあてがって、数日と開けずに訪ねて行くような暮らしをされておりました。
倒れそうになりましたがトーマ様がそうしやすいように、わたくしはこれまでにも増してトーマ様の仕事を担うようにして参りました。王太子の婚約者の職分をはるかに超えていたと思いますが、トーマ様の仕事を渡して頂けるように役人達に手を廻すと、トーマ様を諦めていた者達は結局、本来は王子以外に渡してはならない仕事もわたくしに渡して下さいました。
本当に麻薬に中毒性はないのかと少し怖くなりましたが、その甲斐あってトーマ様は泥沼にはまるように女性にのめり込んで行ってくれたのです。
そして今日。
トーマ様の二十一歳の誕生日の祝宴。わたくしとの婚礼の日取りが正式に発表される予定だった日。
トーマ様の横には平民の元娼婦の女性がおられます。美しい方ですが、豊かな胸を強調するドレスのせいなのか強い香水のせいなのかしどけない雰囲気を漂わせており、宮廷の広間にいる人達の目には異物として映っていると思います。権威の頂点と言える場所に堂々と乗り込んで来られる強心臓な方で助かりました。
王太子の挙式日が宣言される筈だった、国家的な祝事の場。
ずっとエスコートを待っていた婚約者であるわたくしを放置して、本当であれば決して城には入れない身分の女性を伴い会場に現れたトーマ様の行動は、貴族社会の許容範囲を超えていました。
今更ではありましたが、わたくしはここまで侮られていたのだと目に見える形で知らされて、微かに胸が痛みます。
ですが嘲るように笑っておられる殿下と女性はお分かりになっておりません。
誰にも見咎められずになぜお二人がここまで入れたのかを。
そして今日まで殿下のお立場を危うい所で支えていたのは、我が家の後ろ盾だと言うことを。
その我が家をトーマ様は自ら切られたのです。運命は決まったと言えるでしょう。
さようなら、トーマ様。
心の中でお別れを告げて、扇で表情を隠したまま父の声を待ちます。「なんたる侮辱」とか、そんな怒りの台詞を吐いて父がわたくしをここから連れ出す手筈になっているのです。これで我が家に責なく婚約を破棄出来ます。
さあお父様急いでくださいませ!王子の気が変わらない内に!そうすればリリル家が内紛の先頭に立たされることはなくなります!
全身を緊張させて父の声を待っていたその時。お父様より先に国王陛下が怒りの声を上げられてしまいました。
「トーマ!お主はなんということを!!」
重く低い声でそう叫び、陛下が壇上で立ち上がられました。
トーマ様の蛮行は遂に陛下の受忍限度すら超えてしまったのだと驚きます。でも陛下はもっと早くにお怒りになるべきでした。
どうか今になってお止めにならないで下さい。
ひやりとしながら見ていると、トーマ様が挑発的な目で父親を見上げられました。
「父上にも覚えがおありでしょう?」
「もうよい!そなたは今日を以って廃嫡とする!!」
「なんだと?!」
「!」
思わず息を呑みます。人々の驚きの声が会場の空気を揺らしました。
では兄君を―――――――――――?
一足飛びに話が進んだようです。これで内紛自体が起きる理由を失います。
ちらりと視線を走らせますと、会場の片隅でアナンザ公爵が驚天動地と言った表情をされていました。なおも下剋上を狙うならトーマ様を担ぐ道が残されておりますが、人望が地に落ちているトーマ様を乗せた神輿では、さすがに誰も付いて来ないでしょう。
陛下が王子を怒鳴り付けます。
「黙れトーマ!ここまではせんと思いたかった!今日は最後の機会を与えたつもりだったのだ!最初に道を誤ったのは余であろうが、その上にそなたが過ちを積み重ねて行くのをこれ以上は看過出来ん。恨みたければ恨め」
「最後の機会」?と、トーマ様の今日の行動を知っていて試していたかのような陛下の言いように引っ掛かります。
トーマ様は何か喚いておりましたが、陛下は息子に取り合わず会場を見渡されました。
「余はここに我が息子ブライアンを王家に迎え、ブライアンの立太子を宣言する!ブライアン!ここへ!」
「えっ?!」とわたくしが声を上げたのと、トーマ王子が「は?」と訊き返したのはほとんど同時でした。
どうっ、と大広間がどよめきます。
「もう一人の王子」がここにいらっしゃいますの?まるで用意されていたかのように――――――――
いえ、もちろん用意されていたのでしょう。壇上の右側から、正装を纏った姿が凛々しい、黒髪の青年が現れました。
えっ?
ばさり。
扇が手から落ちました。弾かれるように後ろを振り返り、父の顔を確認します。きつく唇を引き結んでいる父は感情を押し殺しているようではありましたが、驚いているようではありませんでした。
………ご存知でしたの………?
壇の中央に進み出るあのひとを、わたくしは以前から知っております。
「皆に紹介する。我が息子ブライアンである」
初めて宮廷に立たれたそのひとは、ただ静かに一礼されました。
待って、もう一人の王子は陛下にそっくりで、トーマ王子と髪と瞳の色が同じではありませんでしたの……?それともエール、いえ、ブライアン様の身を守るための嘘だった……?
「ソフィア嬢」
「えっ?」
突然陛下に声を掛けられて、わたくしは頓狂な声を上げてしまいました。
「若かりし頃の余の不徳が招いたこととは言え、トーマの愚行、心の底から申し訳なく思う。しかるべき賠償をさせて貰うがどうかこのまま、そなたには王太子妃になって貰えぬだろうか」
「はっ?」
おおっ、と、再び大きく大広間はどよめきました。
壇上に立つひとの黒い瞳と瞳が合います。理解が追い付かなくてもう一度両親の方を振り返りました。お父様とお母様はなぜか無言で頷いておられました。
えっ?
もう一度前を向きますと、今日の朝までエールと呼んでいた筈の人が、小さく黙礼して下さいました。
まさかここまでが計画の内だったの―――――――?自分だけが知らされていなかった……?
両親と陛下と、エールの計画。
どこまでが共謀で、どこまでが別個の判断だったのかとそんな疑問が胸を掠めました。ただ少なくともトーマ王子の今日のこの挙は、陛下も予見されていたのだと分かります。
「ふざけるな!」
トーマ元王太子が絶叫されました。
「認めるか」とか「くそ親父」とか、そこから元王太子はしばらく罵詈雑言を叫ばれておりましたが、終いには連れの女性共々侍従達に引き摺り出されて行きました。
会場を出される元王太子の姿を見送りながら、少しだけやるせない思いが致しました。
これが兄弟の初対面だなんて。
そして十年の婚約の終わりだなんて。
お母様と住まわれることになるのでしょうかと、その未来図がちょっとだけ頭を過りました。
衝撃に次ぐ衝撃は、時間と共に幾らか消化されました。広間の空気がやや落ち着いた頃。
エール――――――いえ、ブライアン王太子がゆっくりと階段を降り、わたくしの前までやって来られました。
よく知っている人の筈ですのに。
礼装に身を包み、日の当たる場所に出て来た彼は別人のようで、眼差しにどきりとします。
「エール―――― ブライアンさま…………?」
「本当はずっとエールのままでもよかったのです。あなたがいなければあの壇の上に立とうとは思わなかった……どうかわたしの手を取って頂けないでしょうか」
そう言ってブライアン様は手を差し出されました。
拒むことなど出来るでしょうか。
外堀は完璧に埋められているのです。
満座の中での陛下直々の仰せつけ。そればかりでなくわたくし達は共犯なのです。
でもそんなことなどなかったとしても、わたくしは喜んでこの手を取っていたでしょう。
ようやく手を伸ばします。でも震えていました。その手をなんとか差し出された手の上に合わせます。
重なった手をしっかりと握るとエール――――ブライアン様は、そのままわたくしを胸に抱き寄せられました。
「正直わたしが守りたかったのは国ではなくあなたです」
耳元で静かな声に告げられて、涙が溢れ出し止まらなくなりました。
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